第31話 足利一族はみんな仲良し!(3)への応援コメント
そうやって生き延びた前北条氏の家系で、尾張の横井さんという家があるみたいで……。
戦国時代に至って、伊勢新九郎って人が「ウチ来る?」と横井さんのお嬢さんを息子の嫁に迎えたみたいです。
その息子さん、伊勢氏綱さんが「じゃあ」ってことで北条氏綱を名乗るという^^;
ちなみに氏綱と横井さんのお嬢さんの間に生まれたのが北条氏康です。
つまり氏康は名実ともに「北条」だった、ということになるみたいです。
諸説ありますが^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
伊勢さんも平さん、北条さんも平さんで、家康みたいに「松平が源氏だなんて話はきかないぞ」とか言われないぶん、らくだったかも知れません。
関東の武士や百姓・町人に、「最近は上杉だ足利だ堀越公方だってやってるけど、やっぱり関東は北条だよね」という意識があったかどうか。
…あったのかなぁ…やっぱり。
これからもよろしくお願いします!
第30話 足利一族はみんな仲良し!(2)への応援コメント
やっぱり頼朝という化け物が全てを狂わせてしまった……としか言いようがありませんね^^;
でも足利も新田も、後に尊氏や義貞という化け物を生み出すから、人のこと言えませんが。
そして時代の不可逆な流れを生み出してしまうところも同じだし……。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
頼朝のばあい、「それ、関東ローカルのできごとでしょ? それで全国を動かしてしまうの? しかも鎌倉にいるままで?」ということがありましたし。
尊氏(高氏)のばあいは、(幕府への)「反乱」に踏み切るのは京都でですけど、関東社会で起こったいろんなことを背負っての決断でしたし。
保元の乱あたりから「関東情勢が日本全国を動かす」という動きが出ていたのが、伊勢平氏の平家政権ができたために、京都のほうで関東の重大さを認識するのが遅れてしまったんですかねぇ?
それとも、やっぱり河内源氏の血筋に宿る「何か」の力なのか?
それでは、またよろしくお願いします。
第29話 足利一族はみんな仲良し!(1)への応援コメント
熊谷直実「えっ!? 世を儚んで出家とかイケてる流行りじゃないの!?」
……とか言ってそうですね。
でもこの人も領地問題で揉めてたしなぁ^^;
足利と新田。
やっぱりヤンキー義貞が鎌倉攻めを成し遂げちゃったところが、新田家の立ち位置を読み取りづらくしてしまったんでしょうね。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
熊谷直実、調べてみたら、すごいというか、有名人なのに苦労してるというか、そういう生きかたをした人だったんですね。
足利尊氏が、おじいさんが謎の自害、お父さんがいろいろあって(具体的にはよくわからないけど)精神をわずらい、お兄さんが(これもよくわからないけど)早世したという伝記がわかるのに対して、新田義貞の祖父・父の業績はほとんど伝わらず、本人も里見家からの養子説があったり、最初から落差があって。
それで、だからがんばったんだろうなぁ…という想像はできますけど。
またよろしくお願いします!
第28話 牧氏事件と足利一族(4)への応援コメント
なかなか難しいですね。
実は何も考えてなかったんじゃないかと思ったりします^^;
何か「おれはどうするんだ」とかうるさいから、じゃあ家興していいよとか言ってたりして(笑)
その場その場の対応だったというのが、真相のような気がします(気がするだけですが^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
北条氏のやることって、そう理解するのがいちばんいいようなところがありますね。
やっぱり「自分がビッグになることを考えに入れてなかった」ってところがあるので、よく考えてやっているのか、あとからみればそんなふうに見えるのか。
またよろしくお願いします。
第27話 牧氏事件と足利一族(3)への応援コメント
畠山家、三管領の家柄になっていくんですけど、畠山義就という「化け物」を生み出すことになるとは、この鎌倉の頃は誰にも予想できなかったでしょうね^^;
そして両毛地域。
やっぱり足利といい、新田といい、河内源氏の流れって言うのは、何か「持ってる」んじゃないでしょうか(笑)
オリジンの源頼信にしてからが、戦った相手の平氏から「ウチ継ぐ?」と嫁を貰ってるぐらいだしなぁ^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
源頼信、平忠常の反乱軍と平直方とのあいだをうまく裁いて、関東に自分の勢力を割り込ませた感じですね。
河内源氏系統は、頼朝も含めて「規格外」のところもありますし、何かのステイタスにチェックがつくと、異様に運が良くなったり、異様に荒れたりしますよね。
またよろしくお願いします。
第26話 牧氏事件と足利一族(2)への応援コメント
マキャベリズムの発露、と言えばそれまでですけど、熱い手のひら返しですね(笑)
うまいこと有力御家人を排除したり、親戚を潰してきた得宗家。
だから鎌倉攻めの時、あまり味方いなかったんじゃあ……。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
重忠が殺されて、その所領を没収して、そのあとで「あれはまちがいだった」と親を隠居させてしまうんだから、やっぱりすごいですね。
「だったらおまえも隠居しろよ」とは言われなかったのだろうか…?
ほかが離れて行っても「足利・新田が裏切らなければ鎌倉はだいじょうぶ」と思ったら裏切られてしまった…ということかな?
それではまたよろしくお願いします!
第25話 牧氏事件と足利一族(1)への応援コメント
「摂津」源氏、「河内」源氏っていう言葉に語弊があるというか何というか……。
発祥の地であり、創業の地、根拠地であるから、間違いではないんですけど、そっから「どこへ」発展していったかが、後世の我々からするとワケワカラナイ(笑)
で、おっしゃるとおり、「義兼」とアナザー「義兼」だし(笑)
そして……重忠逃げてのあの事件が出てくるワケですね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
最初にカクヨムに書いたら「カクヨム源氏」、最初になろうに書いたら「なろう源氏」。
なんでカクヨムに載ってるのに「なろう系」なの? …というような。
……たとえが悪い?
牧氏事件というからには、そっちに行くんですけど。
またよろしくお願いします!
第24話 新田氏のかわいい子にはへの応援コメント
得宗「何や、新田に金があるんやったら、千早の楠木退治の軍費払えや」
義貞「払えるワケねーだろ。寝言は寝て言え」
得宗「あ? 潰すぞ?」
義貞「あ? 潰すぞ?」
……という経緯で、あの奇跡の鎌倉攻めが始まったようなので、お金があるというのも良し悪しですね(そうか?(笑))。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
いやぁ……尊氏(高氏)が寝返った件も含めて、おカネの問題はけっこう大きかったのではないかと思います。
「カネ払ってまで得宗体制を守って何の得があるのか、それを教えてくれよ」
「得? そんなものはない!」
……みたいな。
またよろしくお願いします。
第23話 「義」と「氏」への応援コメント
今川家について言えば、今川義元と「花倉の乱」で家督を争った兄の名が「良真(ながさね)」だったりします(義元は四男、良真は三男)。
良真は「義」じゃないんですが、他ならぬ義元の子が氏真で、「真」の字が(笑)
……わからないものですね^^;
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
義元に、息子に「真」を継がせる義理はなさそうなんですけど、ことによると何か気にしていたのかな、という感じですね。
それとも、完全に忘れてて、「なんか聞いたような名まえだけどまあいいや」と思って名づけたら、自分の敵だったおにいちゃんの名まえだった?
これも謎ですね。
それでは、またよろしくお願いします!
第22話 足利高義の名をめぐってへの応援コメント
投稿ご苦労様です。
前々話のコメントにあった『建武政権の征夷大将軍として、後醍醐天皇の皇子の護良親王がいた、ということですね。』というのは興味深いですね。
将軍職なんて無くなったのさ。あんなの忘れちまいなとは、後醍醐天皇も行かなかったのでしょうね。
本話についてですが、作者様の案を少し補足して、『貞義』→『高義』と改名したとすれば、うまく説明できるようにも想います。とにかく、足利家の当主は得宗家の当主の偏諱をもらい、それにより忠誠を示すのだと。
まさに尊氏の例が示すとおり、上には上(将軍と天皇)がいますものね。
作者からの返信
ありがとうございます。
原名「貞義」というのは名案ですね!
貞氏がいたから同じ名は避けて、しかし偏諱はもらうとすれば、「氏」を避けるかわりに「義」をつけて「貞義」という名がちょうどよいです。
同じようなことを考えるのか、足利家の分家の吉良家には吉良貞義が、新田家の分家の堀口家には堀口貞義がいますが。
こうなると「新田義貞の名になんで「貞」がつくの?」という問題とかも出て来たり。
それでは、またよろしくお願いします。
第22話 足利高義の名をめぐってへの応援コメント
新田義貞について言えば、彼は里見氏からの養子だったという説があるので、そっち関係かもしれません。
ただし、養子説を採用しちゃうと、弟の「脇屋」義助の立場は何なんだという問題が発生するという……^^;
いずれにせよ、謎の多いジェネレーションですよね(笑)
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
里見というと八犬伝をまず思い浮かべてしまうのですが、「苗字の地」は高崎市の西側、安中榛名のほうなんですね。脇屋は太田市の中心のほうで、新田氏が支配した範囲は東武伊勢崎線から両毛線、北陸新幹線のほうまで広がっていて…なんかすごい。
それなのに、義貞や脇屋義助の生まれたころは、新田氏はとても地味な存在になっていたらしく、あんまり具体的なことが残ってないっぽいですね。
またよろしくお願いします。
第21話 ビューティフルかどうかはわからないけどへの応援コメント
999の映画版は面白かった……。
という回想はさておいて(笑)、そういえば、アフター北条家だと、代々当主は「新九郎」という通り名でした。
伊勢新九郎以来の流れで、早逝した氏政の兄も新九郎でした。
おっしゃっるとおりの「伊勢の家の伝統」か、あるいは早雲にあやかるためかも、と思ったりします^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
アフター北条家は「新九郎」だったんですか!
「足利(古河公方系、堀越公方)、上杉、今川に対抗するなら北条だ!」と北条を名のっても、そういうところに「伊勢氏」の出身という記憶を残していたんですね。
それでは、またよろしくお願いします。
第20話 「源氏将軍観」と足利氏(2)への応援コメント
投稿ご苦労様です。
尊氏が将軍になったのは、対北条という側面があったのかもしれませんね。
幕府を開くといった場合ーー統治制度はとりあえず鎌倉から引き継ぐ方が、色んな面で都合が良いのはあきらかであり、そうすると、自分が将軍になるか執権になるかのいずれかとなる。
執権だと、そこは北条氏の血筋が付くべきとかありそうで、ややこしく、対して、将軍は実質空席同然であり、しかも執権(=北条氏)より位は上になる。
この時の北条の権威や軍事力がどこまで残っているか、私は詳しくありませんが、何となく、そんな気がしました。
作者からの返信
ありがとうございます。
建武時代から南北朝の最初の時期には北条氏の権威ってけっこうまだ強く残っていたようです。
あと、この問題がさらにややこしいのは、建武政権の征夷大将軍として、後醍醐天皇の皇子の護良親王がいた、ということですね。
しかも、護良親王は足利尊氏に強いライバル意識と警戒心をもっていましたし。
ところで、この後醍醐天皇の皇子で征夷大将軍の親王「護良」は、現在は「もりよし」と読んだと考えられていますが、戦前は「もりなが」親王という読みかたが定着していました。
で。
ゴダイゴのCMの曲に「もりなが~チョコレー~ト」というのがあって、ですね。
こんなところまで天皇と親王の因縁が……。
いや。森永製菓のコマーシャルの曲ですけどね。
…今後もよろしくお願いします!
第20話 「源氏将軍観」と足利氏(2)への応援コメント
まあ、モンゴルでいう、チンギスハーンの血を引いてないと駄目みたいな、縛りが無いと、収拾がつかなかったのでは。
でないと、源頼政の遺児が、「ワイが源氏長者やで!」とか言い出したら、もう何も言えなくなっちゃうし。
……それにしても、蒲冠者ぐらいは残しておけばなぁ^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
本拠地にとどまって朝廷に仕え続けた源頼政の系統と、関東に行って東北攻めをして威勢を高めた河内源氏系統と、どっちが「本家」にふさわしいかというと…なんとも言えないんじゃないかと思います。
後の尊氏と直義もそうだけど、「将軍」って職が手の届くところにあると、なんか兄弟仲よくできなくなってしまうみたいな。
またよろしくお願いします!
