花は紅、柳は緑

濱口 佳和

花は紅、柳は緑

「うわあ、見て見て! きょう様ったら、なんて艶かしいのかしら!」

「おイネさまったら、そんな絵姿、どこで手に入れたのですかっ!?」


 若い娘が二人、お屋敷奥の片隅で騒いでいる。お仕着せの掻取り姿も初々しく、春うららな陽射しが差し込む、外廊下を曲がった奥、先代奥様のお居間であった春座敷である。


「実は、実家の手代が義姉上に、って持ってきたんですってっ」


 小声になったイネに、御殿女中同士のフネが、顔を真っ赤にする。


「そ、それって、どういうことですか? ま、まさか義姉上様……」

「フネさま、何かはしたないことを考えておいでなのですかっ!?」

「イネさま、フネさま」


 背後の冷たい気配に、二人はは振り返った。


「こ、小峰こみねさまっ!!」


 二人の上役、境谷さかいや小峰が眉間にしわを寄せて立っていた。上役といっても女だてらに当主の祐筆をも務め、表と奥を自由に出入りする、なんともめずらしい──もとい有能な長身の女である。年は、すでに行き遅れの二十八──らしい。いびつな片外しに地味な着物、筆を耳に挟んで脇に書きつけの束を抱えている。外股で化粧っけもなく、眉間と額に皺寄っている様は、すでに四十の老婆のような険しさがあった。父親に鍛えられた武術で、腕も脚も逞しいことこの上ない──という、もっぱらの噂である。


「お二人とも、ここがどこなのかおっしゃいまし」

「こ、ここですか?」


 イネとフネは町方の出だ。行儀見習いに、ひと月ほど前に上がったばかり。小鼠のように身を震わせて、上目遣いに小峰を見る。


「ここは小石川。七千石のお旗本、上月こうづき様のお屋敷でございます」

「それで」

「え。えっと、奥向きの春座敷の二間目で、私はどもはこうして、調度の虫干しを」

「えっとは、なし。それから?」

「殿様は七千石の御大身で、でもお馬の事故でご兄弟、ご両親もすでに亡く、お年は数えの二十歳で奥様はまだ、お迎えにならず」

「あー、それで?」

「は、はいっ。ご病弱なので小普請組で無役のまま、いつも書院に籠っておられて」

「で?」

「わ、わ、私はまだ、お顔を拝見したことがござりませぬ!」

「──見たいのか」

「いいえ!」


 いいえと、二人合わせて人形のように首を振る。当主上月左馬之介は病弱どころか、気鬱の病と聞いている。家臣にも顔を見せず、夜な夜な屋敷を徘徊しては朝に眠る。先日は鼠を口に咥えた姿で見つかり、その口の端からは血が、

(とろーり、とろーりと)

 身を震わせていると、


「あっ」


 素早くイネの手から、が奪い去られた。


「なんだ、これは」

「も、申し訳ございません!」

「べつに謝ることじゃない」


 錦の絵姿である。艶やかな衣装を纏い、遠くの何かを見やる眦は、小峰でさえぞくりとするほど色めいている。ふっくらとした口唇、白鳥しりとりのごとき首筋の嫋やかさ、吸い付くような肌色の美女は、江戸で誰ひとり知らぬ者のいない、いま評判の若女形、岩井香車きょうしゃであった。


「こ、小峰さまっ、どうかお捨てにならないでくださいまし」


 借り物だの、二度としないだの言い募るのへ、

「ふん」

 興味がないといった態で懐へ入れる。


「小峰様っ!!」

「奥様のお座敷で、このようなものをチラつかせるな。二度目はない」

「は、はいっ」

「行け」

「ごめんくださりませっ」


 走ってはいけない廊下を、パタパタと駆けて行くのへため息をつく。


「まったく。お蔦様も甘いからな」


 奥向き一切を取り仕切る老嬢は、実は小峰にとっても頭が上がらない。何せ童の頃から小言を言われ続けている。

 小峰は、そのまま表の書院へと向かった。屋敷は広大だ。四季庭と名高い名園を中心に、母家と離れが点在する。東照神君様の母衣ほろ武者として、武功を挙げたご褒美だ。

 行き交う家臣らは、目が合うとそそくさと脇にそれる。それには目もくれず、廊下を渡した書院へ着くと、柔らかな春風など知らぬ顔で眉間に皺を寄せ、


「殿様、御免くださりませ」


 ドスを効かせた声音で声を掛け、立て切った襖戸を次々と開けていった。すでに辰ノ下刻を過ぎたと言うのに、〝触らぬ神に祟りなし〟と言わんばかりに書院の周りは、鳥の声さえ静まり返っている。

 最後の襖戸を開けると二十畳はあろう座敷の真ん中に夜具が延べられ、人型の膨らみと、近づくと健やかな寝息が聞こえて来た。


「おい、起きろ」


 枕元に仁王立ちになって声をかけると、寝息は一瞬止まる。


「おい、左馬さま。起きろ」

 うんともすんとも言わない。

「起きろ!」

 夜具の端を持って引っ張り上げる。


「うわっ」


 中から若い男が転がり出た。くるりと一回転してから目を擦り、ざんばら髪を煩そうにかき上げ、ぐしゃぐしゃと頭を掻く。髪に隠れて顔は見えないが、ごく華奢な体躯である。小峰と並ぶと〝妹〟と言っても通るだろう。


「こみねー、起こすなって言ってるだろう」


 枯れた声でもごもごと言う膝元へ、小峰は先程奪った絵姿を落とした。


「なんだよう。厠の落とし紙かー?」

「すっかりお励みだね」


 男は手に取り、「ほう」とも「ああ」とも言えぬ声を漏らした。


「なんとも良い出来じゃないか。八咫やたはよい仕事をする」


 紅い口唇がにんまりと笑んだ。上げた、その眦。

 小峰は溜息をついて、夜具を片付け始める。


「ほら、起きて支度しろ。今日は組の寄合だろう」

「やだよう。私は気鬱の病さ。使いをやっておくれ」

「気鬱の奴が何をやっている」

「あはは」


 髪をかき揚げ、上目遣いにを作る。錦絵から溶け出した美女が、艶然と微笑んでいた。

 小峰はうんざりと目線を上げ、天井を仰いで亡き大殿様へ詫びる。


(殿、この小峰が付いていながら、若殿様をとうとうこのような姿にしてしまいました)


 ゆえあってのこととは言え、時折、それさえ怪しくなる。


「さあ、朝飯、朝飯。昨夜は遅かったんだってば。頼むよう」


 左馬之介は大口で欠伸をし、目を閉じる。すぐに身体を前後に揺らし、わずかに口を開いて舟を漕ぐ様は、艶やかよりもあどけない。

 小峰は、弁慶よろしくその傍らに立ち、越し方行末を慮ってただもう溜息だ。



 さて、この直参旗本七千石当主、上月左馬之介。実は、新進売出中の若女形岩井香車きょうしゃその人であるのだが、無論、知るのは境谷さかいや小峰──弁慶ばりの女傑、ただ一人いちにんであった。





《おしまい》





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花は紅、柳は緑 濱口 佳和 @hamakawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