心と心を結ぶ味

aoiaoi

心と心を結ぶ味

 病院から戻った和也は、カバンをどさりと床に置くと、力なくソファに凭れた。

 ハンドバッグをダイニングの椅子に置いた妻の清美は、椅子に座る心の余裕すら見つからないようにキッチンで二人分の湯呑みを出しながら、また小さく鼻を啜り上げた。


 娘の一香いちかが、倒れた。

 大学生として一人暮らしをする街の、野菜屋の店先で。


 私のせいだ。

 和也は、喉の奥で呟く。

 先程病院のベッドで見た、娘のやつれた顔。掛け布団の端から伸びて点滴をつけられた、骨と皮ばかりの腕。

 激しく怯え、父親を拒む眼差し。


 自分は、娘を愛しているのか。

 あの子を愛してきたのか。

 ただの一度も考えたことのなかったそんな問いかけが、これでもかと和也の胸に深く突き刺さる。


「父さん」


 不意に背後に娘の声が聞こえた気がして、和也ははっと顔を上げる。

 振り返っても、そこには薄暗く冷えた部屋の空間が広がるばかりだ。


 一香。

 ガタリとテーブルに両肘をつき、和也は深く頭を抱えた。







 堀川和也は、東京近郊の静かな街の料亭「堀川」の板長だ。

 妻の清美は、店の女将である。

 和也の祖父母が始めたこの店は、自分で三代目だ。新鮮な食材を丁寧に、かつ美しい料理に仕上げるセンスと味の良さで、時折雑誌などが取材にも来る人気店だ。


 和也は、ひとり娘の一香にこの料亭を継いで欲しいと考えていた。

 苦労してここまで育てたこの店を、自分の血を引くものに続けていってほしい。その気持ちは、年を経るごとに大きくなった。

 一香はもともと、そう目立った華やかさを持った子ではない。けれど、まだ幼い頃から母親の家事を手伝い、父親の疲れを気遣い、可愛らしいお喋りで場を和ませる一香の姿は、和也の心を明るくした。

 娘は、人の心を受け止める優しさをしっかりと持った子だ。訪れる客一人ひとりの心を細やかに感じ取り、会話を弾ませる能力は、接客にはうってつけだ。

 大切な娘に、店の立派な女将になってほしい。この料亭を揺るぎない老舗に育てて欲しい。いつしか和也の願いは動かし難いものになっていた。



 小学校時代の一香は、勉強も運動もできる子だった。友達も多く、まるでアイドルみたいな存在なのよと、小学校の授業参観に出席する度に妻の清美が嬉しそうに話していたのを和也は覚えている。そのことが和也も誇らしく、一香の顔を見れば、「将来はウチの美人女将だな!」と娘の小さな頭を撫でたものだった。


「一香、二分の一成人おめでとう! 店の定休日までお祝い延びちゃってごめんね。今晩は一香の一番好きな料理にしようと思って。何がいい?」

 一香の10歳の誕生日の時、清美のそんな問いかけに、一香は即座に答えた。

「私、すき焼きがいい!」

「すき焼き? 誕生日に?」

「うん。だって、すき焼きはみんなで一緒に食べるから、一番美味しくて楽しいんだもん。前にお父さんがせりをいっぱい入れてくれたすき焼き、すごくおいしかったから、それがいい!」 

「ふふ、そっか。わかった」


 芹は、シャキシャキとした歯触りと爽やかな香りが特徴の野菜だ。体に必要な成分を多く含み、胃や肝機能を整え、血圧抑制や貧血予防、ガンなどの生活習慣病の予防にも効果があるといわれている。子供の舌には少し青臭く感じるのではないかとも思ったが、一香はこの味がとても好きなようだった。

