サクリファイス
大枝 岳志
サクリファイス
幼い頃の事件で両親を亡くした前田優一は、歪んだ心を引き連れて成長して行った。彼が中学二年になる頃には煙草や万引、飲酒に明け暮れ、辺りからはすっかり「不良」と呼ばれるようになっていた。
当然のように遅刻を繰り返し、教室へ入ると悪びれた様子も見せず机の上に足を乗せる。授業中にも関わらず、堂々と煙草に火を点けた優一に社会科の教師が鋭い眼を向けて吼えた。
「前田!」
「あ? 何だよ」
ラインの剃り込まれた坊主頭を触りながら雑誌を捲りつつ、軽い答え方をする優一に教師は声を荒げた。
「未成年が煙草を吸って良いと思っているのか!」
「知るかよ。いいんじゃない?」
「法律でダメだと決まっているんだぞ!」
「だから何だよ。あんたはどう思うの?」
「ダメに決まっているだろう!」
「何で?」
「法律で決まっているからだ」
「あんたの話が聞きたいんだよ。何で?」
「…………」
「ねぇ、何で?」
「……吸うなら、ベランダで吸いなさい」
答えが見つからない教師が頬を震わせると、優一は笑いながらその頬を二度三度叩き、ベランダへ赴いた。
ベランダに出ると薄暗い教室の中では味わえない空の高さと外の匂いが心地良かった。
幼い頃に殺されてしまった両親。犯人は未だ捕まっておらず、犯人を特定する情報さえ見つからないままだった。勿論、犯行の動機すら分からなかった。
優一は周りに怖がられているため、クラスメイトの輪には混ざれずにいつも一人きりでいる。写生会で横断歩道の絵を描いていると、老齢の美術教師がにこやかな眼差しを向け、優一に声を掛けた。
「君は、何で横断歩道を描こうと思ったんだい?」
「あ? 楽だからだよ。黒と白の線だけだろ」
「そうか。それでも描いてくれようと思ってくれた訳だ。ありがとう」
「はぁ? てめーら教師が描けっつーからだろ。……うるせーよ」
大人からは腫れ物に触るような経験しかして来なかった優一にとって、この教師との出会いは新鮮だった。
相嶋というこの男性美術教師は何かに付けて優一を気に掛け、褒めてみせた。
「君はずいぶんと大胆なタッチで描くね」
「あぁ? 下手って言いてえんだろ?」
「違う。まるで絵の中でしか自由になれないみたいだと、そう感じてね」
「テメェに俺の何が分かるんだよ。放っておけよ」
「……君は、毎日施設に帰るんだろ?」
「……何が言いてぇんだよ、テメェ!」
「そう怒りなさんな。良かったら今度うちに遊びに来なさい。何もないけど、暖かい飯くらいは食わせてやる」
その言葉にそっぽを向いた優一だったが、その二週間後には相嶋の玄関のインターフォンを鳴らしていた。
「やぁ、ずっと待っていたんだ。さぁ、上がって」
「ったく、うぜぇ……一回だけだからな」
生涯独身だった相嶋は優一に得意の手料理を振る舞い、酒を勧めてみせた。
「おい、教師が生徒にこんな真似していいと思ってんのかよ」
「いいじゃないか。学校の外では、君と私は友人だ」
「テメェいかれてんのかよ、面白ぇジジイだな。付き合ってやるよ」
その日は二人とも笑い声を上げながら酒を酌み交わした。どんな話をしたのか、翌日にはほとんど思い出せなかった。
それから間もなくすると、優一は美術部へ入部した。他の部員が怪訝な目を向けたり、恐れるような素振りを見せるたびに相嶋は優一を彼らから庇って見せた。
優一が部活を休んだある日の放課後。美術部の有志達が相嶋にこんな相談をして来たのだった。
「前田君を、辞めさせて下さい」
アクリル絵の具のついた筆を手入れしていた相嶋は眼鏡を外し、静かな口調でこう訊ねた。
「それは……何故かな?」
「部室で煙草を吸ったり、睨んで来たり、あまり喋らなくて……怖いからです」
「……素晴らしい絵を描くのに、人の良いも悪いも必要あるだろうか? 彼は君達が知らない、本当の意味での暗闇を知っていると、私は思うんだが」
相嶋がそう言うと、一人の女生徒が胸の前で手を置き、こう言った。
「前田君がいるとビクビクしちゃう子がいるから……私達はただ楽しく絵を描きたいだけなんです」
「ほう、私達? 君は絵を描く時は一人なんじゃないのかい?」
「でも……みんなでここまでやって来た美術部だから……」
「まずは君と話をしなければならないね。君は、この色をどう見る?」
相嶋が指し示したのは優一がデッサンしたマルスの彫刻画だった。お世辞にも上手いと言える出来では無かったが、陰影の濃さが他の生徒のものに比べ、一際目立っていた。まるで憎悪に満ちたような、黒。それが優一の描く「色」だった。
「君達は、こんな色が描けると思うかい?」
「濃い鉛筆で何度も塗りつぶせば……」
「違う。君達はね、きっとここまで深くは潜れない。例え潜ったとしても、息継ぎが出来ず途中で諦めてしまうだろう。今も苦しみ抜いている人生を送る彼だからこそ、息継ぎもなしにここまで「黒」と向き合えるんだ。どうだろうか。君達は、彼から逃げてはいないだろうか? 目を背けては、いないだろうか」
そう訊ねる相嶋に返事をする生徒は一人もいなかった。それから一人、また一人と退部して行き、美術部に残った生徒はついに優一ただ一人となった。
