人魚にえらはない

横嶌乙枯

人魚にえらはない

 



 透子が死んだという。

 

 切羽詰まった声で掛けられてきた城山からの電話で、それを知った。

 夏の終わり。蜩の声はいつの間にか止んで、陽が落ちていた。部屋が夕闇色へと溶け込んでいった。





 愛しい人だった。かけがえのない女だった。シングルボブが良く似合う、おとなしくて、本当に美しい人だった。

 サークルの皆と海に行って来る、と笑いながら話していたような気がするが、なにも強風の日に行かずとも良かっただろうに。彼女は大きな波に攫われたらしい。

 彼女と同じサークルの女子達の泣く声が電話の向こうから聞こえてくる。友人はしきりに落ち着け、と私に語りかけていた。普段の私があまりにも神経質だからだろう。この友人は私が何をするか分かったものじゃないと心中で危惧しているようだった。しかし、彼の心配は空回り、私は驚く程冷静だった。



「とにかく、状況を詳しく教えて欲しい」



 口が勝手に動いている。舌が驚くほど明瞭な言葉を紡ぎだした。言語野は私の思考を置き去りにしている。



「彼女は、透子は海で事故にあったんだな?」



 ──遺体は出たのか。


 そう問いただすと、獣の鳴き声とも、車のスリップした音とも区別できない、けたたましい悲鳴が電話口から鳴り響いた。思わずスマートフォンを耳から離し、顔を背ける。

 止んだ頃を見計らい、再び友人にどうなんだと話しかける。彼は何故か怒っていた。皆、動揺しているのだから安易にそのような事を言うな、だそうだ。今の耳障りな音は、泣きながらも背後で聞き耳を立てていたサークルの女子達らしかった。

 何もせず、ただ煩く泣き叫ぶよりは余程マシだと思う。そう言うと友人は呆れたような溜息を出して、一方的に電話を切った。

 

 液晶の光が落ちていくのを見つめる。


 己の胸に手を当ててみた。胸の中心が錐で刺されたようだ。小さな穴がゆっくりと、しかし暴力的なまでの荒々しさで虚を広げていく。喪失感が押し寄せてくるのを止められない。彼女が死んだ事実を受け止めてしまっている私がいる。自分が現実主義者であったことをこれ程後悔した瞬間はない。

 いや、まだ、死んだと決まった訳じゃない。もしかしたら今この瞬間にも、彼女は救助されているかもしれない。

 例え、彼女達が行った地方の海が大時化で荒れていたとしてもだ。本当、何故そんな海に入ったのか。君はあんな馬鹿連中とは違うだろう。君はそこまで馬鹿じゃなかったはずだろう。なぁ、透子。


 些細な希望を持つだけ、空しさに犯される。しかし、心に保険を掛けておかないと、最悪の状況を覚悟しておかないと。

 いざその場面に立ち会った時、正気を保っておけるかどうか自信がない。私は、こんなにも臆病なのだから。


 次に彼女に会う時はきっと、哀れな水死体だろう。


 酷く眩暈がした。万年床の布団に倒れこむ。埃が舞い上がろうと、手に持ったスマートフォンが何処かへ飛んで行こうと、もう、どうでもいい。


 不意に風が立てつけの悪い窓を揺らす。空は既に赤みが少なくなっていて、上方が藍色に染められていた。

 窓の外には電線が楽譜のように引かれている。一匹、こちらをじっと見ている鴉がいた。どこまでも真っ黒な虹彩が私を映していた。

 その大きな嘴を少しだけ開いてみせる鴉。


 泣けない私の代わりに、カア、と一声だけ鳴いてくれた。




 ◇




 透子の葬式は静かに執り行われた。遺体は未だ見つかっていないので密葬という形になった。透子の遺影には、穏やかに笑っている姿の物が使われた。私にいつも微笑みかけてくれていたあの笑顔だった。


