第5話
目を開けると、自分の部屋の天井が見えている事に、和歌葉は驚いた。自分は「お化け桜」の下で、桜月と会っていた筈だ、何故、自分の部屋に・・・。
桜月・・・彼女の事を考えた途端に、鋭い頭痛が走り、和歌葉はこめかみに手を当てる。体は、高熱でもあるように重たく、怠い。毛布が体に掛けられており、ベッドに寝かされているようだが、どうやって自分の部屋に戻ってきたのか思い出せない・・・。
「目が覚めた?和歌葉」
その時、耳によく馴染んだ声が聞こえてきた。
「え・・・?佳織?どうして、ここに?というか、私は、あの場所に・・・『お化け桜』の下に行っていた筈なのに、なんで自分の部屋に・・・」
佳織は、和歌葉が目覚めるまでずっと、ついていてくれたらしい。春の夜の寒を防ぐ為に、制服の上に学校指定のコートを羽織り、部屋のカーペットの上に座り込んでいる。表情には疲れが見えるも、和歌葉が目覚めたのを見て安堵が浮かんでいる。
彼女の左足には、包帯が巻かれ、血が微かに滲んでいた。
そこまで見たところで、和歌葉の脳裏に、断片のように、先程、あの「お化け桜」の下で、自分と佳織、そして、桜月の間にあった出来事の場面が浮かんできた。また頭痛が走る。確か・・・自分が、桜月の元に行こうとしていたところに、佳織が現れて・・・、桜月が佳織を攻撃してきて・・・。
「和歌葉・・・、様子がおかしかったから、また『お化け桜』の下へ・・・桜月のところへいくんじゃないかって、心配してたの。それで、学校帰り、気になって、また後をこっそりつけてみたら、『幽霊池』の方へ向かっていたから、桜月に近づく前に止めさせてもらったわ・・・」
佳織には、自分が桜月に未練を残していた事、再び「お化け桜」の下に行こうとしていた事は見透かされていたようだ。佳織に、あれ程「お化け桜」の下へ行く事を止められていて、桜月による霊障の為に自分の体が深く蝕まれている事も知らされていながら、自分は桜月の元へまた行ってしまった。
「佳織・・・ごめん。あんなに必死に止めてくれていたのに、私は、桜月への未練を断ち切る事がどうしても出来なくて・・・。佳織を危険な目に遭わせてしまった」
佳織の左足に巻かれた包帯を見て、意識が鮮明になってきた和歌葉は、思い出してきた。あの傷は、怒った桜月が霊力で佳織を吹き飛ばした時に、彼女が負った傷だ。
自分でも驚く程、喉から絞り出した声は弱々しい物だった。
佳織は、和歌葉の謝罪の言葉に首を横に振る。
「幼馴染が・・・いいえ、自分の愛する人が危険に晒されてるのを、守りたいと思うのは当然でしょう?気にしなくって大丈夫。あの時、止めていなかったら、和歌葉の体は桜月の霊障に耐え切れずに、あそこで・・・和歌葉は死んでしまっていたかもしれない。それを思えば、私の怪我なんて大した事じゃないわ」
霧がかかったようにぼんやりとしていた意識が、すっきりしてくるにつれ、佳織に助け出された時の「お化け桜」の下での、桜月とのやり取り、そして、激しく怒る桜月の姿が蘇ってくる。そうだ、あの時、佳織は、自分こそが、数十年前に桜月を裏切り、心中から逃げた女学生の孫娘である事を明かしていた。そして、生前の記憶が舞い戻った桜月は酷く錯乱し、佳織に和歌葉を連れ戻された事に怒り狂っていた。
「桜月の、生前の名前、春代っていう名前だったんだ・・・。そして、佳織のお祖母ちゃんが、本当に、桜月のいう、『自分との心中の誓いを破って、逃げた女学生』だったなんて・・・」
佳織の祖母の名前を聞かされた時の、桜月の尋常ではない動揺、荒ぶる様から見て、恐らくそれは間違いない真実だろう。