 母と娘の微笑ましい会話をソファで何気なく聞きながら、和也も温かな幸せを噛み締めていた。


 けれど、中学に入ってから、一香は変わり始めた。

 美術の教科書で見た有名な絵画——確か、ゴッホの『糸杉』だったろうか——画面全体に畝るような不思議なエネルギーを孕む絵が、一香を強く魅了したようだった。

 絵を描くのは子供の頃から上手だったが、その頃から一香は急激に絵画の世界へ深く引き込まれていった。担任の話では、友達と積極的に交流することもなく、図書室で画集などばかり見て過ごしているという。やがて、娘は家でも部屋に篭り、スケッチブックと鉛筆を手放さなくなった。

 店が忙しく、和也は家での娘の様子を深く知ることもなかなかできなかったが、その様子の大きな変化には気づいた。どんどん視力が落ち、厚い眼鏡が必要になり——一香は気づけば随分ぽっちゃりと丸い体つきになっていた。笑顔や会話は減り、いつもどこか親の顔色を見るような不安げな眼差しをして、家族に対しても口数の少ない子になっていった。

 高校では美術部に入り、一香は夢中で絵を描いていた。どんな絵を描いていたのか、和也はよく知らない。一香は作品を自ら家族に見せるようなことをせず、その頃店がますます繁盛し始めたこともあり、和也も清美も一香の心に深く踏み入るような余裕は持っていなかった。時間的にも、精神的にも。


「私、絵を学びたい」

 高校2年の夏休み前。

 店が定休日である水曜の夜、一香は思い詰めたように和也と清美を見つめ、小さく呟いた。

 ソファで新聞に目を落としていた和也の中で、ふつりと何かが切れた。

 和也は顔を上げると、娘を見つめ返した。

 苛立ち紛れの言葉が、思わず口を衝いて出た。


「——お前の絵は、金になるのか?」


「……」


 一香は、一瞬大きく目を見開いて父を見た。


 和也は、奥歯で感情を押し殺すように言葉を続けた。

「公務員や何かならまだしも。まともに生活できるかわからない不安定なものに足を突っ込むくらいなら、私はお前にこの料亭を継いでほしい。

 私が、昔からお前に繰り返してた言葉、忘れたのか?

 ——本来のお前は、もっと快活で優秀な子だっただろう?

 大学で、経営を学びなさい。そして、節制や運動をして痩せ、かつてのような知性や明るさを持つお前に戻ってくれ。

 今や、うちは立派な人気店だ。この店を引き継ぐことは、お前にとっても大きな誇りになるはずだ」


 父の話を黙ったまま聞き終えると、一香は静かに顔を俯けた。

 黒い髪が肩から落ちかかり、その表情を覆った。


 和也の横で、清美が小さくため息をついた。

「なんだ」

「いいえ」

 和也の鋭い問いかけに、清美は短く返す。

 そして妻もまた微かに俯いた。


 清美は、夫がどういう性格かをよく知っている。それまでも、夫婦間で衝突したことが何度かあったが、和也は清美の言葉とその奥にある思いを、正面から汲み取ろうとはしなかった。その度に、強引な言葉で妻を黙らせた。

 料理屋に大切なものは、料理の味だけではなく、店の佇まいや空気も同じくらい重要だ。女将である自分と、板長の夫。二人の息が合っていてこそ、気持ちよく店が回る。二人の間に険悪な空気が充満すれば、店の雰囲気にもダイレクトに響く。