第19話 「源氏将軍観」と足利氏(1)への応援コメント
難しいところですね。
家康は、新田家の嫡流(だったかな?)・山名禅高に「(足利の分家の)斯波義銀にそんなにぺこぺこするな」と叱言を言ってるし。
割とフリーな感覚で、「ワイは源氏嫡流!」と言い張っていたのかもしれませんね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
家康は、なんか、新田家当主のつもりで源氏を名のっていたり、藤原氏を名のっていたりで、いろいろですね。将軍になったときには正式に(朝廷から認められて)「源」になっていますが。
信長も藤原だったり平だったりでいろいろですが、信長より家康のほうが血筋・家名へのこだわりは深かった感じがします。
それでは、またよろしくお願いします。
第17話 鎌倉幕府は「源氏将軍」を求めていた?への応援コメント
どうも。投稿ご苦労様です。
北条義時、ちゃっかり義の字を使ってるな、などと想ってしまいました。
そして、親の信虎を追放したとされる春信も、法名?の信玄の方にも信を残していると考えると、表向きは円満継承を演出したかったのでしょうかね?
ところで、通り字ですが、世代(兄弟やいとこ)で同一字を用いる中国の方が、分かりやすくていいですね。日本の場合、有名どころはいいですが、それ以外は、世代がすぐ混乱してしまいます。
作者からの返信
ありがとうございます。
じつは大覚寺統は途中から中国式で、後二条天皇は邦治、後醍醐天皇は尊治で「治」が共通、次の後醍醐天皇の皇子と後二条天皇の皇子は、後二条系が邦良(ただし弟は邦省)、後醍醐系が尊良、護良など「良」、その次の世代は南朝のみですが「成」で、世代で共通の字を使っています。
信玄は、跡継ぎの勝頼が「信」を継いでいません。将軍家の「義」と通字「信」を受け継いだ武田義信を跡継ぎからはずしてしまったからですが。勝頼はもともと諏訪氏の後継者になるはずで、諏訪氏の通字「頼」を継いでいたのですが、武田家に戻ってしまって…。そういう経緯がなければ勝頼はもっと粘れたのかな、と思わないでもないですけど。
それでは、またよろしくお願いします。
第18話 「源氏将軍観の高揚」という問題への応援コメント
まあ、北条家としては、担ぐ神輿は立派な方が良い、というところでしょうか。
何気に全国区の存在になりつつあるし^^;
でも、ここで源氏嫡流をキチッとしていなかったことが、幕末に響いてきたのかもしれませんね。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
北条家、「関東で敵なし」になって得意だったかも知れないけど、「何言ってんの? キミの舞台は全国だ。さあ全国でも無敵になれ」といわれて「えーっ?」とかなってる、中途半端な強豪みたいな。
幕末もなかなかすごくて。
徳川が「源氏の嫡流は足利じゃない。新田だ。新田の流れをつぐ徳川だ」とか言って足利時代を否定していたら、倒幕派が「何を言ってるんだ。足利家がおかしいとしたら、武家政治そのものがおかしいんじゃないか。後醍醐天皇が正しいんだから倒幕するぞ!」と言い出して収拾がつかなくなった、という。
来週は足利家の話に行く予定ですが。
またよろしくお願いします。
第17話 鎌倉幕府は「源氏将軍」を求めていた?への応援コメント
源範頼「そういえばワイも『頼』使ってるで!」
源頼朝「お前は黙ってろ」
……そんな寸劇が頭に浮かびました^^;
「義」は八幡太郎義家のイメージが強いですからね。
足利家が「おれたちが源氏だ!」と言い張るんだったら、たしかに「義」はいいかもしれませんね。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
「くやしかったら一族に「範」使わせてみろや」
とか。(^^;
源氏は、源頼信の世代と源頼義の世代は、摂津源氏・河内源氏ともに「頼」なんですよね。ところが頼義が息子に「義」のほうを使わせて、それから、義家・義親・義朝と「義」で、頼朝で「頼」に戻ります。
足利さんのところは、義氏から「氏」が通字になって、なぜか「高義」で「義」に戻るという。
なんでしょうかねぇ……? 周期性?
ではまたよろしくお願いします!
第16話 惟康王が源氏になった理由への応援コメント
投稿ご苦労様です。
おおっ。そうなのですね。今までずっと源氏は清和天皇から生まれた一族だけだと想っていました。でも、私と同じ誤解をしている人はたくさんいる気がする。
前話のコメントの「后妃の血筋」ですが、少し説明不足でしたね。ここは、代々の女系ということではなく、清瀬様の言葉でいえば、「家柄」の方です。例えば、チンギスの4人の皇后は正妻のボルテを除けば、メルキト、タタルと仇敵なのですが、「家柄」ゆえに、皇后の位に就いています。
ここの皇后とは、これを一人に限る中国王朝とは異なります。正妻の子が有利ではあるのですが、この4人の皇后の子ならば、次のカンになりうる資格を与えられ、また皇族として扱われます。逆にいえば、それ以外の妃の子は、千人隊長より下になります。(ちなみに、清朝も複数の皇后を起きます。モンゴルの影響なのか、北族に共通する制度なのかは、はっきりしませんが)
また、おっしゃられる通り、遊牧勢は男系社会であり、その氏族の当主となるのは、代々の男の子孫です。ただ、娘の方にも、軍勢や家畜などの財産は分け与えられて、それを携えて嫁ぎます。また遊牧勢の代表といえるトルコ・モンゴル系での女性の権威・権力の強さは有名であり、その地を旅した者が驚きと共に伝えているところではあります。
また、姻族という制度が女系の尊重とは言えると想います。例えば、チンギスの娘がオイラト家に嫁ぐと、その娘はオイラト家の者として今度はチンギス家の者に嫁ぎます。そして、その娘がチンギス家の娘としてオイラト家にと――実際はこれほど単純ではないのですが――なります。
元が滅んだ後の明朝の時、モンゴル高原ではモンゴル勢とオイラト勢が覇権を争いますが、この両家は姻族として長らく通婚をなしており、何のことはない、親戚同士の仲違いとも言える訳だったりします。
すいません。また長くなってしまいました。
作者からの返信
ありがとうございます。
オイラトというと、たしか後にジューンガルを樹立して、一時期、清のライバルになった一族ですね(違っていたらすみません)。チンギスの時代にいろいろいたはずの「モンゴルのご近所」の一族のなかでなぜオイラトだけが明・清の同時代まで続くのかと思っていたら、そういう関係があったんですね。
日本も、院政期から荘園領主の地位が女性に継承されたり、鎌倉時代にも女性が荘園の管理者の地位を相続したりということはあったのですが、中世も後半になるとしだいにそういう地位も認められなくなります。
ところで、日本で、なぜ王氏(皇族)から「臣籍」に移ると「源氏」になるかについては、「北族」と関係があるのではないかという説もあります。
北魏を樹立する鮮卑系の拓跋氏は、北魏の皇帝家となったのちに「元」氏となりますが、同じ鮮卑系の一族禿髪氏を「もともとは同じ一族だった」として「源」氏と名のらせます。日本の源氏もこれを参考にしたのではないか、という説が、モンゴル史(杉山正明氏)と日本古代・中世史(倉本一宏氏)の両方から唱えられています。
日本は(中国史上の)南朝と関係が深かったので、北朝の北魏の故事をどこまで知っていたか、尊重したかはよくわからないですが。
それではまたよろしくお願いします!
