〈後編〉
5
「だから機会がなかったから」
「そんなにないものなんだ。時間はたっぷりあるって言ってたのに」
「時間はたっぷりあるようでないんだよ」
「分かるような分からないような」
「一年に一、二度しか雪が積もらない地方だし、それがお正月だったりしたら、新年から山に登るなって大人に言われるし」
「そっか」
「中三の時、受験生なんで、休み中も塾の集中講座に出ていたから、一年間じいちゃんばあちゃんの家には行けなかったんだ。で、高一になって行ったら、従兄妹達がよそよそしくなってた。見た目も変わってたし」
「え? 見た目が?」
「何ていうのかな。田舎の不良風。ユウ兄ちゃんは優しげな、どっちかって言うと優男風だったのに髪とかスタイリングしてて、眉を整えてて。弓ちゃんも服が派手になってて睫毛もカールしてたり」
「あ〜、あれね」私は手で口を押さえた。
「あれって?」
「よくいるよ、T郡には。田舎のヤン……いや、何でもない。でもユウ兄ちゃんや弓ちゃんもそうなっちゃったんだね。でもそういう子達って愛嬌あるもんなんだけど、よそよそしくなってたんだ」
「うん。やっぱ受験で塾の集中講座に参加したり、そういうのが自分達と違うヤツという認識だったのかな。それに俺の状況も変わってたし」
「状況って?」
「母さんが再婚したんだ。俺が中二の三学期だった。新しい父さんは良い人で、広いマンションに引っ越して、勉強にも身が入るようになった。大学にも行かせてもらえたし。でもそういうのも父さんの実家の方ではどう思ってたんだろ」
「んー、幸せになる事はいい事じゃないかなぁ。それに死別したお父さんの親にとっては孫である事は変わらないでしょ?」
「それがじいちゃんばあちゃんも今では地元の老健施設にいるから、もうあの家の敷居は高いんだ。それ以来もう五年行ってない」
「そうなんだ。だから雪の日の廃墟を従兄妹さん達と見に行く話はそのままなのか……」
「たぶんもう従兄妹達と行く事はないと思う」
「そんな事、分からないよ」
「いや、話してみたんだ。高一の夏に二年ぶりで従兄妹達に会った時。雪の日に山の上から昔の建物を見れたらいいねって。二年前みたく」
「そしたら何て?」
「ユウ兄ちゃんは『はあ?』みたいな反応だし、弓ちゃんは『どうでもいいやん、そんなん』みたいに乾いた笑いだった」
「ふうん。何か不思議な感じ」
「そうなんだ。まるで忘れてるみたいだった。忘れるわけないのに」
「怒ってたのかな。何て言うか、もっと早く行ってれば良かったね」
「どうかな。時期に関わらず、従兄妹達にとってはそんなものだったのかもしれない。ほら、あそこにある街灯や地下鉄の出口が今の俺達にとって当たり前に見えるのと同じように。遠くに住んでるから物珍しく綺麗に感じられる事もあるかも。ユウ兄ちゃんの『はあ?』や弓ちゃんの『とうでもいいやん』にはそんな他所者の俺へのクールな反応だったのかなって」
その時お店の人がやって来て言った。「ラストオーダーですが、何か頼みますか? なければこれはサービスです」
そう言って置いたのは、香りの良いオレンジショコラだった。一口、口にするとほんのりほろ苦い。まるで今の江下さんの話みたいだ。窓の外では小雪がチラチラと舞い降りている。
「静かな夜。田舎の冬の夜もこんな風に静かだった?」と私が言うと、江下さんはこう言った。
「静かだった。でも静かって幸せな静かさと気まずい静かさがあるんだ」
「そう?」
「最後に従兄妹達と会った時はそうだった。話が続かなくって気まずい沈黙が続いて。子どもの頃はあんなに話が尽きなかったのに。雪の隠れ里、見たかったな。それとも大人になって見たら、こんなものだったのかってガッカリするのが落ちかな」
「雪の隠れ里か。ガッカリするのかな」
「そういう事もあると思う。大人まで持って行けない幸せだってあるから」
6
それからの一年、私の心の中から、雪の日に見える『隠れ里』が消える事はなかった。そしてそれを話してくれた彼の事も。あんなに誰かの話が印象的に胸に入って来る事はなかったから。それもすーっと自然な感じで。でも連絡先も聞いてない。
時々、大学の帰りに打ち上げの二次会で行ったカフェの前までわざわざ足を運ぶ。ふっと思い立って最寄りの駅から三駅離れた駅で降りて、あの店の前を歩くのだ。オレンジショコラを飲んでいる彼の姿を窓辺に見る事ができる気がして。
7
今日、雪が舞う中、県境の山に登ってきたのは気紛れなんかではなかった。ちょうど私が冬休みで、実家に帰省している間だった。大雪注意報が出ていると伝えるテレビの天気予報。それで家族が反対するのも聞かずにこうしてやって来た。
鏡岳の山頂まであと少し。一歩、二歩、そして急に視野が開けた。
ここには昔の城跡がある。と言っても今は土台だけ。東側の簡易な展望台からは町のイオンや市民公園が見える。
そして西側には……。降り注ぐ雪の中、石のベンチに座っている白のダウンコートの青年の後ろ姿が見えた。振り向いた相手の言葉が先だった。
「あれ、君、平野さんだったよね?」
「江下さんも。来てたんですね……」とまた敬語を使ってしまった。
でも江下さんはこの場所で私に会った事にさして驚いた様子は見えない。予感がしていたの? ただ向こうの方を指で指していた。
そこに私達が見たのは、雪が舞い落ちる谷の風景。まるで童話のような町の一部。木造の広い洋館に降り注ぐ雪。洋館の前の長い坂道も真っ白な羽布団のよう。尖った屋根の上の十字架が隣に見える。垣根に雑草の生い茂っているだろう、かつての教会の中庭もデコレーションされたように真っ白。その隣は昔の公民館だろうか。掲示板が表に立てられた体育館のような建物だ。
全て雪に覆われているものの、その中で生活が続いているような、そんな錯覚をおぼえさせる。体育館のような公民館には外の吹雪から避難してきた子ども達がいて、暖かな室内で、窓の外の雪をじっと見つめているのではないだろうか? そんな幻が浮かんでしまう。教会からは賛美歌を奏でるオルガンの音が今にも聴こえてきそう。横長に広がっているかつての洋裁学校だった洋館からは小鳥のような女の子達のお喋りやざわめきが今も漂っているのを感じた。ブラウスのボタンを付け終わった時の糸のキュッと締まる音、カラフルな布を裁っている鋏のジョキッジョキッという音まで聴こえてきそう。
でもそんな全てのざわめきを消し去ってて覆いかぶさる雪がある。だから雪が降り積もる音以外、今は静まりかえっている。でもこの静かさは温かくて幸せな静かさだ。前に彼が言ってた気まずい静かさなんかじゃない。なぜなら隣でこの同じ美しい風景を見ている彼もすごく幸せそうだから。
二十歳の私が感動したこの風景は、大人に持ち越した宝物。たぶん長い年月の後で思い返してもこの風景はずっと色褪せない。
永遠に続きそうな時間を締めくくるように、隣からぽつりと声がした。「下のお店でココアでも飲もうか?」
「はい」
この一年、話したかった事が私にはたくさんある。
〈Fin〉
沈黙に積雪/雪の隠れ里 秋色 @autumn-hue
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