第3話 違う穴の狢

 奇跡は人生に一度しか起きないから奇跡なのであり、起きてしまえばそれ以降はない。

 だから、彼はこの瞬間を覚えておくため、焼きつけんばかりに彼女を見ていたのだと思う。

 その日もいつもどおりの最低な日で、相も変わらず己の人間としての尊厳を凌辱してくるクラスメイトたちの気が済むのを、彼はただただ耐えていた。

 これ以上火に油を注ぎませんように、何事もなくやりすごせますように。

 そう心の中で唱えながら、擬死した獣のように身を縮こまらせていた。だから、己への暴力が病み、クラスメイトが「あん? 誰だ。なに見てんだよ」と呟いたとき、彼は自分になにが起きたかわからなかった。


「あっちいけよ、ブス」


 己に投げつけられたものではない暴言に混乱していたとき、彼は、クラスメイトの頬に鉄拳がめりこんでいくさまを刮目した。

 彼の襟ぐりを掴んでいた手はほどけ、クラスメイトは吹っ飛ばされていく。その様子を、他のクラスメイトたちも呆気に取られて見ていた。誰もが、突如現れた、儚げな少女の研ぎ澄まされた瞳に、恐れをなしていた。


 硬直していたうちの一人が、やっとの思いでというふうに「な、なにすんだよ!」と叫んだ。

 少女は答える。


「傷つけられたから」


 凛とした声だった。その言葉は弱者のそれだったが、そこに弱さは微塵も感じられない。


「傷つけ返しただけだ。永遠にくたばってろ。泣きそうで、私は、虫の居所が悪い」


 苛烈な双眸に恐れをなしたクラスメイトは、「やばいぞ、あいつ、たぶん五里霧中の——」と竦みながら、蜘蛛の子を散らしたように逃げていた。彼がついさっきまで強者だと思っていた者たちが、あんなにもみじめに消えていく。彼は呆気に取られながら、彼女を見ていた。

 彼らが満足するまで耐えなければならなかったはずの時間が、一瞬にして過ぎ去った。そんな奇跡の体現に、彼の心は震えていた。ありがとうの言葉が出てこない。颯爽と去っていく彼女の後ろ姿を眺めることしかできない。忘れたくなくて、覚えていたくて、焼きつけんばかりに見つめていた。

 奇跡は人生に一度しか起きないから奇跡なのであり、起きてしまえばそれ以降はない。

 こんな奇跡は二度と起きないことを、彼は知っている。






 付き合ってほしい、と僕が言うと、焼野原は目を見開いた。

 もの問いたげな表情をする焼野原に、「だめかな」と重ねる。

 焼野原はこれであっているのかしらとでもいうような控えめな調子で「……いつ、なにに?」と尋ねてくる。話が早くて助かる。僕が「放課後、寄るところがあって」と返すと、安堵とも得心ともつかない笑みを、焼野原は浮かべた。


「先輩、言葉が足りないです。勘違いしそうになった」

「そう? 口下手とはよく言われるけど……それで、時間空いてる?」

「大丈夫ですよ。放課後はどうせいつも暇なんです」


 弁当箱の蓋を開けながら、焼野原は了承してくれた。

 昼休みの時間、僕と焼野原は、保健室で昼食を共にしている。今日も例のごとく、先生の出払った保健室を我が物顔で貸しきっていた。なんなら、勝手に空調を弄っている始末だ。

 梅雨に入り、蒸し暑さを感じるようになってきた昨今、どちらかと言えば暑さに弱い僕は、カーディガンを自室のクローゼットの奥に仕舞ってしまった。焼野原も黒のカーディガンからベストへと衣替えしている。

 空調の聞いた快適な保健室にて、テーブルに向かい合わせで腰かけ、焼野原は手作りの弁当を、僕はコンビニで買ったサンドイッチを咀嚼した。

 ちなみに、昼休みを僕らが共にしているのにも、わけがある。

 先日、焼野原は邯鄲の夢から覚めた。己を傷つける他者に容赦なく反撃する、乱暴で勇ましい人格彼女は消え失せて、焼野原は、正真正銘の焼野原になった。ここで問題になるのが、焼野原が、真実、一人きりになってしまったという点だ。

 周りから〝五里霧中の焼野原〟と恐れられ、孤高を貫いてきた焼野原だが、それはひとえにあの虫がいたから耐えうれたことで、好き好んで孤高な立場に甘んじていたわけではない。あの虫のいなくなったいまの焼野原は、孤高ではなく孤独だった。鋭い印象は和らいだものの、依然としてクラスに馴染めないでいる。

 この子のことをよろしく頼む——あの虫と交わした約束を守るために、僕は、昼食の話し相手になってやっている、というわけだ。


「でもさ……僕とばっか食べてちゃ、より馴染みにくいんじゃないか? 一緒に食べようって、普通に誰か誘ったほうがいいと思うんだけど。体育祭のときとかどうしてたの」

「体育祭マジックですよ。ハレの日ならラフに了解を取れるんです。ケの日じゃ到底無理です」

「女子って日によって親密度が変わるのか?」

「空気を読んでるってことです。せっかくの体育祭だしみんなで仲良くご飯食べようよ、みたいな、テンションの波があるんですよ。体育祭では、いい波が来てたんで私も乗っかってみただけです。サーファーとおんなじです」


 僕の前ではこんなにも饒舌なのに、他人の前ではおとなしくしているらしいのだから、ただの及び腰というか、弱虫なんだと思う。


「まあ、久しぶりの人生のリハビリに時間がかかるもんな。いいよ。当分はお前の一番の友達を僕がやってあげるし、この前送った画像も待ち受けにしていいから」

「えぇええぇ……あの謎のコラージュ画像ですよね……やたらめったらにデコってあるやつ」


 先日、猟ヶ寺から、僕と焼野原の写真がコラージュされた二人目おめでとう記念が、宣言どおり贈られた。伏線は回収する女である。いつどこから撮られたとも知れない、僕と焼野原の写真の切り抜きが、いい感じに並べられ、いい感じに装飾されている画像だ。

 せっかくなので、僕はそれを焼野原に共有したのだが、焼野原の反応は芳しくなかった。戦々恐々とした面持ちで、「よく出会って間もない後輩の女の子とのこんな画像作れるなあ……」と震えられて終わった。あんな画像を作ったのは、お前と出会ってもいない先輩の女の子だ。


「まあ、肖像権とかいろいろあるもんね。僕も浅はかだった」

「そういう問題じゃなくてですね……あの、他人の趣味嗜好に口を出す気はないんですけど、私にあれを送ってくるあたり、先輩の主義思考は、なんかその、変ですよ。初めて誘ってくれたときも、私のクラスまで堂々と来てくれましたけど、普通はああいうのって恥ずかしかったり怖かったりするんですからね」

「散々に言うけど、お前が人目を気にして目立ちたくないって駄々をこねるから、こうして人払いした保健室を間借りしてやってるんだろ」

「そうなんですよ。気は遣ってくれてるけど、なんていうか、鈍感で不器用なひとが、がんばって、空回ってる感じがするんです。常人とは思考回路が違うから、他のひとよりも経由地点が足りないっていうか……みんなが目を向けるところに気がつかないぶん、いろんなことをすっ飛ばした、突拍子もない行動を取れるんでしょうね」


 後輩に生態を考察されている。

 僕はいったい何者なんだ。


「先輩はもう少し周りに目を向けるべきだと思います。知らないうちに誰かのことを傷つけたりするタイプですよ。そしてそれを忘れてるタイプです。その薄らトンカチを治さないと、いつか痛い目見るんだから。先輩の厚意に甘えてる私が言うのもなんなんですけど」

「本当にだな。もう甘やかしてやらないぞ」

「そんなこと言って。知ってますよ、と約束したこと。先輩は私を見捨てられないし甘やかさざるを得ないって。先輩が甘やかしてくれるかぎり、私はそれに甘んじる気しかないですからね。脅したって無駄です」


 もちろん、僕は彼女との約束を違える気は微塵もないのだが、同級生に物怖じしまくっている内弁慶な後輩のやや思いあがった言い草に、僕は内心で白けるなどした。

 だが、さきほどの焼野原の言い分はまったくの的外れでもなく、どころか言いえて妙の鋭い指摘だった。焼野原の言う〝薄らトンカチ〟、そして、幾度となく言われてきた僕の〝薄情〟は、まさしく、知らないうちに誰かを傷つけ、あまつさえそれを忘れ去るような代物だ。

 そんな経緯があって、祖母からは心を知るよう言い渡された僕は、悪夢祓いの枕部の当主となるため奮闘しているわけだけれど、まだ祖母の望む基準とは程遠いのだろうと思っている。


「——それで? 放課後に私が付き合うその用事っていうのは、いったいなんなんですか?」

「ああ、そうそう。よくぞ聞いてくれました」


 僕は、ぱんっと、仕切りなおすように一度手を叩いた。話がかなり脱線してしまったけど、本題はそれである。

 少なからず僕に甘やかされている自覚があるのなら、その分、僕に協力してもらいたい。


「三人目の夢見主・紫香楽しがらき空寝そらねの治療に、付き合ってほしいんだ」


 僕の言葉に、焼野原は「ぱぇ」と素っ頓狂な声を上げた。

——悪夢祓いの一門である枕部の次期当主として選ばれた僕は、その継承試験とも言える課題として、この意気軒高校に在籍する四人の夢見主を治療することを、僕には言い渡されている。

