そこに彼はいない

 ――そして夜が明ける。

 街とは違う鳥の声が聴こえて、止む。星の見えなくなった空は薄雲に覆われ、それでもテントの中よりは明るいらしいとまぶた越しに分かる。雨音の代わりに川の音が遠く響いていた。澄んだ風が冷たい。幸せな夢にまどろんでいた遊助はそこで飛び起きる。

 流れ込む風、外から差す光。テントの入口が開いている。隣で寝ていたはずの瞬がいない。

「――瞬!」

 ウインドブレーカーを一枚羽織りながら転げ出る。誰もいないテントサイト、寒々しいほどのバーベキューエリア、キャンプファイアの消えた中央広場、どこにも相方の姿はない。あたりを見渡しながら荒い息を整えた。心臓の音がうるさい。一つ、二つ、三つ数えて追い立てられるようにまた走り出す。川の音が血の流れに似て、どうしようもなく耳に障って、それでも遊助は河岸に下りて行った。

 砂利を踏みしめる。同じ音が聞こえてこないかと澄ませた耳に届くのはやはり川の音だけだ。水が岩に当たって白く泡立っている。上流にも下流にも、人影一つ見つからない。

 途方に暮れて視線を落とす。ポケットに入ったスマホから『天狼』が流れたのはその時だった。見なくても分かる――マネージャーからの電話だ。イントロの終わり際、震える指でどうにか画面に触る。

「おはようございます。何か――」

「野中くん、落ち着いて聞いてくださいね」

 いつも呑気なマネージャーの声が、今は電話でも分かるほどやつれていた。よほどひどくプロデューサーに叱られたのかと、現実逃避をする間もなく彼は続ける。

「――天王寺くんが河岸に流れ着いていたそうです」

 そこから先はよく覚えていない。瞬はキャンプ場から何キロか下流の岸で見つかって、すぐに病院へ運ばれたそうだ。それともこれは後から知ったことだったか。いずれにせよ、ただ一つだけ鮮明なのは、電話が切れたところで口をついて出てきたこの一言。

「応援するって、言っちゃった……」

 それがどういう意味かは、遊助自身にも分からなかった。


 ――綺麗な星空を見上げて暗いと思ってしまう気分の夜が、少しでも明るくなるような演技ができればいいと思っています。この後の回も是非楽しみにしていてください。


 まばたきをすれば、河岸は花柄の便箋へ、早朝の光は白熱灯の明かりへと変わる。俳優、野中遊助はうつむき、深く溜息をついた。マグカップに手を伸ばす。中身をまた一口含む。

「酸っぱ……」

 放っておかれたコーヒーはすっかり冷めて、苦くて酸っぱいだけの液体になっていた。遊助はその熱を失った黒を見つめ、そして一息に飲み干してしまう。顔をしかめたくなる不快な味が、喉を通り、腹へ落ちていくのを感じて目を閉じる。不味い。けれどその不味さこそが今の彼の気分に合っていた。

 GLiTTERでいられなくなった遊助は初め、そのまま芸能界を離れるつもりでいた。ところがその前から脇役として出ていたドラマがヒットしてシリーズ化し、引き際を見失っているうちに別件のオファーが来た。悩んだ末に、受けた。君は演技もできるんじゃないか、と瞬に言われたことを思い出した。

 ――難しい役を演じるとき、瞬の気持ちを考える、か。

 花柄の便箋への返事に書いたその言葉は、確かに事実だ。だがそれは演技のために彼を参考にするのとは違うかもしれない。もういない彼を思い返すために、その心に迫るために演技を続けているのかもしれない。かつての彼の表層を見たまま聞いたまま再現しながら、その内面が窺い知れる日を待ち望んで――。

 遊助はベランダに出る。丘の下に広がる町の明かりは消えはじめ、見上げれば知っている星がいくつか見分けられる。リゲル、ベテルギウス、そしてシリウス。こんなに明るい星々に、それでも瞬は暗いねと笑った。なぜだろう。なぜ暗いのか。なぜ笑ったのか。

 冬の澄み切った空気の向こう、きらめく星々の間には、冷たい夜闇が横たわっている。そのどこまでも深い青色に、遊助はひとり呟いた。

「――まだ分かりそうにないよ、瞬」

 星に願いをかけてもきっと、彼はそこにはいないから。

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夜空に祈りを 白沢悠 @yushrsw

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