「なぁ、お前、俺のこと好きだろ?」

 十七の夏の始まり、二人だけの放課後の教室。

 それが、樹生との出会いだった。

 一人教室に残っていた雅之の前に、突然現れたのが樹生だった。「何してるのー?」と、初対面同然の雅之に馴れ馴れしく話しかけてきて、いきなりこう言ってきたのだ。

 「……何で?」

 雅之はそう訊くのが精一杯だった。いつの間にか樹生は目の前のイスにどかっと跨って、雅之の顔を覗きこむようにして見ている。

 「……だってお前、俺のことよく見てるじゃん。だから好きなのかなぁーって」

 雅之は全身が崩れ落ちるかのような錯覚を覚えた。言いようのない恐怖で、顔から血の気が引いていくのが自分でもよく分かった。

 ───あぁ、これでもうおしまいだ。

 確かに雅之は樹生のことを無意識に目で追っていた。だが、自分でもその感情には気づかないようにしていたのだ。それを見ず知らず同然の他人にズバッと言い当てられたという事実は、雅之を激しく揺さぶっていた。

 「……気持ち悪いって思ったでしょ」

 「別に。俺もお前のこと見てたし」

 「え?」

 恐怖と驚きで、雅之は樹生の顔をまともに見ることができなかった。

 「なぁ鳶田…、俺たち付き合わね?」

 「えっ……」

 思わず雅之が顔を上げる。

 「く、来島君も…、お、男の人が好きなの?」

 振り絞るような、震えた声だった。「君も」と言った自分の言葉に、雅之は禁断の踏絵を踏んだかのような気がした。

 「いや、俺はどうなんだろな…? 別に性別とかそういうのあまり気にしないし。…お前キレイだから、お前となら…、付き合ってもいいかな、って」

 その時樹生の体が小刻みに震えていたことに、雅之は気づかなかった。

 その場では、雅之は何も答えなかった。いや、あまりに突然のことで、何も答えることができなかったのだ。だが、雅之と樹生の間に言葉は要らなかった。

 その日以来、いつしか二人は放課後や休日などの時間を何となく一緒に過ごすようになっていった。それから二人が深い仲になるのに、そう時間はかからなかった。

 いつも多くの友人に囲まれ陽気な樹生だったが、雅之と二人っきりになると樹生は別人のように寡黙だった。そしてどこか上の空で、何か遠くを見つめていることが多かった。樹生は進んで自分のことを語りたがらなかったが、自分は片親で、破滅的で複雑な家庭だという類の話を雅之は樹生からいくつか聞いた。普段の陽気な自分は、周りに求められるがまま道化を演じているだけなのだ、と。

 樹生の境遇の全てを理解することは難しかったが、一人周囲と違う自分という存在に思い悩んできた雅之には、共感できる部分が多かった。自分がどうするのが正解なのかは分からなかったが、雅之は樹生の話に耳を傾け、親身に寄り添った。樹生もまた、雅之が打ち明けた悩みに真剣に耳を傾け、優しく受け止めてくれた。雅之が泣きそうになると、樹生はそっと雅之を抱き寄せ、よく歌を歌ってくれた。自分は何か辛い時があった時は、いつも思いっきり歌うのだ、と言って。高校生とは思えないような、透き通るようないい声だった。その歌声は、いつも雅之を甘美な気持ちで満たし、心の傷までをも包みこんでくれた。

 真の自分を否定しない樹生という存在は、雅之にとって孤独だった自分の世界に、ようやく差しこんだ一筋の光だった。やはり性格や立場は違えど、閉鎖的な状況の中で、お互いに惹かれ、本能的に求め合うものがあったのだろう。気づけば雅之は、樹生のことを本気で愛していた。しかしそれは、愛というより依存に近いものだった。精神的にも肉体的にも、雅之は樹生に依存していた。そしてそれは、樹生も同じだった。口には出さずとも、不器用ながらに樹生はそれに応えてくれていた……、はずだった。

