怒りを名前の「器」に入れて心の隅にしまえ

底道つかさ

怒りを名前の「器」に入れて心の隅にしまえ

私は戦記が好きだが戦争が嫌いだ。


 私は生まれた時の体質ゆえに、「人間として見られていない差別」を体感で知っている。これは社会で生きる中で受けるハラスメントや無給労働、あるいは容姿や経歴に対して受ける罵詈讒謗ばりざんぼう、支配の為の暴力など「人間同士の差別」とは、やる側もやられる側の認識も根幹から異なっているのだ。

 戦争においては両方が極大の形で存在する。だが平和な社会とは異なり特に「人間として見られていない差別」が当たり前顔で存在していて、それがもたらす効果を以って成果を生み出す事が標準的な行動原理にすらなり得る。

 だから、嫌いだ。


 故に、ウクライナ侵攻が始まってからは毎日猛烈に怒り続けていた。これは、明日にでも自分の国で自身が同じ目に合うかもそれないという恐怖の裏返しでもあったのだが、やはり戦争という原因はあっても理由がない「人間と思われない理不尽」に対する怒りからでもある。SNSやオールドメディアに映るものが、具体的かつ本質的に理解できてしまうからだ。

 とにかく怒りに怒り続けていた。治療中も、リハビリ中も、食事中ですら精神が怒りで燃えていた。年甲斐も無く、これを自分で制御することが全く出来ず、投薬や情報遮断も効果がなく、怒りの炎は精神からあふれて現実で無秩序に害を与えた。平和主義の宗教団体の信者である親とも毎日喧嘩をしていた。

 だが、ある時転機が来た。

 それはSNS上で見た一つの単語だった。


 「キエフの幽霊」「The Ghost of Kyiv」

 

 これを簡単に説明するならば、ウクライナ軍の旧式戦闘機Mig-29のパイロットが、ロシアの新鋭機を一日で何機も撃墜し、今も祖国と人々を守るために戦っているという情報だ。

 21世紀になって最初に生まれた最新のエースパイロット。たとえ圧倒的な戦力差でも絶望の中で戦い続ける空の英雄。「The Ghost of Kyiv」。

 要するに、戦争には付き物の流言飛語、プロパガンダ戦術、そういったものに人々の嘆きや悲しみ、祈りが集積して発生した「存在しない英雄」だ。

 圧倒的な軍事力で一方的に破壊される国の人々の空虚な妄想、あるいは破壊する側の人間の嘲笑、ないしは無関係と高みの見物をして戦争をエンターテイメントとして楽しんでいる者の悪ふざけ。そういう類のものだ。


 だが、この言葉を見た瞬間、自分の中の怒りに何か変化が起きた。怒りが消えたわけではない。疲れて考えることを止めたわけでもない。しかし、ふと心が焼ける苦しみが和らいだのだ。その感覚は、無秩序に暴れくるっていた炎が「器」に収まって、周囲に広がらなくなったような感じであった。

 それ以降、私は大声を上げることも、壁を殴りつけることもしなくなった。


 何故ただの言葉一つ、それも都市伝説まがいのものでそんな風に変化があったのかは自分でも理解できない。ただ、相変わらず湧き上がる炎はその言葉の器の中に納まって、器ごと心の隅に動いていって無秩序に思考を乱すことが無くなった。

 それでもあえて理由を見出すならば、「The Ghost of Kyiv」という、その存在自体は紛い物でも、その様な存在があってほしいという人々の願いや祈りは紛れない本物であると思ったからだろう。

 理不尽に対する無力に打ちのめされても、せめて抵抗して諦めたくはないという、どんな地上の地獄でも失われない、暗くとも確かな強さを持った人間の「心の力」。

 真偽不明の噂の「器」に嘆きと悲しみ、そして希望が注がれて現れた「英雄」。

 「キエフの幽霊 / The Ghost of Kyiv」

 明日、自分の国がどうなったとしても、その悔しさ、悲しさ、そして怒りだけは、何かの形になってどこかへ残る。自分の墓標が建てられることに安心するような後ろ向きな希望だが、確かにそれは焼け狂いそうになっていた私の心を繋ぎ止めた。


 別段、戦争が起こらなかったところで生きている限り死にそうになるほどの苦しみや痛みは現れ続ける。もしもその時、心が壊されそうになったら、その感情や感覚を「名前の器」に納めて心の隅に置くことで、わずかにマシに出来るのかもしれない。

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