たった一度だけ、夏休みに描いた青々とした田圃の絵が地元のコンクールで入選を果たした。小さな賞状を宝物のように相嶋に見せびらかす優一の表情は、まるで幼い子供のようだった。
中学を卒業し、高専への道を進んだ優一は現場作業員として働く事を決意した。
高専を卒業すると優一は地元の建築会社に就職した。来る日も来る日も熱い太陽に打たれ、冷たい風に晒され、塩が浮かぶ肌やひび割れた指先を一人で労わり続けた。無論疲れると感じる事はあったが、決して嫌になる事などなかった。
その頃、優一は相嶋とすっかり本物の親子のような関係を築き上げていた。
すっかりボロボロになった襖を、日曜日に優一が張り替えている。
「すまないね。最近歳のせいか、力も入らなくてね」
「じじい、何言ってんだよ。俺が出来る事は俺がやるから無理すんなって。この前だって植木切ろうとして脚立から落ちたんだろ?」
「いやぁ……恥ずかしいな、面目ない」
「万が一でもじじいに死なれたら困るからよ。恩返し、しねぇと」
「それは……本当にそう思ってくれているのかい?」
「あ? うるせーな! さっさと茶でも淹れて来いよ」
「よし。とっておきに旨いヤツを淹れてやろう」
親子のような、師弟のような関係がしばらく続いたある冬の朝だった。
ストーブに火を入れようと屈んだまま、心臓に鋭い痛みを感じた相嶋は救急車を呼んですぐに意識を失った。
相嶋が目を開けた時、ベッド脇には腰掛けて眠る優一の姿があった。
倒れた結果、相嶋は重度の心臓病と診断され、延命には移植が必要だと言われた。
その事実を優一に伏せたまま、さらに幾つかの日々が過ぎて行った。
ある晩。蛙が泣き始めた頃、相嶋の自宅に様子を伺いに訪れた優一はとても上機嫌だった。
「あん時ぁじじいが死ぬんじゃねぇかって焦っちまったけどよぉ、何とか今も生きてんじゃねーかよ!」
「あぁ、命からがら……ってヤツかね。私も、君と同じで悪運だけは強いようだよ」
「いつもの口の減らねぇじじいで安心したぜ。ったく、悪運強ぇんだからよ」
相嶋の代わりに呑むと言い張り、いつもより大量に酒を入れたせいか、優一は帰る頃になるとすっかり千鳥足になっていた。
「じゃあな! じじい! 俺は帰るぜ! じじいはな、死神が来たって死にはしねぇよ、な!」
「あぁ、そうだ。今夜は、ありがとう」
「おう、じゃあまたな!」
「ずいぶん酔っているみたいだが、気をつけて帰ってくれよ」
「うるへぇ! 俺はな、悪運だけは強いんだよ!」
そう言って道路を千鳥足で進む優一を見送りながら、相嶋は小さな声で呟いた。
「本当に、そうだと良いのだが……」
それから僅か数時間後の出来事だった。
「相嶋さん、今から移植手術を始めさせてもらうよ」
「…………あぁ、頼むよ」
そう返事をした直後に脈の中へ液体が入り、冷たい感触が血管内を通って行くのを感じた。全身麻酔により真っ白な世界に落ちて行く相嶋はこの時、生まれてから一度も感じたことの無い多幸感に包まれていた。息を吸うたびに深い安堵が全身を満たして行き、揺るがない愛を感じていた。そして、不変を手にした万能感さえも感じていたのだ。
麻酔によって深い眠りに落ちる前。相嶋は病院地下一階の霊安室の隅に立っていた。
不慮の交通事故により命を落とした優一のすぐ傍で、相嶋は彼の亡骸を静かに眺めている。その目には涙の一滴すら浮かぶことはなく、むしろ微笑みの眼差しすら湛えていた。
「ここまで…………ずいぶん長かったね、優一。いや……本当なら私は「則之」と名付けたかったんだよ。君の母さんと君の父親代わりだった男が、私の手から産まれたばかりの君を奪い去ってしまった」
亡骸に声を掛ける傍らで、痩身の医師が気怠そうに煙草に火を点けて相嶋を向き、首を横に振りながら笑う。
「あんた、大した悪人だよ。こうするのに一体いくら掛けたんだ?」
「さぁ……生きて来て稼いだ金の大半を、この日の為に費やした……としか覚えていないな」
「心臓は適合するよ。安心しな」
「……親子だからな。これで私と優一、いや、そんな名前はやめだ。これで私と則之は離れなくて済む。おまえの打つ脈で、私はおまえの愛を永遠に感じ続ける事が出来るんだ……」
「……あんた、ひとつ聞いていいか?」
「時間がないんだろ? 手短に頼むよ」
「あんた、なんで殺した?」
「…………」
「なんでなんだ?」
「私の作品がね……返って来ないと分かったからだ」
「母親はどうなる? 母親は産みの親だろ」
「共作を売った罰だ。それに、種は私の中から生み出された……それだけだ」
「あんた、下衆だな」
「それでも結構」
「他に理由は?」
「……何故だろうか、思い出せないんだ。何か、夢中になっていた事があったようにも思うんだが……何故だと思う?」
「それは……いや、すまない。聞き過ぎた。間に合わなくなる、もう行こう」
医師がそう言うと二人は霊安室を出て行き、ゆっくりと冷たい廊下を歩き出した。入れ違いに看護師達が空のストレッチャーを運びながら霊安室へ入って行く。
相嶋は息を大きく吸い込むと、泣きながら盛大に吐き出した。そして、滲みの浮かび始めたその細い手は、悦びのあまり震えていた。
サクリファイス 大枝 岳志 @ooedatakeshi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます