そういえば以仁王も「源以仁」にする、後白河院に言われてましたね。
皮肉にも「源」頼政と一緒に挙兵しているわけですが……。
もし「挙兵や~めた」とか言い出したら、ネオ源氏として生き延び……やっぱ無理そうですね^^;
面白かったです。
ではではノシ
作者からの返信
ありがとうございます。
以仁王の子の北陸宮も清和源氏の木曽義仲とコラボしてますね。
以仁王は兄(二条天皇)と弟(高倉天皇)が天皇になっていますからね。このうち、二条天皇は、実母が後三条天皇の遺志どおりならば天皇になっていたはずの輔仁親王の血筋、養母が鳥羽院に寵愛された美福門院で、しかも以仁王が歳下では競争相手にならないですが、以仁王の母は摂家(を含む御堂流)に次ぐ「閑院流」の藤原氏で、平氏系の高倉天皇よりは自分が、という思いも強かったでしょう。
後白河院が厚遇していればまた違ったんでしょうけど。
ところで、以仁王は八条院(八条女院)と関係が深く、八条院が持っていたは、承久の乱の敗者順徳院、その後の天皇家を任されたものの子孫が断絶した後堀河院と「敗者」の手を経て伝領され、その領主の地位は後醍醐天皇へと続いて行きます。以仁王が成功していれば以仁王の領地になったかも知れないところが後醍醐天皇に引き継がれているんですね。
しばらく源氏ネタの話が続きます。
またよろしくお願いします!
投稿ご苦労様です。
おおっ。そうなのですね。今までずっと源氏は清和天皇から生まれた一族だけだと想っていました。でも、私と同じ誤解をしている人はたくさんいる気がする。
前話のコメントの「后妃の血筋」ですが、少し説明不足でしたね。ここは、代々の女系ということではなく、清瀬様の言葉でいえば、「家柄」の方です。例えば、チンギスの4人の皇后は正妻のボルテを除けば、メルキト、タタルと仇敵なのですが、「家柄」ゆえに、皇后の位に就いています。
ここの皇后とは、これを一人に限る中国王朝とは異なります。正妻の子が有利ではあるのですが、この4人の皇后の子ならば、次のカンになりうる資格を与えられ、また皇族として扱われます。逆にいえば、それ以外の妃の子は、千人隊長より下になります。(ちなみに、清朝も複数の皇后を起きます。モンゴルの影響なのか、北族に共通する制度なのかは、はっきりしませんが)
また、おっしゃられる通り、遊牧勢は男系社会であり、その氏族の当主となるのは、代々の男の子孫です。ただ、娘の方にも、軍勢や家畜などの財産は分け与えられて、それを携えて嫁ぎます。また遊牧勢の代表といえるトルコ・モンゴル系での女性の権威・権力の強さは有名であり、その地を旅した者が驚きと共に伝えているところではあります。
また、姻族という制度が女系の尊重とは言えると想います。例えば、チンギスの娘がオイラト家に嫁ぐと、その娘はオイラト家の者として今度はチンギス家の者に嫁ぎます。そして、その娘がチンギス家の娘としてオイラト家にと――実際はこれほど単純ではないのですが――なります。
元が滅んだ後の明朝の時、モンゴル高原ではモンゴル勢とオイラト勢が覇権を争いますが、この両家は姻族として長らく通婚をなしており、何のことはない、親戚同士の仲違いとも言える訳だったりします。
すいません。また長くなってしまいました。
作者からの返信
ありがとうございます。
オイラトというと、たしか後にジューンガルを樹立して、一時期、清のライバルになった一族ですね(違っていたらすみません)。チンギスの時代にいろいろいたはずの「モンゴルのご近所」の一族のなかでなぜオイラトだけが明・清の同時代まで続くのかと思っていたら、そういう関係があったんですね。
日本も、院政期から荘園領主の地位が女性に継承されたり、鎌倉時代にも女性が荘園の管理者の地位を相続したりということはあったのですが、中世も後半になるとしだいにそういう地位も認められなくなります。
ところで、日本で、なぜ王氏(皇族)から「臣籍」に移ると「源氏」になるかについては、「北族」と関係があるのではないかという説もあります。
北魏を樹立する鮮卑系の拓跋氏は、北魏の皇帝家となったのちに「元」氏となりますが、同じ鮮卑系の一族禿髪氏を「もともとは同じ一族だった」として「源」氏と名のらせます。日本の源氏もこれを参考にしたのではないか、という説が、モンゴル史(杉山正明氏)と日本古代・中世史(倉本一宏氏)の両方から唱えられています。
日本は(中国史上の)南朝と関係が深かったので、北朝の北魏の故事をどこまで知っていたか、尊重したかはよくわからないですが。
それではまたよろしくお願いします!