あたしは今でも春の続きに恋してる
唯川ささめ
あたしは今でも春の続きに恋してる
わたしの初恋は、ごっこ遊びみたいな恋だった。
あの 6 年間、わたしの世界にはただの 1 人だって同年代の異性は現れやしなかった。この表現は決して誇張などではないだろう。中高生にとっての学校は、世界の9割にも等しいのだから。校外に彼氏を作るような友人もいないではなかったが、圧倒的な少数派。
そしてそれは、渇き切った青春を意味しない。むしろそこには、密やかに熟れてゆく春があった。
中高6年間、少女ばかりの環境で育てば、俗なものを何一つ知らない深窓のご令嬢になるのだろう、と。そんなイメージを持っている人間がいたとしたら、少女、あるいは女子校というものに、あまりに夢を見すぎている。
多感な、と言えば聞こえはいいかもしれないが、要するに性欲を自覚し始める年頃だ。誰もかれもが無垢のようにふるまうくせに、発散しようのない性への興味と愛への好奇心を、誰もかれもが隠し持っていた。
人肌を恋しがるかのように、あるいは何かを確かめ合うように、互いの手に触れあい、挨拶代わりに抱きしめあうのも日常茶飯事。なにかと理由をつけては、やや性描写が過激な小説や漫画を貸し借りし、性の香りがするものが話題にちらりとでも上ると、秘め事をささめき交わすかのごとくひっそりと笑いあう。いつか自分も物語の登場人物のように、特定の男性とそういう関係になるのだろうと、心の内で夢想する。けれどそれは、「いつか」であって「今」ではない。では、今自分を苛むこの欲望を、一体どうすればいいのだろうか。
そんなことを悩みながら日増しに膨れてゆく春情を、同じく箱庭で息を潜めてリビドーを飼い殺している誰かに向けたとして。それを「過ち」だと言う権利は誰にもない。権利があるとしたら、その当事者にだけだろう。
どの学年にも、「男性役」を自ら買って出る少女たちが一定数はいた。すらりと伸びた長身に短く揃えた髪、制服のスカートの下にジャージを履いて、言葉遣いもどこか荒々しい。
およそ「少女らしさ」の対極の在り方を好んだ彼女たちは、いわゆる「イケメン」扱いされた校内の人気者だった。今にして思えば、それらも全部「少女らしさ」と呼ばれる要素の枠内での僅かな差異にすぎなかったけれど。その時のわたしたちは本気で、そんな差異に心を踊らせていたのだ。
鶴巻玲も、そんな「男性役」の少女だった。
最終的にバスケ部のエースにまで上り詰めた彼女は、高校生になる頃には校内でも指折りの有名人だった。体育祭では歓声を集め、バレンタインには彼女の机の上はチョコレートで溢れかえる。
けれど、彼女の美しさを最初に見出した人間は、他でもないわたしだという自負がある。
彼女がツルマキで、わたしがテジマ。中学1年生の春、五十音順の出席番号が並んだわたしたちはそのまま前後の座席を宛がわれ、それがきっかけで会話を交わすようになった。
地縁で繋がっていた小学校時代の友人と離れ、中学受験を乗り越えて入学してきた生徒たちだ。大手の塾に通っていた子たちは既に顔馴染み同士だったが、自宅から近いという理由だけで選んだ小さな個人塾に通っていたわたしには、ただの一人も知り合いがいなかった。それは彼女も同じだったらしく、根無し草同士が偶然引かれ合ったという形だった。
あれは入学後間もない頃、彼女とわたしに日直が回ってきた日だった。日直には、その日の授業の内容わ感想を日誌にまとめて、1日の終わりに職員室に提出するという仕事があった。放課後の清掃が終わった後、わたしと彼女は2人きりで教室に残って、日誌を書いていた。
その頃の彼女はまだ髪も長く、後ろでひとつに括っていた。眼鏡をかけていなかったから、小学校の最後の2年間で急激に視力が低下して眼鏡が手放せなくなっていたわたしは、少し羨ましく感じていた。