第16話 惟康王が源氏になった理由への応援コメント
そういえば以仁王も「源以仁」にする、後白河院に言われてましたね。
皮肉にも「源」頼政と一緒に挙兵しているわけですが……。
もし「挙兵や~めた」とか言い出したら、ネオ源氏として生き延び……やっぱ無理そうですね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
以仁王の子の北陸宮も清和源氏の木曽義仲とコラボしてますね。
以仁王は兄(二条天皇)と弟(高倉天皇)が天皇になっていますからね。このうち、二条天皇は、実母が後三条天皇の遺志どおりならば天皇になっていたはずの輔仁親王の血筋、養母が鳥羽院に寵愛された美福門院で、しかも以仁王が歳下では競争相手にならないですが、以仁王の母は摂家(を含む御堂流)に次ぐ「閑院流」の藤原氏で、平氏系の高倉天皇よりは自分が、という思いも強かったでしょう。
後白河院が厚遇していればまた違ったんでしょうけど。
ところで、以仁王は八条院(八条女院)と関係が深く、八条院が持っていたは、承久の乱の敗者順徳院、その後の天皇家を任されたものの子孫が断絶した後堀河院と「敗者」の手を経て伝領され、その領主の地位は後醍醐天皇へと続いて行きます。以仁王が成功していれば以仁王の領地になったかも知れないところが後醍醐天皇に引き継がれているんですね。
しばらく源氏ネタの話が続きます。
またよろしくお願いします!
第15話 宗尊親王はなぜ辞めさせられたのか?への応援コメント
足利家・新田家「フーン( ´_ゝ`)」
みたいな感じかもしれませんね。
今さら三位頼政の子孫を据えるワケにもいかないし……。
何しろ初の武家政権というか執権体制ですしねぇ……。
良くやった方だと思いますが^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
そういえば、頼政の子孫、って可能性ありましたね。
一部は鎌倉に来て御家人になっていますし。
血筋的には、頼政は摂津源氏なので、頼朝からは遠いですけど。
しかし、足利・新田にしても、「御家人」になってしまうと「将軍」には上がれなくなるんですかねぇ? 北条氏に担がれて上がって嬉しいか、という問題もありますけど。
北条執権体制けっこううまくやったと思います。
またよろしくお願いします!
第15話 宗尊親王はなぜ辞めさせられたのか?への応援コメント
不思議な事件ですね。
正妻が密通し、夫の将軍が京都に送還され、その夫と正妻の子が後を継ぐという。無難といえば、無難な落としどころですが、宗尊親王は寝取られた上に追放と、踏んだり蹴ったりですね。
血筋の件ですが、
遊牧勢の間では、后妃の血筋というのはとても重要視されます。鎌倉幕府の将軍職に就くに際し、女系の血筋が勘案されたというのは興味深いです。
作者からの返信
ありがとうございます!
しかも、惟康王も成長した後に京都に送還されるのですが、そのときも娘は鎌倉に残って次の将軍に嫁いでいます。
后妃の血筋は日本でも重要視されるのですが、天皇家では藤原氏のどこかの家、北条氏の本家「得宗家」では安達家と、「血筋」というより「家柄」で認識されるようになってしまいますね。
遊牧の人びとは厳しい父系社会というイメージがあるのですが、后妃の血筋が(も?)重視されたのですね。
鎌倉将軍のばあい、かなり世代が隔たっても「義朝の血筋」ということが重要視されたのか、そうでもなくて父親が九条家とか院とかいう権勢が重視されたのか、よくわからないところがあります。
またよろしくお願いします。
第14話 摂家将軍の「将軍らしさ」とは?への応援コメント
投稿ご苦労様です。
『当時の制度では「職」は家に属します。したがって、その「職」に現に任じられている人ではなく、その家の当主がその家の「職」について優先権を持ちます。』
というのは面白いですね。日本独自のような気がします。
作者からの返信
ありがとうございます!
たしかにそうですね。
「家」制度は日本だけにあるわけではありませんし、「院政のようなシステム」も、フランスのカペー朝では「若い王を即位させて、父王が共同統治者になる」という仕組みがありましたから、日本独特とも言い切れないのでしょうけど。
しかし、院政のように、本来は最高の存在である「天皇」を「将来、治天の君=院政を行う上皇になれるようにするための通過点」にしてしまう、という仕組みは独自で、ほかに例がないかな、と思います。それが「家」によっては大御所政治になったりするわけです。
それでは、またよろしくお願いします。
第13話 それで、「元弘の乱」とは?への応援コメント
どうも。投稿ご苦労様です。
この頃は倒幕=天皇(もしくは上皇)親政でしょうから、やはり足利の尊氏さんがなしたことが、後の日本に与えた影響は大きいんでしょうね。
作者からの返信
ありがとうございます。
尊氏がどうして「将軍になる!」と言い出したのかはけっこう謎で。
それまでの将軍は「皇族だが実権はない」という地位だったので、「なぜ皇族でもないのに尊氏が?」というのと「実権のない職位なのにどうしてそんなものを望んだ?」というのと、二重の謎があるのです。
このあと、その話も書いていくつもりです。
またよろしくお願いします!