 私は自分に嘘を吐いた。実感なんて湧くはずもない。魂の抜け落ちた、彼女に良く似ている肉塊でさえここには無いのだから。故人を偲ぶ儀式がとんだ茶番に思えて仕方がなかった。


 彼女の両親への挨拶もそこそこに、私はさっさと会場を出て、自宅である築四十年の安アパートへ帰宅した。

 着慣れない喪服を脱いでしまおうと、ネクタイを緩めジャケットから腕を抜く。一応、皺にならないようにとハンガーに掛けた。

 掛け方が随分と雑だったのだろう。洗面所に向かうその背後でバサリと服が落ちる音がしたが、無視した。


 眼鏡を外し、洗面台の棚に置く。蛇口を捻り、勢い良く流れ出てきた水で洗顔した。 暫くぶりに対面した己の顔は、二十歳前後の若者とは思えないほど憔悴しており、例えその本人の意識に無くとも、ここ五日間くらい碌に眠れていないことを雄弁に物語っていた。私は、その痩けた頬を指でなぞってみる。

 全く、何という顔だ。透子が見たら、きっと母親のように何か言ってくるに違いない。

 

 私は何気なく心中で呟き、そして愕然とした。

 

 私は、私は、また透子と会えると、私に会いに来てくれるとそんな期待を持っていたのか。

 あまりにも自然にそう考えていた。

 確信を持って、彼女を思っていたのだ。


 もう、どこにもいないのに。


 ふと、自分の顔が、疲れ切って濃い隈を作りながらもだらしなく弛緩しているように見えた。どことなく笑っているように見えたのだ。 底冷えする思いで慌てて顔を両手で覆い、洗面所を後にする。


 先程、音を立てて落ちた喪服が目に入った。それをそっと拾い上げる細い指が見え、驚いて顔を上げる。


「駄目じゃない、埃が付いてしまうわ。クリーニングに出さなきゃ」


 透子が穏やかな午後の日差しのような笑顔で、佇んでいた。ふと、彼女に手を伸ばすと足元の何かに躓き、目前に敷かれてあった布団に思いきり倒れこんでしまう。躓いた何かは、既に皺になった喪服だった。


 今のは、幻覚か。


 しっかりしろ、と自分の頭をガンガンと叩く。彼女はもういないんだ、そう言い聞かせた。


 そして、今度は玄関の方で音がした。


 ノックと思われる連続した控えめな音がアパートのドアから響く。


 息が荒くなる。汗の冷たさだけが私の正気を証明してくれる。覚束ない足取りのまま震える手をドアノブに掛けた。



 彼女が花を抱えて、やって来た。



「浩也さん」


「……透子」


 やけに小奇麗な服を着て、こんな安アパートには似合わないような出で立ちで透子はそこにいた。 彼女の周りだけ仄かに光を発しているように見えた。


「どうしたんだ、その花」


「ミニコンサートの打ち上げで貰ったの。見せびらかしに来たわけじゃないわ。貴方の部屋にどうかと思って。ねぇ、見て」


 まるで海の色ね。と青い薔薇が印象的な花束を私の鼻先へと突き出してきた。生々しい花の匂いが顔面にぶつかって、くしゃみが出そうだった。


 透子は中高とフルートを吹いており、大会で入賞するほどの腕前だった。大学に入ってもそれは趣味の範囲で続けられていた。時折、有志の学生達でアンサンブルのミニコンサートが行われているらしく、彼女はその常連だった。


「とりあえず、上がりなよ」


 透子を部屋に招くと、彼女は流れるような所作で靴を脱ぎ、キッチン下の収納スペースにある母が置いて行った花瓶に持ってきた花を生けた。透子は時折私の部屋の掃除をしてくれる。頼んだ訳でもないが、そこらじゅうを引っ掻き回すようなデリカシーのない掃除のやり方ではなかったので、それに喜んで甘えていた。