日誌に何を書いたかなんてことは、もう覚えてはいない。ただ、夕日の差し込み始めた教室で、少し伸びてきた前髪を「そろそろ切りたいんだよね」と言いながら掻き上げて、日誌にペンを走らせる彼女に、気付けばわたしは釘付けになっていた。無造作そうに振る舞う動作の奥に香る、育ちの良さから来る上品さ。彼女の顔に落ちる陰影。夕日が彼女の髪を透かして、少しだけ黒の色素を薄めて見せる。彼女から漂うそれを色香と見なせるほどわたしは世慣れていなくて。ただただ、彼女の全てがわたしの視線を捕らえて、一向に離してはくれなかった。
「どうしたの?」
わたしの様子に気付いたらしい彼女が、手を止めて顔を上げ、わたしを見る。
「見惚れちゃった?」
なんて言って、冗談めかして彼女は笑う。年の割に大人びた切れ長の瞳が半分の細さになって、形の良い唇から白い歯がのぞいて、年相応か少し幼いくらいの笑顔を形作る。
「うん」
思わず、素直にそう答えていた。彼女は微かに目を見開くと、「やだなあ、褒めるの上手いんだから」と言って、再び視線を日誌に戻す。何かを紛らわすように笑んだままの頬が、紅潮していた。それを見ているとわたしの方も気恥ずかしくなってきて、何か言わずには居た堪れなくなってくる。
「見惚れちゃったの。玲ちゃんが、綺麗だから」
そして、止せばいいのに、そんな言葉で追い打ちをかけていた。彼女に対してというよりはむしろ、自分自身に対して。それを言わないでいるだけの羞恥心と自制心を持つには、中学1年生という年齢はあまりにも幼すぎたのだ。
彼女はもう一度顔を上げて、仕方ないと言いたげな笑みを浮かべた。
「夏希ちゃんって、変わってるね」
「そうかな」
「うん。でも、あたしはそういうの好き」
――好き。
その言い方に特別な重さは全くなかったから、恐らくは「可愛い」程度の浅く広い褒め言葉だったのかもしれない。それでもわたしは、彼女のその「好き」を独り占めしたいと、願ってしまったのだった。
わたしが授業以外での校内の時間の大半を彼女と過ごすようになったのは、この時からだった。
彼女はいつしか一人称も「ぼく」になっていて、髪の毛も肩に届かないくらいまで短くして、バスケ部では先輩のレギュラーの地位を脅かす活躍を見せるようになった。
当然ファンも増えていったし、学年が上がれば後輩に囲まれる姿もよく見るようになった。
それでも、彼女の一番はずっとわたしだった。……と、思う。別のクラスになった年もあったけれど、そういう時でも彼女は休み時間の度にわたしのところに来たし、下校もいつも一緒だった。もっとも後者の方は、彼女の部活が終わるのを、わたしがいつも待っていたからなのだけれど。
だから、「鶴巻さんと手島さんはセット」というのが、わたしたちの学年では暗黙の了解になっていた。いつも一緒のわたしたちを「ラブラブだねえ」と冷やかす友人もいて、その度に恥ずかしい思いはしたけれど、悪い気はしなかった。
わたしは、そんな「恋愛のポーズ」に、夢中になっていたのだ。
性の多様性なんてお題目が、まだまだ取り沙汰されていなかった時代の話だ。恋だの愛だのという感情は、男と女の間で交わすもの。わたしたちは、そんな価値観を無条件に前提としていた。
だから、恋愛のポーズでしかなかったのだろう。例えば、抜け駆けしたのを承知で、憧れの先輩にこっそり渡す本命チョコも。温めてあげるよ、なんてもっともらしい理由をつけて、友人の手を握って歩いた帰り道も。「普通」の女の子たちが男の子相手に抱いているであろう感情を、わたしたちも真似したくなった。ただ、それだけなのだ。言ってしまえば、ごっこ遊びにも等しい。男の子役と女の子役とで、恋愛の真似事をしていただけ。
少なくとも、わたしはそうだったのだろう。その証拠に、大学生以降のわたしは、ただの一度だって同性に恋愛感情を抱きはしなかった。性的指向という点では、敢えて時代錯誤な言い方をするならば、わたしは至って「ノーマル」だったのだ。
けれど。
あの日の思い出を超える男性にも、わたしはただの一度だって出会ったことがない。
やっぱり、これも放課後の話だ。
部活を終えて教室に戻ってきた彼女は、いつも通り制汗剤をスプレーしてから教室で着替えを始める。人目を憚るための更衣室なんてものは、この校内にはプールの傍にひとつあるだけだ。
