第9話

 文子が続きの何かをして来るだろうと身構えながら、彼女の斜め前に座る。だけど、彼女は泣くばかりで何も言って来ないし、して来ない。ガラス張りの向こう側がゆっくりと午後を深めていく。部屋の中は時間が止まったかのように、いずれ稔のこの部屋の最後の記憶になる景色を揺らさない。文子の次を待っている、何かが稔の中に蓄積していって、それが貧乏揺すりになる。右側の脚を、文子から遠い方の脚をガタガタと揺らす。まるで、この部屋が揺れない分だけ自分を揺らすように。

 文子は泣いている。涙がボタボタ落ちる。俺を失うことのためにではなく、もう手の届きそうなところまで来ていた結婚が消えたことで泣いているのは明らかだ。俺は人間として見られていなかった。彼女の描く未来のピースでしかなかった。今日別れを切り出さなければ、俺は人生ごと呑み込まれて、奴隷の一生を送ることになっていた。ただ泣き続ける彼女を前に、稔はどんどん冷えてゆく。冷えた分だけ、自分の置かれていた状況が理解される。文子がクソ女だったのではなく、彼女の目的と戦略がクソだった、とは思えない。クソな戦略を実行した時点で、文子に問題がある。同じように文子の欲望のために搾取される未来が待っていた。結婚というところで搾取を許してしまえば、その後は全てが搾取対象となるだろう。その未来に比べたら、文子を泣かせることなど、合理的な戦闘に過ぎない。貧乏揺すりが止まらない。俺の中に溜まっているのは、回避した未来と、早くこの戦いを完了させたいと言う焦りだ。長引いたら文子の援軍が来る訳ではないけど、早く終わらせたい。

「やっぱり納得がいかない」

 文子が俯いたまま声を放つ。稔は黙って聞く。

「だって、今日はプロポーズの日でしょ? それが別れ話なんて、悪い冗談よ。稔は私のことを愛しているし、私も愛してる。何の障壁もない結婚が、すぐそこにある」

「正気か?」

「当たり前じゃない」

「さっきその全てを否定しただろ」

「だから全部を肯定するの」

「そんなことしても結論は変わらない」

「そう思えば、そうなるのよ」

 稔の脚がピタリと止まる。立ち上がって、彼女の両肩を押さえる。「文子」稔の声に彼女が稔の顔を見る。憔悴しているけど、その目には涙は浮かんでいない。

「現実を見ろ。結婚はない。俺は別れる」

「いや」

「別れるんだ」

「いや」

 彼女の瞳が濡れ始める。彼女は狂ってなんかいない。俺を矯正しにかかっていた。涙が溢れて、ポロポロと流れる、今日一番人間らしい涙だ。

「別れる。認めろ」

「いやよ」

「いい加減にしろ!」

 大声が彼女を殴った、感触。彼女はビクッと一瞬止まったけど、また涙を流す。もう彼女が何を見ているのか分からない。それでいい。俺達は別れるのだから。稔は噛んで含めるように続ける。

「俺達は、今日別れる。文子、それを認めろ」

 これ以上原始人にはなれない。彼女は黙って、稔は両手を離して、自分の座っていた場所に戻る。文子の涙がさめざめとしたものに徐々に変性する。沈黙が意味と納得のある時間に変わる。部屋の中は相変わらず同じで、ガラス張りの外はゆっくりと夕方に向かっている。稔は長く引き伸ばした吐息を静かに吐いて、文子の姿を眺める。彼女は何も言わずに泣いている。

 時間ばかりが経っていく。文子の内面が終わりを受け入れる方向に向かっているのか分からない。確実なのは、涙の流量が減っていっていること。稔は文子とのこれまでを、馴れ初めやセックス、喧嘩と仲直り、つまらない膨大な時間を、思い出していた。他の誰かのことを思うことはしなかった。特にそうすることが失礼だとか侮辱だとか考えた訳じゃない、ただ、今は文子の歴史といるのが正しいと思えた。でもそれも退屈な作業だった。現実の彼女も何も言わないから、まるで退屈にいかに耐えるかをテストされているみたいだった。でも俺から次の一言を言ってはいけない。問いかけに答えるのは彼女の仕事だ。

 文子の涙が完全に止まってから十分以上が過ぎた、彼女が稔の目を見る。その瞳は光が複雑に反射して、一つの未来都市がそこに埋まっているかのようで、溜め込んだレーザーのエネルギーで、俺を焼こうとする。俺は焼くなら焼けと構える。視線がバチンとぶつかる。彼女が口をスローモーションのように開く。

「あなたは、もう、いないのね」

「そうだ」

「分かった。じゃあ、今すぐここからいなくなって」

「……分かった」

 稔は素早く準備をして、居間から出る。彼女は見送りに来ない。玄関に続く廊下に入る前にもう一度振り返ると、彼女は虚空を見詰めて、また別の痩せた妖怪のようになっていた。そのまま行ってもよかったけど、ケジメは必要だ。稔は彼女に向かって声をかける。

「さよなら」

 彼女は返事をしない。稔は廊下に出て、玄関を潜り、長いエレベーターを降りる。下がる程に体を心を縛っていた鎖がするりするりと抜け落ちる、もう二度とここには来ない、エレベーターから出たら真っ直ぐに駅に向かった。

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