 花瓶を出す彼女の姿を見て、私の部屋のどこに何があるのかすべて把握しているのかとほんの少し彼女が怖いと思ってしまった。


「窓開けてもいい?」


 部屋の中が埃っぽいということを遠回しに言っているのだ。頼む、と一言呟いて気づいた。私の部屋の窓はとても立てつけが悪く、開け方にはコツが必要だった。自分がやるから、と立ち上がる前に、彼女はいとも容易くその窓を開け放っていた。


「……どうしたの?」


 不思議そうに見つめてくる瞳が、どこか子供っぽく思えた。抜けるような青空が彼女の背後に広がっている。まるで深海にも似た空の向こうへ消えてしまいそうな彼女の透明感に圧倒される。手を伸ばせば、細い指が呼応するように伸ばされ、絡みついて、俺の中指をか弱く握ってくる。

 彼女を現世に留めているのが自分の存在であるような錯覚に陥る。

 愛おしくて、愛おしくて、いっそ殺してほしかった。


「透子」

「なあに」

「結婚しよう」

「まだ早いわよ」


 変な浩也さん、そう言って彼女は困ったように笑った。




 ◇




 また、意識が覚醒する。


 六月の曇天のような色をしているドアが私の前に佇んでいた。ドアノブを握ったままの形で固まった指の関節を、一本一本無理矢理外す。 振り返ってみれば、窓は閉められたまま、花の活けられた花瓶は無い。透子なんてどこにもいない。

 彼女と同じように窓へ歩み寄り、立てつけの悪いそれを上下に揺らしながら開け放った。ぽっかりと空いた胸の虚を、風が通り過ぎていくような感じがした。

 次の日、私は銀行へ走り、今までバイトで貯めた貯金を全額卸してきた。その札束の入った封筒を持ってまた走り、アパートを引き払った。少ない荷物を小さなリュックに詰めて背負い、彼女と過ごした街を出た。

 地方へ行く鈍行に乗り、暫くの間、線路の上を走るその重厚なリズムに耳を傾けていた。


「海に行きたい」


 アスファルトは水滴で色を変えており、黒にも近い色に雨粒の波紋を絶えず刻んでいた。傘を差しながらじっと地面を見ていた彼女が、思い出したかのように呟く。思わず足を止め、透子をまじまじと見つめた。

 どうやら透子には並々ならぬ海への思い入れがあるようで、それが春であっても冬であったとしても、とりあえず希望を口にするのだ。


「またそれか。君はもしかして、前世が魚だったんじゃないのか」


「それもいいわね。でもどうせなら、人魚姫だったっていう方が素敵だと思う」


「最期には泡になって消えるのに?」


 そう言うと、透子は傘を持った手を器用に交差させ腕組みをしながら唸る。


 ──ドラマチックな人生を送るのならそれも仕方がないのかもね。


 そう朗らかに笑った。雨は、もう止んでいた。




 ◇




 どうやら少しの間、私は眠っていたらしい。首を巡らせ車窓を見ると、太陽を照り返す海があった。やがて電車が停止し、車内のアナウンスに耳を傾けると、目的の駅に到着したことが分かった。


 電車を降り立った途端、潮の香りが鼻腔を擽った。ここが、透子がサークル仲間と共に来た海である。先週、透子の死を知らせてくれた友人に連絡を取り、彼女の死ぬ直前の行動を聞き出したのだ。


 海岸線沿いをゆっくりと歩き始める。海、と聞いて私は沖縄のような入道雲があり、珊瑚礁があり、と目にも鮮やかな色合いを想像していたのだが、予想に反して、この田舎の海は酷く濁った色をしていた。かろうじて太陽を反射させているが、その色は青とは言い難い。


