第4話 鵺退治・前編
「ひとは夢に憑かれる。そう、君は言ったよね」
もう毎日となっていた習慣の中で、彼女は口を開いた。
僕は何度か瞬きをして「言いましたっけ」と返した。そんなことよりも、果実のように熟れた彼女の唇が、愛や悲劇でなく、素朴な問いかけを紡いだことのほうが新鮮だった。新鮮というか、懐かしいのだと思う。彼女の手元を見遣ると、台本を閉じていた。その少し上にある彼女の顔へと視線を移すと、どこか呆れたような顔で僕のほうを見ていた。
「言ったよ。自分の発言に頓着しない子だねえ。でも、そうだなって思ったんだ。夢に取り憑かれてるよ。叶えたくてそればっかりだ」
そのときの僕もそういう意味で言ったわけではないのだろうが、あながち間違いでもないだろうと訂正しなかった。
悪夢はひとの隙に巣食う。悪夢を見るのは、その悪夢の夢見主に思うところがあるからだ。たとえば、ストレス。罪悪感情。傷心。復讐心。虚無感。絶望。渇望。つまり、望みなのだ。
ひとは叶えたいと思うものを夢見てしまうのかもしれないと、僕は思った。
「ありがとう。君のおかげで、夢にどんどん近づいていってる気がするよ」
彼女が笑ったから満足して、僕は本質を見誤ったのだ。
悪夢祓いは、夢を叶えるのが仕事じゃない。
休日の学校は部活特有の声で賑わっている。雨が降っているのでグラウンド競技の活気は消えていたが、体育館からは湿気すら払うような躍動が聞こえた。合唱部や吹奏楽部の音色も同様だった。そのどれもを
「鬼林が言うには、二年が出るのは中盤だから、十一時くらいに順番が回ってくるらしい」僕は自分の左腕にある黒い腕時計で時間を確認した。「もう少しだな。急ごうか」
「練習試合だかなんだか知らないが、なんで俺まで見学に……」
「お前のためだろ」
「友達の応援なんだから、その友達のためだろ」
「絶好の機会なんだよ。お前だって、ずっと休んでたぶん、いきなり登校するのはちょっと怖いって言ってたし。まずは休日登校でちょっとずつ慣らしていくほうがいいよ」
僕がそう言うと、紫香楽空寝は、着こんでいたネイビーのパーカーに首元を
今日は、紫香楽空寝の
先日、夢の夢の治療を終え、現実世界へと覚醒した紫香楽空寝。長時間眠りつづけていたことから、彼の体力は落ちるところまで落ちこみ、食も細まるところまで細まり、姉の微睡曰く、生まれたての小鹿よりも小鹿だったらしい。そこから毎日少しずつ体力をつけ、家の中をまともに歩けるようになったところで、外へと連れだす計画を立てた。
僕のつけていた日記によると、はじめ、紫香楽空寝はたいへん拒んでいた。日の光を浴びた瞬間に「灼けるぅ」と呻き、数十メートル歩いたところで「づがれだ」と項垂れた。しかし、彼のためにも姉のためにも、なるべく早く学校に復帰したほうがいい。僕の放課後は、紫香楽空寝のために費やした。
そうして迎えた今日は、紫香楽空寝にとっても本番前の練習でもある。学校の空気に慣らして、週明け、いよいよ登校復帰する算段だ。
「マジで骨がみしみしいってる。自重に耐えきれてない感じがする」
「がんばれがんばれ。あとちょっとで着く」
「酸素が薄い」
「お前の場合はその黒いマスクのせいだよ。周りから浮くし、外したら?」
「無理だ。外界に接触する皮膚の面積はなるべく減らしたい」
気持ちはよくわからないが、紫香楽空音は露出を嫌う。仲夏のこの時期に長袖のパーカーを着こんでいるし、目元や首筋を見せたくないからと、伸びきった髪はほとんど切らなかった。地毛の黒さも
「ていうか、ちょっと本格的に気分悪い。寒気がするし、耳鳴りもする……」
そう言う紫香楽空寝の顔があんまり蒼褪めているものだから、無理をさせすぎたかもしれないと、僕は「座れるところ探して休む?」と気遣った。
「試合見学はどうするんだ」
「お前が落ち着ける場所を見つけてから行くよ」
「置いていくってのか? 薄情すぎるだろ。俺を一人にするなよ」
「薄情って言ったら僕がなんでもかんでも言うこと聞くと思うなよ。今日はお前のリハビリもだけど、鬼林の応援にも来てるんだよ。置いていかれたくないなら弓道場で休め」
紫香楽空寝の手を引きながら歩いていくと、弓道場に辿りついた。
ビニール傘を閉じ、雨粒を払っていると、傘立てにある傘の本数が異様に多いことに気づく。折り畳み傘まで散らばってあった。部員だけでなく、僕たちのような見学者もちらほらいるらしい。
硝子扉から弓道場の中を覗く。すると、偶然、すぐに、順番を控えていた鬼林と目が合った。鬼林はニッと笑みを浮かべる。僕が小さく手を振ると、鬼林は視線を戻した。
紫香楽空寝はと唸るように呟く。
「あのきらきらしてるやつが鬼林……?」
「そう。あの弓道着の集団の中で一番きらきらしてるやつが鬼林」
「一生
「怖くない怖くない。あいつは誰とでも友達になれるくらいいいやつだよ」
「誰とでも友達になれるやつってのは、友達になってない誰かに気づいてないだけだ。いいやつほど、誰にもばれない程度に線を引くぞ。いまに見ろ。俺たちみたいな鼻つまみ者、愛想笑いで片づけられる……」
「鬼林にかぎってそんなわけあるか」
「それより、想像以上に人口密度が高い……人がごみのようだ」
「やっぱりお前はどこかで休憩したほうがいいんじゃない? 僕が鬼林の試合を応援するのは絶対として」
「あんたが俺に付き添ってくれるのも微レ存だろ」
「とりあえず自販機で飲み物でも買おうか。手切れ金として奢ってやる」
「この男捨て去る気満々じゃないですかヤダー……」
僕と紫香楽空寝は雨を避けながら、弓道場のすぐそばに建つ、校舎同士を接続する渡り廊下へと向かった。雨を凌ぐ屋根があるだけで吹きさらしの渡り廊下は、分岐した道をずんずんと突き進んでゆくと、食堂舎へと辿りつく。そこには自販機も設置されていた。品揃えは豊富で、その中でも紫香楽空寝は、コーヒーゼリー入りの炭酸飲料を所望した。
紫香楽空寝は顔を顰めて「変な音が聞こえる」と呻く。
「大丈夫か?」
「だんだん大きくなってる。羽ばたきみたいな不気味な音だ。あんたは聞こえないのか?」