 一人目は、正夢によるストレスを抱えていた鬼林駆矢。二人目は、邯鄲の夢による一種の解離性障害に陥っていた焼野原戦。そして、三人目の夢見主は、意外なところで見つかった。


「家が経営してる診療所に直接受診があったんだ。自宅で昏睡状態の続く、紫香楽空寝」


 僕の言葉に、焼野原は目を瞬かせる。


「……紫香楽って、あの紫香楽?」

「僕はこの紫香楽しかしらないけど……知ってるの?」

「同じクラスなんですよ。ずっと学校に来てない紫香楽空寝くん」

「たぶん、そいつだね。不登校だったのか」

「本当は私の一つ上の学年で、留年してるって聞きました。このままだったら今年も留年って聞いてたんですけど、でも、まさか昏睡状態だったなんて……大丈夫なんですか?」

「眠りつづけること自体はそんなに悪いことでもないんだけどね。僕の祖母の飼ってる猫は一日中寝てる」

「猫と一緒にされても」

「猫も寝るほどの平和ってことさ。果報は寝て待てとも言うだろう。そして、実際、僕に知らせが届いた」僕は続ける。「僕が悪夢祓いだっていうのはお前も知ってると思うけど、この高校にはあと二人、悪性の夢に脅かされている夢見主がいて、僕はその治療をしなくちゃいけない。だけど、学校に来てない人間を僕が把握できるわけないからって、特別に、カルテを回してくれたんだよ」


 これは本当に朗報だった。祖母からの課題のにおいて、一番面倒なのは、意気軒高校から該当の患者を探しだすことだった。これが本当に大変で、僕もそろそろ手当たり次第に声をかけていくのが億劫になっていたのだ。このことに鬼林は「やっとか……」とコメントしていた。


「でも、診療所に来たのは紫香楽空寝の姉だったから、詳しい病態はわからないみたいで、ちょっと放課後に家に寄ろうかなって。そんなわけで、付き合ってほしいんだよね」

「そういうことなら可能なかぎり力を貸しますが、聞いたところ、私では力不足だと思いますよ。なんせ五年ほど夢を見つづけていたほどですから。眠りからの覚醒ほど、不得手なものはありません」


 言いえて妙だった。たしかに、ずっと夢を見つづけていた焼野原に、眠りから覚めない患者の治療を手伝わせるのは、不適材不適所と言える。


「私より、鬼林先輩に頼めばよかったんじゃないんですか? 友達なんでしょう?」

「それが、もうすぐ大会がるみたいで、部活が忙しいんだ。あいつの邪魔をしたくない」なるほど、と頷く焼野原に、僕はもう一度言う。「とりあえず一度診断してみないことにはなんとも言えないけれど、もし重度の患者なら、僕では施術が困難だ。そのための保険として、焼野原に協力を頼みたい。手術オペのための僕の手足に、メスになってもらいたい」


 つまり、鬼林の正夢退治のときのように、夢の中での施術に協力してもらいたいのだ。

 夢を見れない僕にとって、患者の夢への干渉は不可能に近い。それを補うのが、焼野原の役割だ。

 焼野原の了承を得て、放課後、僕たちは紫香楽空寝の家へと向かう。

 携帯スマホのモバイルマップを頼りに辿り着いたのは、学校からも、うちの診療所からも近い場所に位置する、二階建てのハイツだった。群青色の壁と、モダンなタイルに彩られていて、まだ汚れきっていないところが築年の浅さを感じる。階段を上り、二階の一番奥の部屋へ。表札は掲げられていなかったが、そこが紫香楽の家だった。

 モニターのないインターホンを押すと、ややあってドア越しの「はい」という声が聞こえてくる。僕が「こんにちは。お約束していた枕部です」と答えると、ドアはすぐに開いた。

 中から出てきたのは、大学生くらいの女性だ。癖のない黒髪に、フリルの多い小花柄のワンピースを着ていて、おとなしそうな雰囲気がある。おそらく彼女が紫香楽空寝の姉であり、弟に変わって診療所に足を運んだ、紫香楽微睡まどろだろう。

 紫香楽微睡はほんの少し目を見開かせてこちらを見つめていた。そりゃあ、医者を寄こしてくれると思ったら、学生が来たのだから、驚くのも無理はない。しかし、すぐに「枕部先生から話は聞いています。どうぞ」と玄関に通してくれた。


「あの、それで、こちらの子は……?」


 紫香楽微睡は焼野原を一瞥して尋ねてきた。なるほど。話は通っているはずなのに微妙な反応をすると思ったら、腑に落ちていないのは焼野原のほうらしい。


「僕の後輩で、診療のサポーターです。早速なんですが、くだんの患者さんはどこですか?」

「部屋にいます。こっちです」


 僕と焼野原は奥へと案内される。

 2LDKのゆったりとしたこの部屋には、紫香楽姉弟の二人だけで暮らしている。部屋のインテリアのほとんどは、紫香楽微睡の趣味らしい、レースやフリルをあしらったものだ。ただ、和室の襖を開くと、雰囲気はがらりと変わる。紫香楽空寝の部屋であることはすぐにわかった。

 壁を犇めく大型のカラーボックスには、大量の漫画や小説。背の低いテーブルの上のノートパソコンにはマイク付きのヘッドセットが繋ぎっぱなしになっていた。小型テレビのそばにはコンシューマーゲームのソフトやコントローラーが押しのけられるようにして置かれていた。部屋にはカラフルなポスターが色褪せないまま貼られてあった。

 紫香楽微睡は「すみません。散らかってて……」とどこかぎこちなく告げた。僕は「いえ。大丈夫です」と答え、それより、と視線を下方へ移す。

 畳の上に敷かれた布団の中、音も立てず眠る姿を認める——彼が紫香楽空寝か。

 僕はその枕元に膝をつき、彼を覗きこむ。

 さらさらとした黒髪は姉のそれと同じだ。長らく切っていないため、前髪と襟足は長く、顔や首元を完全に隠している。その隙間から、彼の青白い顔が覗けた。唇も乾ききっている。


「食事や排泄はどうされているんですか?」

「しています」

「一年以上眠りつづけているんですよね。どうやって?」

「たまに、一週間に一度くらいかな、起きてはいるんですよ。そのときにまとめてやります」

「完全に寝たきりというわけではないんですね」

「はい。だけど、たとえ起きても数時間、それも、ほとんど夢遊病なんじゃないかってくらいで……それに、普段はどれだけ揺すっても目を覚ましません。弟が寝ているあいだ、定期的に私が体を拭いてやっているんですが、そのとき起きることもありません。こちらからの呼びかけでは、絶対に、目を覚まさないんです」


 なるほどね、と僕は頷く。

 ずっと目を覚まさないならまだしも、定期的には目を覚まし、活動をおこなう。そのおかげで、病気ではないだろうと、病院でまともに扱われることもなかったらしい。それでも、ほとんど目を覚まさない弟を憂いて、藁にも縋る思いで、うちの診療所を尋ねたのだという。


「そこで、枕部先生に相談したら、うちの息子を派遣するって言われて……聞いたときは弟と同い年って聞いてびっくりしましたけど」

「そうですよね。あの、なんなら、敬語じゃなくて大丈夫ですよ」

「いえ。診ていただくわけですし。枕部先生からも〝そういう案件なら僕よりも適任です〟って言われているんですよ」


 父さんも枕部の人間ではあるが、悪夢祓いではない。僕の試験のことがなくとも、いずれはお鉢が回ってきただろう。

 僕は「ちょっと診てみます」と、鞄の中から眺診器を取りだした。夢を見ない体質である僕が、他者の夢を視覚的にでも認知するには、この器具に頼る以外にない。

 紫香楽微睡は「最近の医療器具ってVRゴーグルみたいなんですね」と呟いた。説明はめんどうだったので省かせてもらった。焼野原は僕の隣に座り、指示を待っているようだったが、まだ大丈夫だという視線を送ると、こくりと頷いた。

 僕はチェストピースを紫香楽空寝の額に当てる。

 突如、まるで沼の中に落ちていくような、没入感。半酩酊。艶めかしいとばりをくぐり抜けていく。目まぐるしい暗闇のその先へと沈みこむと、幾重もの緞帳どんちょうが視覚の上から降り注いだ。

 山吹、赤銅、石竹せきちく、緑青、梅紫、瑠璃、桑茶色——そのとりどりは、まるで襲色目かさねいろめの華やかさ。オーロラのようなヴェールには金のタッセル。一面が布で覆われている。ひらひら、ふわふわ、ふかふかの、夥しい布団が折り重なった、穴蔵のようなありさまだ。