和歌葉の言葉に、佳織は頷く。
「今日の、あの桜月の反応を見て、確信したわ。桜月の正体が・・・お祖母ちゃんが亡くなる間際まで許しを求めていた、春代っていう女学生だって。
今になって考えたら、確かにお祖母ちゃん、私の目から見ても、違和感を覚える時があった。お祖母ちゃんはね、桜の花が苦手だって言って、桜の季節は、殆ど家から出ようとしなかったの。家族でお花見に行こうっていう時も、お祖母ちゃんは絶対来なかった。昔は、どうして桜をそんなに避けるのか、ただ不思議でしかなかったけど、今になったら分かる・・・。お祖母ちゃんは、花の向こうに、桜月・・・いや、春代の姿を見て、それに怯えていたんだって。この何十年、お祖母ちゃんは、逃げてしまった自分にきっと苦しんでいたんだろうね・・・」
佳織の話を聞きながら、和歌葉は、彼女の祖母が、この数十年繰り返してきたであろう後悔に思いを馳せる。多くを語らぬまま、亡くなった佳織の祖母の気持ちは、推量でしか考えられないが、桜月の待つ、あの「お化け桜」の下に行かなかった、心中する筈だった夜の事を悔やみ続けていたのだろう。桜月だけが、夜の、全てを飲み込んでしまうような、暗い水面に一人、桜の花弁だけを死出の旅の共に入水していった、あの夜の事を。桜月が亡霊となり、「お化け桜」の下の池が、怪死事件の起きる「幽霊池」と呼ばれるようになってから、佳織の祖母がどのような思いで数十年を生きてきたのか、その苦悩の程は想像するに余りある。せめて、愛する孫の佳織に、死の間際になって、それを告白する事が出来た事だけは、ささやかな救いであったかもしれない。
ベッドの傍、窓辺に和歌葉は目を向ける。最初の一輪を認めてから、数日の晩を経て、薄く白い桜の花弁はその数を増やしている。細い小枝が花の重みに耐えきれるのかと、毎年、見ていて心配になる程に花達は、ひと時の生を示さんとばかりに咲き乱れている。
花が満開になる季節は・・・つまり桜月が一人、「幽霊池」に入水してから、数十年目の春の日は近づいてきている。
佳織は和歌葉に告げてきた。
「私・・・和歌葉の体の具合が良くなるまで、和歌葉のうちに泊めさせてもらうね。まだ、桜月と距離をとって、しばらく体を休めれば、最悪の事態は・・・霊障が、和歌葉の命を連れて行ってしまう事は避けられる。それまでは、付き切りで面倒を見るから・・・」
佳織は、何としてでも、和歌葉に生きていてほしいと願っている。その結果として、和歌葉と通じ合い、ようやく数十年の孤独から解放された桜月を、再び孤独な亡霊にしてしまうとしても。
「だから、生きて・・・和歌葉。私と一緒に。和歌葉は生きている人間。貴女の居場所は、死者である桜月の隣じゃない・・・」
ベッドの傍に身を傾けると、佳織はそう言って、ベッドの上の和歌葉の肩を抱いてきた。
桜月の怒りは、制御できる範疇を超えていた。「幽霊池」の水面は、暴風が吹き荒れる、嵐の海宛らに荒れ狂い、桜の花弁を、風雪のようにその上にまき散らしていた。桜月の目に映る「お化け桜」も既に、満開が近づいてきていた。
いくら花の嵐を起こして、池の水面をかき乱しても、桜月の怒りと、哀しみは収まらない。佳織・・・数十年前に自分との心中の誓いを破った、あの女、珠緒の憎むべき孫娘が、自分の傍から和歌葉を連れ去って以来、桜月は、自制心を無くしかけていた。
「ああ・・・憎い、憎い、憎い!!珠緒は私を裏切って、一人で死なせて、その孫娘は、私を、孤独から救ってくれた和歌葉を連れ去った!!私にはもう、和歌葉がいなかったら、他にはもう何もないというのに・・・あの、佳織という女は!!」