 何か言いたげな気配が、清美から消え——家族の会話は、そこで途切れた。


 一香の心を汲み取り、彼女の願いに味方するものは、どこにもいなかった。



 それからの一香は、何かを振り切るかのように必死に勉強し、都内のある大学の経営学部に合格した。

 そして、家を離れ一人暮らしをするようになり——彼女は、心身を壊した。







 一香が大学に入学して、約半年が経った。

 秋雨の降る寒い日だった。

 夕方、客のまばらな店のカウンターの電話が鳴った。


『堀川さんですか。

 あの、一香さんが——お嬢さんが』

 動揺を押し殺したような若い男の声が、電話の奥に響いた。


 男の話では、一香が買い物中に店先で倒れ、救急車で病院へ運ばれたという。ここ最近、一香はほとんど物が食べられない状態だったらしい。

 訳も分からないまま翌日店を急遽休みにして、夫婦で娘が入院したという病院へ向かった。


 一香は、相部屋のベッドの一つで点滴を繋がれ、眠っていた。

 大学に通い始めてからは家へ一度も戻らず、半年ぶりに見た娘は以前とは別人のように青白く痩せこけていた。瞼は窪んで、唇も髪もバサバサに乾いている。


 家にいた頃の一香の、ふっくらした頰と艶のある黒い髪。

 かつての、ありのままの娘の姿や淡い笑顔が、今更のように和也の瞼の奥に浮かんだ。


 一香の状況を店へ連絡してきた男が、ベッドサイドに付き添っていた。

 パサついた茶色い髪をして、片耳にピアス穴のある、ひょろりと痩せた若い男だ。

 彼は大学の側にある野菜屋の息子で、一香がよく店に買い物に来ることをきっかけに知り合ったという。


「一香さんは、店によく来てくれるお客さんで。この春から大学生活始まって近くのアパートで一人暮らししてるって聞いて、自分とタメなんだって知りました。

 俺、高校卒業近くまで半端ない不良やってたんです。ヤンキーってやつで。でも、このままじゃ自分の生きる道がなくなるんだってやっと気づいて。本気で働くからって親に頼み込んで、家の野菜屋手伝ってるんです。

 こんなチャラい空気まき散らかしてる男なんか、女子大生にとっては胡散臭いヤツでしかないはずなのに、彼女はいつもふんわりした笑顔を向けてくれました。それが、まじで嬉しかった。

 店先に並んだリンゴと芹をいつも決まったように買っていくから、『リンゴと芹、お好きなんですか』って、思い切って声かけたんです。そしたら、ニコッと微笑みかけて——同時に、彼女の目に、ぶわっと涙が浮かんで。

 めちゃくちゃ驚きました。

 大慌てで謝ったら、彼女は涙を急いで拭きながら小さく言いました。『ごめんなさい。私、痩せないといけないんです』って」


 痩せなければいけない——。

 あの夏、自分が苛立ち紛れに娘に投げつけた言葉が、脳にありありと蘇る。

 あの時の言葉は、それほどまでに深く鋭く、娘の心に突き刺さっていた。

 和也は奥歯を強く噛みしめた。

 

「そんなことがあって、俺は一香さんとよく話をするようになりました。そのうち仕事のない時間に会って喋ったり、連絡先も交換するようになりました。

 よく知れば知るほど、彼女は、いつも苦しげで、危なっかしくて——食事も、リンゴや野菜のスープのようなものばかりみたいなんです。俺、本当に彼女が心配でした。彼女の心をもっとよく知って、彼女を支えたかった。

 けれど、一香さんは『心配しないで。これで綺麗になるんだから』と笑って繰り返すばかりでした。

 そのうち、みるみる食欲が落ちて。恐ろしいほどに痩せ細っていく彼女の様子を、俺はただ側で見ているしかできなかった。

 それで昨日、とうとう店先で、彼女が柱に縋りながら倒れ込んでしまったんです。俺、息が止まりそうになりました。無我夢中で救急車を呼びました。

 病院へ搬送され、医師にこれまでの一香さんの様子を話すと、すぐにも入院すべきだと医師から説明を受けました。心因性のもの……つまり、拒食症の可能性が高いのだそうです。

 彼女は、今の自分の話など親には絶対にしたくない、といつも言っていたのですが……以前にご実家の料亭の店名だけは聞いていたので、調べてご連絡しました。

 ——言い遅れました。俺、加賀美と言います。加賀美 はやてです」

 男は暗い眼差しを上げて二人をまっすぐ見てから、深く頭を下げた。



 その時、一香がうっすらと目を開けた。

 そして、父と母の顔を見ると、その瞬間強く口元をひきつらせた。

 怯えるように二人から顔を背け、繰り返し何か呟く。

 颯が枕辺に走り寄り、一香の様子を覗き込む。


「——大丈夫? 一香さん?」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 唇を震わせ、一香は小さくそう呟いていた。


