第5話 鵺退治・後編

 朝起きてあたりを見回すと、自分の部屋でなかった。その部屋の中では僕と同じように、子供たちがふとんにくるまって眠っている。親戚が泊まりに来ているのだ。僕も、自分の部屋ではなく、同じ部屋で眠るよう言い渡されていた。

 覚醒しきり、自己を意識したとき、まず初めに思ったのは祖母に会うことだった。

 僕はふとんから這い出て、祖母の部屋へと足を進める。

 しかし、祖母は部屋にではなく、庭で草花に水やりをしていた。

 祖母は僕に気づくと、「おはよう。狩月。目が覚めたのかい?」と尋ねた。


「ねえ、おばあちゃん」

「うん?」

「僕、悪夢祓いになりたい」


 僕の言葉に祖母は「おやおや」と目を見開かせる。


「どうやったら、悪夢祓いになれる?」

「ううん。悪夢祓いの定義はいろいろあるからねえ。知識も必要だし、度胸もいる。施術をおこなうための才格や、経験だって重要だ。それより、どうしたんだい? いきなり。昨日までそんなこと、言ったことがなかったじゃないか」

「そうだっけ?」

「そうだよ。相変わらず、お前は眠れば忘れちまうねえ。それだけ、お前にとっては、取るに足らないものだったろう、悪夢祓いは」

「おばあちゃんのことはすごいと思っていたよ」

「ありがとう」祖母は微笑んだ。「それで、どうして悪夢祓いになりたいと思ったんだい?」


 祖母の問いかけに、僕は「なんでだっけ」と呟いた。草葉を瑞々しくきらめかせる朝日や、微笑ましい雀の囀りを感じながら、ぼんやりと意識をさまよわせる。


「……呆れた子だねえ」


 祖母はどこか寂しそうに言ったけれど、思い出すことを諦めた僕は、なんとも思わなかった。


「それで、おばあちゃんみたいにすごくなるには、僕はまずなにをすればいい?」

「そうだねえ……じゃあ、眠ってる子たちを起こしてきてくれないかい? 水やりを手伝ってほしいんだよ」

「それって悪夢祓いに関係ある?」

「夢から現実へ目を覚まさせてあげるのも、悪夢祓いの仕事だよ」


 なんとなく煮えきらなかったけれど、祖母がそう言うので僕は部屋へと戻る道を歩んだ。

 これが、夢を見ない僕が夢見るようになった最初の記憶だ。もちろん、そんなこともきれいさっぱり忘れてしまっていたけれど、僕はその日、そんなことを、思い出したのだった。






 鯱先輩の悪夢を祓うことができなかった。

 結局、あのあと、猟ヶ寺は鯱先輩を僕に預け、去っていった。気を失った鯱先輩を保健室で介抱しているあいだ、僕はずっと後悔していた。

 ひとの心を知りたくて、鯱先輩に共感してしまって、そんな身勝手な感情で判断を誤ったせいで、鯱先輩を危険な目に遭わせた。挙句、自分の手には負えなくなってこのざまだ。ぽつぽつとあぶくのように、怒りだか悲しみだかわけのわからない気持ちが湧いて、どうしようもなかった。

 いっそ猟ヶ寺まで恨んでやりたかったけれど、彼女の行動は理に適っている。僕が誤っていたから忠告して、力不足だと判断したから自ら処置した。悪手だったのは僕の心理にほかならず、誰かに責任を押しつけることもできない。


「んっ」


 僕が煩悶していると、鯱先輩の瞼が震えた。

 浅く呻きながら身を捩らせた鯱先輩に、僕は「気づきましたか」と声をかけた。

 鯱先輩は上体を起こし、ぼんやりとした声で「枕部?」と僕を呼んだ。それからの覚醒は早かった。鯱先輩は自分の体を不思議そうに見下ろす。拳をにぎにぎと開閉させた。


「……寝覚めすっきり」


 いつもよりしわがれた声だったけれど、顔色は格段によかった。憑き物が落ちたとはまさにこのことだ。それを鯱先輩も感じているようだった。鯱先輩は滔々と語る。


「ずっと、朝起きると、そこは夢の続きみたいで、いつも誰かを探していたり、なにかを募らせていたり、ふとしたときにやっと、自分がなんだったのかを思い出したりして、でも、もう気づくまでもない。僕は、鯱鶫だ」


 なんの魔力も持たない、あるかなきかの笑みが浮かべられる。その表情はあまりに穏やかで、鯱先輩が心の底から安堵しているように見えて、僕は泣きたくなった。


「やっと落ち着けたよ。僕はずっと疲れてたんだなあ……」


 僕は滲みそうになる涙を食いしばって耐え、椅子に座ったまま、土下座するように、彼のふとんに頭を擦りつけた。


「すみません」

「なんで君が謝るのさ」

「貴方を危険な目に遭わせました」

「ほざけ、ちゃんと覚えてる。僕のほうこそ危険な目に遭わせてた。怪我してない?」

「してません。うまいことやってくれたやつがいるので……」

「あー、あの、変な刀を持った美少女。あれも夢かと思ってたんだけど、全部現実なのか」

「……すみません」


 僕がもう一度謝ると、鯱先輩は「だからー、」と苦笑した。


「僕が自分の意思で選んだことだよ。ドクターストップかかってんのに、調子に乗って踊っちゃった。気に病んでくれて申し訳ないくらいなんだからやめてよね。さては枕部ってけっこうネガかい」


 いつもの掠れたテノール。やや筋張った手。役のために伸ばしていたであろう髪を鬱陶しそうにいじる姿。こうしていると、もう彼は彼以外の何者にも見えない。憑いていると言わしめた鯱鶫は、すっかり感じられなくなっていた。


「夏休みにまたオーディションを受けようと思ってたんだー。欲を言うなら、そこまで味わっていたかったけど……限界だったんだ。そろそろ羽を休めたかったんだよ」

「発表会やそのオーディションは、どうしますか?」

「もちろん演じきるよ。僕は変わらず役者を夢見る鯱鶫さ。だから、そんな顔をしてないで、いつも稽古に付き合ってくれたときみたいに、目を輝かせていいんだよ。枕部のしけた面も、あんなふうに驚いてるときは、人間くさくていい」

「そんなこと思ってたんですか」

「うん。いつもはしけた面、いまもしけた面」

「そっちじゃなくって」

「ああ、きらきらしていたよ。だから僕も楽しく演じられた、楽しすぎて止まれなかった。ごめん、責めてるみたいになっちゃった、でも本当に枕部は悪くないんだ。むしろ、ずっと僕を視ていてくれてありがとう。おかげでいい夢が見られたよ」


 そうやって、鯱先輩が励ましてくれようとすればするほど、僕は罪悪感と後悔でいっぱいになった。精神状態はめためただったし、死ぬほど病んでいたかったけれど、寝れば忘れてしまえる僕の体質はそんなことも許してくれず、ただ漠然とした「僕はだめだったんだな」という喪失感を抱いていて、日々を送ってしまった。

 そして、その後あっけなく、テスト期間を乗りきったのだった。

 テスト最終日の今日、解放されたという爽快感で午後を満喫できるはずが、僕は家の縁側で、茫然と中庭を眺めていた。深い軒下のすだれの影は、僕の額にしか被らない。庭の木々の葉すら貫通してくる日差しは、容赦なく僕を焦がした。風に髪を弄ばせながら、僕はうちわを扇ぐ。

