第4話

自宅の部屋のベッドの上で、毛布を被ったまま、和歌葉は何度も寝返りを打った。

今日、立ち寄った佳織の家で叩きつけられた、いくつもの衝撃的な真実に、未だ頭の中は思考が錯綜していて全く寝付けない。

桜月の過去・・・、心中する筈だった相手の少女に裏切られ、「お化け桜」の花が舞い落ちる中、一人「幽霊池」に入水した暗い過去。その過去によもや、和歌葉の一番の幼馴染である、佳織の祖母が直接、関わっていた。佳織の祖母こそが、桜月を裏切って逃げてしまった、数十年前の心中相手の少女だったとは。未だに現実として認識が出来ない。

そして、桜月の霊力が、自分の体を、霊障により蝕んでいる・・・。このままでは、和歌葉の命さえも危ないと、佳織は本気で警告していた。例え、桜月は、和歌葉の命を奪う意思がなくても、和歌葉は生者、桜月は死者-亡霊である限り、桜月の霊力が和歌葉の生命力を奪う事は避けられない。自分も桜月も、いくら、お互いの事を大切に思っていても、桜月に近づけば近づく程、自分の命は削られてしまうのだ。皮肉としか言いようがない。最近の和歌葉の繰り返す吐血も、日に日に増していく、体を覆う酷い倦怠感やふらつきも、佳織の言う通り、桜月の霊力が、和歌葉の体を霊障で蝕んでいる事の否定しようのない証拠であった。

『大切な、あの子に近づけば、近づく程、死に引き寄せられるなんて・・・』

和歌葉は毛布を強く握りしめ、呻いた。あの、桜の花が覆っていた池に落ちたのを彼女に救われたあの日から五年、ようやく、「お化け桜」も「幽霊池」も失われる直前になって、彼女と再会できたのに、かつて自分を救ってくれた、その彼女の霊力で今、自分の命が奪われようとしている。

もう一つ、和歌葉に強く残っているのは、佳織がさっき、自分にくれた口づけの感触だ。和歌葉は、唇を指先で撫でてみる。其処には、まだ佳織の、あの柔らかな花弁の感触が残っていた。佳織から、突如口づけをされ、秘めてきた気持ちを聞いた和歌葉の心は、今、激しく揺れ動いている。

「佳織は・・・幼い頃から私の傍に、一番の幼馴染として、親友としているのが当たり前という感覚になっていた。だから、彼女の事はずっと、そうした、特別な目で見た事が私には今までなかったけど・・・、でも佳織は、そうじゃなかったんだ・・・」

和歌葉は、自分の愚鈍さに嫌気が差す。五年前に自分を助けてくれた亡霊の少女-桜月に心を奪われて、彼女の話ばかりを佳織にしてきた和歌葉の事を、今まで、佳織はどのような思いで見ていたのだろうか。佳織は、和歌葉を大切に思っているからこそ、困らせたくないと思い、その気持ちを上手に隠していた。だから、和歌葉は何も気づかずに、佳織の気持ちも知らないままで、桜月の姿に囚われ続けていた。

-しかし、中学、そして高校と、記憶を辿っていけば、佳織とのやり取りの中で、和歌葉が違和感を覚えた時は、確かにあった。中学校の頃の文芸部での話だ。

和歌葉と佳織は、お互いの詩作ノートを見せ合っては、色々と論評じみた事を互いに言い合っていた。そうした時、和歌葉は、文芸部で、「恋」が題材の詩作をする事になった時に、佳織のノートを読ませてもらっていて、ある事に気付いた。

-それは、よく見ていなければ見逃してしまう程度の些細な物であった。ページの上の、彼女の詩の文中に出てきた、「貴方」の部分。其処の二文字だけが、何度も消しゴムで消しては書き直し、また消しては書き直したように、僅かにだが、他の部分より汚れているように見えた。目を凝らし、その部分に、消す前には何と書かれていたのか、見てみると「貴方」ではなく、「貴女」と書かれていたようだった。女の子である佳織が「恋」を唄った詩でありながら、これでは、詩の相手も女の子という事になる。「どういう事だろう?」などと、不思議に思って、その部分に注目していると、和歌葉の手から突如ノートが取り上げられた。取り上げたのは、佳織だった。

「ご、ごめん、和歌葉・・・!私、今日は用事あったの忘れてた。お互いの詩の見せ合いはまた今度ね。和歌葉の詩、すっごく良かったよ、それじゃあ、また明日ね!」

酷く動揺した様子で、何故か頬を赤く染めながら、急いで、自分の詩作ノートを鞄の中に仕舞い込むと、半ば逃げ出すようにして佳織は、和歌葉の前から走り去っていった。佳織の不可解な行動にあの日の和歌葉は困惑するばかりだったが、今ならば、佳織の気持ちは分かる。