「聞こえないよ。耳鳴りだろう」僕はいよいよ心配になってきた。「微睡さんに連絡する? ずっと眠りつづけてたから体も弱ってるし。普通にまずいんじゃないか? なんなら病院に行ったほうがいいかもしれないし、」
そのとき、あまりにも存在感のある声に、僕も紫香楽空寝も引きつけられた。
「——どうしてあたしを見ようとしないのだ? あたしはお前を見てしまったというのに」
雨に紛れてもひときわ強く降り注ぐような声だった。
僕も紫香楽空寝も思わず仰いだ。
見つめた先は、食堂の隣にある校舎だ。二階の窓に人の姿が見える。見た者を委縮させるほどの金色に髪を染めた、ショートヘアの女子生徒がそこにいた。
窓の外へと吐息を漏らす姿は、まるで映画のワンシーンのよう。けれど、彼女にはシネマヒロインのような
「——ああ、ヨカナーン。お前は死んだけれど、あたしは生きている。お前の首はあたしのものよ。やっと好きなようにできる。その唇に口づけることだって」
彼女の言葉に耳を傾けながらも「ヨカナーンってなんだ」と小さく呟いた僕に、紫香楽空寝は「洗礼者ヨハネだろ」と同じく小さく返した。
「戯曲のサロメに出てくる登場人物。聖書が元になった話だったはずだ。王女のサロメはヨカナーンに恋をするが、ヨカナーンに冷たく詰なじられ、拒まれた。サロメは王に舞を見せ、その褒美にヨカナーンの首を望んだ。サロメはその首に口づけて、それを見た王に殺される」
「よく知ってるな」
「ネット界隈じゃ一般教養だからな、俺も履修済みだ」
となると、彼女は演劇部かなにかだろう。今日活動しているのは弓道部だけじゃないし、芝居の練習でもしているのかもしれない。僕は心中で納得した。
にしても、本当に惹きこまれる演技だ。迫真と言えばいいのか。飢えの渇きを宿したような声質は耳障りがよく、蠱惑的でもある。ただ見上げているだけのいますらも呑まれるようだった。浮世離れした佇まい。僕たちは時も忘れてその姿に釘づけになる。
そのとき、彼女は物憂げに視線を滑らせ、そして、こちらに気づいた。ずっと見ていたことにどこか気まずい感情を覚えたとき、彼女は目を見開き、白い歯を見せるように笑んだ——瞬間、窓の縁に足をかけ、飛び降りる。
「えっ」
僕と紫香楽空寝の声が重なる。
重い音を立てて彼女は落ちた。
校舎の二階とは言え、かなりの高さだ。普通に怪我をしていてもおかしくなかった。
「嘘だろ!」
「だ、大丈夫ですかっ?」
僕たちが駆け寄ろうとしたとき、彼女はのろりと立ちあがる。
なんでもないように歩みを進め、僕らの、否、紫香楽空寝の目の前で止まった。
紫香楽空寝は圧倒され、後ずさる。彼女はそれに合わせて一歩近づいた。女子にしては高めの身長。雨に濡れた鮮烈な金髪の根元は黒かった。果実を絞ったように色づく唇とは対照的な、目元の黒い隈。そんなおどろおどろしい目で見据えられた紫香楽空寝は、マスク越しでもわかるほど息を焦らせていた。
「——あたしは今も恋焦がれている」
彼女は紫香楽空寝のマスクに指をかけ、取り外した。片耳にぶら下がるマスクを鬱陶しそうに掻き分け、彼女は紫香楽空寝の青白い頬に触れる。紫香楽空寝が震えたことで、その黒髪が一度だけ揺れた。
「——ああ、ヨカナーン、お前ひとりなのだよ。あたしが恋した男は。この世にお前の体ほど白いものはなかった。この世にお前の髪ほど黒いものはなかった。この世のどこにも、お前の唇ほど赤いものはなかった」
彼女は一息ついてからその顔を寄せ、あろうことか、紫香楽空寝の唇を奪った。
目を見開いて固まる。雨の音と、二人の口の中でくぐもった息だけが鮮明だった。僕も石のようになって立ちつくす。すると、彼女は唇を放し、囁くように語りかけた。
「——お前の唇は苦い味がする。血の味かい? いいや、これはきっと恋の味なのだよ。恋は苦い味がするからね」
正気を取り戻した僕が彼女から紫香楽空寝を引き剥がしたのと、「あーっ! また憑いてる!」という悲鳴のような声が聞こえたのは同時のことだった。
僕は声があったほうを見上げる。彼女が落ちてきた二階の窓だ。見知らぬ生徒が彼女のことを「部長!」と呼んでいた。その生徒は僕たちに対して「すみませーん!」と声を上げる。
「そのひと、演劇部の
その生徒に急かされたのち、彼女はややあってから、スカートをひらめかせるように去っていった。僕はそのあまりにもあっけない、素っ頓狂な後ろ姿を見つめた。なんだったんだいまの、と呆けてしまう。咄嗟に紫香楽空寝を引き剥がしてしまったけれど。そこでハッとなって、僕は紫香楽空寝を見遣った。
赤いんだか青いんだかわからない顔色だったが、いまにも泡を吹いて失神してしまいそうな形相だった。僕が「大丈夫?」と体を揺らすと、やっとというふうに紫香楽空寝は言った。
「はじめてだったのに……」
紫香楽空寝はそのまま気絶した。
結局、紫香楽空寝の介抱のため、僕は鬼林の応援をし損ねたのだった。
『——今宵の月はこんなにも綺麗だけれど、月の女神は残酷なの……ねえ、お願いよ、月の女神セレネ。その気まぐれでわたくしの願いを聞き届けて。どうかロミオをここへ誘いざなって』
また、エチュードや創作の短編コメディー、一人芝居を動画投稿サイトにアップしていて、〝つぐつぐつぐみんのつぐつぐチャンネル〟と調べれば、彼女の動画一覧がピックアップされる。彼女が見せるそれぞれの役への類まれな七変化に、「憑依がごときトランス状態」「これはなんか憑いてる」「いつもの
彼女がジュリエットを演じる寸劇の動画を
あのあと僕は紫香楽空寝を保健室へ運びこみ、彼が目を覚ますまでそばで付き添った。微レ存だった。すっぽかしたこととその謝罪を鬼林に連絡していると、紫香楽空寝は目を覚ました。ベッドの上で震える紫香楽空寝は「基地外ヤンキー痴女に目をつけられた」「二度と学校なんか来ない」と言った。
僕からしてみれば「しゃらくさいんだよ、お前のせいで鬼林の応援に行けなかったじゃないか、どうしてくれるんだ」と歯噛みしたものだが、紫香楽空寝にも同情の余地はある。