 平日だからか、または海難事故があった為か、砂浜には誰一人としていなかった。


 自動車の排気ガスと潮の匂いが入り混じって、息を吸い込む度にむせた。酷い所だ。透子は良くこんな場所へ来たいなんて思ったもんだ。

 そんなことを考えていると、ふと海岸が見えなくなり、小さな林の入り口が忽然と現れた。何気なくそこの小路に入ってみる。

 木漏れ日が差し込んでおり鳥の声が木霊していた。不思議と、ボロボロのスニーカーを履いた足が、その奥へ奥へと歩を進めていく。



「浩也さん、写真が好きなの?」


 透子が私に問う。


「いや、こういう田んぼとか森とか、そういうのばかりが好きなんだ。懐かしい感じがする」


 彼女は私の手から雑誌を取り上げ、私が良いと言ったほぼ緑一色のプリントをしげしげと見た。 ページの表面がてらてらと喫茶店の照明を反射させていて、少し眩しかった。


「綺麗ね。うん、言われてみれば故郷って感じするかも」


「でも、君は海が好きなんだろう?」


 そうね、と彼女は照れたように笑う。

 そこまで海の何がいいんだ、と聞くと、彼女は答える。


「貴方と同じよ。懐かしい感じがするの。だから惹かれるのかも知れない」


 私は、透子が人魚になって真っ青な海中を泳いでいる光景を思い浮かべた。魚と会話をし、珊瑚の髪飾りを付け、自由自在に、泳ぎ回っている姿を。彼女が見上げると、遥か彼方に揺らめく太陽が見えるのだ。


 それは、とても美しいのだろう。


 前世、透子は人魚だったのだ。




 ◇




 小路を進めば、視界が開ける。


 そこは崖だった。下方で波の打ち付ける音がする。やはり眼前には海が広がっていた。

 潮風に吹かれ、流した汗が引く。思わず眼鏡を外し目元を拭う。元々海なんかには片手で足りるほどの回数しか来たことが無かったので、慣れない潮風が目に沁みた。


「待ってたぜ」


 聞き慣れた声がした。

 弾かれたようにその方向を向けば、青年が近くの岩に腰かけていたのだった。浅黒い肌をした彼は、憮然とした表情で私を睨みつけていた。

 透子の死を知らせてくれた友人だった。


「……」


 何故ここに、という問いを投げかけるのも馬鹿らしく、彼の視線に応えるよう眼鏡の奥から見下した。


「何するつもりだったんだ、浩也」

「聞いてどうする」

「事と次第によっちゃ、止める」

「お前にそんな権利があるとでも」

「あるに決まってんだろ」


 高校生の頃から、この城山という男が苦手だった。いつもやけにはつらつとしていて、暑苦しいといった言葉がよく似合った。いつも図書館で本を読んでいた、陰鬱とした私とは普通に考えて相容れないはずなのだが、この男、人に構いたがる悪癖があり、私はそのターゲットにされていたのだった。

 同じ大学を受験したと聞いたときはどうか落ちてくれと何度星に願ったことか。


「傷心旅行にしちゃ場所が悪すぎるだろ。透子ちゃんを探す格好にも見えねぇしな」


 さらに、動物的直感とでもいうのだろうか、恐ろしいほど勘が鋭いところがあり、それを含め、この男が私は苦手だった。

 元々、人より愛想が無い私が不特定多数の友人を作ることは無かった。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、物静かな奴ばかり周りにいたというのに、この男はその空間にずかずかと侵入してきたのだ。

 城山が透子と同じサークルに入ったときも、そうだった。お前の大事なお姫様をお前が見てない間も守ってやらなきゃな、なんてふざけたことを抜かして。



「人魚姫ってこんなに悲しい物語だったかな」


 手元の児童用の絵本を見ながらポツリと呟いた言葉に、参考書を開いていた透子が反応する。


「泡になって消えるところ?」

「いや、一切報われないところ」


 首を振って答えると、彼女は首を傾げてさらに説明を求めた。


「せっかく人間にしてもらったのに声を奪われて、王子に愛の言葉さえ伝えられない。ナイフで刺されるような足の痛みに耐えて王子の元に駆け寄っても、その腕の中には違う女がいる。あんまりじゃないか」