 僕は視覚として捉えているだけなので、触れようはずもなかったけれど、きっとそこは、とても快適で、安らいでいて、身を委ねてみたくなるのだろう。そんな夢だった。

 なるほど。こんな世界なら、目を覚ましたくもなくなるのかもしれない。

 そう納得しかけたとき、僕は彼を見つける。

 紫香楽空寝だった。温かそうなブランケットと、柔い枕に身を委ね、手足を丸まらせて、横たわる姿。現実世界よりも黒い髪はすっきりとしていて、息をするたびに震える睫毛は長い。寝顔も血色がよかった。よっぽど生気を感じる寝姿だ。そう、寝姿だ。


「……まじか」


 僕の呟きに、現実世界から「どうしたんですか」という焼野原の声が返ってくる。


「ね……寝てる」

「えっと、それは、見れば、わかりますけど」

「そうじゃなくて。夢の中でも、寝てる」


 僕は眺診器を外し、現実だろうと夢だろうとおかまいなしに眠りこけている紫香楽空寝を見た。すやすや気持ちよさそうにしやがって。

 半永久的な昏睡状態。

 夢の中でも眠る夢見主。

 これは、思った以上に厄介な案件だ。


「悪性の夢だが、これはただの悪夢じゃない——夢の夢。または、夢のまた夢」


 夢の夢。

 夢の中で見る夢のこと。

 極めて儚いことを意味する喩えとしても用いられ、豊臣秀吉も辞世の句として詠みあげている。また、到底叶いはしない、実現不可能なことの比喩としても用いられる。


「率直に言うと、お前の出番だ」僕は焼野原を見る。「僕は夢を見ない。夢のまた夢なんてなおさらだ。いま、ここにいる、現実世界の紫香楽空寝の夢は覗けても、夢の中にいる紫香楽空寝の夢は覗けない」


 夢を見ない僕は、夢の中には入れない——それを可能にするのが眺診器だが、夢の中の夢を覗くとなると、まさしく、手が届かない。何故なら、夢の中で眺診器を出すという芸当すら、僕にはできないからだ。僕にできることといえば、せいぜい声をかけることくらいだ。夢の中の夢を覗くことができるのは、夢を見れる人間だけだ。


「お前が眺診器で紫香楽空寝の夢の中に潜り、夢の中にいる紫香楽空寝の夢の中に潜れ」


 混乱してきた、と呟きながら、焼野原は額を押さえる。


「でも、私は彼の夢の夢の中でなにをすればいいんですか? 私は医者じゃないので、そこの判断はつきませんよ」

「安心しろ。僕も覗くから」僕は鞄の中からもう一つ眺診器を取りだした。「紫香楽空寝の夢を覗くお前を、僕が覗く。これで視覚は共有されるし、指示も出せる」


 再び眺診器を装着しようとする僕に、紫香楽微睡は「あの、」と声をかける。


「よくわからないんですけど……弟は、どうなってるんですか」

「それを今から確かめます。もう少しだけ待っていてください」


 焼野原も眺診器を装着した。

 焼野原は、僕は、紫香楽空寝の夢の中へ潜る。

 目まぐるしい暗闇を抜け、再び、布団まみれの穴蔵のような場所が見えてきた。焼野原はそこに降りたっていて、ふかふかと不安定な足場をなんとかこらえながら、歩き始めていた。

 大した肝っ玉だ。こんなよくわからない体験をしたら、怯えてもしょうがないのに。そもそも、他人の夢に干渉するなんてことが、常人からすれば異常なのだ。それを、焼野原は容易く受け入れ、あまつさえ、自由に行動できている。僕は「玄人か」と呟いた。


「邯鄲の夢を見つづけていたときの感覚に近いんですよね」僕の声を拾った焼野原は、歩みを止めぬままに言った。「あの子といたときは、私の思いどおりになる夢を、延々と見ているようだったから」


 そうか。焼野原の見た邯鄲の夢も、一種の明晰夢にあたるのだ。

 明晰夢とは、それが夢だと自覚し、自分の思うがままにコントロールできる夢のことだ。焼野原の見た邯鄲の夢は、焼野原が夢見て生みだした人格だった。焼野原自身が夢だと自覚しているし、自分の思うがままにふるまうことができる。あくまでも彼女は焼野原戦であると考えれば、その人格を使いこなす感覚は、明晰夢のそれと合致している。


「いいね。明晰夢は訓練しないと見れない夢だ。鬼林よりセンスあるよ」


 焼野原は「よくわかんないけど褒められたのは嬉しいです」と少しだけ笑った。

 そのまま歩きつづけると、体を丸めて眠る紫香楽空寝の姿が見える。現実世界よりも小綺麗なのは、ここが夢のなかだからだろう。時間がそこで止まっているのだと悟ることができた。


「とりあえず、揺すったりして起こしてみて」


 焼野原は「おーい」と紫香楽空寝の体を揺する。しかし、反応はない。身じろぎ一つしないのだ。他にも、耳元で声をかけてみたり、脇腹をくすぐってみたり、焼野原はいろいろ試してくれたが、紫香楽空寝はびくともしなかった。やはり、直接覗くしかないようだ。

 僕は焼野原に「眺診器を着けろ」と囁く。焼野原は困ったように首を傾げる。なるほど。焼野原は鬼林と違い、真に受けないタイプらしい。

 いくら夢が外部刺激に左右されやすいといっても、夢見主によるところが大きいようだ。焼野原の妙に頑ななところや、影響されにくいところは、この状況に直結している。

 僕はもっと具体的なワードを用いて、焼野原に眺診器をイメージさせた。すると、焼野原は「こうですか」と呟いた。瞬く間に、その手元に眺診器が現れる。結局は自分の力で創りだしてしまうなんて、本当にセンスがある。

 焼野原は創造した眺診器で夢の中にいる紫香楽空寝の夢を覗いた。同時に、その頭の中を覗いている僕の視界も塗り替えられていく。紫香楽空寝の夢の夢の中へ。

 ずぶずぶと沈んでいくと、焼野原は暗がりに滲む石畳に降り立った。不気味な火が細々と灯る、洞窟のような場所だ。現実味のない空間だった。まるで、ゲームに登場する、ダンジョンのようだ。おどろおどろしい風が吹き、焼野原の身を竦ませる。

 すると、身構える焼野原に、が現れた。

 地響かせながらこちらへと歩み寄ってくる、岩の塊でできた怪物。ゴーレムだ。

 禍々しい赤の目を光らせて、そいつは焼野原へと近づいてくる。

 焼野原は「えっ、えっ」と顔を蒼褪めさせていた。そんな焼野原の目の前に、が現れる。

 たたかう。

 にげる。

 アイテム。

 アイテムってなんだ、と僕は突っこみたくなったが、焼野原の「に、にげ、にげたい!」という声に反応した。


「いや、逃げるな」

「なんでですか!」

「おそらく、夢の夢が攻撃を仕掛けてきている。これを倒さないと、本懐の紫香楽空寝には辿り着けない。戦え」

「うそ、むり、そんなの聞いてない! 怖い! やだ!」

「落ち着け、焼野原。お前は幸運なことに、明晰夢の使い手だ。あんな怪物なんとでもなる」

「ひどい、もうこんな先輩知らない、先輩じゃない、今日から先輩なんて枕部くんだ」

「枕部くんでもなんでもいいから、戦え」


 焼野原が「子々孫々末代まで恨んでやる……」と呟きながら、縋るような面持ちで〝アイテム〟のコマンドを選ぶと、その手元に黒いチョーカーが現れた。焼野原は目を見開き、そのチョーカーを見つめる。

 ゴーレムは焼野原へと固い拳を振り下ろそうとしていた。僕が「焼野原!」と叫ぶのと、焼野原がチョーカーを首につけるのは同時のことだった。

 刹那、聞こえないはずの涼やかな音色が、ルルルル、と聞こえてくる。


「えっ」


 僕が放心していると、焼野原はゴーレムの固い拳を、大きな跳躍で躱した。振り下ろされた拳に飛び乗り、そのまま腕を伝っていく。そしてまた一つ跳躍し、猫のようなしなやかさでくるりと身を翻らせた。薄暗い天井の壁に着地、そのまま天井を蹴る勢いを利用し、弾丸の速さでゴーレムの頭上へ。一度回転したかと思うと、焼野原はゴーレムに見事な踵落としを食らわせた。ゴーレムの頭はそのまま砕け落ち、瓦礫となってごろごろ転がった。

 地に降りたった焼野原の背筋は、高踏な勇ましさを湛えていた。あの虫が蘇ったようなありさまに僕は息を呑んだが、焼野原が首のチョーカーを撫でたことで、これは自己暗示によるトランス状態なのだと理解する。

 夢の世界において、想像力は創造力である。特に、明晰夢の夢見主にかぎっては、己の創造力が鍵を握るといってもいい。いつかの時代の枕部一門には刀工がいたそうで、彼が夢の中で打った刀が現代でも悪夢退治に使われていたりするほどだ。夢の中での創造性は、悪夢祓いに求められるセンスの一つでもあった。