第12話 余談:佐野の馬 戸塚の坂で 二度転びへの応援コメント
どうも。投稿ご苦労様です。
佐野には1度だけ、行ったことがあります。どこら辺だったっけとグーグルマップで確認すると。鎌倉からずいぶん遠いですね。
ところで、前話のコメントでお問い合わせがありましたので。
後付け…ですよね?→後付けですね。
大きな流れでは、まず3男のオゴデイの家系が2代続いて皇帝の位につきます。その後、実質的なクーデターにより、末子トゥルイの家系が皇帝の位につきます。対立構造としては、[オゴデイ家&2男チャガタイ家]対[トゥルイ家&長子ジョチ家]となります。
細かく書くと、以下となりますが、個人名が多過ぎて却って分かりにくいかもしれません。
1.チンギスの次に皇帝となったのは3男のオゴデイです。東西の史料とも①チンギスがオゴデイを指名し、②最終的にクリルタイで選ばれたとしています。この時、長子のジョチは既に亡くなっており、次子チャガタイがオゴデイを推して、末子トゥルイをしりぞけたという状況です。(個人的に①は疑問有りなのですが、史料が残っている以上、これが通説となっております)
2.この後オゴデイの子のグユクが第3代として継ぎます。これより明らかなように、最初はオゴデイ家が皇帝の位を継ぐ状況だったのです。
3.ただ、グユクが変死し(バトゥ、もしくはモンケによる暗殺説があります)、ここで、ジョチ家の当主バトゥに推される形でトゥルイ家の当主モンケが4代皇帝となります。一般に、これはバトゥ、モンケによるクーデターとみなされています。ここで、皇帝の位はオゴデイ家からトゥルイ家へ移ったのです。
4.ただ南宋遠征中にモンケが病死します。ここでモンケの弟の3人、クビライ、フレグ、アリク=ブケが次の皇帝の候補だったのですが、結局、(南宋遠征中の)クビライと(イラン遠征中の)フレグはクリルタイを開くから戻れとの要請に従わず、清瀬様が書いておられる通り、クビライは現地でクリルタイを開き自派の遠征軍諸将に推され、皇帝となりました。(フレグはフレグでイル・カン国のカンとなりましたが、名目的ではあれ、クビライに臣従しています)モンゴル高原の留守営をモンケより預かっておったアリク=ブケもまたクリルタイを開き、皇帝となります。
5.ここで、モンゴル高原を拠点とするアリク=ブケと華北を拠点とするクビライが皇帝位を巡って争う内乱状態に突入します。結局、クビライが勝ちます。
6.この後、オゴデイ家のカイドウが反乱を起こしたり、晩年には自らの支持勢力だったはずの(チンギスの)3人の弟の子孫の勢力が反乱したりと、統治が安定しているとは言い難い状況です。特に後者の反乱のゆえに、3度目の日本遠征は中止になったと言われています。
南宋はその通りですね。長江のおかげですね。後、稲作用の水田とこれのための給水網ですね。全て騎馬の移動と戦の邪魔になりますから。それとこの緯度だと冬でも凍りませんし。それと暑さと風土病でしょうね。馬は暑さに弱いですし、また寒冷地出身のモンゴル人も暑さと(恐らく免疫が無い)風土病には苦しんだでしょうね。
私が宋と日本の間で面白いと想うのは銅銭の話です。北宋から南宋の間で、宋が公式に銅銭の国外持ち出しを許可したのは、北宋の時、新法で有名な王安石政権の時代のみです。でも、平清盛などは南宋から銅銭をたくさん輸入したとある。これって、密貿易?などと想ってしまいます。
作者からの返信
佐野は鎌倉からは遠いですね。しかも、足利・新田一族の本拠地のすぐ東側で、それを考えると、なかなか興味深い立地なのですが。
詳細なお答えありがとうございます。たしかに第二代はオゴデイで、オゴデイの子のグユクが継いでいますね。ジョチ家とトゥルイ家で組んで、チャガタイ家‐オゴデイ家を退けたということになるのでしょうか。
日本から見ていると、アリク・ブケとの対立やカイドゥの乱は「遠くのできごと」に見えて、クビライの治世の安定が圧倒的に感じられますけど、いろいろと影響しているのでしょうね。チンギスの弟の子孫の国の動向が三度めの日本遠征中止に影響していたことは初めて知りました。
水田や湿地が騎馬軍の行動に影響するというのは、南北朝時代の日本でもそうですね。
銅銭の持ち出しを認めたのは王安石政権だけだったのですか! となると、おっしゃるとおり、平清盛は、南宋時代に大量に銅銭を手に入れていますから、「密貿易っぽい民間貿易」または「黙認密貿易」ですね。後の話ですが、清銭が日本に入っていたはずはないのに江戸時代の遺跡から清銭が発掘された、というような話もあり、「銭の密貿易」というのはけっこうあったのかも知れません。
ありがとうございました!
第14話 摂家将軍の「将軍らしさ」とは?への応援コメント
傀儡みたいなイメージがありましたけど、やっぱりそういう地位にいれば、そりゃあ権力への欲望が芽生えてきますよね……^^;
義朝の血が引き継がれていたんですね……だから九条家へと向かった、と。
「何かエラそうだから」という理由かと思っていました(笑)
でも摂関家ぐらい突き抜けた存在でないと、源氏サラブレッドの足利家とかが物申してきそうですし、こうするしかなかったのかもしれませんね。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
もちろん、血筋だけではなくて、父親の九条道家が院・朝廷の権力者だったからですけど。
北条政子は親王将軍が実現できると思っていたところ、後鳥羽院が拒否してしまって、摂家ということになったわけですが。
でも、道家も、長男は鎌倉に送らずに、京都の自分の家を継がせているんですよね。摂政・関白と鎌倉将軍を(摂家のなかでも)九条家で固めたかったのか。あまり目立たないですが、じつは野心家でキーパーソンだったのかも。
それでは、またよろしくお願いします。
第13話 それで、「元弘の乱」とは?への応援コメント
コラボ専制……本邦初と言える幕府による政治、その模索の果てかもしれませんね。
平清盛くらいはっちゃけていれば、朝廷に「(一緒に)専制しようぜ!」と容喙できたかもしれませんね。
得宗にそれをやってと言われても、キツかったんじゃ……。
その反省での「室町」幕府でしょうけど、今度は関東公方が……^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
まあ、全体として「最後に、コラボではなくほぼ一人専制として義満さんが出てきたでしょ?」という方向に持って行きたいんですけど…。
そうなっても関東公方はけっきょく独自の世界を築きましたし、関東では上杉の存在感も強かったし。
そうなると、家康まで待たなければいけない?
