第6話
和歌葉の発した言葉を、しばらくの間、佳織は理解出来ていない様子であった。その言葉が何を意味するのかの理解に至った時、佳織は、顔から血の気が引いていった。
「え・・・?和歌葉・・・それって、つまり・・・」
「そう。桜月の魂を解放して、佳織の命を守る為には、もうこの方法しか残されてない。私が、桜月の成し得なかった現世への未練である心中を叶える。私の命を捨ててでも、桜月の魂を共に冥府に連れていく以外に、この二つを実現する方法はない」
和歌葉の言葉を聞き終えた途端に、佳織は、
「そんなの・・・絶対嫌!!」
と叫んだ。
「だって、和歌葉の言ってる事ってつまり、桜月を道連れにしてでも、和歌葉が自ら死を選ぶって事でしょう⁉そんなの、賛成出来る訳ないじゃない・・・!!桜月が無事に未練を叶えて怨霊にならずに済んで、私の命が守られたって、和歌葉がいない未来なんてっ、私には、生きる意味ないっ!!ねえ、和歌葉、どうか考え直してよ!私を置いていかないで!」
佳織は酷く取り乱し、涙を浮かべ、和歌葉の体に縋り付いた。和歌葉の服を掴んだ佳織の手は震えていた。
「・・・でも、どう考えても、佳織と、桜月、二人共救える方法はこれしかないの。桜月に果たせなかった心中を達成させてあげて、未練が晴れたらきっと、桜月は思い残す事なく冥府に行ける。桜月の、その心中の相手を出来るのは、きっと私しかいない。逆にここで私が桜月を止めなかったら、佳織の命が危ないのは勿論、きっとあの子は、昔の優しい心も忘れて、片端から人の命を奪い続ける本当の怨霊になってしまう。桜月自身だってそうなってしまうのは苦しい筈。私が命を投げ出せば、今ならまだ、そんな悲劇が起きるのを止められる。だから・・・」
「そんなの上手くいくかどうかも分からないじゃない!!和歌葉が、あの『お化け桜』の下で命を絶てば、桜月が成仏するなんて、そんな保証ないでしょ⁉」
「・・・分かってるよ、私の言っている事は、ただの賭けに過ぎない。佳織の言う通り、桜月の未練が、私が命を投げ出す事で消えて、あの子が成仏出来るなんて、そんな確証はないのも、佳織の言う通りだよ。だけど、私が動けば、佳織が暴走した桜月の霊力で殺されないで済む、桜月も、怨霊と化して、人の命をこれ以上奪って、苦しまずに済む。その可能性が・・・佳織を守れる可能性があるのなら、何もせずにいる事は私には出来ないよ」
佳織は、和歌葉の胸に飛び込んできて、遂には泣き出してしまった。
「どうして分かってくれないの、和歌葉・・・!!私だけが助かっても、和歌葉が消えてしまうのなら、意味がないのに・・・」
和歌葉の胸で泣きじゃくる佳織の髪を、優しく撫でながら、和歌葉は彼女の温かさを、髪の香りを、しっかりと自分の記憶に焼き付けようと思った。こうして、佳織に触れられるのも、もうこれが最後かもしれないからだ。
「佳織・・・。今更だけれど、あの時のお返し、するね・・・」
突然投げかけられた和歌葉の言葉に、佳織は、まだ涙の雫を頬から零れさせながらも、何とか和歌葉の顔を見上げてくれた。彼女の顔の、その仔細に至るまでを、死出の旅に出る前の見納めのつもりでしっかりと眺める。和歌葉が佳織の頬を優しく挟み込んだところで、佳織は、何をするつもりなのかを悟ったらしく、両目を閉じ、その長い睫毛を伏せる。
和歌葉は、朝露に濡れた赤い花弁のような、佳織の唇に、自分の唇を優しく重ねた。
この唇の感触も、佳織に触れて得られる全てが、今となっては死出の旅への、餞だ。
和歌葉は、そっと唇を離して、
「あの時は、佳織からもらったから、今度は私からね」
と言った。
佳織は、まだ、今しがたまで和歌葉の唇が触れていた、その涙の雫で濡れた薄赤の花弁を指でなぞりながら、其処に残る和歌葉の唇の感触を確かめていた。
「佳織の全部を、大事に自分の中に焼き付けて、私は行くよ。佳織を守って、きっと今頃、あのお化け桜の下で悔やんで、苦しんでいるだろう桜月を救うために」
和歌葉の目を見て、佳織も、幼き頃からの付き合いで、最早、和歌葉が意思を覆す事はないという事を悟ったのだろう。涙は透明な血のように、とめどなく佳織の目から静かに零れ落ち続けているが、佳織は、諦めたように最後は首を横に振った。