 じゃり、じゃり、と庭の土が踏み鳴らされる音がした。


「さげぽよみたいだねえ、狩月」

「……おばあちゃん」僕はブーケのように夜来香イエライシャンを携えた祖母へと振り返った。「そんな言葉、どこで覚えてくるの」

「水散ちゃんが教えてくれるんだよ。若者言葉ってのは移り変わるもんだねえ。チョベリバって、いまはもう使われてないんだろう? 意味は知ってるかい?」

「一応、知ってる。死語だけど」

「言葉を使う人間が生きてるのに、死んでるなんておかしな話だねえ。さいアンドていってやつさ」

「猟ヶ寺……」


 我らが一門の当主・枕部金になんて言葉を教えてるんだと、僕は唸るように呟いた。

 二人は意外と気が合うようで、祖母は猟ヶ寺をたいへんかわいがっているし、こんなふうに若者言葉の輸入も気安くおこなっている。

 祖母はけたけたと笑った。


「猟ヶ寺、かい。血族相手に名字で呼び合うなんて他人行儀だよ」

「親戚って言っても遠いよ、再従姉妹はとこだし。あっちが親元を離れておばあちゃんのところに来るまで、ほとんど顔も合わせたことがなかったから」


 猟ヶ寺は僕の再従姉妹であり、祖母の弟の孫にあたる。同じ枕部一門として、近畿地方の悪夢祓いを統括する家の子だ。中学のころ、高齢の祖母を手伝うため、一人、居候してきたのだ。


「お前たちがまだ小さかったころはそんなふうには呼び合ってなかったさ」祖母は懐かしむように言った。「継承争いってやつかねえ。可哀想だよ、大人に振り回される子供は」


 祖母が隣に座ったので、僕はうちわで扇いでやった。催眠香を作るために摘み取ったであろう夜来香の馥郁たる香りがたなびく。すると、部屋の奥から「みゃおん」と鳴き声がした。とたとたと小さな足音ののち、祖母の愛猫が、僕の膝の上を通りすぎた。僕と祖母のあいだで香箱を作る。僕は目を瞬かせた。


「珍しいね。が起きてる」

「みけちゃんは気配に敏感だからねえ……嗅ぎとったんだろう」


 僕はみけらんの背を撫でてやる。陽光を吸った温かくなめらかな毛触りが心地よい。手持無沙汰なほどのどかだった。こうやって怠惰に自分を焦がすことしかできない現状を、僕は持て余していた。


「……おばあちゃん」

「なんだい?」

「聞いたと思うけど、僕、失敗した。四人目の夢見主の悪夢を治してやれなかった」みけらんを撫でる手を止め、僕は祖母の横顔に問いかける。「僕はもう、悪夢祓いにはなれない?」


 僕が次期当主として指名されたときは賛否両論だった。

 そもそも、僕が悪夢祓いになること自体への反対派も多い。

 夢を見ないという体質は天性の才で、病にかからない医者になれる素質がある——僕は自分の体質をそのように思っていたけれど、施術の際には大きなアドバンテージとなるのだ。何故なら、僕の体質は悪夢に干渉されない代わりに、悪夢に干渉することもできないのだから。

 まず、悪夢祓いとは〝夢見主の夢の中に実際に入りこみ、悪夢を退治する〟ものである。そのために眺診器で夢見主の状態を探り、夢の中へと侵入する。たとえば、紫香楽空寝のときに焼野原のやったことが、まさしくそれだ。夢の中での直接的な治療が、悪夢祓いの主な施術法だった。夢に干渉できない僕など、手術室に入れない医者と同義だ。

 だからこそ、いくら直系といえど、僕を支持する者はそう多くはなかった。僕の父や母が悪夢祓いでないことも大きい。僕の周りには後ろ盾と呼べる大人は少なく、他の家にやや後れを取っていた。僕が悪夢祓いになることは、歓迎されていないのだ。そこにきての継承試験の失格となれば、名実ともに悪夢祓いには不適格だったと言われてしまうはずだ。

 祖母は「たしかに、ちと難しいかもしれないね」と返す。


「これ以上私がお前を推すと、老害の過保護だと後ろ指をさされるだろう。別に私はそれでもかまいはしないけど」

「僕は、僕のせいで、おばあちゃんが馬鹿にされるのは嫌だ」

「お前がいい子で、私は嬉しくて悲しいよ」

「だから、証明したかった。僕にもできるって。それなのに……よりにもよって、猟ヶ寺に尻拭いをさせることになるなんて」


 猟ヶ寺は、次期後継者の最有力候補だと噂されていた。

 悪夢の施術にあたっては、夢の中でも思うがままに自分の体を操るすべを身につけている必要がある。つまり、明晰夢の使い手であることが悪夢祓いの大前提だ。猟ヶ寺は、僕たちの代で誰よりも早く明晰夢の使い手となった、正真正銘の実力者だった。

 また、現当主の弟・枕部金比良カネヒラの孫であることから、その筋の後押しも強い。


「もともと水散ちゃんへの期待はことさらに高かったからね」祖母は続ける。「たしか、七歳だかのころだったか、あの子がの予知夢を見るようになったのは」


 いつぞやの鬼林の件では鬼林を予知夢の夢見主だと勘違いしたものだが、猟ヶ寺は正真正銘、予知夢の夢見主だった。後天的に予知夢の才を身につけ、それを使いこなすまでに至った猟ヶ寺は、先の未来を見事に予言する。その予知夢は枕部の予言書としてこの家の蔵に保管されており、現在進行形で役立てられていた。


「そもそも、お前の継承試験の課題、いま通っている学校の四つの悪夢を祓うことってのも、水散ちゃんが用立ててくれたものだ」


 いくら悪夢祓いといえど、悪夢に憑かれている夢見主がどこに何人存在するのかまでは知りようがない。この春から僕がしていたような、地道な詮索が必要となる。それをわざわざ、この場所にこの人数の夢見主がいる、とまでお膳立てされていたのは、猟ヶ寺あってのことだ。


「茶番だよ。猟ヶ寺は夢見主が誰だかも、どんな悪夢に侵されているかも知ってるんだろ」

「どうだろう、予知夢ってのはそこまで便利な代物でもないさ。でも、伝家の宝刀の継承者として選ばれ、夢散を所持しているのは、あの子がいち早く明晰夢の使い手となり、なおつ予知夢の夢見主だったからだね」


 猟ヶ寺が祖母を手伝うために居候として越してきたというのも、結局のところは彼女を次期当主にと枕部金比良が推しているからだろう。

 実際に、祖母は高齢のため、猫の手も借りたいほどに窮していたし、断る道理もなかった。

 そうした現在、枕部家の離れ家には僕と両親が、母屋には祖母と居候の猟ヶ寺が住んでいる。居住まう場所から見ても、僕よりも猟ヶ寺のほうが、当主に近しいと言えた。


「お前が焦ったのも、もどかしかったのも、わかるよ」


 祖母の言葉に、僕は思わず唇を尖らせる。

 焦って、いたのだろうか。もどかしかったのだろうか。

 たしかに、三つ目の悪夢を自分の力で祓えなかったことには落ちこんでいたし、どう足掻いても理解しきれない心に悶えてはいた。紫香楽空寝の治療の際の僕はひどく無力だったから、もっと心を知らなければと思って、そして——自滅してしまったのだ。


「だけど、私の言ったことをちゃんと受け止めて、応えようとしてくれたことも、私はちゃんとわかってる」祖母はまっすぐに僕を見て、微笑んだ。「私はそれがなによりも嬉しくてね……ねえ、狩月、この前の話の続きを、教えてくれないかい? お前はどんな色に、どんな温度に、どんな深さに、どんな気高さに、心を震わせたのか」


 祖母は僕に笑顔でねだった。正直、いまはそんなことを話す気力はない。このままじりじりとした暑さの中でぼんやりとしていたい。けれど、祖母の嬉しそうな目は太陽よりもきらきらしているように見えて、だから僕は、「……この前はどんな話をしてたっけ」と尋ねる。


流鏑馬やぶさめの子、鬼林くんのノートの話だったよ」

「……ああ、そうそう。あいつ、よく授業中に居眠りするんだけど、色ペンを持ちながら眠りこけちゃうんだよ。だから、ペンの先っぽがノートにくっついたまま寝ちゃうと、こう、液だまりがさ」

「うん」

「できるから、ページにいろんな色のインクがびっしりで。次の次のページぐらいまで貫通してるんだ。それを隣の席の女子に〝花火みたいでかわいいじゃん〟って笑われて、いや全然汚いんだけど、でも、花火みたいってのはわかる」僕は続ける。「たぶん、あれは、楽しい色だ」


 祖母は「うん、そうだねえ」と相槌を打つ。


「今日、鬼林がテスト終わりに、日本史のテストの点数で勝負しようって言ってきて」

「そりゃあ面白い」

「自信があるんだろうなって思った。でも、聞いたら、苦手な科目だって、ただ今回はよくできたんだって言ってた」

「結局、お前は勝負を受けたのかい?」

「受けたよ。だって得意科目だし」

「おやまあ」

「そう言ったら鬼林は、もう終わったテストなのに〝手加減してくれ“って返してきたんだ。変なの。そんな冗談をいっぱい言ってくれるんだよ、あいつは。僕が冗談苦手だから」

「いい子だね」

「いいやつなんだ、鬼林は。鬼林には、きっと、僕より気が合って、仲のいい友達は、僕じゃなくてもたくさんいる。でも、僕といる時間も楽しんでくれる。そんなあいつといる時間が、僕も楽しい。友達になれて嬉しい。体育祭のときの借り物競争で一緒に走ったんだけど、」

「写真を見せてくれたね。クラスの子に撮ってもらったんだって?」

「うん。その写真を見ると、あの瞬間を思い出して、ドキドキするんだ。すごいよね」

「お前も鬼林くんもすごく楽しそうだったよ」

「あとは、そうだ、焼野原」

「泣き虫の子かい?」

「そう。あの内弁慶な後輩。この前、ショッピングモールのゲームエリアに行ったら、パンチングマシーンのそいつの記録が消えてたんだ」

「残念だねえ」

「たぶん、一ヶ月更新されていくから、しょうがないんだけど。それを知って、僕はなんとなく寂しくなったんだ。でも、焼野原のほうがもっと寂しくなるんだろうなって思った。あれは焼野原の記録だったけどそうじゃなくって、もう一人のあいつの痕跡だったから。だから、これはあの日のことを思い出すからか、あいつのことを思い出す焼野原を想像するからなのか、わからないんだけど……優しいのに寂しい、オレンジみたいな、色で、温度で、つらいんだ」

「そうかい」

「そういえば、紫香楽空寝が、今日も学校に来てたんだ」

「狸寝入りの子だね」

「あいつ、授業にもテストにも出ないけど、律義に学校には来てるんだよ。勉強が全然追っついてないって、テスト終わりの焼野原に勉強教わってた。二学期からの完全復帰が目標らしい。えらいなって思う」

「嫌なことと向き合おうとしてるのは、えらいねえ」

「そうなんだ。僕はいまでも紫香楽空寝の気持ちを想像できないんだけど、でも、あいつの夢の夢の中で見た記憶は、すごくしんどかった。虚無感ってあんな感じなんだな……悲しさも、悔しさも、もちろん怒りだってあるのに、届かなすぎてもうどうでもよくなるんだよ。気高い高嶺を前に、深い底なし沼に落ちていくような、途方もない感覚だった」

「うん」

「だから、僕は……僕もあいつの力になりたいと思うんだ。僕も友達を作るのは得意じゃないけど、友達を紹介することはできるし。きらきらしてるとか言って拒否られるんだけどさ」


 記録を見返さなくとも一つ一つが記憶として浮かびあがった。

 僕が心を震わせられた瞬間。

 こういうことを、祖母は僕に教えたかったんだと思う。だから、僕はそう伝えた。


「最近の僕はいつもいつも、すごく、驚くんだ」


 鈍いだけの世界が、色づき、熱を持ち、奥行きを生み、立体化していった。

 僕が目を向けていなかっただけで、きっと世界はこんなありさまをしていた。

 言葉に置き換えるとひどくつたなく聞こえるけれど、祖母は素晴らしいことだと言いたげな様子で、僕の言葉に耳を傾けてくれた。目を細めて「よかった」と囁く。


「私がお前に望んだことを、お前は見事に叶えてくれたね。心残りはないよ」

「えっ、やめてよ、もうすぐ死ぬみたいな言いかた」

「死なない死なない。私にはまだまだたくさんの夢を見ているから。たとえお前が、誰だっけね、蝶々夫人? トゥーランドット姫?」

「サロメだよ。鯱鶫先輩」

「トラツグミ?」

「なんでいきなりボケるの? 本当に死なないよね?」

「その先輩の悪夢を祓えなかったとしても、狩月はその先輩を思って行動したんだろう?」


 ひとの心というのは、一つ一つがまるで違った代物だ。疑心暗鬼に苦しむ者もいれば、夢幻をよりどころにしないと生きていけない者も、脅かされるに甘んじる者もいる。だからこそ、悪夢を祓うだけでは意味がない。夢見主の心を救わなければ、祓う意味がない。


「その先輩がきれいに笑ってたんなら、お前のやったことは間違ってないんだよ」


 祓わなくとも、心が救えたのならそれでいいのだと、祖母は僕に語った。

 僕は眉を顰めて食いしばるように呟く。


「……でも、やっぱりだめだよ、僕は試験に合格できなかったんだから」

「それはどうだろう。胡蝶の夢はまだ完治していないかもしれないよ」

「そんなわけないって。夢散で斬られたんだから。胡蝶の夢は鯱先輩から完全に退いてるよ」


 伝家の宝刀は伊達じゃない。現実世界だろうと夢の世界だろうと、悪夢を討り逃がしたりはしない。そんなのは公然の事実だし、祖母の言葉は気休めにさえならない。


「課題なんて建前だからね。私としては、お前がどう思ってどうしたかったのか……その大事なことさえ覚えてくれてるなら、もうじゅうぶんなんだけど」祖母は続ける。「お前はまだ、それを忘れちまってるのかねえ」


 僕は目を瞬かせる。そんな僕の間抜けな顔を見て、祖母はふふっと笑った。


「祓わなくとも、心を救えたのなら、それでかまわないのに。そうさねえ、立つ鳥には跡を濁さないようにはしてもらいたいものだよ」

「どういう意味?」

「おっと、持病のガンと脳梗塞とリウマチが……」


 洒落にならないことを言う祖母は夜来香を持ったまま部屋へと引っこもうとする。僕は背中に手を遣って付き添おうとしたけれど、「孫アレルギーが……」と言われたので遠慮しておいた。祖母の洒落はいつも無理矢理で支離滅裂なのだ。みけらんも祖母を追うようにして去っていった。そよそよと夜来香の残り香が鼻腔をくすぐる。縁側には僕だけが残った。

 伝う汗を拭うのも忘れて、僕は祖母の言わんとしたことの意味を考えてみる。

 しばらくして、僕は、この家の敷地内にある蔵へと、足を運ぶことにした。観音扉になっている蔵戸前を開けると、もう使われなくなった物が雑多に整理されているのが見える。古びてはいるが艶の失われていない木の床を歩き、箱階段を上って二階へと向かう。圧迫感のある棚の列が視界を覆う。並べられているのは、枕部の予言書——猟ヶ寺の予知夢の記録だ。

 僕が毎晩その日にあったことを備忘録として日記に綴るように、猟ヶ寺は毎朝その日に夢見たことを予言書として日記に綴っている。予知夢の才が発現してから猟ヶ寺は毎日欠かさずに夢日記をつけているため、その冊数も夥しいものとなっていた。実際には、その夢日記は完全にデータ管理されており、まるで電子辞書のように、キーワードで索引すればそれにふさわしい要項がヒットするよう、枕部一門の悪夢祓いに共有されている。だから、この蔵にあるのはデータ化される前の、猟ヶ寺が直筆した、謂わば原書のようなものだった。

 ここに来れば、祖母の言葉を確かめられるかもしれないと思った。たぶん、さきほどの祖母は、僕になにかを伝えようとしていた。ただの思いすごしかもしれないけれど、僕の知っている祖母は、思わせぶりな言葉でなにかを与えてくれるひとだった。あの調子だとそれ以上を語る気はないようだし、頼れるとしたら、ここにある予言書くらいのものだ。僕の継承試験もここから出題されていると聞く。本当はデータベースにアクセスできればよかったが、悪夢祓いとしてはまだ見習いである僕に、それを利用できる権利はなかった。しかし、枕部家に住まう者として蔵を漁る権利くらいはある。なにかしらのヒントがあるかもしれない。

 僕はそのうちの一冊を手に取ってみる。キャラクターものの表紙をした、マス目の大きい学習用ノートだ。ぱらりと開いてみると、日付とその日見た夢が書かれている。しかし、そのどれもが散文的で、要領を得ない。見るからに幼いときの字なので作文力がつたなかったこともあるだろうが、そもそもが曖昧な夢だったのではないかと僕は思った。祖母も言っていたが、予知夢とはさほど便利なものでもない。夢の内容はおぼつかず、暗示的なものばかりだ。それを証拠に、たまに一文字さえない、夢の内容を全て絵で表現したであろうページが存在した。おそらく、夢のイメージを文字に落としこむことができなかったのだろう。色鉛筆やクレヨンのかす、、があちこちを汚している。僕はその冊子を閉じ、別の冊子へと手を伸ばす。

 ぺらぺらとめくっていくと、気になる夢日記を見つけた。こう書かれている。

——ララララ?

——ルルルル?

——ティピピピ?

——おそらく虫の声。

——霧の中。別の場所に行っても晴れない。

——私は制服を着ていた。

 散文的だが心当たりはある——焼野原戦の邯鄲の夢のことだろう。真新しい、朱肉で押印された〝済〟の文字もある。予知後に実現した夢はこのように済印を押されるのだとわかった。

 こうしてみると、予知夢とは実に断片的な情報しか与えてくれないようだ。猟ヶ寺自身も手探りに推理しながら夢解きをしているのがわかる。

 さらに別の冊子にいく。これはわかりやすかった。

——手綱を握りきれていないロデオ。

——男の子は弓道着を着ていた。

——的を射ていた。

——おそらく正夢。

——私は制服を着ていた。

 あやふやな夢の時系列を辿るときに、おそらく、その夢の中で猟ヶ寺自身がどんな格好をしていたかが判断材料になっているのだ。その証拠に、どの夢日記も毎文末に〝私はランドセルを背負っていた〟や〝私は制服を着て傘を差していた〟などの、猟ヶ寺の状態について触れられている。

 ということは、ページに済印があり、文末に高校の制服姿であることを示す文章のあるものが、継承試験の課題としての目印になるはずだ。僕は残る一問の胡蝶の夢についての記述を探すべく、目を凝らして漁っていった。

 すると、五冊ほど漁ったとき、それは見つかった。

——ひらひらと蝶が舞う。

——胡蝶の夢と考えられる。

——でも、だんだん羽ばたきが大きくなっていく。

——不気味な重い音。

——嫌な感じ。ひょうひょうと吹く、風の音?

——なんの前触れ?

——私は制服を着ていた。暑い。

 済印もあることから、これが鯱先輩の胡蝶の夢だと判断した。けれど、文脈的に、猟ヶ寺自身がなにかを危ぶんでいるような印象を受ける。悪夢の暗示であることに変わりはないが、猟ヶ寺を不安にさせるほどの内容だったらしいことが、文面から読み取れた。そのページには付箋のメモが留まってある。夢日記よりもかなりあとに足された追記だろう、字の整いかたがいまの猟ヶ寺の筆跡に近かった。

——おそらく胡蝶の夢は重篤化する。

——化けたらまずい。

 やはり猟ヶ寺は胡蝶の夢が暴走することを見越していたのだ。だから、僕に忠告した。彼女の言うとおり、さっさと治療していればよかったのに。そしたらこんなことにはならなかったと、僕はまた後悔する。あああああ、と叫び散らしたくなった。

 すると、足首をすりすりと撫でられる違和感。ギョッとなって見下ろすと、みけらんがいた。どうやらここまで上ってきたようだ。身体をなすりつけてくるのを見て、僕はますます珍しいなと思った。

 猫は寝子。眠り猫とも言うように、猫が寝ているあいだは平和だ。特にこのみけらんは悪夢の気配に敏感であり、普段は酔っぱらったように寝ているくせに、悪夢を感知すると一睡もしなくなる。

 僕が手を伸ばすと、みけらんは「みーみー」と顔をこすりつける。その様子を呆然と見下ろしながら、やはりどうかしたのかと考える。正夢や邯鄲の夢、夢の夢や胡蝶の夢の件でも、暢気に寝くるまっていたこの猫が、どうしていまになって起きているのだろうか。僕が「お前、どうしたの」と声をかけても、みけらんは「みゃうー」と鳴くばかりだった。さては近くに悪夢の夢見主でもいるのか、とよぎったとき、僕は夢日記に視線を戻した。

 すっと閃くような心地だった。

 僕は蔵から出て、母屋のほうへ向かう。戸を開けて階段を上り、二階の突き当たりにある猟ヶ寺の私室へと足を進める。滅多に行くことなんてなかったから居心地が悪かったけれど、逡巡、ドアをノックする。返事がなかったので、僕は心の中で謝りながら、ドアを開けた。

 彼女らしい部屋だ。星型のガーランドライトや、同じ柄物のクッションとベッドカバー。そんなひらひらチカチカとした、綿菓子のように甘い一室にそぐわぬ、憔然とした彼女がいた。

 まだ真っ昼間にもかかわらず、冷房の効いた部屋の中、ベッドの上でブランケットにくるまる猟ヶ寺は、息が漏れるほどうなされている。眺診器がなくとも、その苦患くげんは見てとれた。ごうんごうんという冷房の音が耳鳴りのように煩わしい。後をつけていたらしいみけらんが、猟ヶ寺の眉間の皺を心配そうに舐めるのを、僕は愕然と眺める。


「なにが跡を濁さずだよ……」


 胡蝶の夢を祓った猟ヶ寺は、疾病しっぺがえしを食らっていた。






 疾病返し——祓ったはずの悪夢に憑かれること。

 体質のおかげで夢に憑かれることのない僕からすれば、そんなマヌケがあるかという話だが、悪夢祓いなら誰もが一度は経験することらしい。特に、心が乱れ、免疫力が弱まったときには往々にしてあるようで、悪夢祓いの懸念すべきはむしろ術後の自己管理なのだと、そんな他人事を祖母から聞いたことがあった。

