第10話
この街ともこれで最後か。稔はなるべく目に焼き付けないようにそそくさと改札まで行き、躊躇わずにホームに向かう。付いて来る筈がないのに、何度か文子がいないか振り返る。もしそこにいたら、第三ラウンドはストリートファイトと言うことになる。だとしてもやり切らなくてはならない。悲壮な覚悟を胸に振り向いても文子はいない。七割ホッとして、三割物足りない。モンスターならそれぐらいの追尾はしてもいいだろうに。
結局文子が現れることのないまま、電車に乗り込む。そのドアが閉まったとき、街との隔離が完了したとき、稔はやっと文子から逃れた実感を得た。すぐに文子の連絡先を消す。桃太郎が鬼退治をした後はきっと今の俺と同じような興奮と疲労の中にいただろう。そこに相手を傷付けたことへの後悔の念は混じらない。さあ、どこに行こう。勝ち取った日曜の午後はまだ花を枯らせてはいない。来週からはずっとある、だけど、もぎたての今日、何をしよう。
走り出す景色、文子のタワーマンションが映り込む。自分の胸に、彼女がいつの間にか刺していた棘、そこからじわりと毒が広がる。その毒は致死性だけれども効果が行き渡るのには途方もない時間を要する。俺はずっと苦しみ続けなくてはならない。文子と別れたのに、彼女のために苦悶する? 稔は首を振る。その必要はない。問題はどうやったらこの棘が取れるかだ。これは決して罪悪感とか後悔によって俺の中から生まれたものじゃない。文子が刺したものだ。電車がタワーマンションから徐々に遠ざかっていく。視界に入れたくないのに、目で追ってしまう。彼女と別れることで俺が得たものと失ったもの、……そう言うことじゃない。文子の恨みを感じているんだ。「私はこれから不幸になる。あなたのせい」「だからあなたも相応の苦しみを得て」そう言うことか。
稔は電車が止まったらそこから飛び出して、ホームの端、タワーマンションが最もよく見える場所まで走る。まばらな人が全て捌けるのを待って、マンションに向かって大声で叫ぶ。
「もう俺達は別々の人生だから! お前が不幸になることはお前の勝手だし、俺は俺の勝手で生きる! お前の不幸に関係なく幸せになるから!」
言葉は確かに文子に届けられた、感覚。稔はふう、と息を吐く。文子がこの声を受領しようと拒否しようとそれはもう知らないことだ。俺はちゃんと言った。胸を確かめるとさっきまで刺さっていた棘はもう抜けていた。
「俺は俺。文子は文子。今度こそ本当にさよならだ」
稔は踵を返して、ホームの中央付近のベンチに座る。もうあのマンションを見る必要はない。新しく生まれ直したみたいな気分で、稔はこれからどうするかを考える。でも決まらずに、ふわふわしたまま次の電車に乗った。
文子のことを完全に忘れたい。それには次の毎日をするしかない。今出来ることは、移動をケチらずに一回自分の部屋に帰って、スタートを切り直すことだ。そっからだ。電車は地下に入り、文子のタワーマンションは完全に見えなくなった。
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