 一香を落ち着かせてから、颯は両親を促して静かに廊下へ出た。


「——あの。

 俺……これからも、一香さんに付き添ってもいいでしょうか。

 病院には、あの、自分のこと恋人って説明してあって……彼女をひとりにしたくなくて、咄嗟に出ちゃったんです。すみません。

 一香さんの様子は、またご連絡しますので……一香さんが入院している間、俺に付き添わせてもらえませんか」


 颯は、再び両親に丁寧に頭を下げる。

 あれほどに強く娘に拒絶された動揺を拭えないまま、和也は颯に深く頭を下げた。


「ありがとうございます。

 ——私たちがそばにいても、きっと一香の心を乱すだけなんですね。

 どうか、娘をよろしくお願いします」


 声が情けなく震えるのを、和也は止めることができない。


「……よろしくお願いします、加賀美さん。

 何かありましたら、いつでもご連絡ください。私と夫それぞれの連絡先もお伝えしておきますので。ね、あなた」

 和也の横で、清美も深々と頭を下げた。







 一香の入院から、約3週間が過ぎた。

 定休日の水曜日の夜に、和也のスマホへ颯から電話が入る。一香の様子を伝える電話だ。

 連絡が来る頃になると、和也は何をするのも手につかず、着信音が鳴るまでソファで新聞を機械的にめくっているしかなかった。活字を追う余裕など全くないのだが。

 夜8時半。目の前のスマホが鳴った。

 和也は取り落としそうになりながら端末を掴み上げる。


「——堀川です」

『加賀美です。こんばんは』

「娘がお世話になっています」

 気づけばいつも、和也はスマホを耳に当てながら深く頭を下げていた。


『一香さんの様子は、今週も特に大きな変化はありません。

 良くなるでもなく、悪くなるでもなく……毎食、ほんの少しおかゆやスープなどを口にして、後は点滴で栄養を補っています。

 彼女からいろいろなことを聞き出すのは、彼女の心を乱す原因になる気がして、俺からは何も聞かずにいます。一香さんも、何気ない会話を少しする以外は、何一つ話そうとしません。

 ……あの……唐突にこんなお話して、済みません。

 医師からは、彼女が心に抱える悩みや傷のようなものを解きほぐし、彼女自身のストレスが軽減しなければ、根本的な回復には結びつかないだろうと説明を受けています。

 なので——思い切ってお聞きします。

 なぜ、一香さんは「痩せなければいけない」と思い込んでいるのでしょうか。なぜ一香さんは、あれほどに追い詰められ、ご両親のお顔を見てあんな反応をするのか——ご両親と一香さんのこれまでのことを、詳しくお聞きしたいと思うんです』


 スマホを握る和也の指が、小刻みに震えた。

 これまで胸に詰まり、喉を圧迫して苦しくてたまらなかった感情が、スマホの奥の相手へ向けて一気に溢れ出した。


「——全て、お話しします。これまでのことを。

 私が、娘に何をしたのか、聞いてください」


 和也は、颯に全てを打ち明けた。一言も包み隠さず。

 そして、声を震わせて、続けた。


「娘に——一香に、謝りたい。許してほしい。

 これまでの、自分の身勝手な感情と言葉を。あんな残酷な言葉で娘の夢をけがし、自分の思い通りに娘の人生を縛りつけようとしたことを。

 これからは、どう生きてもいい。大学を辞めてもいい。絵を学び直してもいい。

 昔のように、あの笑顔を取り戻してくれるなら。

 どうか、一香にそう伝えてください」


 必死にそう言い終えると、和也は掌で顔を覆い、肩を震わせて嗚咽を漏らした。

 側でやりとりを聞いていた清美も、頰を流れる筋を指で拭う。

 夫の肩に静かに触れ、清美は和也からスマホを受け取った。


「加賀美さん。一香のために、本当にありがとうございます。

 つくづく情けない親ですね、私たちは。

 自分自身をこれほどに恥ずかしく思うのは、初めてです。たった一人の娘すら、本気で愛せていなかったなんて——私たちは危うく、娘の心を殺してしまうところだったんですね。