とりあえず焼野原に相談すると「登校日は私が紫香楽空寝を迎えに行きます」という心強い返信があった。しかし、紫香楽空寝のトラウマは相当だったようで、登校日たる今日、焼野原の尽力も空しく、彼は教室ではなく保健室にて引きこもっていた。
というわけで、僕は昼休み、鯱先輩———の動画を見ながら、ベッドで縮こまる紫香楽空寝をあやしているというわけだ。
「ねんねよ ねんね ようらん ねんねよ」
「やめろその不気味な歌。眠気を誘う」
「寝つけてなさそうだから歌ってやったんだろ」
「アロマを焚こうとするな。アイマスクを差しだすな。寝不足はあの鯱とかいう女のせいだ。夢に出てきそうで怖いんだ。助けて、エバーグリーン……」
「焼野原は次の授業が体育で着替えがあるからって今日はここには来ない」ふとんを被ってどんどん丸まっていく紫香楽空寝を、僕は睥睨する。「ていうか、夢のまた夢だったとはいえ、お前も一応は明晰夢の使い手だろう」
夢に出てこないよう操舵すればいいと、紫香楽空寝に指摘した。
紫香楽空寝の見た夢の夢は、彼の思いのままになる世界だった。自身が夢を見ていることを自覚し、夢の内容をコントロールできていた。あの復讐を成し遂げるための世界こそが明晰夢であるなによりの証拠だ。夢の夢から覚めてもなお、その感覚は残っているはずである。
しかし、紫香楽空寝は断じた。
「そんな簡単にはいかない……あれはかなり自分の意識に左右される。夢の中で俺があいつらを完膚なきまでに叩きのめして圧勝できたのは、〝あいつらは俺になんて興味がない〟って自覚してたからだ。だから、夢の中のあいつらは棒立ちだった。俺に気づいてすらいなかった。そうあるものだと、俺が思いこんでいる」
「そういうものなのか」
「結局、夢ってのは記憶の整理だから、自分が思いこめる以上のことはできないんだよ。出てこないと思ったら出てこないけど、出てくると思ってたら出てくる。あの女が夢に出てきたら、俺はビビったことを思い出して、どうしようもなくなる。敵わないって思った時点で負けなんだよ。陰キャはみんな泣き寝入りだ。狸寝入りだ」
「狸寝入りでやりすごせるならいいけど」
「そんで? あんたはなんでその女の動画なんて見てるんだ?」
画面の中では、ジュリエットの衣装に身を包んだ鯱先輩が、『おお、ロミオ、ロミオ』と有名な台詞を唱えている。僕はじっと見つめたまま口を開いた。
「……紫香楽空寝、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「どうでもいいけど、なんであんたも焼野原も俺をフルネームで呼ぶんだ、どうでもいいけど」
「たしか、お前はあの日、僕には聞こえない変な音を聞いたんだったよね」
「変な音って……どうせ耳鳴りだってあんたが言ったんだろ」
そうだっけ。寝れば忘れるほどの情報だったのだろう。日記でも端的にしか書かれてなかった。
しかし、紫香楽空寝は「あんたが気にしてるのは、あの基地外ヤンキー痴女が、夢に憑かれてるんじゃないかってことか?」と核心を突いてくる。
悪夢から病み上がりの人間は、免疫力が低下しており、且つ、感度は高くなっている。だから、他人の夢に反応しやすいのだ。たとえば、正夢から覚めたばかりの鬼林は、焼野原に憑いていた邯鄲の夢の鳴き声を察知した。紫香楽空寝の耳鳴りも、その一種なのではないかと、僕は勘ぐっていた。
「なにかに憑かれているような、鯱先輩の演技。目元には隈」
「〝憑かれてる〟は単なる
「寝不足は侮れないさ。睡眠障害を抱えている時点で、夢に憑かれている可能性は高い」
そもそもの悪夢——悪性の夢とは、夢見主に害を与えるものを差す。実際に睡眠障害を誘発させるケースや、無自覚または無意識のうちに蝕んでいるケースなどがあるが、例として挙げるなら、前者が鬼林、後者が焼野原や紫香楽空寝である。
鬼林の睡眠不足と疑心暗鬼。焼野原の解離性障害。紫香楽空寝の昏睡状態。どれも治療しなければならないのに変わりはなかった。
「ていうか、初対面の相手にいきなりキスする奇行を、悪夢に憑かれているから、という理由以外で、僕は理解できない」
「やめろ……思い出させるな……」
「サロメってやつを僕も調べてみたんだけど、あのときの鯱先輩の台詞は、物語の終盤、サロメが斬首されたヨカナーンの首にキスをするシーンだね。お前の見た目がヨカナーンにちょうどよくて近づいたんだろうけど、にしてたって、鯱先輩の役への入りようは凄まじかった」
あの日の様子を思い出したらしい紫香楽空寝は、制服の上に来ているパーカーのフードを被り、ふとんにくるまって「ガクブル」と震えた。
「別人に成り変わるという意味では焼野原のときと似ているけれど、お前が聞いたのは邯鄲の夢のような優雅な音色ではないようだし……診察もしていない現段階では、まだ確証は持てないな。やっぱり鯱先輩と直接会って確かめたほうが早いかも」
「またあの女に会うの? 勇敢すぎるだろ」
「いまのところ僕に被害はない」
「にしたって、不気味だった。なに考えてるかわかんなくて、得体が知れない」
「それこそ、病んでしまっているからかもしれない。もしも鯱先輩にそういった実害があるなら、早急に治療に当たったほうがいい」
「俺のときみたく、相手は実害がないと感じていたら? 第一、あんたはよく覚えてないかもしんないけど、あの女、まともに会話できるかも怪しかったぞ。そんな相手を前に、あんたはどうするつもりなんだ?」
たしかに、と僕がため息をついたそのとき、保健室のドアががらりと開いた。
入ってきたのは、鯱先輩だった。
目が引ん剥くかと思った。噂をすれば影というが、よもやこんなにもタイミングよく現れるとは。驚いて時の止まった僕とは裏腹に、紫香楽空寝は「シャッ」とベッドを囲むカーテンを閉め、立てこもるポーズを取った。どうあっても見つかりたくないらしい。
一人、放りださされた僕を彼女が見つけると、「あの、先生は?」と声をかけてきた。
「外出してます。僕は保健委員なんですけど……怪我の手当てですか?」
「足が痛くて、捻挫してそうなの。湿布もらえる?」
「わかりました。ソファーに座っててください」