「幽霊池」に向かい吹き荒れる、花の嵐の中、「お化け桜」の下でしゃがみ込んで頭を抱え、桜月は叫んだ。池には、自分の顔が映る。その形相は、憎しみに囚われた、怨霊のそれと化しつつあった。きっと、昔、この池に落ちた和歌葉を助けた時の、優しい表情は欠片も残っていないだろう。しかし、和歌葉ならば・・・、きっと、どんな自分でも受け入れてくれる筈だ。彼女は・・・彼女だけは、この数十年間、皆が恐れて近寄ろうともしなかった、この場所の事を大事にしてくれて、自分を受け入れてくれたのだから。
「そうよ・・・和歌葉は、彼女ならどんな私でもきっと、受け入れてくれる筈。それならば、私は、完全にただの怨霊に成り果てようとも構わない・・・。
佳織を・・・あの裏切り者の、珠緒の孫娘を殺す事も、今の私なら厭わない。」
今まで、霊力を瞬間的に制御出来なくなり、結果として、少女らの命を、この桜の下で、池で自分は奪ってしまった。「桜の下のオフィーリア」と呼ばれる怪死事件として。それらは、桜月が望んで行った事ではなく、我に帰り、霊力を抑えた後で、幾度も桜月は後悔をしてきた。自分が、人の心を無くした完全な怨霊に成り果ててしまわないように。
しかし、今は、明確な怨念を持って、自分は佳織の命を奪いにいく事が出来る。
「和歌葉・・・。私が、救いに行くからね・・・。貴女が私を、孤独から救ってくれたように・・・」
佳織によって、「お化け桜」の下から間一髪のところを救出された翌日から、和歌葉は酷い風邪を引いたと親には話して、学校を休む事にした。実際、桜月の霊障による、体の侵蝕は予想以上の物であり、ベッドから起き上がるだけでも体はふらつき、家を出られる状態ではなかった。佳織が泊まり込んで、和歌葉の様子を見てくれるという申し出に、最初、和歌葉の両親は驚いたが、佳織は頑として譲らず、最終的には、幼馴染だから特別に、という理由で許可してくれた。
この時・・・まだ二人は、桜月の霊力が及ぶ領域は、「お化け桜」と「幽霊池」の周りだけで、家にいれば安全という幻想を信じていた。
その幻想は、程なくして、打ち砕かれる事になる。
恐怖が和歌葉と佳織に襲い掛かったのは、和歌葉が家で体を休めるようになってから、数日が過ぎた頃だった。
「学校も気付けばもう春休みか・・・。結局終業式も出られなかったな」
和歌葉は、ベッドの傍、窓辺から見える桜の小枝を眺めながら呟いた。たわわに咲き乱れた花の重みに、小枝が少し頭を垂れているようにも見える。
あの、桜月の元から逃げた晩以降、吐血はない。体の、鉛を詰められたような重たい感覚も少し和らぎ、体調は良くなっている事が分かる。
佳織はと言えば、ベッドの端に頭を乗せて、看病の疲れがたたったのか、すやすやと眠っている。和歌葉は、まだふらつきの残る足でベッドからこっそり抜け出ると、部屋の押し入れから毛布を一枚取り出して、佳織の背にかけてあげた。この数日で、和歌葉だけでなく、佳織までも少しやつれたように見える。
「佳織まで、疲れで体壊したら大変だからね・・・。ゆっくり休んで」
佳織を起こさないようにそう、彼女の耳元で、小声で囁くと、和歌葉はベッドに戻る。
佳織とのやり取りが無くなると、思い浮かぶのは、決まって桜月の事だ。彼女は、自分が来なくなったあの池の畔の、桜の下で、一体、何を思っているのだろう・・・。
桜月の事を考えていたからだろうか。再会したあの日、自分を包み込んだ桜月の纏っていた、桜の香りが、鼻腔をくすぐった気がした・・・。
