野良猫の死と雑感

ハコ

野良猫の死と雑感

 昨夜、見知らぬ野良猫の最期を家で看取った。

 ことの始まりは宵のうちに帰ってきた母親が「道でじっとして動かない猫がいるがアンタ知ってる?」と聞いてきたことだった。私が帰宅したときには何も見かけなかったし知らなかった。

 その猫の見た目がたまたま家で飼っている猫に似ていたので、はじめ母は家の猫が外に抜け出して座っているのだと思ったらしい。捕まえようと近づいてよく見ると違っていて他猫の空似だと気がついたそうだが、人間が近づいてもぴくりとも動かないのを見ておかしく思ったらしい。そうして死にかけているのだと直感したが、何をしてやれるわけでもないのでそのまま帰ってきた、と。

 私は話を聞いてその野良猫を可哀想に思ったが、結局は母と同じ結論に至った。——飼っているわけでもない動物にまでいちいち手を差し伸べていられないし、何をしてやれるわけでもない。まだ生きている姿を見てしまうと情が移ってしまうように思われたのでわざわざ見にもいかなかった。翌朝には誰かが死骸を見つけて衛生課に知らせるだろう、誰もしていなかったら自分がそうしようくらいは考えていた。

 話はそれで終わったはずだったが、いつもなら上着を片付けてすぐ居間に戻ってくる母が妙に遅いので少し心配になって様子を見に行った(母はここ数年で心臓が悪くなって、時々動悸で動けなくなってしまう)

 結局何かあったわけではなく台所の椅子に座っているだけだったが、母は足元にすり寄ってきた飼い猫を見ながら少し涙ぐんでいた。

「可哀想だねえ、同じ猫なのに」

 ぼそりと呟かれた言葉を聞いた瞬間、私は「その猫、病院連れて行ってみよか」と申し出て上着とライト替わりのスマホを取りに行った。


 母の案内で歩いていくと、家から百メートルも離れていない通りにその野良猫はいた。住宅街の外灯もない通りのど真ん中でうずくまっているのでうっかりすると踏まれてしまいそうだった。

 柄は黒猫で、一見するといわゆる箱座りで座っているように見えた。だがよく見ると頭がだらんと垂れ下がっていて顔は地面をじっと見つめている。見たことのないポ-ズだった。それに私が近づいても、声をかけても、指でつついても反応一つせずに地面を見ていた。ありえなかった。どれだけ人に慣れていたとしてもこちらに目線を遣るくらいはするだろう。

 内心「これはもう死んでるのでは?」という思いがよぎったがよくよく見ると猫の頭が小刻みで奇妙に揺れていたし(痙攣していたのかもしれないが判断がつかない)横腹は息遣いを感じさせる動きをまだ続けていた。首根っこを掴んで持ち上げても抵抗一つしなかった。成体で、体格は飼っている猫と似ていたがずっと軽く毛並みも悪い。栄養状態がよくなさそうだ。今思えば申し訳ないが「外傷は無いように見えたが、持ち上げたら腹の部分が血まみれだったり、虫がたかってたり、内臓が飛び出してたりしたらどうしよう」という想像上の気味悪さが一番印象に残っている。

 スマホのライトで照らして全身を見たがやはり外傷はなかった。掴み上げたまま顔を見たが、目は開いているがこちらを見ないし口は半開きで表情どころか反応すらなかった。何らかの感染症が脳にまで達したか、尿毒症の末期で意識混濁……あたりが瞬時に頭に浮かんだ。どちらにせよもう手遅れだろうなと内々感じていた。

 持ってきていた段ボール箱の中に下ろしてやるが本当にただ置かれたという感じで身動きはなかった。ともかく一旦家に連れ帰ろうと思った。寒空の中でうずくまって、悪くしたら足元を見ていない誰かに踏まれてしまうよりはなんぼかマシだろう。

 その時ふと気づいたのだが、そこは何年か前まで野良猫に餌をやっていた婆さんが住んでいた家の前だった。亡くなったのか老人ホームに移ったのかも私は知らないがとにかくいつの間にか婆さんはいなくなっていた。もしかしたらこの猫は餌をもらっていた経験があって、苦し紛れの最期の時間の中でその頃を思い出し、助けを求めようとしてここまで来たんだろうか? そんなことを考えた……。