彼女はそのハスキーな声で「うん」と返し、ソファーに腰かける。紫香楽空寝は懸念していたけれど、意思の疎通に齟齬はないと、僕は感じた。
残存する彼女のイメージとは違い、落ち着いた印象がある。先輩の貫禄とでも言えばいいのか。堂々としているようにも、他人に頓着していないようにも見えた。
僕は白衣に袖を通したあと、冷蔵庫で冷やしてあった湿布を彼女へと渡す。その湿布で覆えるか怪しいほど、彼女の足は大きく腫れていた。
「……病院に行ったほうがいいんじゃないですか?」
「そうかも。すっごく痛いんだよね。ただの捻挫じゃない感じ」
「下手したら骨にひびが入ってるかもしれないですよ。いつからですか?」
「たぶん……休日から、かな?」
「それって、二階の窓から落ちたときの怪我じゃないですか」
たしか、鯱先輩がサロメとして
僕は納得していたのだが、鯱先輩は不意を突かれたような顔をした。擦り切れそうなほどかすかな声で「夢じゃなかったんだ」とこぼす。僕はそれに反応した。
「夢じゃなかったっていうのは?」
「なんか、そういうことをしたような記憶は、あるんだけど、それが現実だったのかどうか、わからなくてさ。最近こういうことが多いんだよねえ……ていうか、君、なんで知ってるの」
「僕もその場にいましたから」
「え、うそ、覚えてない」
「まあ、そうでしょうね。そのときの先輩はサロメだったので」
暗にヨカナーンに夢中で他が見えていなかったのだろうと伝えると、鯱先輩は息をついた。鯱先輩も自分の状態に気がついているのかもしれない。
「こういうことが多いって言いましたけど、似たようなことがあるんですか?」
「まあ……君も知ってそうだから言うけど、浸つかると夢中になっちゃうから」ぼんやりとした目で鯱先輩は続ける。「でも、それがここのところひどくて」
「目の隈もひどいですね。寝れてないんじゃないですか?」
「寝てても起きてるみたいなんだよね。疲れるんだ」
「……なにかよくない夢でも?」
「ううん。生きてるんだ。たとえばサロメを、たとえばジュリエットを、たとえば鯱鶫を」
ここにきてはじめての、要領を得ない返答だった。僕の聞きかたが悪かったのだろうかと訝しんだとき、鯱先輩は言葉を重ねた。
「夢の中で、サロメを生きてる。月のように純潔で冷たい男に恋をして、そして死ぬ。あるいはジュリエット。敵対する家の息子と恋に落ち、そして死ぬ。ありとあらゆる人生を生きて、目が覚めると鯱鶫。いいや、本当はサロメやジュリエットかもしれない。鯱鶫こそが演じている登場人物の名前なのかもしれない。自分の名前を呼ばれても自分の気がしないんだ。どれが自分自身か、わからないんだよ。あのときだって、演じてサロメになったんじゃなくて、君の言うとおり、サロメだった」
まるで同一性障害。幼虫が蛹を経て蝶になるような完全変態だ。
演者の感覚は僕にはわからないが、鯱先輩の様子を見るかぎり、それはまともな状態ではないのだろう。実害も起きている。眠っているあいだにすら蓄積されるだろう疲労感もだが、現在負っている怪我がまさしくそうだ。
なにより危険なのは、その役でいるリアルタイムに自覚がないことだ。いまのように〝鯱鶫〟でいるときは自覚できていたとしても、その役になっているときに鯱先輩の意識はない。鯱先輩自身も、どれが自分自身なのかわからないと言っている。強烈な自己の錯覚。
悪性の夢に憑かれている。
僕は確信した。
間違いない。鯱先輩を脅かしているその悪夢は——
「胡蝶の夢」
と、鯱先輩は言った。
まるで心を読まれたかのようなタイミングだったので、僕は息を呑んだ。
しかし、鯱先輩は飄々とした態度で「みたいだよね。知ってる?」と続けたのだった。
「……知ってます。荘子の故事ですね。夢の中で蝶になって飛んでいた荘子が、目を覚ましたとき、蝶になった夢を見ていたのか、それとも今の自分こそが蝶の夢なのかわからなくなったという。現実と夢の区別がつかないときの喩えとしても使われる言葉です」僕は一拍置いて告げる。「まるでいまの貴女のようだと、僕も思っていました。なにが夢で、現実で、本物で、偽物で、自分なのか。境界線のない意識の中で迷っている」
そう言うと、鯱先輩は口角を上げた。
「でも、荘子の言葉には続きがあるよ……己も胡蝶も、形のうえでは違うものだが、主体としての自分に変わりはない、と。ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『人の世は夢』に通ずるものがあるね。知ってるかな。岩窟に幽閉された王子・セヒスムンドを。彼は鎖に繋がれた人生と、王座に就いて暴君となった人生の、二つを体験するんだ。そうして彼は気づいたんだよ」
鯱先輩は深く息を吸った。スエードを撫でるように優しい声音が、空気を震わせる。
「——僕たちは、生きるとは、ただ夢を見ることでしかない。人生は狂気であり幻。影であり見せかけ。いかなる大きな幸福とて、取るに足りない。まさに夢。夢は所詮が夢なのだ」
僕は目を瞬かせた。鯱先輩の即興劇のようなふるまいに圧倒されたこともあったが、その言葉の意味を咀嚼しかねていたのだ。
「……人生は夢のように儚く、取るに足りない、意味のないものだという意味ですか?」
「えー、なにそのマイナス思考。そんなこと一言も言ってないじゃん。彼が言いたいのは、見せかけなんて気にしなくていいから、ただそのときの己の心に従え、ってことだよ。知らないかあ、『人の世は夢』、読んだほうがいいよ、人生観が変わる」
「はあ」
僕の間の抜けた返事に頓着することなく、鯱戦先輩は「だからね、」と続ける。
「別にいいんだ。鯱鶫だろうが、サロメだろうが。そのときの自分が感じたように生きる。全ては心次第なんだから、心のままに。むしろ、どんな役にもなりきれるこの好都合を有効活用しないとね。部活の演劇もそうだけど、動画の投稿だって、もっと活発にやっていきたいし」
またもや「はあ」と流しかけた僕だけれど、よくよく考えるととんでもない発言をスルーしかけていることに気がついた。ちょっと待て。彼女は、なんと言った。
〝別にいいんだ〟?
