透明人間になってみた

竹中凡太

透明人間になってみた

 ああ、彼がそんな不遜なことを考えるなどと、いったい誰が想像しただろう。彼は決して人よりも優秀な人間だというわけではなかったが、人並み以上の道徳心は持っていたし、世の中の常識に照らして十分に許容される範囲を超えて、周囲の人を不快にさせるような行動をとったことももちろんなかった。

 だが、そんな人間でも人生に一度くらいは過ちを犯してしまうことはある。たった一度の過ちすら起こさない人間のほうが稀なのだ。そのたった一度を、彼は、今まさに、犯そうとしていた。そう、ほんとうに魔が差しただけだったのだ。


「よう、ジョンいるかい?」

 暑いからか開けっ放しのドアを見れば不在でないことはすぐにわかったが、モノにはお約束ってものがある。そう声をかけながら、玄関ドアの内側を軽く2回ノックする。大学に入ってから初めての長期休暇。暇を持て余したオレは高校以来の友人であるジョンのアパートへ押し掛けることにしたというわけだ。

「サダか?ちょうどいいところに来た。入れよ。」

 部屋の奥からそう声が聞こえた。気の置けない間柄だ。勝手知ったる我が家のようにオレは部屋に上がり込んだ。部屋の中には変な機械や、薬品の入った瓶が無造作に置かれていておおよそ一般的な大学生の部屋には見えなかった。知り合った当時から変わった奴で周囲からは変人扱いされて煙たがられていたが、オレにとってその一風変わった言動は妙に心惹かれるものがあり、今日こんにちまで腐れ縁が続いている。

 ジョンは部屋の奥のデスクに向かって座っていた。オレはその脇のベッドの端に腰を下ろすとジョンに声をかけた。

「暇だろ?遊びにきたぜ。」

「いきなり訪ねてきたかと思ったら相変わらず失礼な奴だな。お前と違ってオレは暇などではない。」

 口ぶりほどには気に留めていないらしく、椅子ごとくるりと体の向きを変えてオレの方を向くと、さらっとした口調でジョンはそう言った。

「へぇ。暇じゃないって、それじゃ何をやってたんだよ。」

 オレも何かの意図があって聞いたわけじゃない。話の流れからしてなんとなくそう聞いただけだ。

「フム。いい質問だ。大学生になったことだし、発明を何か一つ形にしてやろうと思ってな。研究中さ。」

「発明って、いつものあの夢物語みたいな変なアイデアのことか?」

 ちょっとからかってやろうという思惑もあってそう言ったのだが、ジョンはオレの誘いには全く乗ってこなかった。

「いいところまでは来ているんだがな。」

 そう言って、デスクの脇の棚のほうへ視線をちらっと向けた。つられてそっちを見ると、理科室あたりでよく見かけるフタ付きのガラス瓶が置いてあった。ラベルには『試薬13号』と書かれている。入っているのは透明の液体だ。

「アレかい?ありゃ、何なんだ?」

「透明になれる薬さ。」

「『とうめい』ってあの透明人間とかってやつの?」

 昔からよくネタになるやつだ。透明人間になったら、何をするってね。

「そうだ。動物実験の段階では成功している。完全な透明状態になるので、そこにいることを認識するのは完全に不可能だった。人体に対しても毒になるようなことがないってことまではわかってる。」

「おいおい。ホントかよ?」

 ジョンが、まるで晩御飯のおかずの話でもするかのようになんでもない口調でそう言うので、オレは半信半疑でそういた。いや、訂正しよう。9割9分がただと思いながらそういた。

「百聞は一見に如かずだ。よく見ておけよ。」

 ジョンはそう答えながら『試薬13号』と書かれた瓶をデスクへと持ってくると、デスクの引き出しからピペットと小さなバットを取り出した。バットの上に瓶を置き、小さなピペットで薬品を少しだけ吸い取る。そのピペットをバットの上に置くと、今度はデスクの脇においてあったケージを取り出した。中にはちっちゃなハムスターが一匹入っていた。

