三(後)

 非常階段には誰もいなかった。

 仄暗い踊り場の隅に、小さな吸い殻入れがポツンと置いてある。雅之は一番隅に陣取り、ワイシャツの胸ポケットからピアニッシモを一本取り出し、ゆっくりとくゆらせる。

 踊り場からは、ビルとビルの合間に狭い東京の街並みが見えた。今は厚い灰色の雲の下、街全体がどこか白っぽい空気に包まれている。

 雅之は手すりに身体を預け、呆けた顔で低い空を見上げていた。風はないが、足元から刺すような深々とした冷気が上がってくるかのようだ。だが雅之は頭の中がスッキリするような気がして、むしろそれが心地よかった。

 ふとその背後で、重い非常階段の扉がゆっくりと開く音がした。

 「おう、喫煙所いないと思ったらやっぱここにいたか」

 「何よ、驚かせないでちょうだい」

 そこに立っていたのは鷹谷だった。

 「隣いーか?」

 「どーぞ」

 雅之は煙草をくわえたまま、つっけんどんに答える。

 鷹谷は雅之の隣で同じようにもたれかかった。煙草の先をジッポーで軽くトントンと叩き、火をつける。

 「お前さぁ、こんな寒いんだから喫煙所行けよ」

 「いやよ。今日は一人になりたい気分なの。今日あそこ行くぐらいなら、給湯室行って女の子達の恋愛相談乗ってる方が千倍マシよ」

 「そこまで言うか?」

 鷹谷が苦笑する。

 「だって時々『大奥に男が入ってきたぞ』みたいな顔されるのよ。『喫煙所は男の聖域だ』って思ってるのか知らないけどさ」

 「ハハハ、大奥はよかったな」

 「笑いごとじゃないわよ」

 「確かに、お前新人の頃喫煙室でいじめられてたもんな」

 「『いじめ』って、あんた人聞きの悪い…」

 「それが嫌で、新人時代ここで煙草吸ってたのに?」

 「それはそうだけども……」 

 その話をされると、雅之も強くは出れない。

 「でもお前もう昇進したし、もう最近はそういうの減ってきたんじゃないのか?」

 「まぁ、それもそうね。もう私もそういう人間完全に視界から締め出してるし。でもやっぱり、大の大人が雁首そろえて低俗な会話してるの見ると反吐が出るわ」

 雅之は思いっきり白い煙を吐く。 

 「いいのよ別に。私みたいな人間は、やれオカマだのホモだの後ろ指差されながら生きてく宿命なのよ」

 「そう悲観するなよ」

 「別に悲観なんかしてないわよ。ただ事実を言ってるだけ。わたしはそんな人間なんか気にしてないもの。ただ、私を色眼鏡で見てくる人間には同じようにやり返すだけ。自分の理解の外にあるものを怖いと思うのはわからなくもないけど、それだから排他的な思考になるなんて、バカのすることよ」