 猟ヶ寺もまさか自分が疾病返しを食らうとは思ってもみなかっただろう。疾病返しを気にかける必要のない僕が言うのもていが悪いけれど、抜かったのだ。

 僕はラグに膝をつき、彼女の寝顔を覗きこんだ。

 闘病に苦戦していることが、芳しくない顔色から伺える。

 明晰夢と夢散の使い手であり、枕部一門の期待を一身に背負う彼女ですら手こずるほどの悪夢。予言書たる夢日記でも〝重篤化するとまずい〟と書かれていたように、その夢の悪性はことさら強いのだろう。

 僕はすぐさま眺診器を持ちだし、猟ヶ寺の夢の中へ飛びこんだ。

 燦然と犇めく小宇宙へ沈む。

 目まぐるしく暗闇が広がり、千鳥格子のように羽ばたいていた。

 その間隙を縫うようにして落ちていき、いずれ底に着くころ、重たく纏わりついてきた暗闇が揺れる。ぼんやりとした灯りの見える、暗い部屋が見えた。

 一枚のふとん以外になにもない部屋。見覚えがあった。母屋の一階にある和室だ。

 リフォーム前で、畳も少し古びている。親戚の集まりがあると、母屋の部屋のいくつかを寝泊りの場所として使うのだ。この和室もそうだった。

 敷かれているのは客用のふとんで、目を凝らすと、そのふとんがこんもりと膨れているのがわかった。

 息を潜めるようにして隠れでもしているみたいに、年端もいかぬその少女は、ふとんを被ってうずくまっている——猟ヶ寺だと直感した。

 びくびくとした姿は彼女に似つかわしくはなかったけれど、目鼻立ちに面影がある。

 夢の中の猟ヶ寺は眉を顰めて泣いていた。途端、ゆっくりと開かれた襖の音に、「ひっ」と悲鳴を上げる。


「……驚かせた?」


 襖を開けたのは少年だった。

 どこか悠々とした態度の、眠たげな目をした少年——幼いころの僕ではないか。

 夢の中の僕は、部屋の中に入り、後ろ手で襖を閉めた。


「子供はみんな揃って客間で寝てるのに、水散ちゃんだけいなくて、そしたら、おじさんが、夢の病気にかかってるから一緒に寝られないんだって……具合はどう?」


 僕は猟ヶ寺の枕元にしゃがみこむ。

 猟ヶ寺はのそりとふとんを下げて、その泣き顔を完璧に晒した。


「夢を見るのが怖いの」猟ヶ寺は嗚咽まじりに話した。「眠りたくないの」

「おばあちゃんに治してもらおう」

「だめなんだって、一人で戦えって、おじいちゃんが言うの……本当は、こうやって誰かに話すこともだめなの、伝染うつっちゃうから……」

「僕は夢なんて見ないから大丈夫。になるよ」


 そう言うと、猟ヶ寺はさらに涙を流した。可哀想なほどだった。砂糖菓子のように甘い顔を涙でぐしゃぐしゃにして、「あのね、」と口を開く。


「私、戦いたくない、修行怖い、刀もいらない、誰かにあげるから、怖くない夢が見たい」


 真っ暗なこの部屋に一人でいる姿の物悲しさに、僕は俯いていた。

 すると、猟ヶ寺はかくんと頭を震わせた。意識を飛ばしかけたのだ。眠気に抗って起きているのにも限界が来たのだろう。本当なら話すことさえつらそうな様子だった。なのに、目を閉じてしまうことこそが怖くて苦しいのだと、不憫に震える。

 だから、僕はその手を握った。


「僕が助けてあげる」


 猟ヶ寺は強く息を止めた。

 僕は「だからもう大丈夫」と囁くように言った。


「でも、自分で祓えって、おじいちゃんが、」

「そんなの薄情だよ。水散ちゃんはこんなに苦しいんだから」

「……本当に、助けてくれる? 夢の中でも来てくれる?」

「うん、約束する。待ってて。夢の中でも助けに行くよ」


 ありがとう、狩月くん——そう呟くやいなや、猟ヶ寺は事切れるように眠りに落ちた。

 明転。

 呪わしいほどの陽光が差す母屋の廊下を、窶れた様子の猟ヶ寺が歩いている。おぼつかない足取り。ようやっとふとんから抜けだせた彼女の額には冷や汗が滲んでいた。しかし、それに反して、泣き濡れた頬は乾ききっている。そのみすぼらしい後ろ姿を、こやかましく囀る雀だけが見ていた。

 すると、眠気眼をした僕が、その向かいから姿を見せる。猟ヶ寺が目を見開くと同時に、僕は「あれ?」と首を傾げた。


「そういえば、久しぶりだね。ずっとどこかの部屋にこもってたの?」


 そんな僕の言葉に、猟ヶ寺は、



——暗転。



 ばつん、と視界が遮断された。夢が途切れたのだと理解した僕は、眺診器を外す。目を覚ました猟ヶ寺と視線が交わる。彼女は浅い呼吸を繰り返していたが、やがては口を開く。


「か、……枕部くん?」


 目を白黒させている。混乱しているようだった。しかし、すぐに「まだ夢の中なの?」と呟いたので、僕は「夢じゃないよ」とその頬を引っ張ってやる。

 猟ヶ寺はさらに目を瞠った。

 抓っていた手を放したけれど、僕はなにから話せばいいのかわからなくなって、ただ思ったままに「ごめん」と告げていた。

 夢の残像がまだ目に焼きついている。とんでもないことをしでかして、それさえも忘れていまの今までのうのうと生きていた自分を、どうにかしてやりたくなった。

 助けるって約束したのに、待っててって言ったのに、僕は、それを、忘れたのだ。

 どことも知れぬ臓器が焼けるように痒い。食いしばった歯の隙間から吐く息が震える。眼球の奥が熱くなり、視界がぼやけていくなか、僕はもう一度「ごめん」と告げた。

 猟ヶ寺は呆けていたけれど、上体を起こし、僕の膝元にある眺診器を見遣ることで、察したらしい。なにかを堪こらえるように固く目を瞑る。

 どうして来てくれなかったの、なんて、猟ヶ寺は言わない。ただ「……起こるべくして起こったことよ」と静かに吐いた。


「お前があの日のことを悪夢に見るほど、僕は傷つけた……」

「いいえ。傷つけられたほうにだって、傷つけられるだけの理由がある」

「お前が傷つけられる理由なんてあるわけない」

「あるわ。子供の約束に期待した、私が愚かだったのよ。貴方が私のことを覚えてくれるだけの理由だってないのにね」

「そんなこと、」

「あるわ」


 今度は刺すように言った。

 それは決壊の合図だった。


「だって、枕部くんは、自分が人間であることを忘れる? 男の子であることを忘れる? 呼吸のしかたを、歩きかたを、話しかたを忘れる? 忘れないでしょう? 大事なことは忘れない。忘れるのは些事なこと、どうでもいいこと。貴方は私のことなんて忘れてしまえる。だって、どうでもいいんだもの。ひどい薄情者」


 猟ヶ寺は臼歯を磨り潰すがごとき剣幕だ。形のいい瞳は爛々と煮え滾っている。口早に溢れだしたそれに、猟ヶ寺は深く息を呑んで、ブランケットを握り締める。絞りだすような声で、言葉を続けた。