「あの時の詩の、消しゴムで消した『貴女』は、私の事だったんだ・・・」

「貴女」と書くか、何度も消しては書き、迷った末に「貴方」と書き換えて自分の気持ちを隠さざるを得なかったあの時の佳織の気持ちに、思いを馳せると、自分が如何に、佳織に対して鈍感で、佳織の事は何でも知ってるつもりで、大切な部分は何も分かっていなかったか、嫌気が差す程だった。

亡霊に片思いしてどうするの?-そう、佳織は和歌葉に問うてきた。「お化け桜」と「幽霊池」に・・・、そして、桜月にこの五年間、取り憑かれたようになっていた自分を見ながら、佳織はさぞ、もどかしい思いをしていた事だろう。生者である和歌葉が、生きている自分の気持ちには気づかず、応えようともせずに、死者である桜月にずっと心奪われている様を見ながら。自分は、佳織を大事な幼馴染と思っていながら、知らぬ間に、ずっと佳織の気持ちを軽んじて、傷つけていた。最悪な女だとつくづく思う。

このまま桜月の霊力によって、和歌葉が死者の世界に連れていかれてしまう事を食い止める為に、必死の勇気を奮って気持ちを告白してくれた、今日まで、佳織の気持ちに気付けなかったのだから。

佳織が言うように、これ以上、桜月に会いに行く事をやめて、近づかないようにすれば、桜月の霊力で、和歌葉の体が霊障に蝕まれ、死に引きずられる事は防げるかもしれない・・・。佳織が、和歌葉の事を愛してくれているのなら、「桜月の霊力が和歌葉を殺してしまう前に、絶対に止める」というのも当然の気持ちであろう。

しかし、もし和歌葉があの場所に・・・「お化け桜」の下に行くのをやめてしまえば、彼女は‐桜月はどうなる?もう、間近に迫った今年の桜の季節を終えたら、桜月の魂の住まう場所だった「お化け桜」も、その下の「幽霊池」も切られ、埋め立てられ、姿を消してしまうのだ。そうなれば、やっと再会出来た桜月にも会えなくなるかもしれない。もう、本当に、彼女と過ごせる時間は残り僅かなのだ。

和歌葉は、ベッドから、鉛のように重たい体を起こすと、ふらふらする足を強引に動かして、自分の机に向かう。それだけの動きをするのにも、酷い肺病を患ったかのように胸が苦しくなり、佳織の言う、霊障が、和歌葉の体をどれ程蝕んでいるのかが良く分かった。その机の上に、和歌葉のハンカチが置かれている。それを、宝物を扱うように丁寧な手つきで開けると・・・そこには、桜月と再会できた日、彼女が落としていった、あの桜の花弁が一枚、ハンカチの布の上に乗っていた。驚く事に、この花弁をあの「お化け桜」の下で拾ってから幾日も経っているのに、今しがた、桜の枝から零れ落ちたばかりのように、瑞々しい桜色を、色あせる事なく保っており、その指に触れる儚げで優しい感触も変わっていなかった。これを見ただけでも、この花弁が、単なる桜の花弁とは異質の物である事が分かる。破れないよう、親指と人差し指でそっと優しく摘み、鼻に近づける。あの日、桜月から感じたのと同じ桜の香りが胸に流れ込み、彼女と再会出来た日の喜びが胸の中に蘇るようだった。

立っている事も苦しく、桜の花弁をハンカチの上に戻して、それをまた優しく包み込み、そのハンカチが桜月自身であるかのように大事に胸に抱き込んで、和歌葉は重い体をベッドの上に投げ出した。

桜月のベッドの傍には、カーテンの引かれた窓がある。その窓の傍には、桜の木が一本立っていて、窓の近くの為、その開花の様をよく観察出来る。和歌葉はその小枝の蕾がいつ花開くかを毎年心待ちにしていた。

既に季節は三月。和歌葉は、そっとカーテンを引いてみる。窓の外の宵闇の中、外の街灯の灯りだけを頼りに、小枝に目を凝らしてみる。すると、夜の闇がその一部分だけ打ち払われたように、気の早い蕾が、街灯の灯りを受けて白く輝く、花弁を開かせていた。

窓の外の夜空を見上げてみる。一輪だけの花を纏った小枝の向こう、望月が浮かんで見えた。その組み合わせは否応なしに、和歌葉にあの、桜月と「お化け桜」の下で再会した夕暮れの事を想起させた。和歌葉は耐え切れなくなり、カーテンを閉め、毛布を被る。