ちょっと気が長いよなぁ…という。
ということで、今後もよろしくお願いします!
第11話 「得宗専制」の事情への応援コメント
どうも。投稿ご苦労様です。
ようやく、出ました。そう。モンゴルです。いわゆる、大モンゴル帝国(イエケ・モンゴル・ウルス)から大元朝へ至る過程は、モンゴル帝国の分裂過程ではあるのですが、クビライが悪いのか?というと、そんなこともなく、まあ、そんなに巨大国家が長続きするはずも無いというのも一理。
また、そもそもチンギスの正妻の4子の家は、各々その当主が治めるべきという、チンギスの遺命があるので、この4家は基本同等で、その中から選ばれた1家が大カンに座るという構造があったけれど、まあ、そんな緩い構造はやはり長続きしないとなります。
実際、内乱続きの果ての大元朝ではあります。クビライ、むしろ、お前、反乱者だろうという、私のボヤキはさておきであったりします。
とはいえ、恐らくは関東の地方軍閥に過ぎなかった鎌倉幕府が遠い九州において軍権を維持し、モンゴルに抗すべく、有効に機能したというのは興味深いことと想います。他にそれをなしえる者がいなかったといえば、それまでですが。(京都の朝廷が頼りにならないと九州勢からは見られていたというのはあるでしょうけど)ただ、日本における中央政権と地方の軍勢が協力して、国の防衛に当たろうとしたというのは、まさにこれが初めてであり――結局、百済が滅んだ後、恐れていた新羅・唐の侵攻は無かった訳で――ただ経験が無い割にちゃんと守れたと。
私も元寇についてそんなに詳しくないので、あれですが、確か鎌倉幕府からの援軍は無いままに、2度とも元軍が退却したと想います(間違っていたら、すいません)。ただ、長引いたならば、当然、援軍が必要になる。その場合、鎌倉と京都、どちらが頼りになるかと言えば、鎌倉だったというのは、うなずけるものがあります。
これは、しばしば議論されることですが、実際、元寇にて攻めて来た元軍が、まさに世界をその馬蹄にて踏みにじったモンゴル軍かといえば、違うのですけど。これは根本的には、やはり海にて隔たってということが大きく、モンゴル人というのは将であれ兵であれ、基本、泳げない。モンゴルにとって、軍事というのは王族にとっての至上の義務です。にもかかわらず、元寇にて王族は指揮を委ねられておりません。日本征服をないがしろにしたというより、それほど、海が恐いのです。
それでも、高麗と旧宋軍(宋は2度の元寇の間に滅びます)を主体とした侵攻軍をしりぞけたことは、日本が相応の軍事強国であったことの証だとは想います。エジプトのマムルーク朝、ベトナム、日本、この3国がモンゴル及びその後継国家をしりぞけるを得た国です。いずれも、その地勢や風土――砂漠や暑熱や海――の助けあってのこととはいえ――相応の人口・軍事技術に支えられた軍勢を有するからこそです。
ずい分皮肉なことではありますが、元寇をしりぞけたことは、往時の日本が世界基準で軍事国家と呼びうる軍勢と権力機構(=鎌倉幕府)を備えていたことの証と想います。
すいません。ようやく知っていたことが出て来たので、長々と述べてしまいました。
作者からの返信
ありがとうございます!
クビライの子孫が皇帝になれたのはチンギスの末子トルイがチンギスに最も愛されていたからだ…というのは、その子孫が皇帝になってからできた後付け…ですよね? クビライは自派だけのクリルタイを開いて皇帝になったんでしたっけ? まあ、それで、生産力の高い東方農耕地帯を支配する帝国を築き上げるわけですが、でも、子孫も似たような争いを繰り返すことになってしまいますよね。
南宋は、最終的に滅びましたけど、国内ガタガタのわりには大モンゴル相手によく粘ったところがあって。それも、長江の「天険」で守られていた、という要素が大きいのでしょうか。
南宋というのはふしぎな王朝で、「中国史」のなかではぜんぜんぱっとしないし、金と対抗してときどき勝つけど基本的に苦しんでました、みたいな位置づけです。「宋史」の範囲でも、北宋の歴史はいろいろ出てきますけど、南宋になってからはあんまり詳述されません。しかし「海外」での南宋の存在感は圧倒的で、北宋を上回っていた感じです。
私が習ったころには、二度めの襲来のときの江南軍が弱かったのは南宋の遺民の戦意が低かったからだ、などと説明されていましたが、むしろ南宋の人たちが持っていた海の向こうへの積極性を引き継げたからこそ攻めて来られたんだろうな、と思っています。
北条氏がリードしたのは、農業生産物も、流通による富も、効率よく軍事・政治に動員できるシステムだったと思います。けっきょく北条氏自身がそれを扱いきれなくなったのでは、と。
なんかお返事も長くなってしまいました。すみません。
今後もよろしくお願いします!
