第6話

 つまりこの駅に来るのも今日が最後だ。そのために越えなければならない関門を思うと目が鋭くなり、その先の日々を考えると気持ちが高揚する。その二つを行ったり来たりしながらエスカレーターを降りて、改札の向こうに文子を見付ける。

「お待たせ」

 稔が呼び掛けると彼女の顔がこちらを向く。それだけのことなのに、砲門を向けられたような戦慄が走る。

「うん。お昼どうする?」

「特に考えてなかったけど」

 いつもこの会話をしている気がする。どこで切り出そうか。店か、家か。相手のテリトリーで話すのはリスキーな気もするけど、平穏には終わらないだろうから隔離された場所の方がいいかも知れない。

「じゃあ今日はドリア食べに行こう」

 タワーマンションの住民を目当てにした新興のモール。毎週のように歩いているけど、何一つ楽しくない、隣にいる人が変われば違うのかも知れない。でもたとえ新しい相手が出来ても、このモールに街にだけは絶対に来ない。別れた恋人とばったり会うのって、どれくらいの確率なのだろう。一生に一回くらい? それとも十年に一回くらい? 東京と地方都市でも違いそう。東京だとどれくらいなのだろう。本当に今日が最後になるのかを知りたい。

 文子に先導されてドリアの店に入る。それまで二人はずっと黙っていた。その沈黙は信頼によるものじゃない。無関心ではないけど、敢えて話すエネルギーが不足しているような、俺が自覚した、話したい相手じゃないからと言う理由を、文子も同じように持っているのかも知れない。でもそれなのに結婚を要求する、その根幹にあるものが何か全く分からない。

「決まった?」

「うん」

 彼女が店員を呼び、注文をする。さあ後は何もすることがない。二人のルールで、食事中は携帯を見ないと言うことになっていて、どうしてかそれはずっと遵守されていて、だから、稔は彼女と向き合う他ない。でも、稔からの話は、別れ話しかない。ここで他のドリア客に話題を提供する必要はない。

 だから稔は黙っている。でも文子は違う。

「後輩の鈴峰すずみねさんって子がね、ついに結婚するんだって」

「ふーん」

「結婚式招待されちゃった。ブーケトス、頑張らなくちゃ」

「……そうだね」

 全然頑張らなくていい。稔は話をする彼女の目すら見られない。ドリアが来てくれればそっちに集中しているフリが出来るのに。今日ほどドリアを待ち遠しく思う日はない。……先週はパスタに同じことを言ったっけ。

「写真撮って来るから一緒に見てね」

「うん」

 他人の結婚式の写真なんて興味ない。文子が俺に結婚式自体を提示しようとしているのは分かるけど、あからさま過ぎないか? 俺が今日に別れを切り出すのと同じくらいの覚悟で、プロポーズの約束を取り付けようとしているのかも知れない。どこのカップルでも結婚って、兵糧攻めみたいに決めているのだろうか。それとも文子だけが異常なのだろうか。俺の心がないことくらい、分かるだろう。そんな相手を力技でねじ伏せて、「結婚します」と吐かせることに何の意味があると言うのだ。まあ、結婚は出来るけど、それが目的なのか? 人生そこで終わる訳じゃないのに。

「鈴峰さん、とっても幸せそう。仕事も張り切ってて」

「そうなんだ」

「ウエディングドレス見に行ったんだって。いいよね」

「まぁ」

 別に嘘をついてももう関係ないのだけど、俺は何となく、興味があると虚偽の関心を張り出して見せるのが躊躇われて、それは別れ話の伏線にしたいからじゃなくて、俺の中のどこかが文子に対して誠実であろうとしているみたいで、久美もいるのに、文子と別れる気なのに、どうしてそんな歪な誠実さがあるのか自分でもよく分からない。稔は興味がないことを伝えるような生返事を繰り返す。文子は気にせずに鈴峰さんの結婚話を続け、終わったかと思ったら、他の同僚の結婚カウントダウンについて話し始めた。興味のない話と思っていたけど、むしろ興味の裏返したような、積極的に遠ざけたい話が展開されていると、三人目の結婚話になったところでやっと気が付いた。気が付いたら、流す行為で僅かに触れるだけでも苛立ちが生まれる。それでも、稔は戦略的に振る舞うべきだと心の中で言い聞かせて、表面上はただつまらなさがっているだけの声を出し続けた。彼女が投げたボールをいなす、それを延々と続けるのは、ちょっとした大道芸くらいの難易度はあったと思う。やっとドリアが来た。

 食べ物で口を塞いでいる間は喋ることは出来ない、シンプルな原理にホッとする。

 でも、しばらくしたら食べ終わってしまう。自分の空の容器と彼女の三分の一残ったドリアを見比べて、稔は「トイレ」と言って席を立つ。彼女の視線から外れるとそれだけで息が出来る。稔は何を好き好んで文子と歩んで来たのだろう。トイレから戻る道のりすら重苦しいのに。

 食べ終えていた彼女に「出よっか」と促すと、「そうだね」と席を立つ。ここから本格的にやることがない。あてもなく散歩をしたり、モールの中を歩き回ったり、それを毎回繰り返してからタワーマンションに帰る。間を埋めるためだけの時間。興味のないものを見続ける時間。若い時間をドブに捨てる毎週の習慣。最後の今日もそれをするべきなのか、いや、そんなに違和感を消すことに躍起になる必要はない。むしろ、別れ話に時間をしっかり使う方が理に適っている。「モールに行こう」と言う文子を制する。

「今日はマンションにもう帰らない?」

 文子はちょっと考えて、一体何を考えたのか、「いいよ」と踵を返す。

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