〝今の状況を有効活用しないとね〟?
この流れは、非常にまずいんじゃないのか。
「あの、鯱先輩……僕からしたら、いまの状態は深刻に見えます。その夢は、危険です。このままでは貴女は貴女を失ってしまう。こうして怪我までしているし、そんな隈まで作って。悪いことは言わないので治療しましょう。僕ならそれを治すことができます」
「よくわかんないけどいい。困ってないし。君こそいきなりなに? 危険なんだけど」
僕はショックを受けた。
危険と揶揄されたことじゃなくて、彼女に治す気がないことにだ。
三戦錬磨——さすがに百戦とまではいかない——の僕ともなれば、この流れにも慣れたものだが、鬼林のときとも焼野原のときとも紫香楽空寝のときとも違う。鯱鶫は格段にやりづらい患者だと思った。なんせ、困っていない、悩んでいない、悪いものだと気づいていない、むしろいいものだと思っている節さえあるし、でなくとも楽観視している。深刻なのは僕ばかりだ。そのことに僕は煩悶した。
「でも、事実それで先輩は怪我だってしているじゃないですか。赤の他人をヨカナーンだと思いこんで二階から飛び降りたんですよ? おまけにそいつにキスまでした」
「げっ、それも夢じゃなかったの? 最悪~」
「そうです、最悪です、誰にとってもいいことがない事件でした。その怪我、演劇のほうにも差し支えるんじゃないですか? 寝不足だって解消されないままだ」
「芝居の本番までには治す。絶対にね。でないと本末転倒だ」
「先輩はなにを考えてるんですか」
「夢のことを考えてる」
戸惑う僕に、鯱先輩は「寝てるあいだに見るほうじゃなくて、将来のほうね」と添えた。
「役者になるのが夢なんだ。そのためにいっぱい努力したい。二年くらい前に受けたオーディションの審査員にね、役になりきれてないって言われたんだ。その役の気持ちがわかってないって。ただわかった気になって演じてるだけだって。芝居をしてても実感することがある。この役の心を理解できてないって。だから、夢を叶えるためには、誰かの心を理解しなくちゃいけないんだよ」
あ、と声が漏れそうになった。実際に漏れていたかもしれない。けれど、鯱先輩は気にしなかった。それほど夢中だった。僕も、彼女の夢見る眼差しに、真摯な表情に、目を逸らせないでいた。
悪夢祓いとして、彼女の見る胡蝶の夢を治療しなくちゃいけないのに、それはよくないものなのに、どうしよう、たぶん僕は生まれてはじめて、他人の心に共感した。このひとの気持ちをよくわかると思った。
悪夢祓いになるために、ひとの心を知りなさいと言われた。
ひとの心の震えるわけをお前は理解できないから、と。
祖母の言うとおり、僕にとって、他人の心とはあまりに途方途轍もない代物だ。猟ヶ寺から薄情者と詰られるのも道理だった。紫香楽空寝の件に関しても僕は無力で、未熟者で、いまのままでは、悪夢祓いにふさわしいとは言えない。
だからこそ、誰かの心を理解したい。
「サロメとして生きると、サロメの感情を実感できる。理解できるんだよ。その喜びや悲しみは見上げた月に似ていた。汚されたことのない生娘のように清廉な色で、情熱と血の紅が差していて、心はこんなにも燃えあがりそうなのに、彼から与えられるものは刺すほどに冷たい……もっと知りたい、サロメだけじゃない、いろんな心を」
鯱先輩の焦燥がじりじりと空気を伝っていくようだった。僕はその情熱とも取れる温度を感知して、二の句を継げないでいた。
「知ってからでもいいでしょう、治すのは」
鯱先輩が揺らぐことはなかった。
ただ、僕が揺らいだ。
その夢を叶えてあげたいと思った。知りたいと思った。彼女がどんな心に触れて、どのように変貌していくのか。
さて。鯱先輩が「一応は病院にも足を診てもらうよ。サンキュー」と言って保健室を後にするまでずっとカーテンの向こう側で話を聞いていた紫香楽空寝は、開口一番に「なんでだよ」と言った。僕も僕自身に驚愕していた。鯱先輩を診るどころか、看過してしまったのだから。
他人の夢を応援している場合か。
僕だって悪夢祓いになりたいのに。
冷静な判断ができなかった。完全に情に流された。
けれど、僕はその判断を後悔していないのが、なによりも救えない。
結局のところ、僕は、はじめてこんなにもまっすぐに誰かの心を理解できたことが、嬉しかったのだと思う。そこで有頂天になってのこのありさま。紫香楽空寝に「やーらかしたー、やらかしたー」と散々煽られても、文句の一つも湧いてこなかった。ええ、そうですよ、やってやりましたよ、という気分だ。その高揚は未だかつてないほどで、記録として日記を綴っているときから翌朝読み返すときまで冷めやらぬ、マグマがごとき熱だった。
しかし、僕もタダで病を見過ごしたわけじゃない。
その日の僕は鯱先輩に「芝居の稽古を見学させてもらう」という約束をとりつけたのだ。
「君もおかしな頼みをしたもんだ」鯱先輩は目を眇めた。「完成形は動画にも上がるのに、それ以前の工程を知りたいだなんて」
ある日の昼休み、体操着姿の鯱先輩は、木陰の下で台本を読んでいた。体操着を着ているのは、次の授業が体育というわけではなく、ただ単に「衣装がないから」とのことだった。半ズボン姿が少年をイメージしているのだろう。演じるのは、中学の国語の教科書でお馴染みの、ヘルマン・ヘッセ著『少年の日の思い出』より、エーミールだ。
「でも、運がいいよ。いま読みこんでいる『少年の日の思い出』は、著作権法改正によってパブリックドメインでなくなったはずだから、ぶっちゃけ動画としてアップするのが怖くて、お蔵入りにしようと思ってたんだよね」
「え、なのに練習してるんですか?」