 僕はやはり「玄人か」と呟いた。

 そのとき、世界は再び目まぐるしく変化した。瓦礫は砂塵となり、砂嵐のように視界が白んでいく。

 ぱっと開けたかと思うと、そこは白と黒の世界だった。緻密なドットにより彩られたグレーゾーンに足を延ばす。

 ふと見上げると、まっすぐな枠線。それは焼野原の周辺を囲んでいた。

 焼野原はそこから跳びだすと、重力が働き、落下する。また新たな枠線に囲まれた、四角い空間へと飛びこんだ。焼野原は混乱しているようだったが、第三者の目から見れば、状況はありありと見えてくる。


「焼野原。ここは漫画の世界だ。いま、お前は、漫画の紙面の、ある一コマの中にいる」


 焼野原は「漫画の世界?」と眉を顰める。すると、突然、その背後で爆発が起こった。極太い〝ドッカーン!〟という文字が勢いよく飛来し、焼野原に襲いかかる。


「なるほど」


 焼野原は目を細め、その猛攻から逃げだした。

 枠線の上を駆け抜け、吹き出しのカーブを滑り降り、無数の水玉模様をボルダリングのように登っていく。幾数ものページをめくる逃走劇に、僕は読者のような気持ちになりながら、はらはらと手汗を握っていた。またもや起こった爆発に紙面が崩壊し、モアレが起きる。

 焼野原は次のコマに着地し、振り返った。襲いかかろうとしていた〝ドッカーン!〟の文字を見据え、固く拳を握る。そして、いつかの日、ショッピングモールのゲームエリアで見せたような鮮烈なパンチで、迫りくる文字を押し返した。

 ものの見事に決まったパンチの威力は凄まじく、トラックにでも跳ねられたかのように、文字はひっくり返って飛んでいった。飛んでいった先、遠くの白い紙面に、キラリンと星が光る。

 次のページをめくると、爆発による白い砂塵の中、拳を構える焼野原が、荒い息で立っていた。まるでアメリカンコミックのヒーローのような、英姿颯爽とした姿だった。


「怪我はないか、焼野原……って言っても、どうせ所詮は夢なんだけど」

「大丈夫です。それより、」焼野原は白い靄の奥を睨みつける。「なにかいます」


 まるで霧のようにたなびく砂塵は、奥から吹き抜ける静謐な風により、次第に晴れていく。いつの間にか、地べたは冷たい土になっていた。草も生えない枯れた大地。

 その上を、焼野原は慎重な面持ちで歩いていく。

 かすかな狸囃子が耳に届いた。異様な空気に、焼野原は完全に呑まれていた。すると、足になにかが当たったらしく、焼野原はハッとなって見下ろす。そこには——ボロボロになって横たわる、血まみれの少年の姿があった。


「ひっ……」


 焼野原は短い悲鳴を上げて後ずさる。

 目を凝らすと、そんな血まみれの少年が、あちこちに折り重なっているのがわかった。その全員がどこのものとも知れない制服を着ている。

 まるで屍山血河の戦場跡。夥しい数の敗戦者が、砂塵に溶けるように伏していた。


「……誰だ」


 そのとき、砂塵の奥で男の声がした。

 焼野原は身を強張らせ、拳を強く握る。

 徐々に砂塵が晴れ、折り重なる死体の山の上に立つ彼を見つけ、僕と焼野原は息を呑んだ。

——紫香楽空寝だ。

 夢の夢の夢見主である彼は、現実世界とはずいぶん印象が違った。伸びきっていない前髪から、その悩ましげな目元がはっきりと見える。ひょろりとした頼りない体躯は、意気軒高校の制服の中に紺色のパーカーで重ね着することで、いくらかは緩和されて見える。それでもやはり彼が無力そうに見えてしまうのは、彼の持つ剣があまりに大きすぎるからだろう。勇者が持つにふさわしいその大剣は、痩せ型の彼には不釣り合いだった。

 紫香楽空寝は大剣を肩で支え、振り向くようにして焼野原を見下ろしていた。砂塵越しでもわかる、そのあまりの視線に、焼野原は押し黙る。

 しかし、完全に砂塵が晴れ、視界がクリアになった瞬間、紫香楽空寝は信じられないものを見るかのように焼野原を凝視し、震える口を開く。


「…………エバーグリーン」


 は? なんだって?


「あんた、エバーグリーンか」


 いや、なにそれ。

 呆気に取られる僕と、眉を顰める焼野原。焼野原はまだ緊迫感を引きずったままだったが、対峙する紫香楽空寝の表情に、さきほどまでの圧倒的な気魄は感じられなかった。

 僕は、いつまでも臨戦態勢でいる焼野原が落ち着けるよう「力を抜け」と囁く。


「本来の目的を忘れるな。目当てにまで辿りつけたんだ。ここまで静観していることからも、夢の夢がさっきみたいな攻撃をしかけてくることはないと考えられる。まずは夢見主である紫香楽空寝と接触を図ろう」


 僕の囁き声が聞こえていたらしい紫香楽空寝は、「なんだ……?」と虚空を見上げる。そんな彼に焼野原は歩み寄り、「紫香楽空寝くん、」と声をかけた。


「エバーグリーン。どうしてあんたが俺の名前を知っている?」

「私はエバーグリーンじゃありません。焼野原戦。貴方のクラスメイトです。貴方を助けに来ました」


 紫香楽空寝は目を瞬かせて「俺を助けに?」と反芻した。


「はい。そうです。貴方は悪夢に脅かされているんです。とにかく、ここを出ましょう。目を覚ましましょう。貴方のお姉さんも、貴方の帰りを待っています」

「ここを出るって、それは、現実に帰るってこと?」

「そうです。とにかく、また夢の夢が攻撃してくる前に、一緒に、」

「だったらいい」焼野原の言葉を遮って、紫香楽空寝は言った。「俺は目を覚ましたくない。現実になんて帰らない。ずっとここにいて、こいつらを殺していたいんだ」


 紫香楽空寝は、踏みつける死体の山を見下ろし、淡々と告げた。

 焼野原は呆気に取られて、紫香楽空寝を見つめる。


「……そのひとたちは、なんですか」

「……こいつらは、俺が息を吸うと、わらってくるやつらだ」紫香楽空寝はおもむろに口を開いて言った。「俺に好きなものがあると、嗤ってくるやつらだ。俺が笑うと罵って、俺の嫌いなものを知ると、それを楽しそうに押しつけてくるやつらだ。Bボタンキャンセルできない強制クソ仕様でさ。もうどうしようもなくって……でも、ここじゃあ、スライム以下の雑魚キャラだよ」紫香楽空寝はあるかなきかの笑みを浮かべる。「ありがとう。エバーグリーン。また俺のことを助けに来てくれて。でも、もう大丈夫。それに、あんたも所詮、夢なんだろう。俺の見た、夢のまた夢なんだろう。だって、こんなことがあるわけないもんな。いい夢を見せてくれて本当にありがとう。でも、俺はもう戻りたくないんだ。姉さんには悪いけど、戻ったって、みじめになるだけだから。だから、もう帰ってくれ。このまま、夢の続きを見させてくれ」


 紫香楽空寝の言葉は半分も理解できなかった。しかし、彼が自分の意思で、この夢の夢を見ているということは明白だった。悪性の夢による睡眠依存。助けを拒む紫香楽空寝に、焼野原のときのパターンじゃないか、と僕は心中で唸った。


「紫香楽空寝。目を覚ませ」僕は彼に呼びかける。「このまま眠りつづけていても、お前が死に至るだけだ。体は衰弱し、心も崩壊していく。お前は現実に取り残されていく。だから、」


 そのとき、紫香楽空寝の瞳に、懐疑が宿る。


「……誰だ。お前は。俺の夢じゃないな」


 細められた瞳と温度のない声に、びりびりと痺れていく心地がする。ただ覗き見ているだけの僕でさえそう感じるのだから、実際に夢の中に潜りこんでいる焼野原は相当だろう。焼野原はしかと前を見据えながら、それでも不安そうに「先輩」と呟く。

 それを、紫香楽空寝は聞き逃さなかった。


「エバーグリーン。あんたの中にはいるのか?」


 まるで瞬間移動。紫香楽空寝は一瞬で焼野原の眼前まで迫り、明眸を覗きこんだ。焼野原越しに、紫香楽空寝と目が合った。鳥肌が立った。僕は心臓を掴まれたように硬直する。

 紫香楽空寝は焼野原の手首を掴みあげる。


「何者かは知らないが、俺の夢から出ていけ」

「やめ、離して……」

「ここは俺の夢だ。もうお前らの思いどおりにはならない」

「いやだ、助けて、」

「俺のことなんて、忘れてればいいだろ!」

「先輩!!」


 ぶちん——と、夢は途切れた。

 僕は自分の眺診器と、焼野原の眺診器を無理矢理外し、現実世界へと引き戻した。

 僕も焼野原も蒼褪めた顔で呼吸を整えている。部屋の窓から差す光が眩しくて、久方ぶりに感じた現実味に心が凪いでいった。


「……なにがあったんですか」


 紫香楽微睡は僕たちの形相を見て、混乱に満ちた様子だった。

 僕は息を整えながら問い返した。


「僕からも聞きたいです……紫香楽空寝に、なにがあったんですか?」


 結局、その日、紫香楽空寝の治療は失敗に終わった。






 紫香楽空寝は、中学のころ、いじめに遭っていたらしい。

 理由は本当に些細なことで、けれど、小さな子供社会では真っ先に槍玉に挙げられるようなことで、だから、本当に、どうしようもなかったそうだ。


「漫画もゲームも好きな子だったんだけど、特に好きなのが、ほら、けっこう前に流行った魔法少女モノのアニメ。年甲斐もなく、私がハマっちゃって、そしたら隣で一緒に見てた空寝も好きになって。でも、女の子の私はともかく、男の子がハマると、他の子は、その、気にするじゃないですか。それがきっかけで、どんどんエスカレートしていったみたいです……」