「そうね」

「まぁ、姉達が美しい髪と引き換えにして短剣を寄越してくれたのに、王子の心臓を刺せないのも馬鹿らしいけどな。俺だったら、躊躇無く刺すよ」


 珍しく喋るのね、と透子はコロコロ笑う。君ならどうする、と聞くと彼女は当然だとでもいうように即答した。


「姫と同じ選択をするわよ」

「もう王子の気持ちは、自分には向いていないのにか?」

「そうね、自己満足かもしれないわ。でも、愛した人には幸せになってもらいたいじゃない。死なばもろともなんて、愚かよ。そんなの嫌。独りよがりでも、その人には生きていてもらいたいの」


 前世に人魚だった透子は、胸に手を当てて答えた。




 水葬、という言葉が頭を過ぎった。自然葬の内の一つ。そのまま死体を土中に埋める土葬。死体を燃やす火葬。禿鷹や禿鷲などの肉食鳥に処理をさせる林葬。


 そして、死体を海や川に沈める水葬。


 透子は、海で死んだ。しかも、遺体はまだ発見されていない。


 しかし、彼女が人魚であったならば、水葬という言葉は当てはまらない。透子はかつて生きていた場所に還っただけなのだ。


 今頃は、憧れ、懐かしんだ海で悠々と泳いでいるのではないだろうか。


 そう。透子は、還っただけだ。




 ◇




「人魚姫ね。俺は前から不思議に思っていたんだけどよ、あいつ等は上が人で下が魚だろ。どうやって呼吸してんだろうな」


「えらもないのに」


 城山に透子のことを洗いざらい話してしまうと、彼はそれだけを簡潔に述べた。

 城山の言葉で、自分の中の何かが壊れた気がした。


 そうだ。彼女は人間であっても、人魚であっても、海の中で呼吸なんてできないんだ。


 彼女が憧れの存在になってみたところで、その先に待ち受けているのはやはり冷たい現実だった。


 自分の中の透子がその美しい姿を崩れさせる。優しい微笑みは見る影もなく、風化していった。


 透子は海へ還ったのだと勝手に思い込み、己を騙していたのだ。私は、私は、何が現実主義者だ。逃避もいいところだ。くだらない幻想に夢を見る前に受け止めるべきだったんだ。彼女はもういない。


 明らかに顔色を変えた私を見て、城山は怪訝な顔をする。


「……行かなくては」


「は? どこに」


 透子の元へ、と譫言の様に呟けば彼はますます顔を顰めさせた。ふらふらと崖の淵に行こうとする私の腕を掴み、耳元で訴えかける。


「もうやめようぜ、いい加減さ。透子ちゃんはもう」

「もう、いないって言うんだろう」

「違う。もう、死んでるんだよ」


 そんなことは、言われなくても分かっている。

 そう叫びたかったのだが、喉の奥で言葉が蟠り、声が出せない。腕を掴む城山の手が熱い。不快だった。


「天国なんざ無い。人は死んだら終わりだ。お前の彼女はそこにはいない」

「煩い! 天国なんて知らない、彼女の元へ行かないと、俺は、俺は、俺は! ……彼女に謝らないといけない」

「だから、落ち着けって。何を謝るんだよ?」

「それは――」


 喉の詰まりが取れない。言葉に表そうとすればするほど、私の声は胸の虚に飲み込まれていく。

 彼女は人魚などではない。以前、私が茶化して言った魚でもない。人間だったのだ。


 下らない幻想を思い描き、記憶を改竄してまで私は彼女に縋りたかった。

 