第12話 余談:佐野の馬 戸塚の坂で 二度転びへの応援コメント
ちなみにその鉢の木の話をネタにしたことがあります。
知名度が高いと思いまして、とある話の導入に使わせてもらいました(笑)
しかし言われてみると、時頼は水戸黄門みたいに年寄りじゃないし……^^;
伝説って、そういうものと言われたら、それまでなんでしょうけど。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
「鉢の木」ネタになさってたんですね。
時頼はやっぱり「年齢以上」に見られてる感じがしますね。実際には、ほかの北条氏メンバーに歳上のひとがいろいろいて、歳上を従えていかなければいけない、というのも気苦労だったんだろうな、と思います。
それでは、またよろしくお願いします。
第11話 「得宗専制」の事情への応援コメント
執権北条家って、たしかにそういう傾向がありますね。
気がついたら治天の君(後鳥羽院)、世界帝国(蒙古)を相手にするという感じに^^;
おっしゃるとおり、全国、世界との交流、流通が盛んになり、それへの対応が……という「受け身」もあったんでしょうね。
一方でその流通の中から「悪党」も生じてくるわけで……。
そう考えると何とも言えませんね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
いやぁ。伊豆の地方武士だったころ、平家と戦うのは覚悟してても、その上の院と戦うとは思ってなかったでしょうし、まして、まさか100年経たないうちに自分の家がリーダーになって世界帝国と戦うとは夢にも思ってなかったでしょうね。
で、そうやって権力が拡大するなかで、権力の及ばないところに「悪党」が生じてくる、と。
またよろしくお願いします!
第10話 「トップ」と「リーダーシップ」への応援コメント
北条家は北条家で、そのゲットした「リーダー」の地位をめぐって内訌したり御内人が牛耳ったりするところに諸行無常を感じます^^;
でも、いろいろありましたが、後鳥羽院を倒したり蒙古を退けたり……わりと凄いことをやっている一族だと思います。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
中先代の乱のときに「北条一族の若君が旗揚げした」ってだけであれだけみんなが集まって来たのですから、北条一族のネームバリューってたいしたものだったんだな、と思います。やっぱりそれだけの実績があったからですね。
北条氏のばあい、やっぱり実際の権力が大きいので、一族の内訌もすごいですよね。
将軍のばあい、辞めさせられて悲憤というのはあるけど、「自分こそが将軍にふさわしい」とかいうのはないですからね(「将軍になりたいという野心があるらしい」という名目で内争、というのはありましたけど)。
またよろしくお願いします。
第9話 鎌倉幕府の性格への応援コメント
頼朝が異常だったとしか言いようがありません^^;
何でこの人こんなに着々と天下取っちゃうのと言いたくなります。
関東武士は関東武士で、いいように内訌しているところを、頼朝がちゃっかり上に乗っかったような印象が^^;
でも、悪源太義平が鎌倉から大蔵を襲撃した、大蔵合戦とかのバックボーンもあったのでは、と思います。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
全体に平家の評判が悪かったから結束してしまったんですかねぇ。これだけ集まれば勝てるから、この機会に平家方についた地元民の土地を手に入れてしまおう、みたいな動機もあったんでしょう。
源頼信が関東に来て以来、河内源氏の一部が鎌倉周辺に拠点を持っていたのは確かで(このへんは今日更新のところに書きます)、「義朝の子」ということになると、呼びかけたときの結集力が強いのも確かなんでしょうけど。
しかし義平はがんばったのに(後に)戦死してしまって、頼朝がそのバックボーンを利用することになるとは。
またよろしくお願いします。
第7話 恒明親王から後醍醐天皇へへの応援コメント
投稿ご苦労様です。
やった! 知っている人が二人出て来た。 後醍醐天皇と西園寺公望。
でも後醍醐天皇→ゴダイゴ→銀河鉄道999
しばらく戻って来れないかもしれません・・・・・・。
作者からの返信
ありがとうございます!
いやぁ。
私はいまでも「銀河鉄道999」の英語版の歌詞全部覚えてますよ!(日本語版は一部あやしかった…けどいま歌ってみたら覚えてました!)。
「モンキー・マジック」も覚えてました!
…というようなひとがこれを書いています…。
またよろしくお願いします。
第6話 「両統迭立」のルールはいつできたか?への応援コメント
どうも。投稿ご苦労様です。
10年ルールというのは面白いですね。
干支だと12年。
世代だと恐らく20数年。世代の半分というのがポイントかもしれませんね。例えば20年ごとだと、自分の子供に渡すという話になるのかも?。
1端、相手に渡して深情けを示し、結局、俺の子供に継がすんや、という訳でしょうか。
作者からの返信
ありがとうございます。
周期が10年になった理由はよくわかりません。最初は、計算して10年になった、というより、伏見天皇の在位が約10年だった、ということが先例になったということかな、と思います。
20年周期だと、長子が20歳前に生まれていると、相手方に10年任せるとしても、次はその長子に譲れる、という見込みがあるわけです。それで10年ごとで交替でやっていけば、なんとか妥協できる、ということかと思いますが。
でも、期待していた子が早世してしまったり、下の子のほうがかわいくなってしまったりしたら、そういうルールがかえってうっとうしくなってきたりもするわけで。
そう考えると、偶発的なものごとに左右されてしまう、不安定な妥協策だったのかも知れません。
またよろしくお願いします。
第8話 後醍醐天皇は最初から倒幕を目指していたのかへの応援コメント
北条高時……この人も風評被害的な感じで、昏いイメージが根付いてしまった観があります。
しかし無敵だった鎌倉幕府(敢えての表現)も、元寇とか悪党の横行とかで制度疲労を迎えていたんでしょうし、得宗も分家の人たちを抑えられるかというとアレですし、内管領は内管領でアレだし……^^;
北条時宗が執権だったら、あるいは帝リコールが可能だったかもしれません。
高時だと、「それ(帝リコール)やっていいのか」と、執権の座を狙っている分家の人たちに横槍入れられそうですね。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
風評被害ですね……。
父の貞盛の時代に、時宗を支えた「両輪」の安達・平(長崎)両氏を相次いで失脚させてしまったうえに、「嘉元の乱」で得宗家以外まで敵に回してしまって。しかも、高時時代もけっきょく「安達+長崎」体制を取るしかなくなって。
やっぱり時宗が早死にしたというのは大きいですね。
今後ともよろしくお願いします。
第7話 恒明親王から後醍醐天皇へへの応援コメント
「あ〜る」懐かしい!
高田明美さんってアニメーターだと思ってたんですけど、声もやってたんですね!