「マウスよりも入手しやすくてね。世話もそれほど面倒じゃない。」

 間をつなぐように、さして重要でもない解説をつけながらハムスターを優しくつかみ上げると、ピペットに吸い出してあった薬品を少量口に流し込む。

「よく見てろよ。」

 しばしオレとジョンは無言のままハムスターを見つめていた。すると、果たしてハムスターの体の色が少し薄くなってきた。その体が透けてジョンの手のひらが見えるようになってくる。

「おお!?」

 オレは思わず声を上げた。まさか、ホントに効果があるとは・・・。今やハムスターは完全に消え失せて、ジョンの手が何かをつかみ上げるパントマイムでもしているかのようにしか見えなくなっていた。今、目の前で起きたことが本当なら、ハムスターはまだジョンの手の中にいるはずだった。ホントかな。確かめてみるに限る。

 オレはハムスターがいたあたりにそっと指を伸ばすと指先に生暖かくも柔らかな毛の感触を感じた。

「どうだ?いるだろう?」

 オレがハムスターを指でつついて存在を確認するのを待っていたかのように、ジョンはそう言った。

「ウン。いた。」

 オレはきっと阿呆みたいだったに違いない。端的にひとことそれだけ言い終わると、ようやく現実を飲み込むことができるようになってきた。透明人間になれたら、どうする?友人同士のたわいもないバカ話のネタであるはずだった。スパイ映画さながらの隠密行動ができるだの、映画がタダで見放題になるだの、くだらない話で盛り上がったわけだが、やっぱり男なら誰しも一度は妄想する使い道ってやつがある。それが今オレの目の前にある。最近、昔の文化や風習を楽しむ、という娯楽が若者の間ではやっていた。奇しくも、オレのアパートの近くにも、銭湯という大規模な入浴施設がオープンしたばかりだった。フム、これはチャンスだ。

「サダ、バカなことを考えるなよ」

 ジョンは、そんなオレの考えを見透かすかのようにクギを刺した。

「こいつはまだ完成してない。」

 と、その時ちょうどジョンの電話が鳴った。ジョンは軽くオレのほうに視線を向けたが、すぐにくるりと背を向けると電話に出た。しばらく何か話していたようだったがやがて電話を置くとこう言った。

「すまんが、ちょいと急用だ。10分ほどで戻ってこられるから、少し待っててくれ。いいか、くれぐれも変な気は起こすなよ。」

 ジョンはそう言い残すと、部屋を出ていった。手持ち無沙汰になったオレはしばらくおとなしくしていたが、どうしても気になって仕方がないものがあった。言わずとしれた、あの透明になれる薬だ。オレはさっきのハムスターを思い出していた。どこからどう見ても、ジョンの手のひらにいるとは思えなかった。完全に透明だった。ホントにあそこまで透明になれるならば、絶対バレない。きっと誰にも気づかれずにに潜り込める。オレの頭の中から『試薬13号』を追い出すことはもはや不可能となっていた。

 ジョンの部屋の時計に目をやると、ジョンが部屋を出て行ってからまだ数分しかたっていなかった。ジョンはまだしばらくは戻ってこない。今だ、今しかない。そして、オレは変な気を起こした。


 オレはジョンの部屋から『試薬13号』を持ち出して、自分の部屋に戻ってきていた。たとえ、体が完全に透明になっても着ている服まで透明になることがないだろうことは簡単に予想できる。自分の部屋で薬を飲み、完全に透明になったことを確認してから衣服を脱いで、銭湯に向かえば誰にも気づかれずに済む。そろそろジョンも部屋に戻ってきていて、試薬とともにオレがいなくなっていることに気が付くだろう。のんびりしていてはチャンスを逃す。

