新田義貞について言えば、彼は里見氏からの養子だったという説があるので、そっち関係かもしれません。
ただし、養子説を採用しちゃうと、弟の「脇屋」義助の立場は何なんだという問題が発生するという……^^;
いずれにせよ、謎の多いジェネレーションですよね(笑)
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます!
里見というと八犬伝をまず思い浮かべてしまうのですが、「苗字の地」は高崎市の西側、安中榛名のほうなんですね。脇屋は太田市の中心のほうで、新田氏が支配した範囲は東武伊勢崎線から両毛線、北陸新幹線のほうまで広がっていて…なんかすごい。
それなのに、義貞や脇屋義助の生まれたころは、新田氏はとても地味な存在になっていたらしく、あんまり具体的なことが残ってないっぽいですね。
またよろしくお願いします。
投稿ご苦労様です。
前々話のコメントにあった『建武政権の征夷大将軍として、後醍醐天皇の皇子の護良親王がいた、ということですね。』というのは興味深いですね。
将軍職なんて無くなったのさ。あんなの忘れちまいなとは、後醍醐天皇も行かなかったのでしょうね。
本話についてですが、作者様の案を少し補足して、『貞義』→『高義』と改名したとすれば、うまく説明できるようにも想います。とにかく、足利家の当主は得宗家の当主の偏諱をもらい、それにより忠誠を示すのだと。
まさに尊氏の例が示すとおり、上には上(将軍と天皇)がいますものね。
作者からの返信
ありがとうございます。
原名「貞義」というのは名案ですね!
貞氏がいたから同じ名は避けて、しかし偏諱はもらうとすれば、「氏」を避けるかわりに「義」をつけて「貞義」という名がちょうどよいです。
同じようなことを考えるのか、足利家の分家の吉良家には吉良貞義が、新田家の分家の堀口家には堀口貞義がいますが。
こうなると「新田義貞の名になんで「貞」がつくの?」という問題とかも出て来たり。
それでは、またよろしくお願いします。