「うん。君へのファンサとして」
「ありがたいんですけど、すみません、僕、ファンじゃないんですよね」
「大丈夫。魅せてあげるから」
魅せられた。鯱先輩の役の作りこみは、感情の掘り下げは、実に見事だった。どうしてそのように思ったのか、そうしてその行動を取り、その言葉を吐いたのか。国語の文章読解のように、僕に問いかけ、答えを提示してくれるのだ。
またある日の鯱先輩は僕に語った。
「トゥーランドット姫の復讐心の根本にあるのは、嫌悪と恐怖だよ。異国の男のもと、絶望の中で死んでいったロウ・リン姫へ、ある種の共感をしてるんだ。己を求める男とはみんなそのような生き物なのだ。自分もこのようにはなりたくない。だからこそ、自身の虚勢を見破り、真摯に自分を見つめてくれたカラフは、その心に刺さったんじゃないのかな」
「わかりません。嫌悪と恐怖があるなら、カラフのことだって拒みきると思います」
「カラフはトゥーランドット姫に無理強いはしてない。そして、いつだって正攻法だ。彼女のなぞなぞを確実に解き、あまつさえ、彼女がその約束を違えようとしたときですら、自分もなぞなぞを出すことで彼女に猶予を与えたんだもの。そして、彼女の深層心理を見抜き、どれだけ冷たくされても〝本当の貴女はそんなひとではない〟と囁いた。そりゃあ、トゥーランドット姫も心を開いちゃうでしょ。カラフのそれはたしかに愛だと、そして、自分も彼を愛してしまったと認めざるを得ない」
「相手の尊重による不安の解消と、本意の言い当てによる心の壁取り、ってことですか」
「カラフの仕掛けた心理戦を分解するとそうなるんじゃない? ロマンスが息してないけど」
まるで授業のよう。いくつもの作品を跨ぎ、胡蝶の夢で得られた感情を一つ一つ整理して、鯱先輩は僕に講習をおこなった。僕がその内容を記録につけるたびに、鯱先輩は面白がって懇々と語ってくれた。それに乗じて、僕もいくつか質問をする。
「傷つけられたほうにも理由はあると思いますか?」
「なにその抽象的な質問」鯱先輩は目を眇めた。「まあ、あるだろうね。大概はそのひとに理由がないと傷つけられないだろうし」
「〝大概〟以外だとなにがありますか?」
「傷つけたほうに余裕がない。たとえばさ、トイレが一個しかなくって、すっごいトイレ行きたいとするじゃん。そういうときって、普段なら〝先にトイレ行っていいですか?〟って聞かれて〝いいですよ〟って返せるひとでも〝いや、無理です〟ってなると思うんだよね。でも、無理ですって言われたひとからしたら〝え、なんで? 私はこんなにトイレ行きたいのに。このひと意地悪だなあ〟って、傷つけられたって思うんだよ」
「でも、なんかそれ勝手ですね。こっちがどんなにトイレ行きたかったか知らないくせに」
「そうだねえ。相手を思いやる気持ちが欠けちゃってるねえ。だったら次はこう考えてみて。先にトイレ行かせてくださいって頼んできたひとが、大好きな友達だったとする。枕部はどう思う?」
「……譲るかもしれないです」
「逆に、先にトイレ行かせてって枕部が頼んだのに、そいつから無理って言われたら?」
「……けっこう切羽詰まってるんだろうなあ、だったらしょうがないなあ、って思います」
「そうなんだよ。相手への好意があるかないか、思いやるほど心が傾いているかどうかで、言葉の受け取りかたや返答まで変わってくる。心って本当に正直だよねえ。相手を傷つけたり、相手に傷つけられたりするのは、相手を思いやる心がないから。相手に興味がないからだよ」
蝶よ花よと育てられてきたんだろうなと感じるほど暢気な人間の思考とは思えない、穿った指摘だった。鯱先輩と話していると、これまで気づかなかったことに気づかされる。それは、自分の意識だったり、深層心理だったりと、僕一人では気づくことのできなかったであろうことだった。
そんなこんなで僕と鯱先輩の交流は続き、気づけば期末試験を迎える時期に来ていた。
「いや、だから、なんでだよ。あんた、あのひとの悪夢を治療するんじゃなかったのかよ」
ある日の放課後、僕と紫香楽空寝はショッピングモールのゲームセンターにいた。
以前、焼野原とも来たことのあるこのゲームセンターには、紫香楽空寝お目当ての、ミラクルプリティー☆RGBのトレーディングカードアーケードゲームが設置されているのだ。紫香楽空寝の放課後はそれに費やされる。久方ぶりに目覚めてこっち、好きなアニメのカードが発売されていると知った途端、紫香楽空寝は破竹の勢いで収集していった。
今日も今日とてホルダーからカードを選びながら、僕に背を向けてプレイに熱中していた。先の発言は、そのブレイクタイムにおいてのことだった。
プレイ画面を見ながら、僕は「治療すよ。もう少ししたら」と答えた。
「深刻だとか、早急に治療に当たったほうがいいとか、言ってたのにな」
「……鯱先輩は胡蝶の夢を上手く統御しているように見える。もしかしたら、悪性から良性に転じる可能性だってある。経過観察する猶予はあると判断したまでさ。僕も勉強になっているし、これは必要な過程だ」
「本当にいいのか?」紫香楽空寝は目もくれずに言った。「二人が保健室でしゃべってるときはこっそり話聞いてるけどさ、だんだんやばくなってきてるだろ、あのひと」
このことに関しては、紫香楽空寝の言うとおりだ。
近頃の鯱先輩の錯覚は著しい。話が通じないことが多くなった。ぽんぽんと飛ぶし、いきなりトリップするし、なにより〝 鯱鶫〟の時間が格段に減ってきている。演劇の本番が違いからか、もうずっと〝サロメ〟のままだ。
紫香楽空寝の問いかけに僕は押し黙る。