 えらの無い人間は、海で生きてはいけないというのに。


「あぁ、もう。勝手にしろ。いっそここから飛び降りたらどうだ。少しは頭が冷えるだろ」


 城山は面倒臭いとでもいうように、私の身体を乱暴に離し、林の小路の方へ突き飛ばした。力無く尻餅をついた私はもう、彼なんて見てはいなかった。その後ろに見える鈍い色の海を、虚ろな瞳で捉えた。


 あぁ、その通りだ。一刻も早く彼女に会わなくては。詫びなくては。


「……そうさせてもらう」


 言うや否や立ち上がり、軽く助走をつけ、地面を強く蹴る。突然の私の行動に面食らった城山は、手を伸ばす。だが、その手は空を切り、私を止めることはできなかった。


 城山の驚愕に満ちた顔、ところどころ植物の生えた岩肌。それらが見えたと思えば、私の身体は海の中へ沈んだ。














 ◇





 水泡の球体は歪であれど、こんなにも美しい。


 飛沫を浴びて迷い込んだ、生命の蠢く母なる海。私はもう一度、母の胎内にいるのだ。


 ゴポゴポと耳元で泡の流れる音がする。遥か上方の水面にはたった一つの太陽が煌めき揺らめいていて、優しく私を光の帯で包んだ。酷く暖かい。


 衣服は海水で重くなり、体は底へ底へと沈み込んでいく。しかし、私の心は静まり返り、死への恐怖など微塵も感じなかった。私は死ぬのではない。透子に会いに来たのだ。そして、彼女にただ一言謝りたい、そう思って、ここへ来た。


 愛しい人がまるで縋りつくように、私の背にぴったりと抱きついている。彼女が私と共にいたいと願うのであれば、喜んでそれを受け入れよう。それが二人の願いであるならば、こんなに素敵なことはない。


「透子、」


 ゴポリ、また耳元で音が鳴る。


「すまなかった」


 彼女に向けそう言うと、口を開いた拍子に肺に海水が流れ込んでくる。不思議と苦しくはなかった。心地のよい午睡をするかのように私は目を閉じる。


 穏やかだ。彼女が傍にいるからだろうか。もうこの先、決して辛いことや悲しいことはないと、そう思った。このまま意識を手放してしまえば、彼女と私はずっと共にいられるのだ。




「だめよ」




 聞き慣れた声が朦朧とした意識を覚醒させる。


 途端に息が苦しくなり、もがいた。背を力一杯押され、私の身体は海底から遠ざかって行く。待ってくれ、頼む。力を振り絞って首を巡らせ、彼女を探す。


 母なる海はどこまでも暗く冷たく、私を拒絶していた。何物も寄せ付けない最深部の暗がりに彼女はいるのに。どうしても、身体は己の意に反して上昇していく。嫌だ、いやだ、いやだ。離れたくない!


 一生懸命に手を伸ばせば、彼女の優美な細い手に触れることが出来た。柔らかく握りこめば、透子の肌理細やかな質感が掌に伝わってくる。


 お願いだ、私ともう一度……。


 手の甲に爪を立てられ、鋭い痛みに怯んで、思わず手を引いてしまった。


「何故だ。何故一緒にいられない!」


 彼女に向けてか、運命に向けてか。そう叫ぶと透子は猫目を細め、私に呟いた。



「―――――」



 そこにはもう、誰もいなかった。











 ◇




「本当に飛び込むやつがあるか、馬鹿!」


 短髪から海水を滴らせた城山が溜息と共に言った。お互いの身体は砂に塗れ、酷い有様だった。


 彼が話すところによると、私が崖から故意に落ちてから、急いで近くの砂浜へ降りると、遠くの海面に腕らしきものが見えたので、慌てて飛び込み、思い切り引き上げたのだという。


