第7話

 前を歩く文子の表情は見えない。だけど、後ろ姿がいつもより跳ねている。早く帰ることを提案した稔が何かを企てていることに気付いて、でも、実際とは真逆のことを期待している。向かう先に聳えるタワーマンションが空を裂いている。空と、マンションと、文子だけがこの世界にある。だから、世界が期待している。俺が文子の望む言葉を言うことを期待している。

 それを裏切る。

 刺されるかも知れない。でも未来を賭けるってことは命を賭けることと同じだ。

 文子が自殺するかも知れない。でも、彼女だって同じだけのものを賭けていい筈だ。

 跳ねる彼女と世界、マンションのエレベーターに乗る。三十五階までの長い沈黙。俺はどんな顔をしているのだろう、緊張でガチガチで真っ青で目ばかりギラギラしてるだろうか。それとも外界の刺激を全て遮断したような生きているか死んでいるか分からないような顔をしているだろうか。文子の表情は優しい。その上に抑え込んだ高揚が漏れている。これから自分がずっとずっと欲していたもの、両親も友人もゼクシィも動員して俺を囲い込んだつもりになって、それが手に入る予感に跳ねることを止められない。彼女は稔よりもずっと戦略的に行動していた。対して稔は戦略そのものがなかった。だから一方的に、受けて応じることしかしてなくて、自分がどんな気持ちだったか、そこに愛がないこと、を知るまでに時間を要してしまった。

 彼女の部屋に入る。毎週繰り返して来た。

 稔は手を洗ってうがいをして、いつものソファのいつもの場所に腰掛ける。ガラス張りの向こうには地平線が走っていて、数本のビルだけがニョキッとその直線を破っている。この景色にヴァリューを感じない。最初に見たときだけは「すごいね」と言ったけど、五秒で飽きた。誰かの意志と感性の封じられた絵や彫刻と長時間やり合うことはあるけど、ただの集合体である景色とは取っ組み合うことはない。文子の父親とこの部屋で会ったとき、執拗に景色を自慢された。彼とは永遠に交わりたくない。思い出した拍子に溢れそうになる反吐を飲み込むと、自嘲的な笑いが浮かんだ。

 文子がくの字に曲がったソファに稔と直角に座る。稔は表情を整えて、これからしようとしていることのせいだろう、心臓がバクバク言う。彼女は相変わらずどこか楽しそうで、敢えてなのだろう、稔の方を見ない。

 さあ、始めよう。

 でも何て口火を切ったらいい? ガツンと言った方がいいのか? それともマイルドに? ……誤解のないようにキッパリ言うべきだろう。文子がどれだけ傷付くかなんてのは結果であって、目的じゃない。だから予測することに意味がない。息を吸う。空間が歪んで、凸レンズを通したみたいに文子が大きい。頭の中がわんわんする。俺はしてはいけないことをしようとしているのだろうか。いや、だとしても、それがどんなに大きな罪だとしてもやらなくてはならない。やらなければ俺の人生が負ける。

 息を吐く。胸が平らになった分だけ心臓の鼓動が直接的に響く。暴力的な人間というのはどうして存在するのだろう。それは、力の強い者が偉い時代の遺物だ。現代は筋肉じゃなくて脳で勝負する時代だけど、人間の生物的進化は数千年じゃほぼゼロだから、遺伝子としてまだ残ってしまう。つまり原始人レベルの人間と言うことだ。オラついて人を威嚇して調子に乗っている奴らはみんな、原始人で止まってる。まともに関わる必要はない。でもかと言って一応「人間」だから屠殺する訳にもいかない。いつか、そう言う人は「人間」ではないとする国が出て来るかも知れない。そう言う先進性があってもいい。……俺がこれから文子にすることは暴力なのだろうか。きっと傷付く。ほぼ泣く。でも、筋力を駆使したものではない。言葉の暴力になるのだろうか。物理的な暴力と同じくらいの衝撃が言葉の暴力にはあると言うけど、俺がこれから言うことは暴力になるのだろうか。違う。戻って来い。それが何であれ、すると決めただろう。

 文子は何も言わない。視線も合わせない。空を見ている訳じゃない。稔の前を視線は通過して、壁に当たっている。

――彼女さんとは別れないの?

 久美。もし別れたとしても、君が繰り上がることはない。だけど、俺がしようとしていることを応援してくれる人が、その真意は別だとしても、一人いた。たった一人。なのに、歪んでいた空間が平常に戻る。そこに座っているのは文子で、二人の間には十分な距離がある。心臓は相変わらず煩い。だけどもう意識がどこかに飛ぶことはないと分かる。俺はここにいて、大事な話をする。三十五階だけど、大地に足を付けたような感覚、それは久美の部屋にいるときに得る穏やかさによく似ている。この部屋でそんなものを感じたのは初めてだし、文子の前でそう言う感覚を得たのも今日が最初だ。呼吸が意識しなくても出来る。俺には出来る。

「文子」

 彼女は待ちに待った宝物を食べる顔でこっちを振り向く。

「うん」

「別れよう」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る