 暖房のきいた部屋に連れ帰り、食うとも思えなかったが飼い猫のカリカリを顔の前に置いてみたりした。意外なことに野良猫ははじめて反応らしきものを示した。鼻をひくひくさせて匂いを嗅いでいた。結局食べはしなかったのだけど。飼い猫が興味をもって箱に近寄ろうとしたがつまみだした。何らかの病気が移る可能性があるし、そうでなくても確実にダニがいるので接触させるわけにはいかない。

 私は夜も診てくれる近所の動物病院に電話をした。症状を伝えると「此方では夜間は軽症の手当しかできない。症状を聞く限り重態なので本格的な治療を受けさせるなら隣県の大きな夜間動物病院に連れていく方が良い」と勧められた。

 ケージを出したりして連れていく支度を整えていると、母が「顔をあげた!」と言うのであわてて様子を見に戻った。私が箱の中を覗き込むのとほぼ同時に「ブギャア!」という感じの、びっくりするほどかわいげのない悲鳴のような鳴き声をあげて野良猫は寝返りを打っていた。

「最期の一鳴きをしたからもう終わりだろうね……」

 母が言った通り、四肢をだらりと伸ばして横たわった野良猫は目をうつろに開いたまま一、二分呼吸だけを続けて、それから息を引き取った。しばらく触れていたが本当に冷たくなっていくんだなと思った。

 彼女(メスだった)は最後に何を思ったのだろうか。大怪我こそないが生傷だらけの彼女の一生にあまり色々の幸福があったようにも思えないので、最後まで怒りと恐怖に追いかけられていたのだろうか。それとももっと単純に見知らぬ人間どもが彼女に気安く触ったことへの憤怒だろうか。せめてあと一時間早く見つけていたら、医者に診せて最後の苦痛を緩和するくらいはできただろうか。

 ともかく悲鳴のような「ブギャア!」は、フィクションでよく有るような「最期を看取ってくれてありがとう……」感のある鳴き声ではまったくなかった。べつに余計なことをしたとは思っていない。寒空の下で野晒しよりは幾らかマシな臨終を与えられたろうとは思っている。それにしてもあの怒りに満ちた声に却って生命の力強さを感じさせられた気もしたのだ。


 母はそれからしばらく「可哀想なことだ」と言いながらすすり泣いていた。私も悲しいと言えば悲しいが面識があった猫というわけでもなく、涙はでなかった。そしてその姿を見ながら子供の頃の出来事を思い出していた。

 私が段ボール箱に閉じ込められて捨てられていた猫を拾って帰ってきた時、この人は「とても面倒がみられないので元の場所に置いて来なさい」と叱った。今にして思えば明らかに何かの病気に罹って死にかけていた猫で、かさむに決まっている治療費や世話を考えると関わりを持つのに躊躇するのは分かるのだけど、その当時は「冷酷な人だ」という思いを抱いていた。いま飼っている猫も成人した私が責任を持つというテイで飼いだし、はじめはかなり嫌がっていたものだ(よくある話で、今では私より猫をかわいがっているが)

 それが今では見知らぬ猫の死にひどく心を揺さぶられている。この人も老いたのか。あるいは慌ただしい日々がこの人の本来の感受性を生活のために鈍らせていたのかもしれない。私はウイスキーをすすりながらそんな風なことを考えていた。



 翌朝現在。私は役所の土曜窓口に電話をかけ、野良猫の死骸を回収できるかの返答を待ちながらこの文章を書いている。猫のいた場所が市の所有なのか県の所有なのか私有地なのか曖昧なので折り返し連絡するとのこと。市が回収しないなら私が業者に処理を依頼せねばならんなあと考えているが、さすがに見知らぬ野良猫のために身銭を切ってペット霊園とかに頼む気にはならず。

 昨夜から今朝の心情をなんとなく書き記しておくべき気がした。ぞっとしたり、嫌悪したり、感傷的になったりした何かをとりあえずしたためた次第。

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