 私も、あの子に伝えたいです。心から、ごめんなさいと。

 あの時、味方になってあげられなかったことを、許してほしいと。

 どうしようもなく愚かな母親ですが、どうか娘にお伝えください」


『——ありがとうございます、お父さん、お母さん。

 今聞いた言葉、明日、全部一香さんに伝えます』


 電話の奥で、微かに鼻を啜り上げるような気配がし、やがて穏やかな声がそう答えた。







 入院から約2ヶ月後、一香は退院した。

 颯を通じ両親の言葉を受け止めてからの一香は、何か取り憑いていたものが消え失せたかのように穏やかな表情を見せるようになったそうだ。

 食べられる食事の量も少しずつ増え、顔色も表情もみるみる明るく活気を取り戻しているようだ。颯の報告はどんどん明るく、喜びに満ちたものに変わっていった。

 そして今夜は、一香のアパートに付き添って帰ってきた颯からの電話だ。


『一香さん、さっきベッドに入って、今はよく眠っています。

 アパートに戻ってきて初めて一緒に食べたのは、うどんでした。

 一香さんが、芹の入ったすき焼き風の鍋焼きうどんが食べたいって、あんまり具体的に言うので。驚いたと同時にめちゃめちゃ嬉しくて、一香さんに時々味見てもらいながら、頑張って作りました』


「芹の入った、すき焼き風の——?」


 電話の奥の颯の言葉に、和也はふと言葉を途切らせる。

 そのメニューは、間違いなく一香が10歳の誕生日にねだったものだ。

 ——みんなで食べるのが一番美味しくて楽しいから、と。


 娘は、あの時の味と記憶を、忘れずにいてくれた。

 それを、食べたいと思ってくれた。

 これほどに冷ややかで身勝手な親だったにも関わらず。



「——そうですか」


 そう答えたきり、目の奥がこみ上げ、次の言葉が喉にむせて出てこない。

 その気配に気づいたのか気づかないのか、颯が続けた。


『牛肉の脂身などもまだきついようなので、具材は焼き豆腐と、玉ねぎや白菜、椎茸などの野菜です。すき焼き風の甘辛いつゆで具材に味が染みるまで柔らかく煮て、うどんを加えて煮込んで。最後に新鮮な芹を加えました。

 彼女はまだ一人前の分量は無理ですから、一人前分を作って二人で分けて食べました。

 舌に優しくて、じんわりと胃に染み込むような美味しさで。芹の香りとシャキシャキ感が、優しい味わいを爽やかに引き締めて。

 美味い!!って言ったら、「でしょ?」って一香さんが嬉しそうにドヤ顔してました。……あんなに生き生きした顔、初めて見ました。

 お料理屋さんでも、小食な人や、ちょっとだけ食べたい人のために、こんなふうに小さいお椀サイズも用意してくれたらいいのにね、なんて言いながら笑い合いました』


 一人前の鍋焼きうどんを、小さなテーブルで分け合って、笑い合って。

 温かく幸せな二人の様子が、目の前で見るかのように瞼に浮かんでくる。


「……一香の体調が元通りになったら、そこに卵を落としても美味ですよ。生卵を落としてから少し加熱して、白身の色が変わった頃に食べるのが美味しい。まだ体力が戻っていないうちは、生の卵は控えた方がいいかもしれませんが」


