【旧版】『粉雪』

駿介

 土鍋のフタを取ると、夜の薄暗い小さな台所一杯に白い湯気が広がった。湯気と共に、昆布の香りと料理酒のアルコール分が立ち上ってくる。雅之まさゆきは鍋の中に細切りにした人参と牛蒡を放りこみ、予め塩を振って下処理しておいた鱈を入れる。

 煮ている間に、雅之は冷蔵庫を開け、他にも何か入れる具材はないかと中を探しはじめた。隅から豆腐を見つけだし、それも適当な大きさに切って鍋に放りこむ。

 コンロの脇で大根をおろしていると、豆腐を入れて静かになった出汁が再びぐつぐつと煮立ってくる。大根をおろす手を止め、浮いてきたアクをスプーンですくっていく。豆腐が崩れないよう弱火にして、手早く残りの大根をおろしていく。

 全ての具に火が通った頃合いを見て塩で味を整え、ざく切りした水菜を根元から順番に鍋一杯に入れる。それがしんなりしてところで大根おろしを加え、仕上げに醬油を一回しする。大根の辛味を飛ばしてから、香りづけに柚子皮の粉末を振り入れる。

 最後に味見をし、雅之は満足気な表情を浮かべた。閉店間際に半額で買った食材に冷蔵庫の余り物を合わせただけの鍋だが、上々な出来映えに雅之は心底満足していた。

 仕事以外に日常でさしたる関心事のない雅之にとって、毎日の食事がささやかな楽しみになっている。仕事帰りにスーパーで安い食材を見つけてきては、こうして夜の台所で一人料理に興じるのである。もとより手先の器用な雅之にとって、料理はさして苦でもない。誰にも気兼ねなく、気の赴くままに自分一人だけのために食事を作っていると、雅之は自分だけの世界にいるかのような気さえしてくる。初めは気まぐれで始めたものだったが、いつしか平日の短い夜でもできる実益を兼ねたちょうどいい趣味になっている。

 鍋から柚子の香りが立ち上ってきた頃、ズボンのポケットに入れていたスマホが鳴った。もう十二時近い。何か急ぎの仕事の連絡だろうか。不審に思いながらスマホを取り出すと、知らない番号からの着信だった。雅之は恐る恐る応答ボタンを押した。

 「…もしもし」

 「あっ、あの、鳶田とびた雅之さんですよね?」

 「そうですが」

 「私は狭山と言います」

 「はい」

 ひょっとすると新手の勧誘業者か何かだろうか。雅之の頭にそんな考えが一瞬よぎる。だが、その推測は次の一言で吹き飛ぶことになった。

 「来島樹生くるしまいつきって、ご存知ですよね?」

 「……それが何か?」

 溢れ出す不快感に、雅之は一刻も早く電話を切りたくてしょうがなかった。

 「……樹生が亡くなりました。交通事故に遭って、ついさっき、病院で」

 空いた片手で調理台を拭いていた雅之の手が、ピタリと止まる。

 「……そうですか。それで?」

 「それだけですか?」

 「他に何かあります?」

 狭山の責めるような語調に、自ずと雅之の言葉もきつくなる。

 「いくら何でも薄情過ぎませんか? あなたと樹生は…」

 狭山が声を荒げる。

 「はぁぁ? あなたには関係ないことですよね? そもそもあなた、何者なんですか?」

 ───いったいどこまで無遠慮なヤツなのだろうか。

 雅之は自分の中の不快感が怒りへと変わっていくのを感じた。

 「……私は、樹生と付き合っていた者です」

 「そう……」

 ───あぁ、そういうことか。

 雅之は口許に冷たい微笑を浮かべる。全てが繋がったと思った。

 「それならあなた、アイツが私に何をしたのかも全て聞いてるんじゃないの?」

 「えぇ、まぁ…」

 「聞いてるんでしょ?」

 「はい…」

 狭山の曖昧な態度に、堪えていた怒りが腹の底からふつふつと湧き上がってくる。樹生への積年の恨みが、いつの間にか狭山への怒りにすり替わっていた。

 「知ってて電話してきたなんて、あんたもいい性格してるわね。だいたいねぇ、十年以上も音信不通にしてたんだし、今更アレがどこで野垂れ死のうと私には関係ないことよ。それとも何? 私をからかってるのが楽しいわけ?」

 雅之は自分が底意地の悪いことを言っているのをハッキリと自覚していた。だが、やめることができなかった。

 「そんなつもりはないです。ただ……」

 「何よ?」

 「樹生が最期にあなたのことを言ってたみたいなんです。『マサ、ごめん』って」

 「は?」

 「こんなこと言って、お怒りになるのも無理はないと思います」

 「当たり前じゃない。その程度で済む話じゃないでしょ。恋人の人生壊して女に逃げたクズのくせに」

 雅之は鼻で笑う。あまりの身勝手さに、もはや怒りを通り越して呆れていた。

 「前に一度だけ、ボソッと言ったことがあるんです。『もう一度、雅之に会いたい。会ってちゃんと謝りたい』って。でも、負い目を感じているのか決して会いにいこうとはしませんでした」

 「何? 同情してほしいわけ?」

 「そんなつもりはないです」

 「じゃぁ何よ?」

 「樹生は『自分が弱かったから、自分を守るためにあんなことを言ってしまった。でも何があったとしても、あんなことは言うべきではなかった』って言ってました」

 「そりゃそうでしょうね」

 雅之にはそれ以上の感想もなかった。狭山に言われずとも、もうずいぶん前から樹生の真意には勘づいていた。

 「でもねぇ、それを今言われても遅いのよ。それで結局女に乗り換えちゃうんだから。ねぇ、狭山さん?」

 突き放すような、皮肉たっぷりな口調だ。

 「……確かに、私は樹生と付き合っていました。けど、いつも心ここにあらずって感じで、誰か他の人に気持ちがあるようで、あまり上手くはいきませんでした。女で付き合ったのは、私一人だけだったはずです」

 「あっ、そう。それはお気の毒さま」

 「きっと……、樹生は鳶田さんのことが好きだったんだと思います」

 「あんた調子に乗るのもいい加減になさい。偽善者ぶらないで」

 狭山の逆なでするような言葉に、一度収まった怒りがまたこみ上げてくる。

 「私のことをどう言って頂いても構いません。ただ、私はそれを鳶田さんにお伝えしたかったんです」

 「ご立派ね」

 雅之は聞こえよがしに嘲るように鼻を鳴らした。

 「さっき決まって、明日の夜には火葬になると思います。病院から直接火葬場にいきます」

 「あっそう」

 「……やはり来て頂けませんか?」

 「あんたねぇ、そんなん当然でしょ」

 「樹生には頼れる家族とか友人もいないので、多分私一人で見送ることになると思います」

 「全部アイツの自業自得よ。あなたには申し訳ないけど、後は好きにやってちょうだいな。私を巻きこまないで」

 そう言って一方的に電話を切ろうとする雅之に、電話の声は早口で場所と時間だけ伝えてきた。

 ぷつり、と電話を切るのと同時に、雅之の中でも何かが切れたような気がした。何もする気もなく、何も考えることができず、ただその場に呆然と立ち尽くしていた。やり場のない、怒りとも憎悪とも似つかない名状しがたい感情が溢れ出てくる。目の前のコンロでは、ごった煮の雪鍋がぐつぐつと煮詰まっていく。

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