しょうがないよ、それは。人格の問題だから

フョードル・ネフスキー

しょうがないよ、それは。人格の問題だから

 増殖、増殖、増殖─―。


 眼前のありとあらゆる物事が、無くなってしまうものであるのにも拘わらず、伸びて、増えていくという、生っぽく息苦しい感じ。


 例えば今朝、俺の食した目玉焼きに使われた卵はどうだ。俺の抱く概念としての卵は、白い石灰の外殻に覆われた、楕円形状で、所々に粒のあるもの。


 そんな概念は決して崩れないものだ。たとえ世界にある全ての卵をかき集めてきてそれを叩き割って、太平洋ほどの大きさのあるフライパンの上に流し落としたとしても。むしろ卵の概念は、事あるごとに人間の脳内のスクリーンの上に映し出される。


 ほぼ毎日と言ってもいい。朝、目をこすりながら冷蔵庫の中を開けて、卵が右頬約四十五度下の辺りに並んでいるのを見るたびに、概念という存在の渋とさに我々はどうしても気付かされてしまう。卵は割れても、卵の概念はそのままなのだ。


 こうして記憶だけが増え続けていく。記憶の中の世界にある物事に、概念と言う名前をつけて実体性を付与したのなら、俺が死ぬまで見聞きしたこと、記憶したことは、決して消えないことになると言えるだろう。この世で消えてしまうのは、逆にその概念を有する俺だけなのだ。


 俺の頭の中には、雪が降っているのだ。生まれてこのかた絶えず降り続けてきた雪が、いくつもの層を為しているのだ。時として俺はその重みに耐えられなくなることがある、と言ってしまったら気障になるからあえて言わない。いや、この際もっと気障なことを言ってしまおうか。ひとたび自分の意識の働きの中に気を向けてそこに逃げ込むことができたなら、俺はいつだって真っ白な冬を感じとることができるのだ。ハハ。


 真冬だ。寒い口はガタガタと震え、語らなければならない言葉は俺の中に封じ込められる。顔に取り付けられた二つの窓の外に見える景色はいつもと変わらない。あいつの頬肉、こいつのクチビル(顔色をうかがってばかりだな)、聞えてくるのは、たいていは実のない音声言語の一音節。まるで催眠術のようだ。私は独りになる、私は独りになる、独りになる……。


            *


 顔の筋肉が凍てついて、瞬きひとつする気になれない。焦点すらも、どこにも合わせることができずに、宙に浮かんでさまよう見えない蝶々を捜し求めるかのように、瞳が不規則に運動する。首が僅かに左肩の方に傾く。俺の口元から涎がこぼれ落ちそうになる。涎が出てきたらもう少し早くこっちの世界に戻れただろうに、こぼれないのでいつまでも一人ぼっち。一人ぼっちのまま、だらしない姿勢のまま、歩く。


 それが駅のコンコースだったからいかんよね。眼の前が急に真っ暗になって、頭に激痛が走る。火花が見えた。顔の前にあったのは、俺なんかよりも遥かに丈のある背広姿のビジネスパーソンであった。直ちに俺はそいつに、という名前をつけた。ジャイアンと他ごとを考えていた俺は正面衝突をし、ジャイアンの顎で頭を打ったのである。


 罵声が聞えてくる。何だこのやろう。それはこっちの台詞だ。寸胴のように大きな身体ならば、たとえこちらの不注意が原因だったとしても、交通事故が大きい方に罪があるとするように、大きな身体の方が悪いのではないのか。しかしそんなことを言い返そうとする前に、ジャイアンは俺の元から背中を向けて立ち去ってしまった。背中は徐々に小さくなり、群衆の中に混じってやがては見えなくなってしまった。俺の記憶の中に、ジャイアンの姿が概念となって刻み込まれてしまう。ああ、あんな奴が俺の中に、また新たな癌細胞として入り込んできやがった。


 と考えているうちに、俺はいつの間にかキヨスクの前にいる。


 眩いばかりの白い光線が、俺の瞼の裏を焦がそうとしている。メントス、かっぱえびせん、ライター150円、週刊つりニュース。いらっしゃいませ。店員のしまりのない声。


 俺は何をしにここにやってきたのだろう。消費するため? そうだ、履歴書が要るんだ。


 すみません、履歴書は置いてありますか? 


 コンビニへ行ってください。


 え、キヨスクとコンビニはどう違うんですか?


 店員は遠くを見つめたままである。確かに俺は髪もボサボサで、髭も剃っていなくて、ジーンズもいたるところが破れていて……。でも、質問する権利ぐらいはあるだろう。俺はそんなことを考えながら、秒数をカウントしていた。十秒過ぎた辺りで、店員の注意を引こうと思った。


 コンドームって置いてありますか?

 ……。

 あれって、コンビニに置いてあるんですか?