『ああ、そうですね! それは美味しそうです! 彼女が元どおり食べられるようになったら、牛肉もたっぷり入れたいですね!……あ、なんか調子乗ってすみません』


 颯は、そんなことを言って少し照れたように笑う。

 電話の奥の明るい報告を、和也も微笑みながらいつまでも聞いていた。







 その年の明けた翌春、三月。

 桜の咲く中を、一香は約一年ぶりに家へ帰ってきた。


「ただいま」


 一香は、以前とは別人のような穏やかな表情で玄関に立っていた。

 余分な肉の落ちた背を真っ直ぐに伸ばして両親を見つめる娘は、生まれ変わったように美しかった。


「お帰り」

 二人で、言葉少なに迎える。

 リビングのソファに少し懐かしそうに座り、母の入れたお茶を一口口に運ぶと、一香は正面に座る両親に静かに微笑んだ。


「いろいろ、心配かけてごめん。

 私、大学を中退することにした」


「——うん」

 二人は、娘の短い言葉に静かに頷いた。


「それで。

 この先、どうするんだ?

 美術を学べる学校へ入り直してみるか」


「ううん。大学へは行かない。

 今のアパートのそばに、小さな絵画教室があるの。そこへ通おうと思う。働きながら」


「え……絵画教室って……

 それに、働くって一体……」


「颯……加賀美さんの野菜屋さんで。

 ちょうど、この三月で辞めるパートさんがいるから、その後に入れてもらう予定」

「ちょっと、待ちなさい。

 そんな方法を無理に選ぶ必要はないんだ、一香。ここまでこれほど苦しい思いをしたんだから。学費や何かだっていくらでも……」


 一香は、父の言葉を遮るように頭を強く横に振る。

「そういう話じゃないの、父さん。

 自分の自由に、行きたい道を選んで歩くんだから、家からのお金では意味がないの。それでは、私の息苦しさはここからも変わらない。

 私、もう自分の力で歩ける。だから、私の自由にさせて欲しいんだ。

 二人には、ここでそれを見ていてほしい。

 こんなお願いも、これで最後だから。

 これまでたくさん心配させて、ごめんなさい。

 ——今まで、ありがとう。父さん、母さん」


 一香は、揺るぎない声でそう言うと、両親へ向けて深く頭を下げた。


 しばらく続いた沈黙の後、清美が静かに口を開いた。


「……一香。

 颯さんに、よろしく伝えてね。本当にお世話になりました、って。

 そして、これからもどうぞよろしくって。

 素敵な人に出会えて、よかったわね。一香」


「うん!」


 母の穏やかな言葉に、一香ははっとしたように顔を上げると、眩しいほどの笑顔を輝かせた。




 長居することもなく帰っていった一香のテーブルの湯呑みを、和也はじっと見つめた。

 丸く可愛らしい湯呑みの輪郭が、不意にじわりと滲んだ。


「——あの子に、結局親らしいことを何一つしてやれなかったんだな、私達は」


 そう呟く声が、低く掠れた。


 和也の横で手の中の湯呑みを見つめていた清美がふっと顔を上げ、小さく微笑んだ。


「下なんか向いてちゃだめだわ。一香だって、あんなに真っ直ぐに前を向いて歩き出したんだもの。

 私たちは、この先のあの子の幸せを、精一杯叶えてあげましょう。私達にはもう、それ以外にできないんだから。

 あの子は、この巣から外の世界に飛び立ちたいのよ。

 親への恨みや諦めや、そんな暗い感情じゃなくて。純粋に、自分の力で歩きたいんだと思う。

 これ以上何かしてやりたいと私達が思えば思うほど、その気持ちは一香を縛るだけだわ。

 ——実は私も、親にかなり反対されたのよ、あなたとの結婚。知らなかったでしょう?」


 驚いたように妻を見る和也に、清美は少しだけ悪戯っぽい目をして笑った。


「だから、よくわかるの。自分の道を自力で歩かせてほしいっていう、一香の気持ちが。