 思い出すのも苦痛な表情で、紫香楽微睡は語った。


「高校は、地元から遠く離れたところに進学しようって、私や両親から提案しました。ちょうど、私の大学進学があって、この町で一人暮らしする予定だったんですよ。だったら、空寝も一緒にこの地域の高校に進学しようってなったんです。空寝も、乗り気ではないけど、後ろ向きってわけでもなくって……だけど、意気軒高校に入学してすぐ、一年の一学期に、学校に行かずに寝るようになって、そして、いまに至ります」

「高校でなにかあったんですか?」

「先生から聞いた感じだと、特に変わったことはなかったと。不登校になる前までは、空寝に学校の様子を聞いても、なんとかやっていけるかもって言っていましたし」

「眠りつづける直前はどうですか。本人はなにか言っていましたか?」

「なにも……ただ、虚しい、とだけ」


 その日は紫香楽微睡に話を聞いただけで、僕と焼野原は帰ってしまった。帰る間際に縋るような目でこちらを見つめてくる紫香楽微睡には、必ず手立てを見つけるという旨を告げて。

 僕は紫香楽空寝を治さなければならない。

 そのためには、まず、紫香楽空寝のことを知る必要がある。

 翌朝、僕は自分の席で、昨晩つけた記録を眺めながら「うーん」と唸っていた。すると、背後から机に手をついてきた鬼林が「なに見てんの?」と手元を覗きこんだ。


「日記」

「日記? 枕部、そんなものつけてんのな」驚いたように鬼林は言った。「ちなみに、この赤字で書いてある〝エバーグリーン〟ってなに? 常緑樹?」

「ミラクルプリティー☆RGBっていうニチアサの女児向けアニメの登場人物」


 家に帰ってから調べたのだが、ミラクルプリティー☆RGBには三人のバトルヒロインが存在する。イメージカラーに赤を冠するファビュラス・ローズレッド、青を冠するグラマラス・エナメルブルー、そして、緑を冠するメロウディアス・エバーグリーン。

 紫香楽空寝の言っていた〝エバーグリーン〟はおそらくこの三人目にあたる。


「バトルヒロイン三人の中でも男勝りな女の子で、武道の有段者らしい。茶髪ロングヘアで、首には変身するためのカラープリズムがついたチョーカーをつけている」

「お、おう。詳しいな。好きなの?」

「昨日の夜、レンタルショップで借りて、エバーグリーンが登場する回だけは見た……」


 部屋の様子や、紫香楽微睡の話から察するに、紫香楽空寝は相当このアニメに没頭しているらしいし、紫香楽微睡曰く「エバーグリーンが最推し」とのこと。

 ならばせめてそれだけは、と思ったのだが、正直、くじけそうになった。全然興味ないから面白いと思えない。テレビ番組をそもそも見ない僕だが、そのなかでもひときわ見ないジャンルだ。しんどかった。そんな恨み言のような文字が日記には並べ立てられている。記憶の薄れた今でもなんとなく、退屈だったなあ、という感想が浮かんだ。

 しかし、昨晩視聴したおかげで、わかったこともある。このエバーグリーンというバトルヒロイン、焼野原と似ているのである。

 それはビジュアル的な要素に始まり、性格的な要素もそうだ。男勝りで、凛々しく、バトルヒロイン三人の中ではボーイッシュな部類。焼野原に似ているというか、邯鄲の夢を見ていたころの焼野原に似ている。いっそ、アニメの世界から飛びだしてきたのではないかと思うほど。

 昨日、紫香楽姉弟両者が、焼野原に反応しているように見えたのは、きっと二人もそう思ったからだろう。

 いまのところ、わかったのはそれだけで、紫香楽空寝について、明を得ていない。

 しかたあるまいと、僕は一つの決断をした。


「鬼林……僕をいじめてくれないか?」


 僕が振り返ってそう告げると、鬼林は「は?」と素っ頓狂な返事をした。

 高校生活をスタートしたはずの紫香楽空寝が、現在、夢に閉じこもっているのは、なんらかの理由で己の古傷が開いてしまったからだと思う。そして、その傷は過去にいじめられていたことに他ならない。ただ、生憎、僕はいじめられたことがない——もしくはいじめられても気にしないし、なんならおそらく忘れる——ため、紫香楽空寝の傷を理解できない。だから、まずは紫香楽空寝の気持ちを推察するため、鬼林に協力してもらうことにしたのだ。


「思いつくかぎりのことはいろいろ試してくれ。僕を無視したり、厭味いやみを言ったり、大事にならなければ、ある程度の暴力を振るわれるのもやぶさかではない」

「俺が吝かなんだけど。ちょっと待て。なにを思っての行動だ?」

「傷つけられた人間の心理を理解しないといけなくて」

「もしかして、また悪夢祓い関連?」お察しの鬼林は眉を顰める。「なんでそんなことに」

「なにがあったら僕は傷つくだろうって考えたら、お前だと思った。お前に無視されたり厭味を言われたりするのが一番こたえる。つらくなる。予想するに心が痛い」

「そこまで言われていじめるあほがいるか! やだよ俺、普通に心が痛い」

「そこをなんとか。頼れるのはお前しかいないんだ」

「無理。なんでこんなことさせるの。むしろ俺への新手のいじめか」

「なら、一言だけでいい。いま一回だけ僕を罵倒してくれ、鬼林」


 結局は鬼林が折れてくれた。これでもかというほどの苦渋を湛えた顔だった。口を開いては閉じを何度か繰り返し、ややあってから、「悪夢を祓うため、悪夢を祓うためだ……」と念じたあと、顰めるような目で僕を見下げて呟いた。


「うぜえんだよ、お前。すっこんでろ」


 僕は硬直し、黙って鬼林を見上げていた。

 鬼林はみるみるうちに表情を崩し、あまりに哀れを誘う様子で僕を見下ろす。心配そうな目をしていた。さきほどの言葉は本心ではないとわかる。わかっているのに、ひとたまりもなかった。

 

「……ありがとう。狙いどおりだ」


 と言いながら、僕はぼんやりと自分の席に着く。

 その日の昼休みまで僕は虚ろで、食欲さえわかなかった。焼野原と昼を摂る約束をしていることも忘れていた。結局、昼食を携えた焼野原が恨めしげに迎えに来て、ああ、そうだった、と僕は思い出した。

 荷物を持って、焼野原の待つ廊下へと出る。教室のドアに肘をついて、「ごめん。待たせたよね」とその顔を覗きこむと、不服そのものの様子で「本当ですよ。待たされました」と返ってくる。


「それに、私、昨日言いましたよね。他人のクラスまで誘いに行くのは怖いって」

「言ったっけ?」

「言いました!」

「ごめん。寝れば忘れるほどの情報だったから」

「ひどい! 薄情者! せっかくいい情報持ってきたのに! もう絶対教えませんから!」


 僕は憤慨する焼野原と並んで保健室を目指す。そのあいだも、僕はどこか足取りが重たく、気分も晴れなかった。そのことに焼野原は顔を曇らせる。


「……どうしたんですか? いつもの先輩なら、どうにかこうにか私を宥めすかして、機嫌を取ろうとするはずなのに。そしたら私は許してあげるのに。なにかありました?」


 呆れるほどに思いあがった焼野原の発言にすら、僕が引き戻されることはなかった。無人の保健室に着いてからも、僕は思いを馳せていた。しかし、いよいよ焼野原の顔が蒼褪め、震えた声で「甘えたこと言ってすみません……見捨てないで……」と呟いたところで、僕は「ごめん。違う」と告げた。


「別にお前に愛想を尽かしたわけじゃない。紫香楽空寝の心を理解したくて、傷つけてもらおうと思ったら、傷つけられたっていう、それだけなんだ。でも、それだけが、ものすごくて」


 鬼林には狙いどおりだなんて言ったけれど、本当は、狙い以上のショックだった。傷つくってこんなにしんどいことなんだなあと、僕は痛みを反芻していた。胸が重く、冷えたように痛い。ぽっかりと穴が空くとはこういう気持ちを言うのだろう。なにをしていてもどこか気分は虚ろで最悪だった。


「人に傷つけられると、こんなになるんだな。雪に晒したナイフを心臓に突きたてられたみたいに、冷たくて息苦しい。世界の色が褪せて見える気がする。最低な一日になりそうだ」


