第8話

 文子の顔が凍り付いて動かない。楽しい感じがそのまま張り付いたら無惨な色になった。ゆっくりと収斂するように彼女が闇に染まってゆく。手が震えている。彼女は大きく息を吸って、でも小さな声で俺に返す。

「は?」

 原始人に戻りたくなった。もうそれでもいいのかも知れない。反射的に握り締めた拳の内側で爪が立って、その痛みが稔を押し留める。殴ったらダメだ。原始人じゃない、人間の交渉をするんだ。そこまで考えて、煽られていることに気付く。だから、奥歯を噛み締めて彼女の次の言葉を待つ。文子は稔のことを上から下まで何度も見回して、もう一度「は?」と言い放つ。こんな下品な女だったんだ。「別れよう」と言う前よりずっと、俺はこいつと別れたい。切り込め。

「だから、関係を終わりにしよう」

「何言ってんの? 頭おかしくなった?」

「おかしいかな? むしろどうして関係を続けたいと思えるの?」

「私達結婚するのよ」

「しない」

 文子はテーブルを思い切り叩く。ガン! と言う音が部屋中を飛び回る。

「結婚するの。今日はプロポーズの日でしょ?」

 彼女の顔がぬらぬらと照る。およそ人間の顔ではない、妖怪とか化物の顔。取って喰おうとする顔。

「死んでもプロポーズなんてしない」

 自分が両足に強い力を込めていること、握り締めた拳がプルプル言っていること、息をするのも苦しいこと、急にそれらが自覚される。

「何でよ! 尽くして来たのに」

「特に尽くされてはない。俺の時間を無駄に奪っていただけだ」

 もう一度テーブルを叩く。彼女の方が原始人に近い。

「結婚するの」

「しない」

「結婚したいの」

「誰か他の人としてくれ。俺はごめんだ」

「貴重な二十代を奪った責任を取ってよ」

「その責任は俺の時間を奪ったのとでちょうど折半だ」

 彼女は立ち上がる。それはヘドロの妖怪そのもので、身の危険を感じた稔も立ち上がる。

「別れられたら困るの」

 だけど触手を伸ばしては来ない。

「俺の人生に文子は要らない」

「私の人生には稔が必要なの」

「違うだろ。結婚をしてくれる誰か、だろ」

「私を一人にしないで」

「一人になってくれ」

 ギャー! と文子が叫ぶ。稔は咄嗟に後ずさる。もう一度彼女が叫ぶ。

「何なんだよ!」

「私、死んじゃうかも知れない」

「お前は死なないよ。それくらいは分かる」

「死んで祟ってやる」

「死なないし、祟りもしない」

 稔は願望を言っているのではないし、分析した結果を言っているのでもない。そうしろ、と命令している。

 また文子が叫ぶ。その音波のまま喋り出す。

「どうして別れるなんて言い出したの!?」

「気付いたんだよ。愛してないことに」

「私は愛していたわ」

「それは嘘だね。愛されてもいない。ただ囲われていただけだ」

「愛がなくても結婚は出来る」

「俺は結婚がゴールじゃない。愛してないお前と人生を歩むことはしたくない」

 文子は激しくのけ反って両の触手でその頭を掻きむしる。ギャー、ギャーとまるで断末魔の声を上げる。急にピタリと動きが止まってから、痙攣する。明後日の方を向いていた視線がゆっくりと稔に降りて来る。掠れた、残された命を振り絞ったような声。

「ダメなの?」

「もう決めたことだ」

 膨張気味だった妖怪が縮んで、ストンとソファに収まる。泣き顔の文子が炙り出される。ズビズビと洟を啜りながら、ボロボロと涙を零している。問答のどこから泣いていたのか分からない。だけど、彼女が泣くと言うことは少なくとも言葉が届いたと言うことだから、稔はほんの少しホッとして、残りの全身で戦闘態勢を保つ。

「どうしても?」

「どうしても。別れよう」

 彼女はさらに落胆した顔になって、涙は流れるままに、だけど人間に戻った。


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