 「全員が全員、そうなわけじゃないと思うんだけどなぁ…」

 「世の中そんな人間ばっかよ」

 「まぁそう言うなって。…それにしても、今日はホントに雪になりそうだな」

 「そうね」

 「何かそんな歌あったよな。『粉雪』とかいうヤツ。ちょうど俺らが学生の頃流行ったじゃん? こなーゆきーって…」

 「あー、あったわね」

 雅之は興味なさげに答える。この空を見ながら雅之もまさに同じ歌のことを考えていたとは、鷹谷は知る由もない。

 煙草を指の間に挟み、今度は鷹谷がふーっと白い息を吐く。辺りにメンソールのツンとした匂いが広がる。

 「……あんたいい加減ハイライト吸うのやめなさいよ」

 「軽いのだと吸った気しねぇんだよ」

 「ジジ臭いわね。まぁ、それが似合うような歳になったってことかしら」

 「お前も同い年だろ」

 「私はそんな古臭い煙草なんか吸わないわよ」

 「お前も何だっけ?、そのピアニッシモの…」

 「アイシーンね」

 「おう、それそれ。それもう長いこと吸ってるよな?」

 「そうね。何となくこれがしっくりくるのよね」

 「お前も同じじゃないかよ」

 「老い先短いんだから、少しは健康にも気を遣いなさい、って話よ」

 「お前なぁ…、煙草吸いながらそんな説教垂れても説得力ないぞ」

 煙草をくわえたまま、鷹谷が豪快に笑う。

 「私はいいのよ。いつどこで死んだって構わない身なんだから……」

 「お前、昨日やっぱ何かあったろ?」

 鷹谷が眉を寄せる。

 「何もないわよ」

 「目が赤い。それに顔色が悪い」

 「乙女に向かってそう言うこと言うもんじゃないわよ」

 「外見は完全なオッサンだけどな」

 「うっさい」

 「で、本当のことは?」

 終始にこやかだった鷹谷の顔が真剣な顔になる。

 「二丁目で若いオトコ漁ってた」

 「はいはい。そーゆーのいいから」

 雅之が大きな溜息を吐く。チビた煙草を隅の灰皿に入れ、新しい煙草に火をつける。

 「……昨日連絡があって、樹生が死んだって」

 驚いた鷹谷が雅之の方を見る。鷹谷には来島と何があったかは随分前に話してあり、以来一人胸の中にしまっておいてくれている。

 「……行かないのか」

 「あんなヤツ、今更顔も見たくないわよ」

 吐き捨てるように投げやりに言う。見えない何かにぶつけるように、白い煙を吐く。

 「…行ってやれよ。最後ぐらい」

 「あんたには関係ないでしょうよ」

 「そりゃそーだけどさ。お前見てると行った方がいい気がするんだよ」

 「やめてちょうだいよ」

 「お前さ、そいつに未練あるんじゃないのか?」

 「やめてって、そんな冗談」

 真っ直ぐな鷹谷の言葉に、思わず雅之は頭に血が上る。ありったけのやり場のない感情をこめ、吸いかけの煙草を灰皿に放り捨てる。煙草から微かに橙色の火花が散った。

 「この歳まで引きずってんのは充分未練って言えるんじゃないのか?」

 相変わらず遠慮のない言葉だ。けれども鷹谷の顔から、雅之は本気で自分のことを心配していることがよく分かった。

 「……どうすればいいのかわからない。自分でも、自分の感情がわからない」

 雅之はその場に力なくしゃがみこむ。核心を突く鷹谷の言葉に、つい雅之の口からも本音がこぼれる。

 鷹谷が煙草を灰皿に捨て、新しい煙草に火をつける。考えこむような顔でゆっくりと吸い、一呼吸置いてゆっくりと息を吐き出した。

 「とりあえず…、行ってみたらいいんじゃないか? 行きゃぁ全てわかるだろ。憎たらしいと思えばそいつのことぶん殴ってくればいいし、悲しいと思ったらちゃんとお別れしてこい」

 「ホント…、アンタには敵わないわね」

 本心からの言葉だった。

 「今急ぎの案件ないだろ? 周りには適当に言って、後は俺が何とかしとく」

 「そうね…、最後に文句の一つぐらい言いに行ってやるわ」

 雅之が鷹谷を見上げて笑う。

 「おう、行ってこい」

 なぜか鷹谷が得意気な顔をしている。

 「ねぇ、航太、黒のタイ持ってる? シルクのやつ」

 「あぁ、香典袋もあるぞ」

 「相変わらず用意がいいわね。でも、そっちは自分で用意するわ。そういうものって、やっぱり自分ですべきだと思うから」

 「お前そういうとこ律儀だよな。俺はそういうマサのとこ好きだぞ」

 「ホントあんたは何も学ばないわね…。私みたいな人間にそんな言葉言うと、後がめんどくさいわよ」

 「それはそれで面白そうじゃないか」

 鷹谷が無邪気に笑う。

 「それ本気で言ってる?」

 「俺はいつだって本気だ」

 「ハイハイ。まぁせっかくだから、金赤の結び留めにピン札入れて持って行こうかしらね」

 「そーいやお前、数珠はどーするんだよ?」

 「いいわよ。アイツ相手にそんなご大層なもん必要ないわ」

 「ホントお前、そういうとこは素直じゃないな」

 「私はそういう性格に生まれついてるのよ。でも、航太、ありがとう」

 「あぁ、頑張ってこい」

 鷹谷の大きな手が雅之の肩をポンポンと叩いた。


 

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