閑話休題。
この頃の後醍醐天皇のはっちゃけぶりって、もしかしたら後白河法皇あたりがモデルになってるんじゃないかなぁと思ったりします。
後醍醐「中継ぎ……武家との関係……うっ、頭が……」とか言って、内なる後白河が目覚め……んなワケはないですよね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
高田明美さんが声を演じたのはこのときだけの例外です。『究極超人あ~る』のドラマCDで、脚本が(当時の)ご夫君の伊藤和典さんだったことなどからの起用です。ほかにも脚本家の島田満さんも出演していました。
後白河法皇と後鳥羽上皇は意識していたんじゃないかと思います。どちらも直系のご先祖にあたりますしね。
それではまたよろしくお願いします。
第6話 「両統迭立」のルールはいつできたか?への応援コメント
「迭立」というのは、やはり「お前ばっかズルいぞ。次は俺」という感じだったんじゃないかなぁ、と思います。
兄弟でDSを取り合うみたいな(笑)
「うるさいなぁ、交代でやれよ」と、親というか周囲(幕府とか公家とか)に言われて、何となくそういう空気になったんじゃないかな、と想像します^^;
あと、足利義満がこの「迭立」という考えというか習わしを巧みに利用して、「また迭立やりましょうよ」と南朝に声をかけて、神器を北朝に持って行った手腕が凄いな、と思います。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
しかも「このまえ兄貴のほうが2回続けてやっただろ! 今度はこっちで2回やらせろよ」、「そんなこと言ってこのまま自分のものにしてしまうつもりだな」みたいな。
足利直義も「迭立に戻すのでいいでしょ?」という話で、それを北畠親房が「だめです」と言ってまとまらなかった、とかありましたよね。
またよろしくお願いします。
第5話 「文保の御和談」をめぐってへの応援コメント
骨の通った考えに基づいてではなく、皇統の二流、そして幕府も交えた妥協案というか修正案とかの結果かもしれませんね。
だから深く考えれば考えるほど、ドツボなんじゃないかと思うのです。
いや、そんなことはない、ちゃんとやってるんだと言われればそれまでですが。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
「皇統分裂」の発端を亀山天皇の即位とみれば1260年から、後深草院政の始まりからとみれば1287年から、両統で揉めてるわけで、まあ50年ぐらいものあいだ、同じ構図で対立してるというのはないかな、という感じですね。50年も経てば、人も世代も交替するわけですから。
これからもよろしくお願いします。
第4話 院政システムと両統迭立(2)への応援コメント
北畠親房による、まさかの皇族かっさらい事件が発生したおかげで、北朝分裂は避けられた感じがありますね。
でもおっしゃるとおり、北朝自体の存続の危機になってしまったので、なかなか微妙ですね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
まあ、「まさかの」事件ですよね。
でも、それで、後光厳帝が即位して北朝は存続したものの、帰京した光厳院と帝の仲が悪くて北朝皇統再分裂とか、たいへんなことになってしまいます。
また、よろしくお願いします。
第3話 院政システムと両統迭立(1)への応援コメント
どうも。投稿ご苦労様です。
鎌倉幕府は天皇の後継を決めるのに口出しできたんですね。権威としては、天皇家の方が上のような気がし、その点では意外ですが、口出しできた方が(無闇に対立することなく)政治体制としては安定しますから、納得ではあります。
この時代のことは、まともに知らないので、とても勉強になります。
作者からの返信
ありがとうございます。
承久の乱に幕府側が勝利して、朝廷・院側の武力が解体され、幕府のほうは武力を握っているので、やっぱりその意向は無視できないところがあります。
幕府の側が皇統を分裂させてコントロールしていたという見方もありますが、両統ともに何かあると幕府の支持を得ようと働きかけたりもしたので、幕府が無理やり口出ししてきた、とも言えないところがあります(順徳上皇の皇子をしりぞけて土御門上皇の皇子を、というときは強硬でしたが)。
またよろしくお願いします。
第3話 院政システムと両統迭立(1)への応援コメント
「まさか亡くなるなんて」とか「あいつは中継ぎだったはずなのに」とか、そういう想いだったんじゃないでしょうか。
同じ皇族とはいえ、ライバル同士ですし、可愛いというか言うことを聞きそうな奴を皇位につけといた方がいいや、とか思ったんでは。
幼いから言うことを聞くのであって、成長したら、形式上は帝の方が「上」になれてしまうし。
しかし、そんなこんなで争っているうちに、権力が彼らの手の内から「外」へと行ってしまうところが何とも言えません。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
二条天皇が長命で、後白河院を引退させて自分で院政を行っていれば、その後の歴史は変わったかも知れません。後白河院がいかに「大天狗」でもその能力は発揮できなかったでしょうし。
でも平清盛はもともと二条天皇派だから、けっきょく平氏政権になって、あんまり変わらなかったかも…。
投手だったら、中継ぎが意外にがんばってくれれば後がらくになっていいですけど、こういうばあいは、中継ぎ指名したほうはあんまり嬉しいとは思わないでしょうね。
またよろしくお願いします。
第2話 もし、後二条天皇と足利高義が…への応援コメント
足利高義が亡くなったのは、鎌倉幕府としては相当痛かったんじゃないでしょうか。
高氏に赤橋登子を娶わせてフォローはしたつもりなんでしょうけど、その登子さんも、倒幕時にはさっさと脱出しているしなぁ……。
逆に登子の存在は、彼女の産んだ義詮と基氏が「鎌倉公方」となる「裏付け」として機能してしまったんじゃないかと思います。
「北条氏の血筋」を強調して、鎌倉の官僚たちや民衆を納得させる「裏付け」として……。
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
私は、世代的に、赤橋登子というとどうしても沢口靖子のイメージが…。
どれだけ実権があったかわかりませんが、兄が執権で、兄と夫で戦って、新田軍のトップには幼い自分の息子がいる、という…。
なかなか経験できない立場だったのは確かですよね。
建武の新政から室町幕府(まだ室町にはないけど)開創の時期に、武家の権威のトップが北条氏から足利氏に切り替わっていくわけですが、そこで登子が果たした役割は大きいと思います。
またよろしくお願いします。
第9話 鎌倉幕府の性格への応援コメント
歴史にifはありませんけど、ifを考え、妄想するのって楽しいですよね。
作者からの返信
ありがとうございます。お返事が遅れてすみません。
歴史のifを考えると、「絶対に偶発事件で歴史が変わってるよな」と思うこともあり、「どっちにしてもこうなったよな」と思うこともあり。
そういうことをいろいろ考えるのが、歴史物を書く楽しさでもあると思っています。
これからもよろしくお願いします!