 雅之は樹生の変化に気づき始めたのは、夏休みが開けて二学期が始まった頃だった。それまでにも増して無口になり、長い間考えこむことが多くなった。深刻そうなその表情から、樹生が何か大きな悩みを抱えていることは理解できたが、雅之にはそれを訊くだけの勇気がなかった。

 そして冬のある日、樹生は突然別れを切り出してきたのだ。

 「…もうこういうことは、これっきりにしよう」

 樹生はそうとだけ言い残して、忽然と雅之の世界から消え去っていった。

 それから数日後。その言葉を信じられずにいた雅之に、更に追い打ちをかける出来事が起きた。偶然通りかかった教室の前で、耳を疑うような衝撃的な言葉が飛びこんできたのだ。

 「───なぁ、2Cの鳶田って知ってるか? アイツってホモなんだぜ」

 その言葉の主が他でもない樹生と分かった時、雅之は自分が裏切られ、捨てられたことをはっきりと悟ったのだった。

 次の日からの高校生活は、まさしく地獄だった。毎日のように心無い言葉や仕打ちを受け、自分とすれ違う人間全てが自分を白い眼で見ている気がしてならなかった。耳に入る話し声は、全部自分の陰口を言っているような気がしてならなかった。

 だがそんな自分の境遇よりも、心から信頼していた樹生に裏切られた辛さの方が、何倍も雅之を苦しめていた。それから一年余りの高校生活を影のように生き、卒業と同時に一人残らず縁を切り、過去の自分とも訣別したのだった。

 大学に進学してからは、今までとは真逆に自分の属性を前面にさらけ出して生活するようになった。全ては、自分はこのまま影みたいな一生は送らない、という反骨心からだった。そういった人間を嫌悪する人間からは常に心無い言葉を吐かれ続けたが、雅之はもう何を言われたところで傷つくことはなかった。大学生活を送る中で、自分の属性と含めて自分を認めてくれる友人にも多く出会えたことが、雅之にとって何よりもの救いだった。

 影のように息を殺して生きることも、腫れ物のように扱われることも、雅之には貶される以上に我慢ならないことだったのだ。いっそそれぐらいなら、たとえ誰かを踏み台にしてでも、この理不尽な世の中で自分らしく図太く生きてやろう、といつしか思うようになっていた。

 虚しい一人遊びに嫌気が差して、この頃から気まぐれに夜の街で知り合った人間と一夜限りの情事を重ねたりもするようになった。しかし何度夜を共にしても、どこか空虚な感覚は抜けることがなかった。その原因が樹生への未練だとは何となく気づいていて、それをかき消すように、以来爛れた関係ばかりに身を置いてきたのだ。

 新卒で入った今の会社でも、雅之はありのままの自分で通している。初めの内はやはり陰口を叩かれることの方が多かったが、仕事で実績を残していくようになるにつれて、一つの「個性」として認めてもらえるようになっていった。今ではそれなりの立場にもなり、何人かの部下を持つまでになった。誇りを持って全力で打ちこめる仕事を得て、可もなく不可もなくそれなりに平穏な日々を送っているつもり、だった。

 樹生の訃報は、まさしく雅之には晴天の霹靂だった。

 狭山の電話では平静を装っていたが、雅之の心はひどくかき乱されていた。

 ───もうアイツのことなど忘れてしまっていたのに、今になって掘り返されることになるとは。

 雅之の脳裏に、樹生の顔が浮かぶ。また怒りの感情がふつふつと湧きあがってくる。

 ───あぁ、あんな薄汚れた人間など、その汚れた心と一緒に、身も心も全て焼き尽くされてしまえばいいのだ。骨一つどころか、灰すらも残らないぐらい、きれいさっぱりと消えてしまえばいい。そして、そのまま地獄でもどこでも落ちればいいのだ。

 心の中で、雅之はそう呪いをかけた。

 あまりの後味の悪さに、その晩は一睡もすることができなかった。

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