第12話

 久美は頭がボサボサではないし、服もちゃんとしたものを着ていて、化粧までしていた。だけど間違いなく久美で、隣に男が立っている。稔は少し困ってから、「ハロー」とはにかんだ。隣の男は誰なんだろう。俺は二人彼女がいると言っていたけど、久美からはそんな話は聞いたことがない。それ以前に部屋以外のところで声を掛け合うのは問題だ。俺達の関係は秘密のものでなくてはならない。白日の元に晒されれば、その魔力は干涸びて風に溶けてしまう。稔は久美を見て、男を見る。男が会釈をする。特別に着飾った訳でもないけど、オシャレな印象を受ける、背の高い男。久美が男を指し示す。

「幼馴染の勇太ゆうたくん」

 勇太がもう一度会釈をして「勇太です」と爽やかに笑う。次に久美は稔に手のひらを向ける。

「仕事でお世話になってる稔くん」

 仕事で下の名前はおかしい感じがするけど、彼女の寸劇に乗るしかない。「稔です」、ニッと笑う。

「そして私がご存知、久美ちゃん」

「自分で久美ちゃん言っちゃダメでしょ」

 勇太が瞬発力よく反応する。二人は、あはは、と笑う。その姿に腹の中が練り返される感触、それを顔に出さないように、力技で笑顔を作る。久美が続ける。

「勇太くんも東京なんだけどこの辺じゃないから、案内してるんだ」

「そうなんだ」

「稔くんも一緒に回る?」

「いや、俺はいいよ。幼馴染をしっかりエスコートして下さい」

「はーい。じゃ、行こ、勇太くん」

「了解」

 もう一度勇太と会釈をし合って、すれ違う形で別れる。街の中で刹那に生まれた三人だけの空間が、一瞬で流れて消えた。また声を声と判別出来ない中に稔は取り残されて、歩いているのに同じところにずっといるみたいで、勇太って誰なんだ、久美の彼氏なんじゃないのか。思い始めたらそれだけが頭の中にこだまして、振り返って追い掛けようか、いや、それはみっともないし、久美との関係を気付かせることになりかねない、だけど、誰なんだ。時間と共に距離は離れる、まだ今なら見付けることが出来る、でも、秘密を漏らすことになるのはどうしても避けたい。ここは我慢だ。今度、久美と会ったときに訊けばいい。稔は足に力を込めて前に進む。二人の場所から逃げる。

 自転車に向かう途中で空腹がかなり強くなったから、そこにあったラーメン屋に入る。カウンター七席だけの魚介系のつけ麺の店だった。ラジオが流れている。文子のモールでよく流れていた、今流行りの歌だ。どうしてこんなのが流行るのか理解が出来ない。つまらない歌詞、どこかで聞いたようなメロディ、強さのない歌。歌はどうしても何度も聴いたら覚えてしまう。それを利用して、流行らせたい側が金を投じて多くのところで流させていて、その状態を見て、流行っていると勘違いしているだけなのかも知れない。結果的に多くの人が知るところとなれば、それは流行ったと言っても差し支えないものになるだろうから。本当にその歌が好きで好きで愛していてと言う人にとってと、流行だから押さえておく人にとっては、その戦略は全然別のものになるだろう。いい歌なら売れるのではなくて、売れた歌がいい歌なのは、評価基準として仕方ないけど、愛している人にとっては苦いものだ。露出が多い歌はだから、多くの記憶と結び付く。俺は一生、この歌を聴いたら文子とのモールを思い出さなくてはならない。一度付着した記憶は剥がれない。新しい歌が常に必要なのはそう言う理由だろう。でも、記憶まで全部消すことは不可能だから、俺は棘と穢れだけでもきっちり終わらせたい。今日の俺の行動はつまり、そう言う目的の中にあった。

 つけ麺が来る。ラジオの歌は終わって、パーソナリティが喋っている。

『今日のテーマは失恋。早速メールが来てますね。ラジオネーム「F35」さんから。「今日、私は結婚を予定していた彼氏にいきなりフられました。愛してない、って。これから黒魔術を修めて、たっぷり呪ってやろうと思います。慰めて下さーい」、いや、黒魔術って、それはやめてあげて下さいね。恋愛、出会いもあれば別れもあるんです。別れが成立したらノーサイドで行きましょうよ。まぁ、ショックなのも分かりますよ、結婚間近だったんですものね。僕の話、少ししちゃっていいですか? 僕もあったんですよ、結婚秒読みでフラれたこと。式場とかまで探し始めてて、自分の軌道修正がそれはもう、大変でした。もう十年も前の話ですよ。それでね、恨んだ、恨んだ、それはもう恨んだんですけど、そのときに親友が僕に『ノーサイドだろ』って言ってくれて、それだけじゃなくて傷心旅行にも行ったんですけど、僕は結局仕返しのようなことはしなかった。それで十年が経って、その人がどうなったかって言うと、時々仕事を一緒にしてるんですよね。まあ、そう言う打算と言うか利害関係のためにってのも臭いですけど、未来の関係はどうなるか分からないんです。もう二度と会うこともないかも知れませんけど、黒魔術なんてしないで、新しい恋を探して下さい。そもそも黒魔術は自分にもリスクがありますからね』

 ラーメンを啜りながら冷や汗が、つ、と流れる。文子三十五階の略だよ、絶対。あいつ、黒魔術で俺を呪おうとしていたのか。パーソナリティの助言に耳を貸すだろうか。……彼女なりの公化なのかも知れない。黒魔術はラジオ的にピックアップされるための盛りって奴で、事実を晒すことの方が主、そう言うことなんじゃないのか。きっとそうだ。ラジオに流すことで俺の耳に届くことを期待しているのじゃなくて、読まれること自体が目的で、彼女は彼女で俺のことを「ノーサイド」に持って行こうとしている。胸の中にポケットがあって、そこにぴったりと収まったような、納得に息が漏れる。黒魔術はされない。怖くない。

 ラジオは別の失恋ソングに以降して、それもモールで聴いたことのある奴で、稔はラーメンを食べ終える。

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