「和歌葉の意思は、もう変わらないっていう事ね・・・。私と、そして桜月を救う為に死ぬっていう、その決意は。・・・こんな、別れ方をしたくはなかったけれど、和歌葉の意思を、私は尊重するわ。ただ、一つだけ、私の方から、和歌葉の意思を尊重する代わりに、お願いを一つ聞いてほしい」
「何?佳織」
「私を・・・和歌葉と桜月の、終焉の舞台のただ一人の観客にしてほしい・・・。和歌葉が死ぬ、その直前まで、私はその光景を見ているわ。あの「幽霊池」のほとりの「お化け桜」の下で・・・」
最期の時を、佳織に見守られながら、死んでいけるのならば和歌葉は本望だ。その佳織の申し出を、和歌葉は快く承諾した。
「お化け桜」は、既に満開を迎えていた。もう、何十回目の、この場所で過ごす春になるだろうか。この「お化け桜」が・・・ずっと自分の霊魂の拠り所だった、この桜が池の水面に降らせる、花の雪を見るのももう幾度目か、数えるのはとうに辞めていた。しかし、いつもの春ならば、桜月の孤独に沈んだ心の細やかな慰め程度にはなってくれていたこの花も、この春ばかりは、何ら慰めにもなりはしなかった。
「私は・・・私との心中の約束を裏切った、あの女・・・珠緒の孫娘だからという理由だけで、憎しみに飲み込まれて・・・佳織を殺そうとしてしまった。和歌葉の、一番の大切な幼馴染の子を・・・。私は・・・何てことを・・・」
幾度悔やめど、後の祭りだった。もう、自分は和歌葉に会わせる顔などない。和歌葉の大切な物を、あと少しで、奪ってしまうところだったのだから。和歌葉を大切に思っているといいながら、きっと和歌葉の心にも傷を負わせた。
もし自分が生者であるならば、死を選んだ事だろうが、自分は既に死者の世界の住人だ。二度死ぬ事は出来ない。和歌葉、佳織への罪の意識と、霊力を制御出来なくなってしまっている、ただの怨霊になりかけつつある自分への恐怖・・・それが、桜月の心を暗く満たして、桜月は、そのセーラーの白いリボンを春の夜風に靡かせながら、花の雪が降りしきる中、体育座りで、「お化け桜」の根本に座っていた。
その時であった。
「桜月・・・」
あれだけの、恐ろしい目に遭わせたのだから、もう二度と会いに来る事はないだろうと思っていた、その少女の声が自分の元に届き、桜月は驚きに、声の方を振り向く。
其処には、和歌葉・・・そして、その隣には、珠緒の孫娘、佳織の姿があった。
桜月は、驚きに立ち上がる。前に、佳織からぶつけられた言葉が脳裏をよぎる。
自分の霊障によって、和歌葉の体は蝕まれていると。それならば、今こうして自分に近づいてくるだけでも、和歌葉の命にとって危ない筈だ。
桜月は、二人に向かって叫んだ。
「近寄らないで・・・!」
和歌葉は、それでも桜月の方に向かい、歩いていく。霊障が再び強まり始めたのか、足は真っ直ぐ歩くのも苦しそうな程にふらつき始め、佳織に肩を支えられながら。
「どうして・・・私の元にまた来たの、和歌葉!それに、佳織さんも・・・。あの、家での私の、貴女たちにしてしまった、恐ろしい所業を見たでしょう?あの悍ましい姿が、怨霊と変わらない姿が、私の本当の姿よ!それに、佳織さんの言う通りならば、私の霊力がどんどん、和歌葉の生命を削ってしまってるんでしょう?これ以上、私に近づいたら、和歌葉の命まで・・・」
和歌葉は、桜月が立つ桜の下まで、後数メートルのところまできた時、苦し気に表情を歪めて、胸を押さえ、急に両手を口元にやり、地面に座り込んだ。激しく咳き込み、また、その口を隠す両手の隙間から、鮮血が迸り、土を赤黒く染めていく。
「ほ、ほら・・・そんなに、体が酷い状態なのに、これ以上、私に関わったら、和歌葉が・・・」
ようやく、吐血が治まった和歌葉は、顔を上げると、口元は赤く血に染めたまま、桜月に向かい、こう言ってきたのだ。
「私は・・・今日はね、和歌葉を救いに来たんだよ」
その言葉の意味が桜月には咄嗟には理解出来なかった。私を助ける?それは、一体・・・。
「私が、桜月の、この世への未練を叶えて、桜月をちゃんと冥府へと連れて行ってあげる・・・。私と、心中しよう。桜月。数十年前に果たせなかった、満開の桜の下で、愛する人と心中する約束を果たすの」