『佳織の気持ちは、本当によく分かる・・・私を愛してくれてるからこそ、私が桜月の霊障でこれ以上、体を蝕まれないように私が桜月に会うのを止めたい事も・・・。

でも、私が行かなかったら、あの子は・・・またあの池の畔で、「お化け桜」の下で独りぼっちになってしまう。もうすぐ無くなる「お化け桜」の下で一人、桜月に最期を待たせるなんて、そんなのは絶対、嫌・・・。だって、私は、あの桜に最期の時が来るまで、傍にいるよって、あの子に誓ったんだから・・・』

この決断が、佳織の言うように、桜月の纏う霊力で、更に和歌葉の生命力を削り取り・・・死に近づけてしまうと知っていても、あの池の畔の桜の下で、桜月が一人、自分をいつまでも待っている姿を考えれば、とても耐えられない。

「佳織・・・ごめんね・・・私は、やっぱり桜月を裏切れない・・・」


昨日の和歌葉は、随分と具合が悪そうだった。自分の目の前で、急に意識を失って倒れ込んだのを見た時は衝撃が走った。何とか意識を取り戻した後も、顔色は非常に悪くて、自力で歩くのもやっとという様子だった。

桜月は、今日も、池の畔に佇む「お化け桜」の下で、一心に和歌葉を待っていた。

昨日はすぐに帰ってしまったが、今日も、必ず和歌葉は自分の元にきてくれる筈。だって、彼女は自分に約束してくれたのだから。

数十年前、自分と、「満開の桜の下、一緒に入水しよう」と約束を交わしながら、逃げて、自分を置き去りにしたあの女とは、和歌葉は違う。彼女はきっと来てくれる・・・。

名前も顔も全て霧がかかったような、あの、自分を捨てた女の事を思い出し、今尚残る無念に唇を噛み締めつつ、桜月は只管に和歌葉を待った。頭上の、桜を見上げれば、既に二つ、三つと蕾が開き始めている。この池で入水して自分が死んでから、桜の花の開花をここで見るのも、何十回目になるか、もう思い出せない。

そうした中、木の葉を踏みしめる足音が聞こえた。桜月は顔を上げ、耳を澄ます。

あの足音は、間違いない。和歌葉の足音だ。

やがて、桜月が待ち望んでいた、彼女が姿を現す。

「和歌葉・・・!!」

桜月は嬉しさのあまり、声を上げる。そして、「お化け桜」の下から、和歌葉に向かって走り寄って行こうとした。こちらに向かって歩いて来る、和歌葉の元に。

と、その時であった・・・。桜月が、予想だにしなかった「招かれざる客」が乱入してきたのは。

「待って、和歌葉!!あそこに行っては、彼女に近づいては駄目!!お願い、止まって!!」

笑顔で、和歌葉を出迎えようとしていた桜月は、次の瞬間、こちらに向かって来ていた和歌葉に後ろから、一人の少女が飛びつき、その体を後ろから羽交い絞めにする光景を目撃した。

「か、佳織・・・!!どうして、ここに・・・」

「和歌葉が、もうここには近寄らないかどうか心配だったから、また後をつけていたのよ!!そうしたら、やっぱり、この『幽霊池』の方に向かっていたから、止めなきゃって思って、急いで追いかけてきた・・・。お願い、和歌葉!!目を覚まして!生きている貴女が、幽霊であるあの子の事をどんなに思っても、結ばれる事はない。そればかりか、和歌葉の命がどんどん削られて、このままじゃ本当に死んでしまうわ!早く、一緒に帰ろう!」

「い、嫌!!あの子に、私は約束したんだ、この場所が無くなってしまうまで、残された時間は桜月の傍にいるって!だから、桜月のところに行かせて!」

突然の事態に、桜月は何が起こったのか、見当もつかなかった。ただ、いきなり現れた、和歌葉と同じ年頃に見える少女が、和歌葉がこちらに来るのを懸命に止めようとしているのだけは明らかだった。つまり、自分と和歌葉の、残り少ない時間を、誰か知らないがあの少女は邪魔している。

気付いた時、桜月は、あれだけ、使うまいと自制を利かせていた筈の霊力を行使していた。花弁を纏った突風を吹かせ、和歌葉を必死に羽交い絞めにしていた、あの少女へとぶつけた。

「きゃあっ!!」

急に乱入してきて、自分と和歌葉の時間を邪魔立てしようとした彼女に、一瞬にして桜月は理性を失ってしまっていた。彼女は、和歌葉から引き剥がされ、地面に叩きつけられた。