はっとして、和歌葉は目を見開き、くんくんと鼻をひくつかせる。感傷による錯覚などではない。ここにいない筈の・・・桜月の纏う、桜の香りが明らかに、空気の中に混じりつつあった。
「え・・・?これって・・・桜月の香り・・・?そんな、まさか・・・桜月は、あの場所を離れられない筈じゃ・・・」
和歌葉に戦慄が走った。
その、次の瞬間だった。階下のリビングの方から、恐ろしい物音がしたのは。
「え!な、何、今の音・・・!!」
ベッドの端に突っ伏して、眠っていた佳織も一瞬で飛び起きる轟音だった。
和歌葉は固唾を呑んだ。猛烈に、不吉な予感が胸の中を満たしていった。両親は共働きで夜まで帰らず、階下には誰もいない筈だ。
「ちょっと、一階を見に行こう!」
和歌葉は、ふらつきの残る足取りでベッドから降りると、佳織に肩を貸してもらいながら、階段を降りた。
リビングに広がる光景に、二人は絶句し、佳織は口を覆っていた。
「な・・・何よ、これ・・・!!」
リビングの引き戸の窓ガラスが無惨に割れ、硝子片が床の至る所に散乱して、春の陽光を浴びて、その断面をキラキラと輝かせていた。先程の轟音の正体はこれだったのだ。更に、二人を戦慄させるものが、その場には残されていた。
和歌葉は、硝子片と共に、無数の白い花弁が床に散りばめられているのに気づき、拾い上げる。佳織も顔を寄せ、その花を見る。紛う事なく、それは桜の花弁であった。
この花を見た瞬間に、和歌葉は何が起こりつつあるのかを、瞬時に悟った。
「佳織・・・、急いで、私の部屋に逃げよう。鍵をかけて絶対外に出ないように」
「ど、どういう事・・・一体、何が・・・」
「桜月が・・・この家にまで、やってきたのよ」
和歌葉の言葉に、佳織が息を呑んだ。
二人は急いで部屋に駆け戻ると、扉に鍵をかけ、二人、毛布を頭から被って、身を隠した。窓ガラスを破壊して入ってくるほどの霊力を持つ桜月に、この薄い扉が如何ほど役に立つかは疑問だが、今はここに籠る以外になす術がない。
二人とも声を押し殺し、耳は、部屋の外の物音に集中していた。毛布の作る暗闇の中で、未知の恐怖の襲来に佳織が身を震わせているのが分かった。和歌葉は佳織の肩を抱く。
そうして構えていると、二人の耳に、不思議な物音が舞い込んできた。さらさらと、何か軽い物が床を撫でていくような、不思議な音だ。それは丁度、春に道の上で時折見かけるような、地面の上を桜吹雪の花弁が撫でて、通り過ぎていくような・・・。
そして、その音が、二人の隠れる部屋の扉の前で消えた。
「音が、消えた・・・」
恐る恐る、二人は、被っていた毛布を上にあげ、扉の方に目をやる。
次の瞬間に、恐怖の時間は始まった。
扉と床の隙間から、桜の花弁が、波のように部屋の中へなだれ込んできたのだ。数えきれない程の花弁が結集して作られたそれは、まさしく花の濁流であった。
佳織が悲鳴を上げる。和歌葉も、信じ難いこの光景に、凍り付くしかなかった。
桜月の香りと共に、伝わってくるものが和歌葉にはあった。桜月の、激しい怨念の感情だ。
あまりの恐怖にベッドの上で固まっている二人に向かい、まるで意思があるかのように・・・花の濁流は真っ直ぐに向かってきた。最初、波のように横に広がっていた花達は、今はまるで蛇のように細く長くまとまり・・・、和歌葉の隣にいた、佳織へと迷いなく伸びていった。
「き、きゃああああ!!」