すると、そのとき、誰かにガッと腕を掴まれた。振り返る間もなく引っ張られ、そのまま紫香楽空寝から引き離される。プレイに夢中になっている紫香楽空寝は気づかない。僕は自分を引きずる女の子女の子したシルエットを見つめた。後ろ姿でも、それが猟ヶ寺だとわかった。
猟ヶ寺はそのまま僕をプリクラコーナーにまで連れてきた。ふわふわしゃらしゃらしたBGMがあちこちから聞こえてくる。ある一台のプリントシール機の中に入り、淡々とお金を投入した。僕は唖然として、その姿を見つめる。
「なんなの、いきなり」
「なにを血迷っているのかと思って」
血迷っているのはそっちじゃないかと、シールの背景を選んでいく猟ヶ寺に思った僕だったが、そのあとすぐに「どうして祓わないの」と続けられ、押し黙った。
「鯱鶫の病の進行は相当よ。このままでは自分を見失うわ。初期治療でどうにかなる段階で対処しておくべきだったのに、なにをもたもたしているの」
プリントシール機の「かわいくポーズをしてね」というポップな声が浮いていた。猟ヶ寺は撮影のタイミングで逐一キメていたけれど、話す声は冷たかった。
「……鬼林くんのときに私が言った言葉を覚えているかしら」僕は口を開いたけれど、それを待たずに猟ヶ寺は言った。「本当に危険だと見なしたときは、私のやりかたで終わらせる。忠告よ。鯱鶫の病状は近日中に末期を迎える」
僕は息を呑んだ。そのタイミングでちょうどシャッター音が鳴る。画面に映しだされた僕の顔は真っ青だった。
「……僕の患者だ。ちゃんと治療はする」
「あっそう。なら早くして。でないと、鯱鶫が可哀想だわ」
「いまの状況は鯱先輩の望みでもあった」
「悪夢祓いは夢見主の病を癒すことが仕事よ」
「でも、心を守らなければ、なんの意味もない」
「あの状態で、鯱鶫の心を守れていると言えるの? 貴方は自分のために鯱鶫を利用しているだけでしょう」
僕はゆっくりと拳を握りしめた。
たしかにそのとおりだ。僕は、鯱先輩を通して、心のありさまを知ろうとした。どのようにひとの心は移ろっていくのか、例えばどんな色や温度をしていて、どのように震えるのか、理解したいと思った。でも。
「……見て見ぬふりだと、僕を薄情者と言ったのは、お前だろう」
猟ヶ寺の饒舌がやんだ。
僕は猟ヶ寺をじっと見据える。
「だから、僕は心を知ろうとしてる……だけど、お前は、僕がなにをすれば満足してくれるんだ。お前は、僕に、なにを望んでいるんだ」
その玲瓏な声を淀ませたことのない猟ヶ寺が、はじめて、僕になにも返さなかった。
しばし目を瞠っていた猟ヶ寺だが、ややあってから、落ち着きばらった様子で振り返った。
「なんにも」
「…………」
「言ったでしょう。私は貴方に期待なんかしてないって。どうせそれも覚えてないのよね」
僕たちが見つめあっているとき、シャッターが切られた。その一枚が最後だったらしく、プリントシール機から「落書きだよ! 右のブースに移動してね!」と指示される。猟ヶ寺は置いていた鞄を肩にかけ、「じゃあね」と右側のカーテンをめくりあげる。
「覚えてるよ」
僕はその背中に告げたけれど、猟ヶ寺が振り返ることはなかった。
その日はテスト前週間だったため、全部活動が休みとなっていた。
吹く風に涼しささえ感じなくなってきた盛夏の時候。じっとりとした暑さに体中が汗ばんでいる。全校からカーディガンを着た者はいなくなり、半袖から腕を晒していた。クーラーのある保健室に閉じこもっている紫香楽空寝だけは唯一パーカーを着こんだままだったが、それも夏物の薄い生地に変貌していた。
今日、鯱先輩の胡蝶の夢を治療しようと思っている。
本来なら、テスト後の演劇発表会でサロメを演じるまでが、鯱先輩の望んだことでもあったはずだ。しかし、これ以上は無理だと判断した。病状に対しては遅すぎるほどだったが、それでも、まだ間に合うはずだ。
僕は鯱先輩を探す。連絡をしても返事がなかったため、どこにいるのかわからなかった。普段芝居の稽古をおこなっている場所にも、僕に指南してくれた場所にもいなかった。部室にならいるかもしれない。可能性としては一番ありえると、僕は演劇部の部室へと向かった。
部室の扉の前に立っても、中から人の気配は感じられない。そもそも鍵は開いているのだろうかと扉に手をかけると、意外にもすんなりと開かれた。夥しい資料の並べられた棚と、小道具らしい雑多な物がいくつか。
ふと、倉庫部屋に繋がる扉が開いていることに気づき、僕はノブに手を置く。すると。
「——あたしの望むものを、なんでもくださりますかしら。陛下」
それを聞いた瞬間、僕の背筋に怖気が走った。それは蒸し暑さすら払拭するほどで、服の中を氷が滑り落ちていった感覚に似ていた。僕はその場で硬直したまま動けなくなる。倉庫部屋の中でサロメになっているだろう鯱先輩は、そのまま台詞を続けた。
「——踊りましょう。陛下があたしの望みを叶えてくださるのなら」
布ずれの音が聞こえてきたので、僕は扉を開けた。
ヴェールを纏まとった鯱先輩が踊っていた。ふわふわと漂いひらめくヴェールは、見た者を惑わせる妖気さながらだ。蝶のように舞う、息の呑むようなその姿に僕は魅入った。それほどまでに奇麗だった。
しかし、それと同じくらい、得体の知れない魔物のようで、気味が悪かった。
踊りが終わる。鯱先輩は跪いたまま立ち上がらない。髪の根本と同じくらい黒い隈に、長い睫毛の影を落としている。石のように固まった鯱先輩はなにかを待っているかのようだった。
僕は口を開く。
「……胡蝶の夢は、一種の同一性障害を引き起こしています。自分は鯱鶫なのか、それともサロメなのか、そんな混乱に陥るほどの錯覚。でも、先輩は鯱鶫なんです。すみません、こんなになるまで放置してしまって。もう終わりにしましょう」