 オレは持ってきた瓶のフタをとり、ちょっと舐めてみた。味はしないようだし、不快な感触もなかった。ちびりと飲んでみる。鏡に自分の顔を映しながら、手足を眺めてみるが透明になる気配はまだない。

 フム。人間はハムスターよりも体がかなり大きい。それなりの量を飲まないと効き目がないのかもしれない。と言っても、どのくらい飲めばちょうどいいのかなんて分かるわけがない。と、そこである可能性に気が付いた。ひょっとすると、この量だと人ひとりを透明にするには足りない、なんてことがあるかもしれない。そうなれば、この計画もオジャンだ。

 ほんの一時悩んだが、今は時間がない。毒を食らわば皿までだ。ジョンだって人体に害はないと言っていたじゃないか。オレは思い切って、瓶の中身をすべて飲み干した。実際にはほんの20~30秒程度だっただろうと思うが、オレにとっては長い時間が流れた。と、穴が開くほどじっと見つめていた手が、あのハムスターのように色が薄くなり始めた。みるみる透けて向こう側が見えるようになってくる。

「やった!」

 思わずオレは声を上げた。透けてきたことのほかには、痛みを感じるようなこともなく何も異常は発生していないようだ。どうやら薬は体の末端から中心部に向かって効果が表れてくるらしい。手と足の先から体にむかって透明な部分が徐々に広がってきていた。今や、手の先は自分にも完全に見えなくなっていた。完璧じゃないか。

 オレは思い通りの展開に完全に興奮していた。一度、効果が表れ始めるとみるみる体中に効果は広がり、やがて、鏡に映っている自分の首から顎にかけて、透明になり始めていた。

 オレは目を凝らして鏡の中に意識を集中した。最後に残った顔の部分が徐々に透け始めている。と、はたと気がついた。物の見え方がおかしい。いや、視界がだんだん暗くなってきている???

「何が起きた!?」

 誰もいない部屋でそう声に出してみた。だが、症状が治まることはない。いつの間にか、真っ暗な部屋の中で目を必死に凝らして鏡を見ているような、そんな状態になってきていた。そして、かろうじて見えていた鏡の中の自分はますます透明になっていき、それにつれて視界もますます暗くなっていく。そして、とうとう、完全な暗闇が取り囲み、何も見えなくなった。

「なぜ?何が起きた?一体どうなってるんだ?」

 オレは、事態が全く飲み込めずそう言ってみたが、当然事態が好転することなどなく、誰かが何かを言ってくれることもなかった。理解不能なことが起きている恐怖が体中に満ち始めていた。必死で頭を働かせようとするが、恐怖がそれを妨害する。お願いだ。誰か、何が起きたのか教えてくれ。。。


 ジョンが来てくれたのは、すっかり途方にくれてその場に座り込んで10分ほどもした時だった。その声はいきなり耳に入ってきた。

「だから、変な気は起こすなって言ったんだ。」

 おそらくは服を着たまま透明になっているオレをみて、『試薬13号』を飲んだことを確信したのだろう。ジョンがあきれているのはその声の調子から容易に想像できた。

「何も見えないんだ。お前、人体に害はないと言ったじゃないか。」

 この状況をもっともよく理解しているはずのジョンの登場に地獄から救われる思いだったが、その反動か、果てしない怒りが込み上げてきてもいた。自分のしたことを棚に上げて、オレはジョンに抗議した。だって、こんな風になるなんて聞いてない。

「人体に対する毒性はないよ。それは間違いない。」

 ジョンはしれっとそう言った。

「ごまかすなよ。今、オレの目は見えなくなっている。真っ暗だ。視力を失っているんだぞ。」

「ああ、わかってるさ。真っ暗で何も見えないんだろう?想定範囲内だ。」

「何!?どういうことなんだ?」

 どうやら、これはジョンにとっては予想の範疇にあることらしいということだけは良くわかった。でも、人体に害はないのに、オレの目は何も見えていない?ダメだ。完全にオレの理解力を超えている。

「ジョン。お前の発明品を勝手に持ち出しことも、忠告を無視したことも謝るよ。この通りだ。だから、何が起きているのか教えてくれ。」

 オレは手のひらを返したように頭を下げた。今はジョンを頼るしかないのだ。カッコをつけても仕方がない。俺自身は透明だが、服をきているから何をしているのかは伝わるだろう。

「全く仕方のないやつだ。まあ、反省しているようだから、解説しよう。」

 ジョンはオレを許す気になってくれたようだ。一つため息をつくと説明してくれた。

「サダ、モノを見るっていうのは、目が光を受け止めているからこそ成立する身体機能なんだ。」

 オレの頭はこの状況下で働くことを拒否していた。ジョンがなにを言おうとしているのかよく理解できない。

「すまん。もっとわかりやすく頼む。」

「プロジェクタとスクリーンだと思えばいい。目の外からはいってくる景色がプロジェクタが投影している映像で、スクリーンが人の目だ。プロジェクタの光がスクリーンに当たるからそこに映像が投影されるわけだ。これがモノが見えている状態だ。」

「そこまではわかった気がする」

「サダ、今お前は全部がガラスみたいに透明になってる。なんとなせばガラスよりも完全に光を通過させてしまっている。当然、お前の目もそうなってるわけだ。プロジェクタの映像を投影する対象のスクリーンが光を完全に通過させる物質でできてたらどうなると思う?」

「スクリーンが透明になってるってことか・・・」

 オレはそこで完全に透明なガラスにプロジェクタで映像を投影している状況をイメージしてみた。

「光が通過しちゃうなら、その透明なスクリーンには何も映らない、ってことになるかな???」

 確信が持てないながらも想像してみたことを口にする。

「ご名答。」

 ジョンは短くオレの答えを肯定すると、続けて言った。

「今、お前の目は体と同じく完全な透明になっている。だから光を受け止めることができずに、目の外からはいってくる光景を全部スルーしちまってるってわけだ。お前の目にはなにも映っていない。これが何も見えない理由だよ。」

 今度はオレにもイメージができた。なるほど、そういうことか。からくりがわかると不思議と恐怖心も和らいできた。視力を失ったわけではない、という確信が持てたこともまたオレの心に安堵をもたらしていた。

「そうか。では、薬の効果が切れれば、視力も元に戻るってことだな。」

「まあ、そういうことだ。でも、お前あの瓶をまるごと飲み干したのか。」

「す、すまん。」

「いや、済んでしまったことは仕方がない。また作るさ。それはいいんだが、あの量を飲み干したとなると、向こう24時間はそのまんまだぞ。」

 一難去ってまた一難だ。

「ジョン、一応聞いてみるんだが、薬の効果を無効化する薬なんてのは・・・。」

「あるわけないだろ。」

 オレのわずかな期待を、ジョンは興味もなさそうにあっさりと否定した。

「ま、自業自得だな。24時間くらいなら飲まず食わずでも死にはせん。しっかり反省するんだな。」

「なんてこったい。」

 肩を落とすオレをどういう目で見ているのかはわからないが、ジョンは嬉しそうに言った。

「しかし、素性もよくわからない薬を一気に飲み干す無謀さといい、こんな状態にあってもヒステリーを起こさずにいられる精神力といい、大したもんだな。これからオレの発明品の最初のテストはお前に任せられそうだ。」

 オレはげんなりしたが、その表情はジョンには見えていない。今回の件はオレに非があることだし、今はジョンの助けが必要な状態だからあからさまには反対の声はあげにくかった。が、それでもオレは思わずポロっと一言だけつぶやいた。

「もう勘弁してくれ・・・」

 今後、ジョンが何か発明したとしても決して好奇心でそれを見に行くことだけはすまい。もう一つ。二度とスケベ心は起こすまい。オレは固く心にそう誓ったのだった。

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