 そんな僕を、なんとも言えない表情で見つめる焼野原。ややあってから、「ごめん。それで、なにか話があるんだっけ?」と僕は問いかける。直前になにか焼野原が言いかけたように見えたけれど、焼野原は「ああ、そうでした……」と答えるだけだった。


「ほら、昨日、紫香楽空寝くんが言ってたじゃないですか……〝ありがとう。エバーグリーン。また俺のことを助けに来てくれて〟って。最初は、私をエバーグリーンと混同してるんだって思ってたんですけど、にしては〝また〟ってのが変だなあって思って。もしかして、私って、昔、紫香楽空寝くんと会ったことがあるんじゃないかって、調べてみたんですよ」

「どうやって」

「夢に出てきた死体の制服を調べました」焼野原はおにぎりを齧ってから続ける。「紫香楽空寝くんや微睡さんの話から察するに、あれって、彼をいじめてた子たちだと思うんですよ」


 それは僕も考えていたところだった。

 見慣れない制服を着ていたのも、ここの地域のものでないからだろう。


「校章のワッペンが特徴的でしたし、中学のイニシャルも入ってたんで、すぐに見つかりました。市立四六時しろくじ中学校。かなり離れたところにある中学校ですね。私の通ってた五里霧中学校とも離れてるんで、ハズレかなって思ったんですけど……よくよく考えてみると、私、校外学習のとき、この中学校の近くまで来てたんですよ」


 僕が「まじで?」と返すと、焼野原は「まじです」と頷いた。


「私、そのとき迷子になって、地元のひとっぽい子たちを見かけたから道を聞こうと思ったんです。でも、そしたら、なんかすごい怖い感じで、ブスって言われて……泣きたくなってたらが代わりに仕返ししてくれたんですよ。思えば、そのときの男の子たち、真ん中にいる誰かに絡んでるみたいだったなあ、と」

「そして、それが、紫香楽空寝だった、と」僕は呆けた。「そんな偶然ってある?」

「びっくりですよね。でも、そうじゃないかと思うんですよ。たまたま紫香楽空寝くんがいじめられたときに、ひょっこり私が居合わせて、いじめっ子たちを撃退したっていう」

「もしそうなら、紫香楽空寝の発言にも納得がいくかも……」


 垣間見た夢の破片から、よくもここまで辿りついたものだ。一介の女子高生とは思えない、探偵のような御業みわざである。すごい推理力だ。


「推理力っていうか、洞察力ですかね。もしくは記憶力」

「どっちも僕にはないものだ」

「昨日のことも忘れてるし」

「うん。だから、日記をつけてるんだけど」


 焼野原は「日記?」と目を瞬かせる。

 僕は夢を見ない体質だ。記憶の整理整頓でもある夢を見ないということは、記憶の忘却率が高いということだ。おかげで、僕の忘れっぽさ、ひいては薄情が育まれたわけだが。


「ある日さ。悪夢祓いになりたいって祖母が言ったら、これを書きなさいって日記を渡された。それからは、毎晩、その日にあったことや覚えておきたいことを、事細かに記録するようにしてるんだ。目が覚めたときに読み返したら、意外と思い出すんだよね。記憶の整理ができないって言っても、頭の隅にはちゃんと残ってるっていうか、心が覚えてるみたいだ」


 その話をじっと聞いていた焼野原だが、どこを眺めるでもなく呟くように言った。


「なんか、不便ですよね。先輩の体質って。病気にならない医者って、すごいのかもしれないですけど、自分で施術しにくいわ、忘れっぽいわ、むしろ医者には不向きっていうか……紙一重じゃないですか。一生付き合っていくには難しそうな体質です」

「だから、祖母も僕に日記を書くように言ったと思うんだけどね」

「そもそも、そんなに向いてないのに、どうして先輩は悪夢祓いになろうと思ったんですか?」


 まるで足枷でもあるかのように焼野原は言うけれど、僕は自分の体質をそんなに不幸だとは思っていないし、ハンデだとも思っていない。たしかに、枕部の当主を継ぐだろうと言われた人間は他にも何人かいたし、僕はその中で有力候補というわけでもなかった。だけど、そんなことで諦めようとは思わなかった。

 僕は、誰がなんと言おうと絶対に、悪夢祓いになりたかったのだ。

 だけど、それは、どうしてだっけ?


「……たしか、誰かを、助けたかったような」

「誰かって?」

「……………………誰だろう」

「うわあ。そんな大事なことまで忘れちゃうんですね。日記には書いてなかったんですか?」

「書いてなかった。たぶん、悪夢祓いになりたいって思ったのは、日記を書く前なんだよね。小学生にもなってないころの話。そんな小さいころのことなんて覚えてないでしょ」

「いやあ、これ昨日も言いましたし、でもどうせ覚えてないんでしょうけど、先輩はもう少し周りに目を向けるべきだと思います。知らないうちに誰かを傷つけて、それを忘れてるタイプですよ。先輩の夢の動機に限らず、忘れられたほうは嫌ですからね。もっと傷つくんです」

「忘れられただけで、傷つくのか」

「傷つきます。悲しいです。そして、怒ります」


 怒るのか。その感覚をどう理解していいのかわからなくて、僕は呆然としていた。

 そんな僕に、焼野原は眉を下げた。さっき見せたのと同じ、なんとも言えない表情だ。けれど、今度は口を開く焼野原。どこか気遣うように、「あのね、先輩、」と僕に伝える。


「先輩が、紫香楽空寝くんの気持ちを汲み取ろうとしたのは、素晴らしいことだと思います。私だったらとても嬉しいもの。だけど……そのために先輩が得た心の痛みは、先輩の痛みです。きっと紫香楽空寝くんのはじゃないです。だって、心はひとによって違うんだから」


 そう言われて、僕ははっとなった。焼野原の言うとおり、これは僕だけの痛みだ。

 そもそも、前提が違う。僕は、友達である鬼林から、辛辣な言葉を言われて、悲しくて切なくなった。だけど、紫香楽空寝は、自分で仕組んだことじゃなくて、たぶん突拍子もなく、理不尽に罵られたはずだ。それも、友達でなく、自分を嫌っているだろう相手に。


「傷つけられて思うことは〝悲しい〟だけじゃないんですよ。みじめで、もどかしくて、腹立たしい。はらわたが煮えくり返るほど熱くなる。頭は真っ白になって、だけど、つらくてなにもできない。そんな最低な日は一度きりじゃない、ずっと続くんです。たとえば、自分の憧れや好きなものを嗤われたり、貶められたり、こっちが少しでも弱みを見せれば永遠と責めたてられたりする……たぶん、紫香楽空寝くんの痛みは、そういう残忍な心で傷つけられたものなんじゃないかと、私は思います」


 僕は紫香楽空寝のように好きなことを貶められたことがない。生きているだけで嗤われたことも、嫌なことを無理強いされたこともない。けれど、紫香楽空寝は、そうだった。

 そんな現実から逃れるために、夢に憑かれたのだろう。おそらくあの夢は紫香楽空寝の復讐だ。かつて己を虐げた者たちへの、夢の中での復讐。現実世界ではなく、夢の、そのまた夢でしか叶わない、儚い願い。

 僕が夢を引きちぎる間際の紫香楽空寝の形相は、言葉は、絶望に満ちていたように思う。日記にも書いてあった、紫香楽空寝の言葉——俺のことなんて、忘れてればいいだろ。


「……忘れてほしくないのか、紫香楽空寝は。傷ついてるって」


 僕がなにもわかっていなかったと、やっとわかった。

 紫香楽空寝の悲しみがどんな温度で、苦しみがどれほど深く、怒りがどれほど気高いかを想像できなかった——だって、心はひとによって驚くほど違う。

 愕然とする。一つ一つが複雑で、知りえないことが、理解しえないことがたくさんあって、きっと探せばまだまだ溢れでてくる。驚きの連続だ。痛感するような毎日だ。これまで意識していなかったけれど、この世界はあらゆる感情に満ちている。いっそ絶望したほどだった。僕は小さく息をつく。


「……付け焼刃の知識を得ようとしたところで、結局は無駄なんだな。そんなものであいつと話そうだなんて、捕らぬ狸の皮算用さ」

「無駄じゃないですよ」

「無駄だよ。だって、わからないんだ。目を覚ます喜びを、僕はあいつに与えてやれない」

「それでも、無駄じゃないです。そうやって思ってくれるから、心を砕いてくれるから、傷ついていることを忘れないでいてくれるから、癒える傷だってあるんです」


 そう言って、焼野原は綺麗に笑った。

 ひとの心とはかくも難しい。どれだけ励まされても、やっぱり僕はやるせなくて、そんな自分の感情にすら眩暈がした。

 けれど。


「……紫香楽空寝を治療したい」僕は焼野原に言う。「そのためにも、僕に力を借してくれ。どうせ乗りかかった舟なんだから、最期まで付き合ってもらうよ、焼野原」


 今日、焼野原と話して悟った。焼野原は、紫香楽空寝の一番の理解者となりえる。そして、紫香楽空寝を助けたエバーグリーンでもある。似たような経験を持つ者の、己を助けた者の言葉なら、その心はまっすぐに届くはずだ。