 これからはもう、あの子が自由に生きるのを黙って見守ってやりましょう。——一切口出しせずにね。

 それが、今あの子が一番望んでいる幸せだわ」


 目から零れそうになるものを、和也は慌ててぐしぐしと掌で擦る。

 その肩に手を置いて、清美は夫へ優しく笑った。



 窓から夕風が流れ込み、二人の頰を柔らかく撫でた。

 どこかから吹かれた桜の花びらが、ちらちらと舞っていった。







「あれ、女将。ちょっといつもと違うメニューがあるね?」

 春の初めの、金曜の夜。料亭「堀川」の暖簾の奥。

 カウンター席でメニューを眺めていた常連の男が、ふとそう言った。


「あら、本当。『芹の入ったすき焼き風鍋焼きうどん』。あったまって、美味しそう……まあ、ハーフサイズっていうのもあるの?」

 男の連れの女性も、メニューを見て楽しげに呟く。


「ええ。今までこういう料理はお出ししてこなかったのですが、何か温かみのあるメニューも増やしていこうか、と板長と話しまして」

 女将が、柔らかく微笑んでそう答える。

 

「ハーフサイズは、お椀で提供する分量になっています。お客様の中には、小食の方や、少しだけ食べたい方もきっといらっしゃいますよね。お好みに合わせて、具材からお肉や卵を抜いたりもできますので、どうぞお申し付けください」


「へえ、これはいいね。体への気遣い最優先のこういう料理は、外食のメニューにはありそうでなかなかないじゃないか?」

「そうね。いつもガンガン食べられる人ばかりじゃないし、体調が万全な人ばかりじゃないものね。これは女性にも嬉しいわ。

 それから、小腹が空いてあったかいものをちょっとだけ食べたいのにそういうメニューがないって、思えばよくあるもの!」


 いつもは寡黙な板長が、いつになく嬉しそうに口元を綻ばせて会話に加わった。

「うちの娘がね、アイデアをくれたんですよ。

 この店の女将を継がせたかったんですが、私があまりにもその願いを押し付けすぎて。そのせいで、娘が一時心身を病んでしまったことがあったんです。その時に、娘と私達を繋いでくれた料理を、店でも出したくなりまして」


「……そのお嬢さんは、今は?」

「ええ。それももう5年ほど前のことで、今はもうすっかり元気です。去年の夏に東京の野菜屋の息子と結婚して、二人で店継ぐんだって言ってます。

 絵が好きでね、仕事の合間に絵も描いてるらしくて。今度何かの賞に出すんだって張り切ってますよ。近々孫も生まれる予定です」


「ああ、それはよかったわ。おめでとうございます。いろいろあっても、今はお嬢さんも幸せなのね」

「ええ……本当に」


 板長と連れ合いのそんなやりとりを聞きながら手元の酒のグラスを口に運び、客の男は静かに言った。


「ここの料理、なんだか昔より丸くなったなあ。

 以前はもっと、『料理とはこういうもんだ!』みたいな刺々しい空気がどこかにあった気がしたけど……

 昔より、ずっと優しくて、美味しくなったよ。

 何がどう変わってたとしても、これからも来るから。ずっとやってってよね、女将も板長も」


「ありがとうございます」


 女将と板長は、嬉しそうに揃って頭を下げた。



 客の男女それぞれの前に、温かみのある色合いの小ぶりの土鍋が置かれた。

 蓋を取ると、香り良い湯気がふわりと立ち上った。たっぷりの野菜と焼き豆腐、牛肉、太麺のうどんが程よく煮え、落とし卵の表面は熱で白く色を変えて食欲を唆る。

 そして、それらを覆うように上から加えられた芹の緑は、目にも鮮やかだ。

 どこか懐かしく温かな香りで、彼らの会話は一層弾む。



 春の夜は、穏やかに流れていく。

 さまざまなものを越えて、ようやく訪れた安らぎに包まれて。




——『愛おしい人へ捧ぐ芹の入ったすき焼き風鍋焼きうどん』——




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