第11話

 自分の部屋に戻って来た。

「違う」

 稔は苦い顔をして首を振る。

「あの布団は汚染されている」

 すぐに部屋を出る、布団の売っている店まで自転車を走らせる。文子を自分の生活から排除しなくてはならない。それはセンチメンタルな行為じゃなく、祓いとか新たに進むための儀式、結婚式のような、行為だ。プライベートな秘密を終わらせたいときに、それを公にする、神様に伝えると言うのは、その公化と内容の秘匿を両立させる方法だ。公になれば秘密はその命を失う。恐らく魅力も一緒に葬られる。ただのつまらない情報になる。布団を新しく替えることによって、そこに付着している文子との時間を公の、ゴミ捨て場に、晒す。ゴミになった文子の情報は火に焼べられて、完全な公に溶け込む。

「敷布団だけですか?」

 確かに掛け布団にも文子は触れたけど、問題の中枢はそこにはなくて、やはり敷布団を替えればそれでいい気がする。店員に「そうです」と応えて、見繕って、購入する。明日には届けてくれるとのこと。今夜ばかりは最後の穢れと一緒に息苦しい夜を過ごさなければならない。稔は店に出たところで小さくため息をついて、自転車に乗り込む。

 もう夕暮れが迫っていた。ビルを染めるオレンジ色の光、今日がもうすぐ終わることを最近意識したことがなかった。ずっと連綿と続く、俺ではない時間と、夜中にだけある久美との時間だけで一週間は埋まり、気が付いたときにはいつも太陽は既に沈んで、今日は終わりの後の余韻の中にある。ずっと触れていなかった終末の感触が、何かしなければ、今日の内に、と駆り立て始める。だけど何もプランはないし、自転車は自宅に向けてスムーズに進んでいる。このままだと家に着いてしまう。稔は、キッ、とブレーキをかける。片足を地面に着けて、空を見上げる。半分が紫闇にもう呑まれていて、反対側に沈みかけの太陽が橙色の光を放っている。

「もったいない、とは違う。何かをしなきゃ、って、急き立てられる」

 特別な日には特別な何かをしたい。でもしたいことなんてのは、いつだってやっていることだ。やりたいことが本当にある人が、それをするのを戦略的以外に待つなんてあり得ない。本当にしたいことは、既にやっている筈だ。稔は我が身を振り返る。仕事、久美、パチスロ。読みたいマンガ、小説。観たい映画。やっている。特別な今日に取っておいたものなんて一つもない。なるほど。……なお困った。考えている内に空はどんどん闇に呑まれてゆく。まるで稔だけが取り残されたみたいに、自転車を拠点とした孤軍のように、誰も他にいない中で日没を迎えて、やっぱりそれでも何かをしたい、稔は繁華街に向かって自転車を漕ぎ出した。

 人の波、大声で喋る声、アルコールと脂の匂い。自転車を置いて街を歩く、ゲームセンターや風俗以外は飲食店が主で、空腹は自覚するのだけどどこかの店に入ろうとは思えない。だから目的地も目的もなく、人の群れの中を泳いで、街のあっちからこっちへ、ただ泳ぐ。長い長い尻尾を垂らして、マーキングをしながら進む気分で、だけどこれは時間を潰している、文子との午後と同じじゃないか、今日と言う日に花束はなさそうだ。

 ガヤガヤして一つ一つの声が聞き取れない、マーケットのような場所を歩いていたら、その中から音が浮かんで聞こえた。

「稔」

 下がっていた目線を上げると、そこには久美がいた。


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