 僕の言葉に、焼野原は苦笑した。


「泥舟じゃないでしょうね。かちかち山の狸は泥舟に乗って海に沈むんですよ」

「溶けて溺れようが、僕が助けてやるさ。お前はきっと、紫香楽空寝の苦しみや怒りを理解できる、あいつの王子様なんだ」

「目覚めのキスでもすればいいんですか?」

「いいや。あいつの頬をぱたいてやればいい。狸寝入りはもうやめろ、と」






 その日の放課後、僕と焼野原は、再び紫香楽空寝の家を訪ねた。

 突然出向いた僕たちを、紫香楽微睡はすんなり部屋に通してくれた。

 昨日のように、僕たちは眺診器を装着し、紫香楽空寝の夢の中へと潜っていく。

 布団まみれの穴蔵から怪物の棲まうダンジョンへ。そして、その向こうの漫画の世界に踏みこんだとき、一度目では気づかなかったことに気がついた。

 この白黒の世界は、紫香楽空寝の過去を表していた。

 彼が主人公の、彼のストーリー。最悪な毎日を繰り返していくだけの物語だ。

 クラスメイトの男子に、体育の授業中、わざと集中的にボールを投げつけられた。おかげで体中が痣だらけになって、それを女子に気味悪がられた。人間としての尊厳を凌辱するような暴言を吐かれ、嘲笑われる。クラスメイトたちの気が済むのを、彼はただただ耐えていた。これ以上火に油を注ぎませんように、何事もなくやりすごせますように。そう心の中で唱えながら、擬死した獣のように身を縮こまらせていた。

 そうやって読み進めていけば、焼野原と出会った日のページに行き当たった。

 帰り道、よくわからない言いがかりをつけられて、ひどい力で叩かれたり蹴られたりしていた。次のページでは、頬に鉄拳がめりこんでいくクラスメイトの姿。紫香楽空寝の襟ぐりを掴んでいた手はほどけ、クラスメイトは吹っ飛ばされていく。その様子を、他のクラスメイトたちも呆気に取られて見ていた。突如現れた凛々しい少女が大ゴマでくりぬかれている。


「傷つけられたから傷つけ返しただけだ。永遠にくたばってろ。泣きそうで、私は、虫の居所が悪い」


 紫香楽空寝は呆気に取られながら、焼野原を見ていた。彼らが満足するまで耐えなければならなかったはずの時間が、一瞬にして過ぎ去った。そんな奇跡の体現に心が震えていた。

 けれど、奇跡は人生に一度しか起きないから奇跡なのであり、起きてしまえばそれ以降はない。翌日には、クラスメイトはそのことを忘れ、いつもどおり紫香楽空寝を虐げた。

 彼を苛む暴力は卒業まで続いた。我が事のように塞ぎこむ家族に申し訳なかった。なにも言い返せない、無力な己をみじめだと思った。

 せめて、高校ではと思った矢先、彼は、自分をいじめていたクラスメイトと再会する。

 意気軒高校のものとは違う制服を着ていた。たまたま道端ですれ違っただけだ。わざと地元と遠い高校に進学しても、そういうニアミスはきっとある。緊張で心拍数が上昇する。手汗が生冷たい。いっそ吐き気すらした。またなにか言いがかりをつけられやしないか、嗤われたりしないか。けれど、もしかしたら、申し訳なさそうに顔を歪めてくれやしないか。そんな、ぐちゃぐちゃな感情で、紫香楽空寝はかつてのクラスメイトと相対した。

 けれど、そのクラスメイトは素知らぬ顔で通りすぎていった。

 真っ黒に塗りつぶされた紙面の上に、紫香楽空寝は棒立ちになっていた。こんなにも憎たらしいのに、切ないのに、心が砕けてしまいそうなのに、どんな言葉も出てこない。絶望するしかなかった。彼の心身には震えるほど深く刻まれているというのに、肝心のクラスメイトは、彼を見て見ぬふりだ。彼を傷つけたことなんて、そいつはもう忘れている。

——虚しい。

 ページをめくるたびに僕の胸が詰まる。全身が見悶えて、悔しかった。白黒の世界になんでだよって叫んでやりたくなった。

 けれど、どれだけ叫んだって、その言葉が彼らに届くことはない。こんなにも虚しくて、ままならない感情に、心臓を掻き毟りたくなる。

 白い砂塵を抜けた焼野原は、折り重なる死体の山を見上げた。その上には、大剣を掲げた紫香楽空寝がいる。傷ついて、虚しくて、だから永遠に眠りに就くことと選んだ、この世界を夢見た夢見主がいる。

 紫香楽空寝は、焼野原を見るなり目を眇めた。

 そんな彼に、焼野原は「こんにちは」と呟く。


「……また来たのか」

「はい。来ました」

「……気づいたんだけど、あんたも、俺の夢じゃないんだな」

「焼野原戦です。いまの貴方のクラスメイト。本当は貴方のほうが先輩なんですけど、いまは同じクラスだから、紫香楽空寝くんって呼びますね」

「俺を、助けに来たって、言ってたな」

「そうです。知ってますか? 現実世界の貴方って、髪の毛もぼさぼさで、だらしがないの。いまみたいな髪型のほうがかっこいいです。目が覚めたら、まずは髪を切りましょう」

「嫌だ。俺は目を覚ましたくないんだ。ここでずっと、こいつらを踏みつけていたい」


 焼野原は押し黙り、紫香楽空寝をじっと見つめていた。

 ややあってから、焼野原は死体の山を踏みつけるようにして登っていく。

 紫香楽空寝を虐げたクラスメイトの顔を、手を、足を踏みつけ、頂上にいる彼の隣に立った。


「あー、楽しかった」焼野原は少しだけ笑った。「きもちいですよね。こいつらのことをゴミみたいに扱うのって。自分が傷つけられたぶんやり返してやるのって、気分がいい」


 そんな焼野原に、紫香楽空寝は目を細めた。清々した焼野原の表情とは違い、切なげなそれ。どこか苦悩するように眉間に皺を寄せている。彼はおもむろに呟いた。


「……現実は、虚しい。俺はあいつらに完膚なきまでに蹂躙されているのに、きれいさっぱりなかったことにするんだ。俺が傷つけられた意味はなんだったんだ。せめて覚えていろよ。自分がつけた傷くらい、忘れないでくれよ」


 その言葉に、さきほど抱いたままならない感情が、再び疼きだした。

 忘れられた人間はずっと傷ついている。

 紫香楽空寝はそのもどかしさを吐き捨てつづけた。


「俺を傷つけたやつは、俺に傷をつけたことなんて忘れてる。でも、俺は忘れない。心ない言葉も、ボールの痛みも、俺が呻くたびに上がった笑い声も、ずっとずっと覚えてる。それなのに、あいつらは忘れてるんだ……」


 焼野原は紫香楽空寝の横顔を見遣った。

 紫香楽空寝は歯噛みしながら空を仰いでいる。その瞳はわずかに滲んでいた。


「あのとき言い返せていれば、殴り返せてやればって、何度も何度も思った」


 心臓が押しつぶされているかのように、紫香楽空寝は己の胸を掴んだ。

 焼野原は紫香楽空寝から視線を移し、彼方を見据えた。


「そうですね。私も思います。痛くてもつらくても、私たちは耐えることしかしないから……精々、目がずたずたになるほど泣くことしかできないから、だから傷つけられるんです。もっと早くに殴り返すべきでした。でないと、私たちがあまりにも無念だ。相手を傷つけることができるようになるまで、私は何百何千回と泣いた」

「……俺は、言い返すことも、殴り返すことも、できなかった。だって、俺がゲームをプレイしてるあいだずっと、あいつらは現実をプレイしてる。レベルが違うんだ、絶対に勝てない。人生というシステム上、絶対だ。俺は、これ以上みじめに泣くのが嫌だったから、泣きたい気持ちをぐっと堪えて、ここで〝死ね〟って叫んでるんだよ。せめて俺だけが知っているところでいいから、あいつらに勝ちたい」


 そう言った紫香楽空寝に、焼野原は手を広げてみせ、この夢の世界を見渡した。


「なら、貴方は勝ちました。見てください、この死屍累々。貴方はもう弱くない。だから、これからは、現実を生きていきましょうよ。どれだけ下手くそでも、私たちは人間なので、人生を生きていかなきゃいけないんです」


 そのとき、ふと、紫香楽空寝の踏みつけていた人間の一人が呻いた。

 しわがれた声がするすると足元を這う。それに怯んだ紫香楽空寝は、必死の形相で、息を荒げて、持っていた大剣を振り落とすことで、そいつにとどめを刺した。そいつはぴくりとも動かなくなったけれど、血濡れた剣に映る紫香楽空寝の目は、じわじわと潤んでいく。

 焼野原はなにも言わずにその様をじっと眺めていた。息を整えようとする紫香楽空寝の喉の音だけがあった。どれだけの間があっただろう。紫香楽空寝は首を振りながら「いやだ」とこぼすのだった。