「えっ・・・!!佳織!」

突風を正面から受けて、地面に突き飛ばされた、佳織と呼ばれた少女は、土で顔を汚し、手を擦り剥いていた。霊力を使う時、桜月が咄嗟に力加減を加えたからか、佳織の怪我は大した事はなかった。

「しっかりして、佳織!大丈夫⁉」

驚くべき事に、和歌葉は、自分と和歌葉の大切な時間を不心得にも邪魔立てしようとした、あの佳織という少女の元へ駆け寄った。倒れている佳織を和歌葉は抱え起こし、揺さぶる。佳織は、すぐに目を覚ました。

「う、うん・・・大丈夫・・・。ちょっと、いきなり風が真正面からぶつかってきて、転んだだけだから・・・、痛っ!」

スカートの下の足を、落ちていた石で切ったらしく、佳織の足からは血が流れている。

その二人を・・・取り分け、佳織の方を険しい眼差しで睨みつつ、桜月は冷たい声で、警告した。

「私と和歌葉の大切な時間を、いきなり乱入してきて、台無しにしようなんて、貴女、一体どういう魂胆・・・。さっきは、咄嗟に理性で力を緩めて風をぶつけたけど、これ以上、私達の邪魔をして、私を怒らせたら、貴女の命なんか、簡単に奪えるんだから・・・。貴女、一体、誰かしら?」

桜月の詰問に、和歌葉の腕から身を離した佳織は、一歩も引き下がる事なく、決然と桜月の方を睨み返してきた。そして、恐れる様子もなく、こちらに歩いて来る。

「私は、高千穂佳織・・・。月代和歌葉の小さい頃からの幼馴染で、そして・・・貴女と同じように、和歌葉の事を愛してる者よ!」

佳織の言葉の最後の部分を聞いた瞬間に、桜月の周りを舞っていた桜の花弁達が、そのひとひら、ひとひらが小さな刀の切っ先のように鋭く、佳織の方へ一斉に向いた。しかし、和歌葉の見ている前で、霊力を暴走させる事はできない。桜月は、再び彼女に向きそうになった霊力を、必死に理性で抑え込む。

「和歌葉の事を愛してる・・・?貴女が和歌葉にどんな気持ちを抱いてるかは知らないけれど、和歌葉は、私の傍にいると約束してくれて、自ら進んでこの桜の下に、池の畔に来てくれているのよ?私が無理やり連れてきたんじゃない。私達は二人の意思でこうしてる。貴女にあれこれ言われる筋合いがあって?」

一歩も引き下がる事なく、佳織は叫んだ。

「あるわよ!貴女は、もう肉体の滅んだ、本当なら死者の世界にいなければいけない人間。和歌葉は、生きている人間。貴女は本来、和歌葉に近づいていい存在じゃない!それに貴女は知っているか、知らないけど、貴女の霊力の為に、和歌葉はどんどん体を蝕まれて、命を削られてるの。貴女にその意思がなくってもね!大切な和歌葉が、貴女の霊力で殺されるのを黙ってみていられる訳ないでしょう?」

その言葉に、目の前の佳織を、ただの人間の少女と侮っていた桜月に初めて動揺が生じた。自分の霊力が、和歌葉の生命を削っている・・・。

「で、出鱈目を言わないで・・・!私は、今まで、確かにこの桜の下、この池で沢山の少女達の命を手にかけてしまった。でも、和歌葉だけは・・・あの子だけは、小さい頃からずっと、この場所の事、私の事を大事にしてくれた・・・。その和歌葉の命を奪おうなんて事、私は絶対に・・・」

「も、もう、やめて・・・!!二人共」

その時、向かい合う死者と生者、桜月と佳織の間に割って入るようにして、ふらつく足取りで、和歌葉が、悲痛な面持ちで駆け寄ろうとした。しかし、次の瞬間、和歌葉は胸を押さえ込んで、地面に座り込み、激しく咳き込み出した。そして・・・次の瞬間、桜月は、和歌葉の、口を押さえた手の指の隙間から、鮮やかな赤い血が地面に零れ落ちていくのを目にした。

「わ・・・和歌葉・・・?どうしたの・・・?」

目前で起きている事態が呑み込めない。和歌葉は何度も咳き込んで、その度、血の雫が指の隙間から、零れ落ちる。佳織が急いで、和歌葉に駆け寄り、懸命に背中を摩る。桜月が、和歌葉の元に駆け寄ろうとすると、牽制するように佳織はこちらを睨みつけ、言い放った。