佳織の叫び声が部屋中に響き渡った。桜の花の濁流は、何筋にも分岐して、細く長い蛇のように、瞬く間に佳織の手に足に・・・そして首にまで絡みつき、佳織をベッドの上から床へ、乱暴に引き摺り下ろした。佳織は床に投げ出され、容赦なくそこに花の濁流が襲い掛かる。佳織は抜け出そうと必死に足掻くが、花弁の渦はまるで縄のようにその手足を強く縛り上げて動きを封じ、佳織の首を締め上げつつ、更に佳織の口の中にまでなだれ込んできた。激しく佳織は咳き込み、花を吐き出そうとするが、花の渦は佳織の口を塞ぎ続ける。
和歌葉は、桜月の霊力が佳織を殺そうとしている事を確信した。
「桜月・・・桜月なの⁉お願い、こんな事、やめて!!佳織を離して!」
和歌葉は、桜の花の渦に飛び掛かり、佳織の首から、口から何とか花の渦を掴んで、引き剥がそうとするが、頑丈な縄のように固く、力任せではどうにもならない。
何とかしなければ、佳織が死ぬ・・・。何か使えるものはないかと必死に周囲を見回し・・・机の上のペン立てケースの中に、ペーパーナイフを見つけた。あれならば・・・。和歌葉は机に駆け寄るとペーパーナイフを手に取り、もう一度、佳織を縛り上げ、窒息させようとしている花の渦を掴むと
「桜月・・・許して!!」
と言って、ナイフを、佳織の首に巻きつく花の渦に降り下ろした。
桜月の悲鳴が、頭の中で響いた気がした。
花弁が宙に勢いよく、血が噴き出すように舞い上がると共に、渦はぷつりと切れて、佳織の首を巻いていた桜の花弁は力を無くして、首から零れ落ちた。それにひるんで、佳織の口を塞ぎ、手足を縛っていた花の渦も引っ込む。ようやく息の出来るようになった佳織は、咳き込みながらも、和歌葉に縋り付く。
しかし、桜月が操っているらしい、花の濁流はこの程度では諦めないらしい。一度、一筋の太い渦に戻ると、猶も和歌葉の隣にいる佳織を狙っている様子だ。
和歌葉は、ナイフを構えて必死に佳織を守る態勢を取りながらも、胸中は哀しみに満ちていた。
「ねぇ、桜月・・・そこにいるんだよね!!いるのなら、聞いて!私は、桜月が本当は優しい心を持った霊なんだって事・・・五年前のあの日に私を助けてくれた日からずっと信じてた。だから、もう一度会いたいって願っていたし、再会出来た時、本当に嬉しかった・・・。でも、今の桜月は違う!今の桜月は・・・完全に憎しみに呑まれた・・・ただの怨霊よ!」
和歌葉の必死の叫びに、攻撃の意思しか感じられなかった花の渦が、微かに揺らぐのが見えた。間違いない。あの花を伝って、和歌葉の言葉は、桜月に届いている。
「私は・・・桜月に、人を平気で殺すような怨霊になんて、成り果ててほしくない!!あの、春の日に、幽霊池で溺れた私の手を引いて、助けてくれた、あの優しい顔の桜月に、お願いだから戻ってよ・・・。そして・・・私の本当に大事な幼馴染の、佳織をこれ以上襲わないで・・・、お願い・・・!」
和歌葉が言葉を重ねるに連れて、花の濁流がみるみる、勢いを失っていき、やがて、渦の形を保つ力を無くしたように、床の上に広がる波の形にまで戻っていった。
すすり泣く声が聞こえた。隣の佳織からではない。姿こそ見えないが、この頭の中に直接響いて来る声は、間違いなく桜月のものだ。「お化け桜」の下とは異なり、やはりここが、あの池と桜から離れた場所の為か、それは途切れ途切れに聞こえてきた。
「ごめん・・・なさい、ごめん・・・なさい。私・・・、もう少しで、怨念のままに、人を殺めてしまうところだった・・・。しかも、和歌葉の、大切な人を。今は、何とか霊力を抑えてる。でも、どんどん霊力の暴走が止まらなくなっているの・・・自分でも、どうしようも出来ないくらい・・・。このままじゃ、冥府に行けない、本物の怨霊に、なってしまう・・・。佳織の事も、また、襲ってしまうかもしれないし、次に霊力が暴走したら、もう私は止められないかもしれない・・・」