和歌葉の提案を受けた、桜月は、一瞬、驚きのあまり硬直していたが、すぐに首を横に振った。
「だ、駄目よ、そんな事!!和歌葉は、この場所を、私を大切にしてくれた、ただ一人の人間。そんな人を、私が成仏する為に、心中に付き合わせるなんて、そんな事出来る訳が・・・」
「・・・桜月は、きっとそう言うと思ってたよ。だって、桜月は、さっき自分で言っていたような、悍ましい怨霊なんかじゃない。池で溺れていた私を引っ張り上げて、助けてくれたような、優しい霊なんだから。でもね・・・桜月は、今、どんどん、霊力を制御できなくなってる。このまま、この桜も池も失われても、桜月はきっと本当の怨霊となって、佳織の命も、他の沢山の人の命も奪う事になってしまうかもしれないの・・・。だから、もう、終わりにしよう、桜月。果たせなかった心中・・・満開の桜の下で、水面に、オフィーリアのように花弁に囲まれて、一緒に、もう一度死ぬの。今度は現世に縛られている運命から、解放される為に。そして、もう誰も、桜月が人を殺さないで済むように・・・」
語りかけながら、桜月へ和歌葉は近づいていく。桜月の顔は、泣いているように見えた。彼女の魂を宿す、「お化け桜」が、尽きる事なく降らせる花の雪も、桜の降らす涙に見えてくるから、不思議だ。
そして、佳織が遠くで見守る中、和歌葉は、数十年の孤独を耐えてきたこの少女の霊を、抱きしめるように、腕で包んだ。桜月の体は遥か昔に滅んでおり、靄のような物が、腕の中にはあるだけだ。しかし、確かに桜月の纏う、桜の香りがした。肉体は滅べど、桜月の魂は確かにここにある。それを解放しなければ。
「数十年間、ずっと寂しかったよね・・・。でも、もう、楽になっていいんだよ。桜月はもう苦しまなくていい・・・。私が最期まで一緒だから・・・。だからもう、この地への呪縛を終わりにしよう」
腕の中の桜月に対して、そう語りかける。桜月は、決して地に零れる事はない涙を流しつつ、
「こんな・・・終わり方に付き合わせてしまってごめんなさい・・・。あの、和歌葉が池に落ちた春の日に、私が貴女を好きにならなければ・・・和歌葉を巻き添えにせずに済んだのに・・・」
と言った。和歌葉はこう答えた。
「いいえ、桜月の苦しみを終わらせてあげられるのが、私で良かったって思ってるわ。だから、もう泣くのはやめて、桜月・・・」
「お化け桜」の花の涙が降りしきる中、桜月と和歌葉の「心中」を見届ける役目を買って出た佳織は、和歌葉の最期の時まで、目を逸らさずに見るつもりだった。
和歌葉が、桜月から体を離すと、こちらに目配せをくれた。和歌葉との惜別が迫っている事を、それは教えてくれた。
和歌葉は、桜月に寄り添って、暗い池の水面に向かい歩き始める。既に池の水面は、花の筵を上に敷いたように、白い花に埋め尽くされているのが分かる。
その、桜から池までの僅かな距離でも、途中で和歌葉はまた激しい咳に襲われ、しゃがみ込み、先程より更に多い血を吐いた。もう、霊障に体が耐えられる時間も長くはない。地面に四つん這いになりながら、血を吐いた和歌葉はそれでも、目の前の暗い水面を目指す。血に塗れた手を伸ばしながら・・・。その時、桜月がふわりと、和歌葉の手を引いてくれるのが分かった。
その、和歌葉の手を引く表情は、あの五年前の、池に落ちた和歌葉を助けた時と同じ、穏やかな物だった。其処に、もう憎しみや怒りといった感情は一切なかった。あの日、顔に浮かべていた、寂しげな色も、今は消え、満ち足りた表情に変わっていた。
「桜月は・・・、やっぱりその表情の方が、私は好きよ」
吐血が続き、最早、視界も霞んでくる程の状態になりながらも、和歌葉は、桜月の、最期のその表情を見て、そう言った。
「だって、貴女と一緒だから」
桜月も言葉少なに、しかし、満ち足りた声で答える。
あの五年前の春の日と、変わらぬ優しさをたたえた笑顔で、夜の闇に吸い込まれるように、無限に降るように思われる、白い花の涙を背に立つ桜月を目にして、和歌葉は、桜月の耳元にこう囁いた。
「思ひ人 来たりて共に 見る花を 死出の旅路の はなむけにせん」