「和歌葉に近寄らないで!!これが、貴女のやった事よ!!貴女に、和歌葉の命を奪う気はなくても、貴女の霊力の為に、貴女と長い時間を一緒に過ごして、霊力を受けてしまったせいで、和歌葉の体はどんどん霊障に蝕まれてるの!もう、ここまで和歌葉の体は霊障を受けてる・・・。貴女が和歌葉と共に過ごせば過ごす程、和歌葉は死に近づいてるの!!」

佳織の言葉に、桜月は、茫然と立ち尽くした。桜月は、ただ、和歌葉が昔から、自分や、この場所の事を大事にしてくれていた事が嬉しくて・・・。だから、再会出来た時に、和歌葉が、この場所が無くなるまで、自分の傍にいると約束してくれた事を心から喜んで、それ以上は何も求めていなかったのに・・・。亡霊である自分の力は、共にいただけでも、ここまで和歌葉の体を蝕んでしまっていたというのか・・・。

「う、嘘よ・・・。私は、和歌葉と一緒にいたかった。この桜が切られて、もう和歌葉に会えなくなるまでの残りの時間を。ただ・・・それだけなのに・・・」

目の前で激しく吐血した和歌葉に激しく狼狽する桜月に向かって、畳みかけるように佳織は更に続けた。

「嘘なんかじゃない・・・。これが、亡霊である貴女が、生きている和歌葉と一緒にいたいと願ってしまった結果、起きた現実よ。私、言っておくけど、和歌葉を守る為に、もう会わせないから・・・桜月さんには。いえ・・・、春代さん、って呼んだ方がいいかしらね?」

春代。その名前を聞いた瞬間、桜月は、まるで地震のように、足元が激しく揺れるのを感じた。眩暈のように、視界が乱上下し、数十年の時を経て、最早霧の彼方に隠れたようになっていた、忘れ去りたい忌まわしい過去が、あの、自分を捨てた女の声が、入水する前の自分の言葉が鳴り響く。

『一緒に死にましょう、春代。満開の桜が、まるで花の絨毯を敷いたみたいに、水面を花で埋め尽くしている、桜の下の池で、オフィーリアのように、桜の花弁に囲まれて、二人、亡骸を浮かべるの。綺麗だと思わない?』

『どうして・・・?どうして来てくれなかったの・・・珠緒(たまお)・・・。私を、裏切ったの?』

桜月は、頭の中を暗い津波のように、忘れ去ろうとしていた最悪の記憶・・・自分が裏切られ、一人寂しく、桜の下のこの池に、入水したあの日の記憶が怒涛のように駆け巡り、姿勢を崩し、桜の根本に倒れ込んだ。

そうだ・・・自分の生前の名は、春代。そして、あれだけ、美辞麗句を並べた言葉で心中を誓い合っておきながら逃げた、女の名は珠緒。珠緒の顔までもが、霧が晴れたように数十年を経て蘇ってくる・・・。

桜月は、頭を押さえ込みながら、和歌葉を庇うようにして、すぐ近くに立っている、佳織の顔に目をやった・・・。そして、息を呑んだ。

その顔は、あの時、心中を誓った、珠緒の顔にそっくりだったから。

「あ・・・貴女は・・・まさか・・・あの女、珠緒の・・・」

佳織は頷く。

「そうよ。私の祖母の下の名前は、珠緒。私は、貴女との心中から逃げた、珠緒の孫娘よ」


佳織は、桜月が動揺している隙をついて、吐血が少し治まったもののまだ息を乱している和歌葉を肩に担ぐと

「和歌葉、逃げよう!!今なら、桜月は激しく混乱しているから、逃げられる!」

その呼びかけに和歌葉も、弱弱しく頷く。やはり、桜月の近くに来ると、特に霊障が激しくなるようだ。一刻でも早く、桜月のいるこの場所から、和歌葉を引き離さねば・・・。

そうして、二人は「お化け桜」の傍を後にした。

遠ざかっていく時、二人は脳内に直接叫んでくるような恐ろしい声で、桜月がこう言っているのが聞こえた。

「和歌葉・・・いかないで・・・行かないでよ!!そして・・・珠緒の孫娘・・・私の元に、和歌葉を返せ!!」

二人が振り返ると、桜月は完全に我を忘れたように、桜の花弁を竜巻のように周囲に吹き荒れさせ、池の水面を嵐の夜のようにかき乱しながら、セーラーの白リボンをなびかせ、泣くように叫び続けていた。こちらを追う余裕は今はなさそうだ。

佳織は、ぐったりと頭を項垂れさせている和歌葉に「家に着くまで頑張って!」と何度も声をかけ、反応があるのを確かめながら、和歌葉に貸した肩の痛みも気に留めず、歩き続けた。


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