「いつも、いつも、私ばかりが恨みがましくて、嫌になる……」


 その言葉に、僕はなにも返せないでいた。

 だって、僕はようやっと、こんなにも己が薄情だったことを知ったのだ。

 気づかないまま、覚えていないまま、猟ヶ寺の思いを引きずって今日まで生きていた。

 僕が忘れても、彼女は忘れない。せいぜい僕なんかとの約束に傷つけられたことが忘れられない。絶望的な朝日の色も、裏切りの冷たさも、奈落の底の心地も、あてのない昂ぶりも、いつまでも彼女だけが覚えている。

 なのに、僕は忘れている——眠れば忘れてしまえたから。

 そのもどかしさに、じわじわと、また視界はぼやけ、蕩けだしていった。目を瞑ればこぼれおちてしまうほどだった。自分への後悔より、嫌悪より、彼女が感じたであろう思いに涙が流れる。

 けれど、それを流したいのは僕ではなく彼女であるはずだ。こらえようとして鼻を啜すすると、水浸しの音が鳴った。

 嗚咽する僕に気づいた猟ヶ寺は、力なく言葉を漏らした。


「どうして貴方が泣くの」

「わ、っからない」

「……まぬけね」

「喜びじゃ、ない。悲しみや、苦しみに、近くて、怒ってもいて……わからない。でも、これは、お前とおんなじ気持ちだよ。おんなじ気持ちで、涙が出るんだ」

「だとしたら、それは、私の感情ではないわ。私は悲しんでもいないし、苦しんでも怒ってもいない。そこまでの思えるほどの期待なんて、もうしていないんだもの。だから、それは貴方の感情よ。貴方は貴方自身の感情で、涙を流しているの」猟ヶ寺は目を細めた。「……本当に、人間らしくなったのね。感情を持て余して涙を流す貴方を見る日が来るなんて」


 どんな感情とも知れない心で、僕は涙を流している。心を震わせている。たとえば、目には見えない色や、触れても感じられない温度に、こんなにも驚いている。

 僕は息をついてから答えた。


「……だとしたら、お前のおかげだよ。お前が、何度も、僕に考える機会を与えてくれたから、僕の心は震えるようになった。期待外れの僕だったのに、ありがとう、本当に今までごめん」


 そう言うと、猟ヶ寺は唇を噛みしめた。


「謝らないで。ごめんなさい。違うの。私がなにを望んでいるかを、貴方は聞いたけれど、本当に何も望んでない。望んでないのに……わからないだけ」猟ヶ寺は手で顔を覆った。「夢の中で、私は、失望するまで待っていた。目が覚めても残ってるの。私はまた、期待してしまう。わからない。どっちが本当の私なの? 私は待ち望めばいい? 諦めればいい? 目が覚めれば、嫌でも身に染みるのに……悪夢に憑かれてまで、私は、」


 ここから先の言葉を言うことを恐れるかのように、猟ヶ寺は閉口した。

 僕は、乾きを待つ涙を流したまま、猟ヶ寺言葉を待った。彼女の本心が聞きたかった。たとえ夢に惑わされているからだとしても、彼女がなにを待ち望んでいるか、それを確かにしたかった。

 永久にも思われた刹那ののち、猟ヶ寺は、ついに言ったのだった。


「貴方との——あのときの約束を、夢に見る」


 僕は猟ヶ寺の手を取った。

 汗を掻いていた彼女の手は冷たかった。

 猟ヶ寺が驚いたように僕を見る。

 僕はそれにまっすぐに返した。


「助けるよ……今度こそ、助ける。ごめん、間に合わなくて、時間がかかって……僕は全然すごくはないから。だけど、もう大丈夫だよ、二度と裏切ったりしない」


 裏切りたくない。だって、猟ヶ寺が僕に期待してくれたのだ。

 僕はこんなにも彼女を助けたいと思っている。継承試験に失格したとて、悪夢祓いになれなかったとて、そんなのは関係ないのだ。助けたいというそれが全てで、他にはなにもなかった。

 猟ヶ寺の目は震えていた。その双眸が次第に濡れていく様を、僕はただ見ていた。

 やがて猟ヶ寺は目を逸らす。目尻や鼻に朱を散らせて、「本当に?」と恐る恐る呟く。

 僕はしかと頷いて、猟ヶ寺をふとんの中へと押しやる。長い睫毛の植わった瞼を撫でた。


「ようらん ねんねよ

 さらめく幾世

 あて知らず行くよ

 さる者おはす 夢の中」


 口遊くちずさぶたびに、うつらうつらと猟ヶ寺の瞼は落ちていく。

 枕部に伝わる揺籃歌ようらんかは、夢路へのいざないの唄だ。猟ヶ寺もひとしく夢路へと向かう。

 いまにも意識を手放そうとしていた猟ヶ寺の汗ばんだ前髪を掻き分けてやった。

 事切れるように、猟ヶ寺は眠りに就いた。

 足元でみけらんが「みゃおん」と鳴く。僕はしばし猟ヶ寺の寝顔を見守ったあと、再び眺診器を取りだした。

 猟ヶ寺の夢の中へと没入する。

 まるで宇宙へ放りだされたかのように爽快な半酩酊。

 スペクトラムブルーの星々を超え、深い闇へ。

 それは幾重ものレースが折り重なっていく様にも似ていた。

 徐々に視界が狭まる。そうやって落ちて落ちて、堕ち着いた先は、やはり、あまりにも寂しい月下の一室だった。

 何度も何度も繰り返す悪夢による心身の疲弊が如実に表れた、陰湿で悲惨な空間。

 目尻の擦り切れる音が、涙のかびていく匂いがした。

 丸くなったふとんは小刻みに震えるが、その揺れは寝息のそれではない。憑かれきっていた猟ヶ寺は、廊下からひたひたと足音が鳴ることにすら怯えていた。どうすることもできずに涙を流している。先ほど見た夢と同じ姿だ。

 この過去の夢に魘されつづけたに違いない。これは予知ではなく既知だ。だから、結末など夢に見ずとも目に見えている。まさに、ふとんの中で絶望を待つ、生殺しの牢。

 僕はこの夢の終わらせかたを直感していた。

 こんな覚めない悪夢にはもう疲れただろう。新しい夢を見よう。

 襖は開かれる。夢の中の少年が、少女へと口を開くより先に——僕は彼女へと言ったのだった。


「水散ちゃん、助けに来たよ」


 猟ヶ寺がはっと顔を上げると、夢の中の僕はぼろぼろとほどけていった。まるで鱗がちぎれていくように、花びらがこぼれていくように、少年からへと姿を変える。

 僕はおもむろに目を開けて、猟ヶ寺を見据えた。僕と猟ヶ寺の視線が絡みあう。真っ白に発光しだす世界の中、二人で向かいあっていた。


「……狩月くん」

「うん」


 僕が答えると、夢の中の僕も頷く。

 猟ヶ寺のみはった目に、燦然と光の粒がきらめく。

 その瞬間は、たとえば星の誕生に似ていた。とてつもない熱量の輝きが爆散する。光年にも似てあまりにも遠い心の境目を超え、僕へと届く。今度こそ、僕も猟ヶ寺も、同じ気持ちで心が震えたのだと感じていた。

 そのとき、不気味な叫び声とともに、真っ黒い塊が猟ヶ寺と僕の頭上から着弾する。

 間一髪のところで後方へと下がった。猟ヶ寺は、退避と同時に。大きなメスのような風貌をしたその刀を構え、猟ヶ寺は真っ黒い塊へと飛びかかった。

 猟ヶ寺の斬撃を紙一重で躱しながら、その真っ黒い塊は夜啼きする。胡蝶の夢だと直感した。悪夢を捻じ曲げられたことによる抵抗を見せたのだ。その声は、まるで生温い隙間風のように心許こころもとない、ヒョーヒョーという鳴き声だった。

