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2022年4月18日 19:42
どうも。投稿ご苦労様です。 佐野には1度だけ、行ったことがあります。どこら辺だったっけとグーグルマップで確認すると。鎌倉からずいぶん遠いですね。 ところで、前話のコメントでお問い合わせがありましたので。 後付け…ですよね?→後付けですね。 大きな流れでは、まず3男のオゴデイの家系が2代続いて皇帝の位につきます。その後、実質的なクーデターにより、末子トゥルイの家系が皇帝の位につきます。対立構造としては、[オゴデイ家&2男チャガタイ家]対[トゥルイ家&長子ジョチ家]となります。 細かく書くと、以下となりますが、個人名が多過ぎて却って分かりにくいかもしれません。1.チンギスの次に皇帝となったのは3男のオゴデイです。東西の史料とも①チンギスがオゴデイを指名し、②最終的にクリルタイで選ばれたとしています。この時、長子のジョチは既に亡くなっており、次子チャガタイがオゴデイを推して、末子トゥルイをしりぞけたという状況です。(個人的に①は疑問有りなのですが、史料が残っている以上、これが通説となっております)2.この後オゴデイの子のグユクが第3代として継ぎます。これより明らかなように、最初はオゴデイ家が皇帝の位を継ぐ状況だったのです。3.ただ、グユクが変死し(バトゥ、もしくはモンケによる暗殺説があります)、ここで、ジョチ家の当主バトゥに推される形でトゥルイ家の当主モンケが4代皇帝となります。一般に、これはバトゥ、モンケによるクーデターとみなされています。ここで、皇帝の位はオゴデイ家からトゥルイ家へ移ったのです。4.ただ南宋遠征中にモンケが病死します。ここでモンケの弟の3人、クビライ、フレグ、アリク=ブケが次の皇帝の候補だったのですが、結局、(南宋遠征中の)クビライと(イラン遠征中の)フレグはクリルタイを開くから戻れとの要請に従わず、清瀬様が書いておられる通り、クビライは現地でクリルタイを開き自派の遠征軍諸将に推され、皇帝となりました。(フレグはフレグでイル・カン国のカンとなりましたが、名目的ではあれ、クビライに臣従しています)モンゴル高原の留守営をモンケより預かっておったアリク=ブケもまたクリルタイを開き、皇帝となります。5.ここで、モンゴル高原を拠点とするアリク=ブケと華北を拠点とするクビライが皇帝位を巡って争う内乱状態に突入します。結局、クビライが勝ちます。6.この後、オゴデイ家のカイドウが反乱を起こしたり、晩年には自らの支持勢力だったはずの(チンギスの)3人の弟の子孫の勢力が反乱したりと、統治が安定しているとは言い難い状況です。特に後者の反乱のゆえに、3度目の日本遠征は中止になったと言われています。 南宋はその通りですね。長江のおかげですね。後、稲作用の水田とこれのための給水網ですね。全て騎馬の移動と戦の邪魔になりますから。それとこの緯度だと冬でも凍りませんし。それと暑さと風土病でしょうね。馬は暑さに弱いですし、また寒冷地出身のモンゴル人も暑さと(恐らく免疫が無い)風土病には苦しんだでしょうね。 私が宋と日本の間で面白いと想うのは銅銭の話です。北宋から南宋の間で、宋が公式に銅銭の国外持ち出しを許可したのは、北宋の時、新法で有名な王安石政権の時代のみです。でも、平清盛などは南宋から銅銭をたくさん輸入したとある。これって、密貿易?などと想ってしまいます。
作者からの返信
佐野は鎌倉からは遠いですね。しかも、足利・新田一族の本拠地のすぐ東側で、それを考えると、なかなか興味深い立地なのですが。 詳細なお答えありがとうございます。たしかに第二代はオゴデイで、オゴデイの子のグユクが継いでいますね。ジョチ家とトゥルイ家で組んで、チャガタイ家‐オゴデイ家を退けたということになるのでしょうか。 日本から見ていると、アリク・ブケとの対立やカイドゥの乱は「遠くのできごと」に見えて、クビライの治世の安定が圧倒的に感じられますけど、いろいろと影響しているのでしょうね。チンギスの弟の子孫の国の動向が三度めの日本遠征中止に影響していたことは初めて知りました。 水田や湿地が騎馬軍の行動に影響するというのは、南北朝時代の日本でもそうですね。 銅銭の持ち出しを認めたのは王安石政権だけだったのですか! となると、おっしゃるとおり、平清盛は、南宋時代に大量に銅銭を手に入れていますから、「密貿易っぽい民間貿易」または「黙認密貿易」ですね。後の話ですが、清銭が日本に入っていたはずはないのに江戸時代の遺跡から清銭が発掘された、というような話もあり、「銭の密貿易」というのはけっこうあったのかも知れません。 ありがとうございました!