「そりゃ唆すようなことを言って悪かったと思ってるけどさ、本当に飛び込むやつがあるか……」


 ブツブツと何事か言い続ける城山を黙殺し、目を閉じる。


 身体が重い。頭が痛い。潮が目に沁みる。ああ、くそ。『生きている』ということは『散々な目に合う』と同意義に違いない。


「――罰が下ったんだ」


 彼女の言葉を思い出す。憎い敵に呪いをかけるような声色だったのに、透子はとても泣きそうな顔をしていた。


 目蓋を緩慢な速度で、空に向けて開く。風に睫毛が震える。外側から見た海はあんなに濁って見えたのに、あまりにも澄んだ空が忌々しかった。


「命あっての物種だろ」


 城山が仕方なさそうに笑う。


 そう、これは罰だ。


 貴女のいないこの味気ない世界で生きることを、他ならない貴女に強いられた。母なる海より外に這い出た私は、もう一度この世に生を受けた。


 だから、私は生きねばならないのだろう。それが貴女の願いであるのならば。


 本当の最期の時は、貴女に抱きしめてもらえるだろうか。

 透子。




 ◇




 透子の遺体が発見された。


 海での一件から、二週間後のことである。

 透子の両親が私に連絡を入れてきたが、また例によって気の利いた受け答えができなかった。

 私は引き払ったアパートよりも駅に近い下宿に、今は住んでいる。


 下宿先に帰る途中、駄々を捏ねて泣き喚く幼児と、困った様子の母親の姿を見て、ふと海での一件を思い出す。


 あの日以来、城山には会っていない。大学には顔を出していないし、下宿の住所も教えていないから当然だ。どうせあの男はどこでも、誰と一緒でも元気にやっていけるはずだ。しかし、私は違う。


 もう一度この世に生を受けたような気持ちと言っても、透子を失ったという喪失感はすさまじいもので、ぽっかりと空いた穴の周りが黒く焦げ付いているようだ。


 やはり、彼女がいないと、生きる気力というものが起きない。いつまでもこんなことをうじうじと思っていたら、普段温厚な彼女でも、烈火の如く怒るのだろう。だからあの時も、私を拒絶したのだ。


「苦しい」


 ふと口をついて出た言葉が、頭蓋を反響する。

 空は鉛色を湛え、小さな雨粒を落とした。やがてその厚い雲を思い切り絞ったかのように、篠突く雨を建物や街を行く人々に容赦無く浴びせ掛けた。


 慌てて屋内に入る人々をよそに、私はただぼうっと動けずにいた。


 轟々と唸りをあげて降る雨は、弾丸になって私を貫こうとする。


 しかし、それは私の耳には聞こえない。自らの瞬きの音だけが鼓膜に響いている。 


 ――許さないわ。


 透子の唇は、あの冷たい海の中でそう動いていた。


 嫌になる程、目頭が熱い。喉の奥が締まって苦しい。


 眉間に皺を寄せると、降り注ぐ冷たい水とは温度の違うものが頬を伝う。




「透子ぉ」




 我ながら情けない声が出たものだ。頭の中の冷静な部分でそう思った。


 雨の街に立ち竦んだ、図体のでかい子供が派手に嗚咽を漏らしていようとも、それに声をかける者は誰もいない。私にとっては、好都合だった。


 大口を開けてわんわん泣くと、雨粒が口内に侵入してくるが、そんなものはお構いなしだ。今まで泣けなかった分を取り返すように、私は泣いた。 心細さを誤魔化すようにシャツの前を握りしめ、声の枯れるほど、泣いた。



 悲しい。

 寂しいよ、透子。

 何で置いていった。

 どうして私も連れて行ってくれなかった。



 そう思った矢先に厚い雲が晴れ、その円形に開いた裂け目から、光が差し込んだ。


 雨の音をカモフラージュに泣き声を上げていたのに、先に空の方が泣き止んでしまったようで、酷く裏切られた感じがした。


 毒気を抜かれてしまい、身体に纏わりつく服の不快感に気付いた頃。

 

 胸の虚に、小さなてのひらが押し当てられた感触がした。




 雨はもう止んでいた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚にえらはない 横嶌乙枯 @Otsu009kare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