それは、桜月が無念のうちに一人、この池に花弁と共に散っていった数十年前のあの夜に詠んだ歌を、和歌葉が詠み変えたものだった。
和歌葉の、この歌を、二人だけの遺詠を聞いた桜月は
「ありがとう、和歌葉・・・。もう、思い残す事もなく、私はこれで、やっと冥府の門を潜れるわ」
と言って、和歌葉と手を繋いだまま、池の中へと入水していく。桜月の死んだ晩とは違う。今は隣に自分がいる。そう思いながら、和歌葉は池の水面に迷う事なく、彼女と共に歩いていく。
やがて、二人は完全に水中に没して、ひっくり返った和歌葉の目に最期に映ったもの・・・それは、望月の月光を浴びて光る水面と、それを覆い尽くす桜の花弁・・・そして、満たされた、一点の曇りもない笑顔で、和歌葉を見つめている桜月の姿だった。
二人の姿が、完全に池の中に没していった後、全てを見届けた佳織は、地面に突っ伏して泣いていた。二人がいなくなった後には、尽きる事なく、花を降らし続ける「お化け桜」、二人を飲み込んだ「幽霊池」があるだけだった。
月代和歌葉は、この街の人々を数十年に亘って、震えあがらせてきた怪死事件「桜の下のオフィーリア」の最期の犠牲者となった。ただ、今までのどの事件とも違い、桜の花に包まれていた和歌葉の遺体は、何故か、満たされた幸福な表情であった事は、街の人間を不思議がらせたー佳織、ただ一人を除いて。
その後、予定通りに祠の移設と、「お化け桜」の伐採、「幽霊池」の埋め立ての計画は進行した。当初は女学生の霊の祟りが起きるのではないかと、皆が恐れていたが、計画の途中、何ら問題は起きず、それどころか、和歌葉が死んだ日以降、あの場所で、かつては目撃が絶えなかった、「白リボンのセーラー服の、女学生の霊」は、一度たりとも目撃される事はなくなった。
再開発が終わり、遊歩道が整備され、あの「お化け桜」も「幽霊池」も消えた跡地には、その存在を人々が忘れないように「殉難者慰霊碑」が建立され、後世に悲劇を語り継ぐ物となった。
佳織は、あの場所が完全に遊歩道に姿を変えてしまってからもなお、足を運ぶ事が苦しかった。和歌葉の最期を見届けたあの夜の光景を夢に見て、夜中に飛び起きる事は今でも珍しくはない。
それでも、佳織は、社会人となった今でも、大切に、和歌葉の創作ノートを、形見に預かっている。そのノートの最後のページには、あの日、家を出る前に和歌葉が密かに書いていた、佳織にあてた遺詠があったからだ。
「泣くなかれ 愛しき人よ 幾年の 春の先にて 再び会はむ」
この歌を和歌葉の、自分への最期の惜別の言葉と思い、今日、この慰霊碑に会う為に佳織はまた一年を乗り越えた。幾年先の春で、きっと和歌葉はまた、自分の前に、ここでなら、姿を見せてくれるような、そんな淡い期待を抱きながら。
今日詠んだ「幾年の 春経て君と また会はむ 黄泉の梢の 花の下にて」は、例え、生前に会う事はもはや叶わなくても、黄泉の国の桜の下で、また会えるだろうという思いを込めて詠んだのだ。
佳織は、献花台に慰霊の花を今年も捧げる。そうして、周囲を囲む、桜の木を見渡す。
花は、二人が池に消えたあの夜と同じように、春の吹雪を成していた・・・。
その時、佳織は、花の吹雪のその向こうに、一瞬だが、高校の時の姿のままの和歌葉の姿が、見えた気がした。その時の、彼女の口は、こう動いているように見えた。
「約束通り、会いにきたよ、年をいくつも超えた先の、春の日にね・・・」
桜月が、この場所に確かに存在していたように、和歌葉の魂もきっと、今もこの地に、立ち並ぶ桜の、何処かの木にきっと存在している事だろう・・・佳織は、この地に来る度、毎年、何か和歌葉の気配を感じて、今も彼女が桜の下にいるように感じている。
「何十年か先、私も・・・和歌葉のところに、この私の歌のように行く事になったら、その時も変わらない笑顔で会ってくれる・・・?和歌葉」
そんな独り言を言ってみる。
「勿論だよ・・・佳織」
そんな和歌葉の声が春風に乗って、何処かから聞こえてきたような気がしたのも、きっと錯覚などではないだろう。
桜の下のオフィーリア わだつみ @scarletlily1125
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます