第13話
部屋に戻れば穢れは見える、布団から流体キノコのように立っている、今夜一晩だけはこれと過ごさなければならない。ラーメンを空にしたとき、部屋に帰ることに抵抗はもうなかった。それは久美達との落ち着かない邂逅のせいではなく、文子が俺と同じようにもがいていることを知ったからだろう。同じ理由で、今晩床で寝たりせずに、文子の穢れを抱いて寝ようと決めた。
ゆっくりと、芯まで熱くなるまで風呂に入り、頭と体を三回洗う。一度目は下洗い、二度目は本洗い、三度目は仕上げ洗い。また湯船にしっかり浸かる。上がったら歯をしっかり磨く。髭を剃る。パジャマを新しいのに替えて、今日まで着ていた服を全て洗濯する。最後に体を重ねたのは久美だから、性の上書きのためのマスターベーションはしない。昨日の続きのマンガを読み、小説を読み、昨日の続きの音楽を聴く。いつもより長い夜だけど、いつもの夜を送る。昨日の続きのタバコを吸って、昨日の続きの布団に入る。いつも通り寝付けない。体の下で文子の怨念が寝返りを打つ。今夜でお別れだと思っても一切愛しさはなくて、明日からはもしかしたら眠り自体がよくなるかも知れないと期待しながら、文子の残渣をうっちゃる。
勇太は本当にただの幼馴染なのだろうか。二人の距離感は近かった。セックスをしたことのある男女の距離はそうでない二人が並んでいるのと違う。物理的に近くなくても、二人の空間が重なっているのではなくて、一つのものだと感じる。あの二人は近かった。では、空間が一つであったかと言うと微妙で、重なっているのだけど斥力が殆ど働いてないような、普通の男女ではなく幼馴染だからそう言う特別な距離・空間の感じになるのか、俺が目の前にいたから、つまりそれは俺と久美の空間が混じっていることが見える状態でだったからなのか、分からないけど、明らかに他人が横に並んでいるのとは違う空間の取り方をしていた。
「過去にはヤったことがあるのかも知れない」
言葉にした瞬間に、勇太と獣のように喘ぐ久美の像が脳裏に結ばれた。胸の中にドス黒い煙が、ピュッと噴霧される。なのに、ペニスにジワとエネルギーが通る。稔は横向きに寝直す。自分の体の感覚を出来る限り正確に捉えようと意識を集中する。胸糞は確かに悪く、否定したかったもう片方の、性欲も間違いなく存在していた。その性欲こそが、胸の内を占め始めた黒い煙を焚いている。そうでなければこんなに苦しくはない。久美に問い正した方がいいのだろうか。でも明日は月曜日、次の日が仕事の夜間に体力を使いたくない。……電話? もし、勇太とまだいたら。別にいてもおかしくない時間帯だ。でも仕事の相手が電話を掛けるにはあまりに遅過ぎる、しかも日曜日。でも訪ねて行って鉢合わせたら最悪だ。情事の匂いがしたら。俺の久美なのに。
思考するにつれて胸はどんどん黒くなって、性の波動は掻き消されてもう見えない。
「いや、待て」
声が部屋の中を跳ね回って、自分に届く。
「久美を信じたっていいじゃないか」
恋人の過去は知ってはいけない。最初の恋人でない限りは必ず誰かとキスをして、セックスをしているのだ。そんな当たり前のことなのに、具体的になると不愉快を通り越して殺意が芽生える。だから防波堤が必要で、それはお互いに触れないと言う紳士協定でしか成立し得ない。この協定の前提は、今付き合っている相手が「一番」、過去から辿って一番の相手であると言うことで、もし過去の誰かの代わりにされているならそれは分かるし、そのときは別れるべきだろう。彼女が二人いると言うことは「一番」が二人なのだ。たとえ現実には一位二位があっても、それぞれの関係の中では一番。だから俺には久美のために嫉妬をする権利がある。それと同時に、彼女の一番であることを期待してもいい立場でもある。
「もし、過去に勇太と何かがあったとしても、今は俺が一番、久美はきっとそうだ」
一度顔を出した具体的な過去は、それが空想上のものであったとしても、なかなか消えてくれない。ゆっくりと慰撫するように、意識から外して行くしかない。そのためには自分にとっての普通を大量に自分に流すことで希釈してゆくのが有効で、だから稔は起き上がって、お気に入りのエロDVDで抜き、興奮が治るまでマンガの続きを読んでから再び床に就いた。全ては消えなくても、かなりどうでもよくなって、今度は文子の穢れに圧力を感じながらもまどろみ始めた。
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