人気のない廊下に、革靴の音が反響する。白い石の床に靴底がコツコツと当たる音が、この場所の雰囲気と相まってより一層冷たく響き渡るようだ。

 ふと雅之は足を止めた。首に巻いていたマフラーをほどき、コートの肩に少しついていた雪の粒を払い落とす。雅之の視線の先には、女性が一人、ベンチにうずくまるように座っていた。

 「あなたが狭山さん?」

 その声に弾かれるようにして、女性が雅之の方を見る。

 「鳶田さん…、ですか?」

 「そうよ」

 「来て…、下さったん…、ですね」

 「勘違いしないで頂戴。最後に文句言いにきたのよ。このままアイツに逃げられるのも癪だからね」

 相変わらず冷たく突き放すような物言いだ。

 「そうですか…」

 狭山はその態度に別段驚く訳でもなく、能面のように無表情のままだ。青白い顔の中で、泣き腫らした目だけが赤くなっている。化粧っけのない面長な顔に、パサついた髪をひっつめにした狭山は、喪服姿も手伝ってか雅之の目にはひどく地味に映った。

 「……樹生は?」

 「あちらです」

 狭山が指差した先には、白い棺が置かれていた。棺のフタは開けられたままになっている。

 雅之はゆっくりと棺に歩み寄る。一歩、また一歩と近づいていくたびに棺の中が見えてくる。白装束に身を包んだ樹生の姿を見てもなお、不思議と雅之にはさしたる感情も湧いてこなかった。

 雅之は棺の側で膝を折り、覗きこむようにして樹生の顔を見る。

 十年以上の月日を経てもなお、樹生の顔にはあの頃の面影があった。スッとした鼻筋も、形のよい眉や唇も、かつて十七の自分が恋したあの時のままだった。その顔に、雅之はかつての樹生を見た。それと同時に、高校二年だったかつての自分を見たような気さえした。

 雅之がゆっくりと樹生の顔に手を伸ばす。その刹那、雅之の脳裏に鷹谷の言葉がハッキリと浮かんだ。思わず樹生に触れようとした手が止まる。自ずと、その手に力が入る。

 ややあって、雅之はその手をそっと樹生の頬に置いた。指先から、固くこわばった、雪のように冷たい感触が伝わってくる。

 「随分とオッサンになったわね……」

 呟くように、そんな言葉が雅之の口を衝いて出た。どこまでも天邪鬼な自分に、雅之は一人自嘲気味に頬を緩めた。やはり雅之には樹生をぶん殴ることはできなかった。

 雅之は脇に置かれた簡素な写真立てを見た。棺の側には、他に花が数輪手向けられているだけだった。そこに飾られた写真には、無邪気に笑うスーツ姿の樹生がいた。

 「あの……、鳶田さん」

 いつの間にか、雅之の横に狭山が立っていた。

 「何?」

 油断ならないといった感じに、雅之は狭山に対して警戒心を露わにする。

 「一つだけ、見て頂きたいものがあるんです」

 狭山の言葉に、雅之は少し怪訝な顔をする。狭山は手に持っていたものを、雅之の前に差し出す。

 「これ、鳶田さんが樹生に買ったものですよね?」

 狭山が差し出したのは、一枚のCDケースだった。驚きのあまり、思わず雅之は目を見開く。無言のまま狭山からそれを受け取り、震える手でゆっくりと開ける。記憶を頼りにケースの内側を見ると、果たしてその中には雅之が樹生に宛てて書いたメッセージカードが残っていた。

 「この粉雪のCDを、樹生はずっと大事にしてました……。時々そのCDかけながら、一人で歌ってました……」

 そこで狭山は声を詰まらせた。

 その瞬間、雅之の中で狭山に対して構えていたものが崩れ去っていくのを感じた。

 雅之は十七の樹生が歌う姿をありありと思い出していた。自分をそっと抱き寄せ、子守唄のように歌ってくれた樹生を想った。

 雅之が狭山に穏やかな笑顔を向ける。

 「ねぇ、あなた、樹生の写真見せてくれない? 大人の樹生の」

 雅之の言葉に、狭山が大きく頷いた。

 

                                   〈完〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【旧版】『粉雪』 駿介 @syun-kazama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