「目を覚ましたくない……ここで、死んだように、眠っていたい。だって、現実を生きてたっていいことなんてない。あるとしたら、あの日だ。あんたが俺を助けてくれた、夢のようなあの日だけ……」紫香楽空寝は縋るように焼野原を見つめた。「夢のまた夢なんだ。あんただけが奇跡なんだ。俺にはもう二度と現れない、たった一度の奇跡」

「奇跡じゃないですよ」


 しかし、それを焼野原は断じる。

 かつての己と同じことを夢見ている相手に、真心をこめて。


「奇跡じゃないんです。偶然なんです。私が貴方をいじめたひとを殴ったたのも、いま目の前にいるのも、たまたまのこと。奇跡はそう起こりませんが、偶然は、けっこう起こります。現実を生きていれば、貴方のこれからにだって」


——景を眺めていた紫香楽空寝が、再び焼野原を見た。己を見据える眩まばゆい双眸を——その目に映る、哀れで切なく、けれどどこか期待したような己の顔を、ただじっと見つめていた。

 次第にその世界を照らす光は強くなり、網膜を鮮烈に焼き切って、そして。



「……——おはよう」



 紫香楽空寝は目を覚ました。

 涙を流して掠れた眼で、声をかけた僕を見つめる。

 僕の背後では、涙目になった紫香楽微睡が、彼の名を呼んでいた。そんな彼女をしばらくじと見つめたかと思うと、僕の隣に座っている焼野原へと目を遣った。


「……ありがとう。エバーグリーン」渇いた声で呟いた。「いい夢を見れたよ」


 焼野原は優しく微笑んだ。

 その日を境に、紫香楽空寝が夢の夢を見ることはなくなったという。






 僕が三人目の夢見主の治療を終えたその日。帰宅し、自分の部屋へと戻ると、鼻唄を歌う猟ヶ寺が、僕のベッドの上で俯せになり、僕の日記を読んでいた。はい?


「おかえりなさい。私はいま暇つぶしに貴方の日記を読み耽っているところよ」

「なにをやってるんだと聞こうとしていたから答えてくれるのはありがたいんだけど、そもそもなんで僕の部屋にいるんだ」

「紫香楽空寝の覚醒に成功したようだから、おめでとう記念の動画を作ろうと思ったのだけれど、素材がなくって。貴方のことだから眺診器を使って施術したのだろうし、録画機能をオンにしているなら、夢の中の紫香楽空寝の映像を素材として使おうと思った次第よ」


 手のこんだことをしてくれるものだ。猟ヶ寺から寄越される記念品がどんどんグレードアップしている。鬼林のときにもらった画像から始まり、焼野原のコラージュときて、いよいよムービーときた。以前に猟ヶ寺は〝動画編集が限界〟と言っていたはずだから、持てる技術を最大限に駆使し、労をねぎらってくれているのだと思われた。

 しかし、そんな彼女の行動に、僕は首を振ったのだった。


「……いいよ。今回の件について、僕はあまりにも無力だった」


 すると、猟ヶ寺は日記のページをめくる手を止めた。

 視線を受けながら、僕は言葉を続ける。


「僕はあいつの傷に共感してやれなかったから……祝われる筋合いはないんだ」


 正直、今回の件に関しては、落胆のほうが大きい。

 僕は最後まで紫香楽空寝の悲しみや怒りを測り知ることができなかった。

 どんな些細なことでもひとは傷つくし、傷つけられる。僕の知らない痛みが、たしかにそこにあって、けれど、心の傷が悪夢を生むこともあるなら、悪夢を祓うにはその傷を癒さなければならない。

 しかし、僕は、彼の痛みをただ眺めていただけだ。めくるめく感情の波に揺さぶられ、生まれてこのかた見知らなかったものばかりで——痛感した。僕が伝えられる感情だとか言葉だとかは、圧倒的に足りないのだ。


「足りないぶん、今までずっと見て見ぬふりをしてきたんだなって、思い知らされた。見て見ぬふりをしてどうにかできるほど、ひとの心って甘くはないのに」


 猟ヶ寺はぱたりと日記を閉じた。枕元に閉じた日記を置く。


「ずいぶん人間らしくなったわね」

「元から人間だけど」

「ちょっと前までは人間じゃないみたいだったわ。機械的で、電源をオフにすればそれまでのデータは全部消えちゃう、人の形をしたロボットのようだった。最近はあのカルト勧誘もしていないようだし。恥ずかしいって感情を身に着けたのでしょうね。誰かに悪く思われることを厭う感性も。ずっと、どうせ忘れてしまうからって、見て見ぬふりをしてきたのに」


 僕がなにも返さないでいると、猟ヶ寺は体を起こした。ベッドに座りなおし、制服のスカートを整えながら、さらに言葉を重ねる。


「そうね、どんな些細なことでも、ひとは傷つくし、傷つけられるわ。貴方は傷ついた相手の心に寄り添うということを覚えた。けれど、それはあくまで受動的な感情への共感にすぎないのよ。自分自身の感情に疎い貴方に必要なのはむしろ、能動的な感情への共感でしょう」

「能動的な感情」

「つまりは、傷つけられた思いではなく、傷つけようとした思い」


 僕は押し黙る。傷つけようとする思いなど抱いたことがないから、たしかに僕はその感情に疎い。けれど、それは、覚えるべき感情だろうか。

 僕の気持ちを察してだろうか、猟ヶ寺は言葉を続けた。


「因果関係を知るべきという意味よ。傷つけられるほうにだって理由はあるわ。それが正しいか正しくないかは別としてね。傷つけられるのは、傷つけられるべき理由があるからよ」


 しかし、やはり僕は、猟ヶ寺の言い分には納得できなかった。夢の中で紫香楽空寝の過去を見て、胸が潰れるかと思われるほどの虚しさを知って、それすらも紫香楽空寝に理由があるなどとは、どうしても思えなかった。


「貴方は紫香楽空寝の夢の中に潜ったから、紫香楽空寝の心しか知らない。彼を苛んだクラスメイトの夢を覗いてみれば、また違ったものが見えてくるかもしれない。誰しも心を持つという当たり前を見落としてはだめよ」

「そんなものなら、僕は見たくない」

「そう言うのなら、それでもかまわないわ。これまでどおり見て見ぬふりをして、考えるのを放棄すればよろしいのよ。薄情な当主のできあがり」猟ヶ寺は冷たく続ける。「予知夢を見ずとも一門の未来は知れるというものね。誰もが思うことでしょう。枕部を貴方に託したのは、やはり間違いだったと」


 僕は眉を顰めた。歯を食いしばり、足元を睨みつける。顔を上げて、猟ヶ寺の顔を見ることはできなかった。そんな僕を猟ヶ寺はじっと見つめていた。

 ややあってから、ベッドから立ち上がった猟ヶ寺は呟く。


「……私がこうして貴方を悪し様に言う理由を、貴方は考えたこともないんだわ」


 その言葉に、僕は目を瞠った。

 猟ヶ寺は僕に対して薄情だのなんだのと悪し様に唱えることがあるけれど、そういえば、どうして猟ヶ寺はそのように僕につらく当たるのだろう。

 昔からそうだったような気がするが、はっきりしたことは思い出せない。僕も僕で自分の薄情は自覚していたし、猟ヶ寺の指摘はごもっともだったから、考えたことがなかった。けれど、猟ヶ寺は僕と違って心の機微に敏感だ。放つ言葉には意図がある。猟ヶ寺がわざと辛辣な言葉を選んでいるとしたら、そこには僕を傷つけたいという意図があるのだ。

 僕は伺うように、猟ヶ寺へと視線を遣った。


「僕って、なにか、お前に嫌われるようなことでも、したんだろうか」


 そう尋ねると、猟ヶ寺はおもむろにこちらを振り返る。その目は大きく見開かれていた。人形みたいで怖い。驚いた僕へと猟ヶ寺は尋ねてきた。


「……どうして、そんなことを聞くの?」

「どうしてって」

「どうせ忘れるくせに」


 なにを返すこともできなくなり、僕は「……ごめん」と呟いた。

 ややあってから、猟ヶ寺は視線を逸らす。小さくため息をついていた。


「別にいいのよ。どうせ覚えてないんだろうけれど、言ったでしょう。私は貴方になんの期待もしていないから。決意も、優しさも、涙も、後悔も、なにを抱いても翌朝には忘れてしまう貴方に、どれだけ心を懸けても、全て無意味。無駄。虚しいだけ」おもむろに僕に近づき、顔を覗きこんで囁いた。「期待するだけ、寂しいだけなのよ」


 押し黙る僕に、猟ヶ寺は「ともあれ。眺診器は?」と尋ねる。僕が一台だけ渡すと、猟ヶ寺はそれを受け取った。それから「あと一人ね」と僕に囁き、部屋を出る。僕は猟ヶ寺の閉めた部屋のドアを見つめる。

 僕が対峙し、退治すべく悪夢は、あと一つ。

 なのに、少しも喜べなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る