 猟ヶ寺が大きく夢散を薙ぐと、遠く跳躍してそれを避けた。

 ただの真っ黒い塊だと思っていたそれの全貌がはっきりと見えた。


「……ぬえ?」


 猟ヶ寺はこぼす。

 鵺。古くから日本の物語や伝記などに登場する怪物だ。平家物語では、猿の顔と狸の胴、虎の手足と蛇の尾を持つとされている。不気味な声で鳴き、天皇は病に臥せるにまで至った。

 和歌の枕詞にも鵺鳥のという語があり、嘆きの意味としてなじみが深い。また、掴みどころのない、得体の知れないものの喩えとしても用いられることがある。

 夢のありさまは夢見主によって変貌する。たしかに蝶は別名に夢見鳥ゆめみどりとも言うが、そんな美しいものではない——実際は、胡蝶が怪鳥けちょうに化けたのだ。

 真っ黒い暗雲を漂わせ、朱色の猿がごとき顔貌で、じっとりとこちらを見つめている。

 そのおぞましいいでたちに猟ヶ寺の夢散を持つ手が震える。

 僕は「大丈夫」と告げ、震える手に自分の手を重ねた。

 猟ヶ寺はそんな僕を見つめたあと、再び夢散を強く握り、大きく跳躍した。

 鵺との大立ち回りはまるで躍動する剣舞のようだった。閃かせ、たなびかせ、優雅に夢散を振るう。これほどまでに四肢を動かせるのは、猟ヶ寺が並々ならぬ明晰夢の使い手である証だ。これは夢なのだと、自分は夢の中にいるのだと、この夢は自分の夢なのだと果てしなく理解し、制御している。惑うことなく自己を認識した猟ヶ寺は、夢見ていても、強かった。

 鵺がまた不気味な鳴き声を上げる。

 すると、世界は底知れぬ沼のような色のとばりを纏まとった。それは蛇へと形を変え、猟ヶ寺を覆うようにとぐろを巻く。猟ヶ寺の体を締めあげるように、蛇は彼女の動きを縛り、逆さ吊りにした。


「猟ヶ寺——僕が携える弓は、源頼政がお供の丁七唱ちょうしちとなうよろしく雷上動らいじょうどうつがう矢は水破すいは兵破ひょうは。鵺退治にはお誂えの、最高の武器だ」


 僕がそう囁くと、僕の手に大きな弓が現れる。そして、逆の手には鏑のついた破魔矢が二本。黒鷲と山鳥の矢羽根が霊妙な代物だ。僕がひとたび矢を番え、放てば、それは見事に蛇へと命中した。

 蛇が消え去り、落下する猟ヶ寺を、僕は抱きとめる。ゆっくりと、猟ヶ寺の足を地上へと降ろしてやる。

 僕の腕から離れた猟ヶ寺は、僕へと振り返った。その形容しがたい表情に、僕は声をかけた。


「言ったろ、大丈夫って……なにかあれば、僕が助けるよ」


 猟ヶ寺は唇を噛みしめた。そして、ふるふると首を振った。


「わかってる……貴方は夢を見ない。助けたくても、来れない。だから、これは、だけ。私が望んで、夢見ただけ……」


 僕は眉を下げて微笑んだ。そう言われれば、僕も押し黙るしかない。

 けれど、猟ヶ寺は「それでも、」と言葉を続けた。


「夢だとしても、覚めたくないなあ」

「夢から覚めても、そばにいるよ」


 猟ヶ寺の顔にはもう、悲哀も恐怖もなかった。どこか清々しい面持ちで夢散をかまえ、鵺と対峙する。

 僕は矢を放ち、鵺の尾を捕らえる。磔にされた鵺は不気味な声で鳴いていた。

 そこへ、猟ヶ寺は跳躍して距離を詰める。瞬く間に、激烈な一閃を浴びせた。

 その瞬間、暗雲が晴れた。

 ひらひらと消えていくすがらに、中から一羽の鳥が姿を見せる。

 斑模様の羽を持つ鳥——トラツグミだ。

 ヒョーヒョーと鳴きながら羽ばたくそれを見上げ、猟ヶ寺は「みけ」と猫を呼んだ。

 すると、どこからともなく祖母の愛猫が現れた。猟ヶ寺が顕現させた仮想みけらん、ならぬ、夢想みけらんだ。

 現実ではありえないほど巨大な体躯のみけらんが、「みゃうん」と鳴いて口を開く。丸呑みだった。みけらんにあっけなく嚥下され、胡蝶の夢トラツグミは、散っていったのだった。



「……——おはよう」



 そうして、猟ヶ寺は、覚醒した。

 すっかり更けて夜になった宵五つ、ガーランドライトが灯るだけの薄暗い寝室で、眺診器を外した僕と夢から覚めた猟ヶ寺は見つめあっていた。

 静謐な空気に吐息だけが聞こえた。猟ヶ寺は何度か瞬きをして、口を開いた。


「いい夢を見たのよ」おもむろに続ける。「所詮は夢だったのに、目を覚ましても貴方がいた」


 僕は猟ヶ寺に微笑んだ。

 猟ヶ寺もあるかなきかの笑みを浮かべた。


「……夢じゃないのね。助けに来てくれて、ありがとう」


 そのとき、何故か、本当はずっとそう言われたかったのではないかと、僕は思った。

——かくして、猟ヶ寺の胡蝶の夢は、幕を閉じたのだった。






 さて、いよいよ夏休みである。

 ただでさえ暑苦しいのにさらに発汗作用を促進させるような蝉の音がうるさい。家の敷地内に植えられている木にも大量の蝉がとまっているようで、まさに混声大合唱だ。鳴き声は片時も止まらず、朝は目覚まし時計が鳴るより先に、その音で目を覚ます。

 今日は鯱先輩の演劇発表会だった。

 鯱先輩から「これぞ怪我の功名、雨降って地固まる! 今世紀最高のサロメは僕だ! ガチで魅に来い! 腰を抜かすほど驚かせて、忘れられない思い出にしてやる!」と気色ばんだ連絡を受け、僕は劇を見に行くことになった。

 胡蝶の夢から覚めても、鯱先輩は、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いの快進を続けているらしい。たくましいな、と僕は思った。

 薄い若葉色のポロシャツに袖を通し、時計を確認する。まだまだ劇の時間にまでは余裕があった。会場は最寄りの駅から二駅といったところにあるらしいが、詳しい場所まではわからない。いっそ早めに出ておいたほうがいいかもしれないと、僕は部屋を出た。


「ああ、おはよう、狩月」


 リビングに向かうと、そこには祖母がいた。テーブルについて茶を飲んでいる。僕も「おはよう」と返したあと、「どうしてこっちに?」と尋ねた。


「水散ちゃんがおめかししようとしてるのがかわいくてね、からかってたら、とうとう追いだされたのさ」

「おばあちゃんなにやってんの、って言いたいところだけど、そんなことで家主を追いだす居候もどうかと思った」

「お互いじゃれてるんだよ」

「仲いいね、ほんと」

「結局、どの服を選んだんだろうね、水散ちゃんは。狩月も楽しみにしておきよ」

「女子は大変だね。そんなにめかしこまなくても……高々、先輩の演劇の観賞なんだから」


 疾病返しを食らったとはいえ、鯱先輩の胡蝶の夢を祓ったのは猟ヶ寺だ。元患者の現状を把握したい気持ちもあるだろうと、僕は今日の予定にお前もどうかと、猟ヶ寺を誘ったのだ。