それは、悲痛な後悔と、霊力を抑えきれない怨霊になってしまう事への恐怖に満ちた、桜月の声だった。その声が和歌葉の脳内に響いている合間に、ずるずると、桜の波が扉の外へと引き上げていく。桜月が最後の理性を振り絞り、自分の力を抑えたのだ。
花の波はやがて、幻のように掻き消えた。和歌葉と佳織の二人は、しばらく床に座り込んだまま、声も出なかった。
佳織は、桜月の暴走により、締め上げられた手首を抑え、まだ恐怖に表情は硬かったが
「さっきの桜月の声、私にも聞こえたわ・・・」
と話した。
「聞いていたんだ、佳織も・・・」
「ええ・・・。まだ、桜月に最期の理性が残っていて、和歌葉がそれを呼び起こしてくれたから、助かったけれど・・・桜月の霊力はどんどん不安定になってきている。
もうすぐ、魂の拠り所だった、あの『お化け桜』も『幽霊池』も無くなってしまうからでしょうね・・・・
このままだと、次に私を殺しに来た時には完全な怨霊になってしまっているかも・・・」
それは、次に桜月の力が暴走した時には、確実に佳織は憎しみの対象として殺される事を意味していた。桜月が、魂の拠り所を無くし、あの地に縛られた怨霊と化せば、最早理性で自分を止める事は出来なくなるだろう。和歌葉が説得したとしても。
「私・・・死ぬのは嫌・・・!怖いよ、和歌葉!!桜月だって苦しんでいる事は分かったけど、それでも・・・!」
佳織は、和歌葉に抱き着き、体を震わせている。
このまま何もしなければ・・・あの桜、あの池が無くなっても、桜月は地縛霊の怨霊として、災厄をもたらす存在になってしまう。かつての優しい心、人の心は忘れて。桜月がそうなれば、佳織だって、いつ憎しみに任せて殺してしまうか分からない。和歌葉に桜月を止める術は無くなる・・・。
佳織も、桜月も、自分にとって大切な、二人の存在が、どちらも、このままでは不幸になる・・・。
和歌葉は、考えを巡らせる。その悲惨な結末を防ぐ唯一の術は、怨霊となる前に、あの池が、桜があるうちに桜月を、いるべき場所へ・・・冥府へ行かせる事だ。その為には、桜月の現世への思い残した事を叶えるしかない。
桜月の思い残した事・・・それは、数十年前、佳織の祖母と共に果たす筈だった、満開の桜の花の下の池に入水して、オフィーリアのように、桜の花弁に包まれた骸を晒す事・・・。
ならば・・・佳織を守り、そして桜月の魂を救う為に、和歌葉の取るべき道は、一つしか残されていなかった。
和歌葉は、佳織の肩を抱いたまま、それを口にする。
「このままでは、佳織もいつ死んでしまうか分からない。桜月が、優しい心を無くしたただの怨霊になって、現世に縛られ続けるのを見るのだって、私は嫌・・・」
「でも・・・何か方法があるというの、和歌葉・・・?」
「あるよ。一つだけある。桜月の魂を救って、佳織の命も守れる術が一つだけ・・・。桜月の現世への未練を捨てさせるしかない」
「それって、どういう事・・・?」
和歌葉は、覚悟を決めて、佳織の目を真っ直ぐ見て、たった一つの解決策を口にする。
「桜月は、現世で最愛の人と・・・佳織のお祖母ちゃんと桜の下で心中できなかった事で、ずっとあの場所に未練を残して縛られている。だから、桜月に、満開の花の下で、もう一度心中をさせるの。数十年前に行う筈だった心中を。
私が、桜月と心中をして、彼女を冥府に連れていく。それしか、佳織も桜月も救われる方法はない」
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