第5話
清々しい目覚めを経験したことがない。いつだって泥から這い出すような朝だ。それは平日も休日も変わらない。冬の寒さも関係ない。毎朝、今日こそは諦めよう、と頭に過ぎるのをねじ伏せて働かない頭のまま用意をする。もし今日に予定がなかったら、自由に眠ることが出来るなら、どんなに楽だろう。どうして日曜日になると文子と会わなくてはならないのだ。徐々に動き始めた脳味噌は恨みに近い汚泥で満たされる。それでも時間までには準備を整えて、部屋を出る。行きたくない。会って何になるってんだ。ため息をつきなが玄関を閉める。
冬晴れの空の下、稔だけが陰気に駅までの道を歩く。待ち合わせはタワーマンションのある駅で、明らかに稔の方が移動距離が長い。今日何をするのかは決まっていない。それなのに会わなくてはならない。やることの決まらない、会うだけの約束は、蜜月関係ならば無限の可能性を描けるキャンバスだろうけど、新月みたいな俺達、いや俺にとっては無限地獄の屑籠だ。ガラガラの電車、ピッタリとくっついた状態でカップルが乗り込んで来た。男も女も蜂蜜を煮詰めたような声で喋る。
「今日、何する?」
「まーくんのしたいことしよう」
「それは、こんなところじゃ言えないよ」
「ゆみも同じ気持ち」
顔と顔が今にもキスしそうな距離。
「それ以外だと、映画かな」
「うん。後は、ゲーセン行こうよ」
「いいね。服屋も回りたい」
「素敵な服、選んであげる」
周囲の乗客の胸焼けしたような顔。でも、稔はポンポンとアイデアが出ることが羨ましい。それは、要するに何をするのでも君と一緒なら楽しい、と言うことだ。稔は文子に対して、逆のことを思っている。俺の時間を返せ。これから拠出する分だけじゃなくて、お前に投じた全ての時間を返せ。カップルは次から次にやりたいことを並べてゆく、その並べたものの列の長さが、二人がお互いを大切に思っている量と比例しているみたいで、稔は一つも並べられないから、どうして文子といるのだろう。これまで何度でも考えたそれが頭をもたげる。カップルは候補を並べ終えて、ニマニマとお互いを見詰め合っている。文子と見詰め合うことなんてない。それなのにどうして?
まーくんが恋人に言うように、この場の全ての人に宣言するように、声を発する。
「愛があるからゆみといる。だから何をしても楽しい」
「ゆみも!」
どうして文子といるのだろう。
愛なんてない。恋はなおさらない。惰性に人生を呑まれている。俺の生きている時間が奪われている。
駅に着いて、カップルはベタベタしながら降りて行った。入れ替わりに数人が入って来ても、彼等の残した空間はまだそこにあって、稔に向かうべき道を示そうとする。
どうして文子と。鼓動が聞こえる。それはずっと突破してはいけないと信じていた扉へのノックだ。悪者になりたくなかった訳じゃない。恋人がいる状態をキープしたかった訳でもない。先週マンションに行ったらゼクシィが置いてあった。稔はそれを無視した。彼女も何も言わなかった。先延ばしにし続けた結論を迫られ始めている。そのことも無視していた。愛があるからゆみといる。それを契約にすり替えられそうになっている。稔にとってあまりに不都合なこと、無視したのは逃げているからだ。俺は決めなくてはならない。もし俺が決めなければ呑まれる。受動的で楽な一瞬で、残りの人生をフイにする。
稔の結論は出ている。……ずっと前から。
決まり切った日々が終わることに不安でもあるのだろうか。どうして行使出来なかったのだろう。文子がいなくなったら久美が彼女になる訳でもないし、そこは二席のまま固定だから、久美が原因ではない。本当に分からない。でも、まーくんのお陰で、もしくはゼクシィのせいで、俺は今日決めないといけないことが分かった。
文子と別れるのに理由は要らない。いや、理由だらけだけど、そのどの理由よりもただ一つ、愛していないことが人生の袂を分つのに十分な理由だ。愛していない者のために人生を費やせない。言葉にしてみると、至極もっともで、これまで目を背けていた自分が愚かだった。
鞄から手帳を取り出して、真っ白なページに「愛してない」と記す。文字になるとさらに、その真実性が高まる。矢印を引いて、その先に「さよなら」と書く。胸の中が一杯になって、鼻から抜ける。これが俺の本心だ。そしてすべきことだ。来週から日曜日は俺のための一日になるし、面倒なだけのメールの返信もしなくて済む。車窓の外に広がる空が、これまでよりずっと、遠くまで続いている。
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