「——あたしが望むのは、銀の皿に乗せた、ヨカナーンの首」
鯱先輩は顔を上げて告げた。熟れた唇から漏れたのはサロメの言葉。
「……ごめんなさい、鯱先輩」
「——ヨカナーンの首をくださいまし」
「もう目を覚ましましょう。僕が貴女を治療します」
「——ヨカナーンの首を」
「胡蝶の夢の治療法は暗示です。錯覚を塗り替えるほど強烈な自己暗示。貴女は鯱鶫です……どれだけ言っても足りないなら、夢の中まで伝えに行きます」
「——ヨカナーンの首を」
物語に出てくる登場人物がそのまま出てきたかのようで、台詞をなぞりあげるばかりで意思疎通ができない。あれほど心を説いてくれた彼女の、あれほど豊かな考えが少しだって読めず、これほどにまで不気味だった。
眠ってもらったほうが早かろうと、僕は
「ようらん ねんねよ
雨
まなこ晴らせよ
去るもの追わず 夢の中」
かくり、と鯱先輩の首が落ちかけた、しかしそのとき、彼女は僕に飛びかかってきた。僕は背中を床に打ちつける。鯱先輩は僕に馬乗りになり、細長い指で首を絞めたきた。僕の喉から呻きが漏れた。息苦しさと痛みに震える。ゆらりと微笑む鯱先輩は、恍惚の表情で囁いた。
「——あたしが望むのは、あなた」
死ぬ、と直感的に思った。
いまの鯱先輩は僕のことをヨカナーンとして見ている。息を荒げて、僕の首を所望している。
なにを言っても届かない、末期症状だった。
僕はやっとの思いで鯱先輩を振り払い、部室倉庫を飛びだした。距離を取って鯱先輩と相対する。鯱先輩は背後にあった大道具の製作用らしき鋸を取りだした。やばい。それは絶対に死ぬ。一時撤退を余儀なくされた僕は、そのまま部室から走り去った。
全速力で廊下を駆け抜けても、鯱先輩は追ってきた。途中で何人かの生徒と擦れ違い、驚愕の目を向けられる。周囲に被害が及ぶのではと思ったが、鯱先輩の目当ては僕だけのようだ。周りに目を遣ることもなく、一直線に僕だけを狙ってきた。
失敗した。失敗した。失敗した。
熱を吸って重たくなった空気の間隙を走りながら、僕は後悔していた。
こんなになるまで放っておいた僕の咎だ。いったいどうすれば。とにかく、態勢を整えよう、話はそれからだ。抵抗されないように眠らせて、夢の中での施術に移行する。
僕は鯱先輩を振り返りながら必死になって走っていたから、すれ違うその瞬間まで気づかなかった。僕の走るほうから、一直線に鯱先輩へと向かっていた、猟ヶ寺に。
視界に入った赤茶けた髪に目を瞠る。そのふわふわとした後ろ姿の彼女の手に、カッターナイフが握られているのを見て、僕は足を止めざるを得なかった。猟ヶ寺の手首を掴むと、彼女は僕を振り返った。赤と青のレンズの入った、3Dメガネのような眺診器をつけていた。やはり、と僕は焦燥した。
「っ猟ヶ寺……」
「もう無理よ。枕部くん」猟ヶ寺は前方の鯱先輩を見据えた。「診えるもの。鯱鶫は末期患者よ。現実世界での治療は貴方には不可能。夢の中での施術をおこなおうにも、状況が整わない。夢見主の体を胡蝶の夢が侵食しているわ。どうあっても抵抗されるでしょう。貴方のやりかたじゃ無理なのよ。だから、」
猟ヶ寺は僕の手を振り払った。カッターナイフを持っている右手に左手を添える。
「私が執刀します」
見据えた先にいた鯱先輩が怯むように立ち止まった。実際に怯んだのだろうと思う。僕には見えないけれど、夢に憑かれている人間ならば、それが見えているはずだ。
そして、猟ヶ寺は、鯱先輩の怯んだその隙を見逃さない。
横薙ぎにするように、胡蝶の夢を斬った。
鯱先輩は硬直したが、ややあってから気を失ったように倒れた。その体を猟ヶ寺は支える。少しだけふらついたけれど、すぐにバランスを取り、鯱先輩の顔を覗きこんだ。
鯱先輩は憑き物が落ちたように穏やかな表情だった。眺診器をつけた猟ヶ寺には診えているのだろう、真実、鯱先輩に憑いていた胡蝶の夢が祓われたのを。
代々、適性のある者に継承されてきた、枕部における伝家の宝刀だ。本来は夢の中での施術に用いられるものだが、刃物を媒介とすることで、現実世界にも顕現できる。普通の人間の目には映らないが、取り憑いた悪夢が表面化するほどの末期患者には、同じ夢のものである夢散を認知できるのだ。もっとも、夢を見ない僕には永劫この目に見ることのない代物だけれど。
「私が忠告をした翌日には処置するべきだったのよ。それをすぎれば、明らかに、貴方の手には余るような相手だった」カッターナイフをポケットに入れながら、猟ヶ寺は言った。「鯱鶫の胡蝶の夢は私が治療したわ。もう彼が己を見失うことはない。これで、この学校の全ての悪夢の治療は終わったの。胡蝶の夢の治療に失敗した貴方は、あの方から与えられた課題を全うできなかったということ。この件については私の口からあの方に伝えさせてもらいます。失格なのよ、貴方は……枕部の次期当主としても、悪夢祓いとしても」
猟ヶ寺の言葉は僕に地獄のように降りかかった。
内臓のいたるところに重い石を詰められたような感覚。骨の芯は痛いほど熱いのに、手先は凍えるほど冷たい。吐く息が震えた。なんと言えばいいのかわからない。寝ても覚めてもこれは現実で、絶対に夢などではない。なのにこんなにも悪夢のようで、僕はいま、己の心の色を、温度を、深さを、喩えることができなかった。
悪夢祓いになることが、僕の夢だった。
そのためにここまできたというのに。
呆然として、僕にはなにも聞こえないけれど。聞こえなかったけれど。
紫香楽空寝やヘロデの聞いた不吉な音は、夢が潰える音だったのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます