最終話

 配達の時間に間に合うように仕事を切り上げて、やって来た敷布団に早速替える。古い方は三つ折りにしてベランダに置く、シーツも新しいものに替えた。粗大ゴミの手配もしてある。これで文子はおしまい。両手を腰に当てて新しい部屋を見回す。布団以外何も変わっていないのに、部屋全体がこざっぱりとした。風呂に入って布団に横になってみる。この天井ともいつか別れる日が来る。連れて行く「いつも」と、捨てて行くそれ以外、……久美はいつまで連れて行くのだろう。もしかしたら最後まで一緒なのは久美かも知れない。

 金曜日の夜、久美の家に行く。迎え出た彼女はやっぱりボサボサ頭のノーメイク、この前に街で会ったときのような他所行きの格好を少し期待していたけど、彼女は変わらない。

「この前街で会ったじゃん」

 稔はタバコに火をつけながら水を向ける。

「会ったー」

「勇太くんって、ただの幼馴染?」

 言いながらシガレットを持つ手が震える。それを隠すように口元へ、煙を吸う。久美は心の底から喜びが湧いて顔からそれが溢れるような表情。

「そうだよ」

「そっか」

 魂が半分抜けた。稔はもう一回煙を吸い込んで、ため息のような息を吐く。久美はそれ以上弁明も説明もしない。訊けばきっと何かを話すけど、彼女が引いた安全のラインを俺が壊す必要はない。稔はタバコを消して、彼女に口付ける。抱き合って、セックスをして、横並びに寝転ぶ。ここの天井もいつの間にかいつもになっている。久美がもぞもぞと体を回転させて、稔の顔を覗き込む。

「彼女さんとは別れないの?」

 別れたところで繰り上げはない、本当にそうなのだろうか。未来に久美を連れて行くなら、彼女をこそ公の恋人にした方がいいんじゃないだろうか。別れたと言ったらそうしてくれと必ず言うだろう。でもそれは俺の望む未来なのだろうか。

「そのうちなー」

「早くしないと私おばちゃんになっちゃうよ」

 俺が穏やかになれる唯一の場所。それは夜中の他人の家だからじゃなくて、久美がそこにいるからだ。彼女の巣の中で俺は彼女に抱かれて安心する。俺に一番必要な場所は、ここだ。部屋が汚いとか、小太りで美人ではないとか、ボサボサ頭だとか、治るならその方がいいけど、細かいことなんじゃないのか。

「久美」

「ん?」

「部屋って、綺麗に出来る?」

「あ、嫌だったら次から綺麗にするよ」

「髪がボサボサなのはわざと?」

「気にしないだけ。整っている方が好きならそうするし」

 体型と美形か否かは問うてもしょうがないか。

「俺さ、ここに来ると凄い安らぐんだ」

「私も稔が来ると、そうだよ」

 次の言葉が出ない。いや、喉元までは出ている。「別れたんだ」それを言えばいい。後は滝が落ちるように話が進むだろう。でも、それが出ない。彼女は改善する余地がある。この前街で見かけた彼女は、連れて歩くのに申し分ない魅力を携えていた。勇太に対して燃え滾る嫉妬心を得たのは、久美が魅力的だったからだったんだ。俺の前では見せない魅力がそこにあったから、嫌だったんだ。逆に言えば、俺がそれを望めば彼女は魅力ある格好をしてくれる、筈。一つずつ問題が解決してゆく。でも、どれだけ周りを固めても、こうしたいと言う意志が貫くべきものを決めはしない。

「あのさ」

「ん」

 稔はまた黙る。俺の意志はどっちを向いているのだろう。久美が顔を寄せて、頬に口付けする。「稔」言った後に唇をその唇で塞ぐ。たっぷりキスをして、口を離したら、久美ははっきりとした声で言う。

「愛してるよ」

 そうだ。愛してないから別れた。愛していれば一緒にいればいい。少なくとも愛されていることは分かる、それは言われなくても分かっていた。久美は涙組んでいる。でも、穏やかに微笑んでいる。

 あ。

 俺は久美を守りたい。幸せになって欲しい。……きっとずっとそうだったんだ。一席の下に隠していたから分からなかっただけで、そうだったんだ。俺は、愛しているのか? この感覚は、そうなのか?

「俺は」

「うん」

「久美のことが大切だ」

「うん」

「でもこれが愛なのかよく分からない」

「稔は、私のこと愛してくれてるよ、いっぱい」

 そうなのか。でも大事なのはそこじゃない。今までじゃなくて、これから愛する意志があるかだ。

 稔は久美の目を覗く。じっとじっと覗く。キラキラして、慈愛を感じる。久美を笑わせたい。ハッピーを積み重ねさせたい。でもそれが愛なのか自信がない。だけど、だから、稔は体を回して、久美を抱き締める。ぎゅっとしたまま、彼女の体温を、呼吸を感じる。彼女が今ここで生きていることを感じる。久美は何も言わない。そうしていると、自分の中に確かに灯っているものを見付けた。全ての感情の元にあるそれは、久美のためだけにあるもの。それが愛なのかはまだよく分からないけど、俺は久美が好きだ。もう一度ぎゅっと力を入れてから離れる。再び天井を向く二人。稔の声がその天井に向かって飛ぶ。

「この景色も見慣れて来たね」

「そうだね」

 稔は丁寧に、でも自然に言葉を続ける。

「愛は分からない」

「私はすごく分かるよ」

「でも、久美が好きだ」

 布団の中で彼女が稔の手を握る。

「私もだよ」

 稔は息を吸って、吐く。最後のためらいを祓うように。

「彼女さんと別れた」

 一瞬、黙る久美。

「え、マジで?」

「久美、俺の彼女にならない? 一人だけの」

「なる。もちろんなる」

 嬉しそうな声を上げる久美、俺達は彼女の巣の中。これからも彼女がいる限り二人の場所はそうなる。十分に俺の愛が育まれたなら、そのときには初めて彼女にその言葉を伝えよう。夜は更けてゆく、連れて行くいつもと捨てていくその他、そして、連れて行く初めましてのもの。俺は自分の意志で久美を選んだ。他の全てがどうであっても、俺は彼女を選んだ。もう秘密は必要ない、二人で歩く姿を太陽に晒して、風に溶かそう。

「これからもよろしく」

「こちらこそ、よろしく」

 お互いにはにかんで、もう一度抱き合う。夜の冷たい空気の中で、この巣の中だけは暖かい。


(了)

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ビーバーの巣 真花 @kawapsyc

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