三(前)
翌朝、結局雅之は一睡もせずに出社した。
「おはようー」
せめてもと、いつもより少しだけ明るい声を出す。その声に気づいた何人かが雅之の方に振り向き、挨拶を返す。もうこのオフィスにいる半分以上が雅之の部下だ。
雅之はオフィスの一番奥にある自分の机に鞄を置いた。その姿を見つけて、雅之の元に部下の塩沢が駆け寄ってくる。
「姐さんおはようございます。朝の内に確認して頂きたいことがあるんですが…」
「姐さん」というのは社内での雅之のあだ名である。塩沢とはお互いに「姐さん」「
「あー次のプレゼン資料ね。今確認する」
塩沢から資料を受け取り、くすんだ赤茶色のマフラーをほどきながら、もう一方の手で資料をめくっていく。
「姐さん、今日のコートお洒落ですね」
「あぁ、これ? 少し厚手のもの出してきたの」
雅之が着ていたコートの襟をちょっとつまむ。灰地に白の小さな千鳥格子が並んだ生地で仕立てられたチェスターコートだ。色白で細身の雅之は、膝丈まであるそのコートをすらりと着こなしている。
「最近着てなかったから、変じゃない?」
「奇抜なデザインじゃないですけど、姐さんの雰囲気に合ってます」
「お世辞なんか言っちゃって。おだてても資料のミスは見逃してあげないわよ」
「甘くしてくれたことなんか一度もないじゃないですか。いつも厳しいし。マサ姐さんの鳶の目は騙せないですよ」
「まぁ、それもそっか」
「よっ、塩沢。朝からマサにこってり絞られてんのか?」
色黒で長身の男が塩沢の肩をポンと叩く。
「あ、
平岡の肩を叩いたのは、雅之の同期の鷹谷だった。入社当時からいつも苦楽を共にしてきた、雅之の一番の理解者でもある。
「お前、そのコート着てんの珍しいな。最近あまり着てなかったろ」
「そうね」
鷹谷が雅之のコートを訝しげに見ている。
「…何かあったのか?」
「別に。何もないわよ。久しぶりに着たい気分になっただけ」
やはり付き合いが長いだけあって勘が鋭い。
「…そう。ならいいんだけどよ」
鷹谷はそれ以上その場で詮索はしてこなかった。用は済んだと言わんばかりに、彼は話を切り上げてそのまま自分の机に戻っていった。内心どぎまぎしつつ、雅之はやんわりと話題を逸らす。
「…それにしても六花ちゃん、今日は本当に寒いわね。雲が厚いし、雪でも降りそうな陽気」
「ほんとですね。後で温かいコーヒーお持ちしますよ」
微妙な空気を察してか、塩沢がいつもより陽気に振る舞う。
それに釣られて、雅之も少し明るい声になる。
「あら、気が利くじゃない? はい、資料見終わったわ。ミスはなかったけど、もう少しエビデンスをしっかりさせておきなさい」
「珍しいですね」
平岡が顔を曇らせる。
「何が?」
「姐さんにしては甘くないですか? いつもだったらもっとズケズケ言ってくるのに」
「そう? たまたまでしょ」
「何かあったんですか?」
「六花ちゃんまで何言ってるの」
「どうなんです?」
詮索好きの塩沢は、そう簡単には引き下がろうとしない。
「あーはいはい、私のことはいーから。口動かしてる間に仕事しちゃいなさい」
「はーい」
塩沢は口をへの字に曲げて自分の机に戻っていった。
適当に塩沢を追い払うと、雅之はようやくイスに腰を下ろした。パソコンを開き、起動画面を見ながらゆっくり深呼吸する。
手始めにメールボックスの確認をし、何件かのメールに順番に返信を書いていく。そのまま資料の確認を始めたが、やはり昨日のことが頭に浮かんで一向に内容が入ってこなかった。
それでも何とか一時間ぐらいパソコンに張りついていたが、とうとう雅之はどうしようもなくなって煙草をふかしに立った。
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