2022年4月11日 02:45
ちなみにその鉢の木の話をネタにしたことがあります。知名度が高いと思いまして、とある話の導入に使わせてもらいました(笑)しかし言われてみると、時頼は水戸黄門みたいに年寄りじゃないし……^^;伝説って、そういうものと言われたら、それまでなんでしょうけど。面白かったです。ではではノシ
「鉢の木」ネタになさってたんですね。時頼はやっぱり「年齢以上」に見られてる感じがしますね。実際には、ほかの北条氏メンバーに歳上のひとがいろいろいて、歳上を従えていかなければいけない、というのも気苦労だったんだろうな、と思います。それでは、またよろしくお願いします。
どうも。投稿ご苦労様です。
佐野には1度だけ、行ったことがあります。どこら辺だったっけとグーグルマップで確認すると。鎌倉からずいぶん遠いですね。
ところで、前話のコメントでお問い合わせがありましたので。
後付け…ですよね?→後付けですね。
大きな流れでは、まず3男のオゴデイの家系が2代続いて皇帝の位につきます。その後、実質的なクーデターにより、末子トゥルイの家系が皇帝の位につきます。対立構造としては、[オゴデイ家&2男チャガタイ家]対[トゥルイ家&長子ジョチ家]となります。
細かく書くと、以下となりますが、個人名が多過ぎて却って分かりにくいかもしれません。
1.チンギスの次に皇帝となったのは3男のオゴデイです。東西の史料とも①チンギスがオゴデイを指名し、②最終的にクリルタイで選ばれたとしています。この時、長子のジョチは既に亡くなっており、次子チャガタイがオゴデイを推して、末子トゥルイをしりぞけたという状況です。(個人的に①は疑問有りなのですが、史料が残っている以上、これが通説となっております)
2.この後オゴデイの子のグユクが第3代として継ぎます。これより明らかなように、最初はオゴデイ家が皇帝の位を継ぐ状況だったのです。
3.ただ、グユクが変死し(バトゥ、もしくはモンケによる暗殺説があります)、ここで、ジョチ家の当主バトゥに推される形でトゥルイ家の当主モンケが4代皇帝となります。一般に、これはバトゥ、モンケによるクーデターとみなされています。ここで、皇帝の位はオゴデイ家からトゥルイ家へ移ったのです。
4.ただ南宋遠征中にモンケが病死します。ここでモンケの弟の3人、クビライ、フレグ、アリク=ブケが次の皇帝の候補だったのですが、結局、(南宋遠征中の)クビライと(イラン遠征中の)フレグはクリルタイを開くから戻れとの要請に従わず、清瀬様が書いておられる通り、クビライは現地でクリルタイを開き自派の遠征軍諸将に推され、皇帝となりました。(フレグはフレグでイル・カン国のカンとなりましたが、名目的ではあれ、クビライに臣従しています)モンゴル高原の留守営をモンケより預かっておったアリク=ブケもまたクリルタイを開き、皇帝となります。
5.ここで、モンゴル高原を拠点とするアリク=ブケと華北を拠点とするクビライが皇帝位を巡って争う内乱状態に突入します。結局、クビライが勝ちます。
6.この後、オゴデイ家のカイドウが反乱を起こしたり、晩年には自らの支持勢力だったはずの(チンギスの)3人の弟の子孫の勢力が反乱したりと、統治が安定しているとは言い難い状況です。特に後者の反乱のゆえに、3度目の日本遠征は中止になったと言われています。
南宋はその通りですね。長江のおかげですね。後、稲作用の水田とこれのための給水網ですね。全て騎馬の移動と戦の邪魔になりますから。それとこの緯度だと冬でも凍りませんし。それと暑さと風土病でしょうね。馬は暑さに弱いですし、また寒冷地出身のモンゴル人も暑さと(恐らく免疫が無い)風土病には苦しんだでしょうね。
私が宋と日本の間で面白いと想うのは銅銭の話です。北宋から南宋の間で、宋が公式に銅銭の国外持ち出しを許可したのは、北宋の時、新法で有名な王安石政権の時代のみです。でも、平清盛などは南宋から銅銭をたくさん輸入したとある。これって、密貿易?などと想ってしまいます。
作者からの返信
佐野は鎌倉からは遠いですね。しかも、足利・新田一族の本拠地のすぐ東側で、それを考えると、なかなか興味深い立地なのですが。
詳細なお答えありがとうございます。たしかに第二代はオゴデイで、オゴデイの子のグユクが継いでいますね。ジョチ家とトゥルイ家で組んで、チャガタイ家‐オゴデイ家を退けたということになるのでしょうか。
日本から見ていると、アリク・ブケとの対立やカイドゥの乱は「遠くのできごと」に見えて、クビライの治世の安定が圧倒的に感じられますけど、いろいろと影響しているのでしょうね。チンギスの弟の子孫の国の動向が三度めの日本遠征中止に影響していたことは初めて知りました。
水田や湿地が騎馬軍の行動に影響するというのは、南北朝時代の日本でもそうですね。
銅銭の持ち出しを認めたのは王安石政権だけだったのですか! となると、おっしゃるとおり、平清盛は、南宋時代に大量に銅銭を手に入れていますから、「密貿易っぽい民間貿易」または「黙認密貿易」ですね。後の話ですが、清銭が日本に入っていたはずはないのに江戸時代の遺跡から清銭が発掘された、というような話もあり、「銭の密貿易」というのはけっこうあったのかも知れません。
ありがとうございました!