 そのときの猟ヶ寺は目をかっぴらかせていた。それはどういう反応だ。その後「嫌だった?」と尋ねた僕に「行く」と即答したのだから、嫌ではなかったのだろうけれど、たまに猟ヶ寺は、こういった、気持ちの全く読めない反応をする。昔よりも感情の機微に敏くなったいまの僕でも、その心理は不明瞭なままだ。


「お前に誘われて嬉しいんだよ」祖母はくつくつと笑った。「本当はずっと、お前が自分を見てくれるのを待っていたんだろうねえ。健気なものだよ。あの子も、それにお前も」

「僕も?」

「念願果たして夢を叶えただろう。お前が忘れても、私は覚えているよ、お前は初めて悪夢祓いになりたいと言った日のことを」


 僕は目を瞬かせた。

 もちろんそんな日のことなど僕は忘れているし、今ごろそれについて話されてもといった重いだが、祖母の言う〝念願〟が無性に引っかかったのだ。


「お前は、水散ちゃんを助けたくて、悪夢祓いになりたいと言ったんだろう?」


 そこで、僕は、息を呑んだ。

 そう告げられて蘇る記憶。猟ヶ寺の夢の中で見た映像と共に、フラッシュバックした。

 そうだ。僕は、悪夢に魘される猟ヶ寺が可哀想で、どうにかして助けてやりたくて、だけど、猟ヶ寺の眠る部屋にいることが大人にばれた僕は、強制的に部屋へと帰らされた。翌朝、なにもかもを忘れたくせに、ただぼんやりとした「悪夢祓いになりたい」という感情だけが、僕の中には残っていて、すぐさま祖母のもとへ行き、けれど、よくわからない理由で追い返されて、そして、その朝へと繋がる。

 僕は起き抜けの猟ヶ寺と再会し、助けに行くと言ったことも忘れ、「久しぶり」と声をかけた。

 僕はたった今、そんなことを、思い出したのだった。

 突飛な衝撃に絶句する僕へ、祖母は「ウケるねえ」と笑った。


「どうして悪夢祓いになりたかったのかも忘れて、今日まで夢見てきたんだよ、お前は。眠れば忘れるってのは、本当に呪いのようだよねえ。まあ、疾病返しを食らわないってのは悪夢祓いとしては一種の理想でもあるけれど。むしろ、そんな大事な記憶まで忘れてるのに、夢が色褪せることのなかったお前の心は、本物だったと誇らしいよ」

「……えっ、でも、なんで、そんな大事なことも忘れてたのに、僕は悪夢祓いを夢見つづけられたんだろう……?」


 そう呟いた僕に、祖母は言った。


「忘れても、心は覚えてるんだ」


 祖母の言葉を、僕は咀嚼する。

 ややあってから、僕は「そうだね」と頷いた。

 祖母は満足そうに微笑んだ。


「——さて、水散ちゃんの胡蝶の夢も祓えたことだし、これでお前は計四つの悪夢を祓うという継承課題をクリアしたわけだよ」

「えっ、でも、僕は試験に失格したでしょ」

「私は、お前の高校にいる、悪性の夢見主四人の治療を、課題として出したんだ。誰も先輩を治せなんて言ってないよ。条件は満たしている」

「ぶっちゃけ猟ヶ寺の胡蝶の夢だって、あいつが自分で祓ったようなものだし」

「あの子はそうは思っちゃいないさ。大事なのは夢見主の心が救われたかどうか。お前はそれを見事に果たした。それでいいんだよ、狩月」それに、と祖母は言葉を続けた。「別に水散ちゃんは悪夢祓いになりたいわけでも、当主として私の後を継ぎたいわけでもないしねえ」

「……そうなの?」

「昔っからあの子の夢は、好きなひとと結婚してハンドメイド作家になることだよ。後継者最有力なんてあの子の周りが騒いでるだけで、そこにあの子の気持ちは微塵も入っちゃいない」

「知らなかった……てっきり、だから僕を目の敵にしているとばかり……」

「あの子が悪夢祓いになりたいなんて言ったことが一度でもあったかい? これからは、あの子の気持ちに気づいて、ちゃんと忘れないでいておやりよ」

「……うん、そのつもり。あいつの一字一句は取りこぼさないほうがいいって今回の件で学んだから、僕もちゃんと対処することにした」

「対処?」

「じゃん」


 僕はポケットからICレコーダーを取りだした。

 祖母は「ぬぇっ」と目を見開かせた。


「あいつといるときは、ずっと会話を録音しておこうと思って。ほら、毎晩記録につけてても抜けちゃうことってあるから、確実に残せる媒体を持っておいたほうがいいしね。僕だってもう、あいつのことは忘れたくない。だったらこうするのが一番手っ取り早いかなって思った」


 喜んでくれるかな、と呟いて、僕は再びポケットへと収めた。祖母は「おやまあ……」と漏らしたあと、再び口を開く。


「ちなみに、そのことは、水散ちゃんに相談してないのかい?」

「ううん。まだ。今日言おうと思ってた」

「……お前の一途な努力は本当にすごいと思うよ、狩月。本当なら私は止めてやるべきなんだろうけれど、はてさて」祖母は何度か目を瞬きさせてから、神妙に告げた。「……いいかい、狩月。そのことは水散ちゃんには言わないほうがいい。聞いたら卒倒するだろうから」

「どうして?」

「どうしてもだよ」

「わからない。僕はどうして猟ヶ寺が卒倒するのかを理解したい」

「水散ちゃんじゃなくとも卒倒するよ」


 ピンポーン、とインターホンが鳴った。おそらく猟ヶ寺だ。出かける支度が済んだらしい。僕が玄関へと迎えに出ようとすると、祖母は「いいね」と念を押した。祖母がそこまで忠告するなら、猟ヶ寺には言わないでおこう。このことは墓場まで持っていく。

 扉を開けると、祖母の言うとおりめかしこんだ猟ヶ寺がいた。

 いつもよりもはっきりとした顔立ちに、化粧を変えたんだな、と気がついた。あのあどけない髪型もほどき、涼しげに結わえてある。シャーベットのような色合いのブラウスにスカートを穿いた彼女は、僕を見るなり携帯スマホを取りだした。


「その珍妙なカバーケースはなに」

「前にも言ったわ。スペースキャット。本当に覚えていないのね」

「大丈夫。これからはもう絶対に忘れないから」

「どうしてそんなことが言えるの?」

「どうしても」


 猟ヶ寺は腑に落ちない表情をしたけれど、諦めたように目を逸らした。

 そして、僕の隣に並び、携帯スマホの内カメを掲げる。


「なにやってんの」

「自撮り」

「なんのために」

「……四人目おめでとう記念」


 そう言ってシャッターを切る猟ヶ寺。こいつもこいつで、僕が課題をクリアしたと認識しているらしい。撮り終わった写真を眺めて、猟ヶ寺はどこか嬉しそうな表情をした。僕もそれに笑う。

 僕が悪夢祓いになれるかどうかはわからないけれど。

 彼女を助けたいというあのときの僕の夢は叶ったのだ。

 僕は相変わらず夢なんて見ないけれど、こうして喜びに心を震わせられる。

 陽射しのきつい青空には、眩しい雲が靡いている。燦燦と騒ぎたてる蝉の音に、じっとりとした夏の匂い。額や背中が汗ばんでいくけれど、不思議と不快ではない。全てのことが鮮やかに感じられた。

 今日の僕はどれだけ驚くのだろうと、玄関の扉を閉めた。

 願わくば、本当に忘れられないものであるように。

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夢患いの診療録 鏡も絵 @MagicalMoeP

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