 ……うっとうしいな


            *


 俺はコンコース中に響き渡るぐらいの大声で笑った。そしてそのままのテンションでコンビニへ行って履歴書を買い、証明写真機で写真を取り、公衆トイレの個室に入って一気に履歴書をしたためてから前日に電話したレンタルビデオ店に向かい、気分よく面接を受けてやろうと考えた。だが、いざトイレの個室を出ようとしたとき、俺の胸の奥で何かが鼓動を立てて崩れ始めたのを感じた。いかん。醒めちまう。


 トートバッグの中から急いでロンリコ108を取り出して、壜のキャップを開けてアルコール度数75パーセントの茶色い液体を胃の中に注ぎ込もうとしたが、時は既に遅かった。


 世界が急に輝きだしてきた。あまりにも明晰すぎて、言葉も出ない。空気が真水のように透明になり、すべてのものが光沢を増してゆく。俺の網膜には外からの光線が激しく衝突してくっきりとした像をそこに映し出し、網膜で得られた情報は勢いよく神経線維を通り、大脳の中に大量に到達している。眼前の光景が、記憶になりたがっているのだ。記憶になってその重みで押し潰すことで、俺という存在を滅ぼそうとしているのだ。


 俺の頭の中に、吹雪が吹き荒れている。わかったよ、お前は美しいよ。そうとでも言ってやりたかった。だからと言ってそこから逃げ去ることなどできない話なのに。いかんいかん。思い出すな。でも、無理っぽい。


 ……ぐるぐるぐるぐる。

 ……ぎぎぎぎぎぎぎぎ。


             *


――緒方、いま何しとんの?

なにもしとらん。

いいんかて、それで。

しゃあないがん、やることないんだで。


――緒方、仕事見つけたか。

見つからん。 

早くまっとうになれって。

俺はお前とは違ってなあ……

違って何なんだ?

……いや、何でもないわ。

 

――緒方、お前いつまでぶらぶらするつもりなんだ?

お前には関係ないわ。

好きにしろ、心配してやってんのに。


――今度合コンあるんだけど?

相手は?

ナース。

他に誰か来んの?

その前に、お前って今何しとんの?

え? まだぷーだわ。

そうか、じゃあまた今度誘うわ。はよ仕事見つけや。


――資格でも取れって。

めんどくさいわ。何がええの?

そんなことぐらい自分で探せって。

探しとるわ。

そんな卑屈になるな。

卑屈にもなってへんわ、お前の想像だわ


――もうすぐおっさんだぜ、俺ら。いい加減にせんと……

――お前が羨ましいよ、社会に出てみるとなあ……

――自由でいいよな、お前は。

――責任っつうものを持つと、どうしてもお前みたいには生きられんのよ。今のうちだけだわ。色々迷えるのも。

――俺たちは社会の真ん中で生きてるからな。お前の考えとることはよう分からん。

――また呑もうや、奢ってやるから。


            *


 ロンリコ108をグいっと呑んでから向かったアルバイトの面接は、酒の匂いが防ぎきれていなかったせいか、はじめから苦戦を強いられた。そんな状況下でも勝利を得ようとしていたこと自体が馬鹿げた事であった。履歴書を見た店長と思われる三十代近くの人の良さそうな男は、縁なし眼鏡の奥にある瞳をあえて俺のほうからそらしているように感じられた。彼は、俺がトイレの個室の中で乱雑に書き殴った大したことのひとつも書かれていない履歴書から、目を離そうとしなかったのだ。


 大学をチュータイしたんですか。

 はい。


 理由を聞かないとこのばあい失礼に当たると判断したのか、彼は私に理由を尋ねてきた。俺は、あえて嘘を言ってみた。


 親父が闇金融に手を出しよったんです。それで学費払えんようになって。

 それでチュータイしたんですか?

 はい、チュータイしました。

 でも、何とかやれるもんでしょう、一生懸命勉強して奨学金借りるとか。働くとか。


 ――俺はここで、ようやく真実を言える気になった。

 たるいじゃないですか。そこまでして行くもんなんですか、大学って。

 

 ビデオ屋の店長は、採用ならいついつまでに電話すると伝えて、俺を追い返した。不採用の際の典型的な言い逃れである。それは俺の頭の中に、ひとひらの雪となって舞い降りていった。


 アパートに帰って、コタツの中に入り、目を瞑る。小さい頃の記憶やら、つい一週間前の出来事の記憶が無造作に現れては、どこへともなく消えていく。また今日を生きたことによって、そのような記憶の層は厚みを増した。


 再び醒めようとしていたのか、俺は変に自己を放擲しようとするような考えを持つようになっていた。空しい。世界は美しく、俺の手に負えないぐらい完璧で……それで良いし。他に何を望む? 甘美な記憶は、俺に孤独感をより一層感じさせるだけだし、にがにがしい記憶は、笑えるほどナンセンスだ。その上笑っても、空しさが残るだけだ。


 もっとマシな記憶はないのか。誰か、それを俺にくれないか。もしそんな人がいないのなら、死ぬか。でも死ぬの怖えよ。


 俺がその時にしたことを、恥ずかしいけれど明かすことにしよう。


 少しでも楽になりたい、そう思って、頭の中の大量の雪を溶かしてみようとしたのである。それも音楽で。自分の持っているバラードをひたすら聴いてみた。ビージーズ、ギルバート・オサリバン、ブロンディーなどなど。頭の中に積もっている雪を溶かして、大量の泪を流してみようと考えたのだ。けれども、そんな泪はとうの昔に枯れ果ててしまったみたいで、ちっとも流れてこないんだよな。


(了)



 





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しょうがないよ、それは。人格の問題だから フョードル・ネフスキー @DaikiSoike

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