いつもの甘い匂いが、教室に広がる。2人きりの教室で、わたしは何の気なしに、「玲はいつもいい匂いがするね」と言ったのだ。高校 2 年生の、春のことだ。
「そう? 汗の匂い、誤魔化してるだけだぞ」
「ううん、そうじゃないよ」
わたしは汗だくの彼女の匂いだって、不快に思ったことは一度もない。
体操着の上衣を脱いだ彼女に近寄る。女らしい凹凸の未発達な胴も、地味なキャミソールも、わたしにとっては彼女の魅力の一部だった。
「こんなに近付いても、いい匂いだもん」
中学の頃は体格もほとんど同じだったのに、いつの間にか頭半分くらいの身長差がついてしまった、彼女の顔を見上げる。運動の直後で上気した頬。形の良い唇。愛おしげに細められた切れ長の瞳。
その時のわたしを突き動かしたものは、極論ただの情欲だ。けれど、大人になったわたしが持つそれとはきっと、異なる質のものなのだろう。理性の歯止めを壊してしまうほどの情欲を、今のわたしは持ってはいない。
わたしは両腕を彼女の首の後ろに回し、その顔を自分へと引き寄せる。ほとんど同時に彼女の片手がわたしの顎を捉えて上を向かせる。
そして、わたしたちはキスをした。唇をただ合わせるだけの、戯れのような浅いキス。キスは単なる入り口で、最終的に行き着く先には性交があると知識で知ってはいても、その間を埋めるものがなんなのかは知らない。そんな、大人になりたいだけの少女 2 人は、触れるだけのキスをした。
どちらからともなく顔を離して、わたしたちは互いに見つめ合った。彼女の顔には戸惑いが色濃く浮かんでいて、わたしと同じように衝動からの行為だったんだというのを、遅まきながら理解する。
その時のわたしは、彼女のことが欲しくて欲しくて堪らなかった。具体的にはどうしてほしいのか、なんていう欲求までは、茹だった上に知識不足の頭には浮かんでこなかったけれど。ただ彼女に触れていたくて、キャミソールの上から彼女の薄い腹に手を沿わせて。
「……夏希!」
彼女がわたしの両肩を掴んで、わたしを引き剝がした。彼女の顔に浮かぶ困惑がますます深まっていて、そこでようやくわたしは、自分がしようとしていたことが性愛に絡むものだと理解した。彼女に嫌われたって、気持ち悪がられたって仕方のないことだ、と。
「ごめん」
わたしは自分から彼女と距離を取ると、急いで自分の席へと戻る。自分の鞄を引っ掴むと、挨拶もそこそこに教室を飛び出した。
後ろからわたしの名前を呼ぶ彼女の声が聞こえたけれど、わたしは振り返ることも出来なかった。
翌日、わたしは恐る恐る登校したのだが、彼女はあまりにもいつも通りだった。だからわたしも、いつも通りに接することにした。気持ち悪がられなかったことに安堵しながら。そして、一抹の寂しさを覚えながら。
わたしたちは今まで通りの友人同士でありながらも、あの日の話題や、あの日を再現しそうなシチュエーションを、巧妙に避けて通った。こうして、わたしのファーストキスは、なかったことになった。
やがてわたしたちは高校を卒業し、別々の大学に進んだ。環境が変われば自然と疎遠にもなる。
年に何度かは会って遊ぶこともあったけれど、わたしたちはそれぞれの環境で、それぞれの人間関係を築いた。
大学を卒業して。就職して。わたしは、職場で出会った男性と籍を入れることになった。その報告をしたくて、久しぶりに彼女と電話をした。
「おめでとう」
そう言ってくれた彼女は、冗談めかした溜め息を吐いた。
「あーあ、あたしも狙ってたんだけどなぁ。夏希のこと」
もう彼女は、自分のことを「ぼく」とは言わない。たまに会えば、髪の毛先にも爪の1枚1枚にも手入れが行き届いていて、女性としての身だしなみは完璧に近いと思う。男の子を演じていたあの日の彼女は、もうどこにもいないのだ。
「またまた、冗談言っちゃって」
「うん。冗談だよ」
そう言ってから、彼女は一拍開けて。
「半分だけね」
その言い方は、あの始まりの日の「好き」程度の軽さを装っていたけれど、隠しきれない厚ぼったい重みを帯びていた。
明日早いから、とかなんとか、言い訳めいた言葉で彼女は通話を切り上げる。けれどその後もしばらくの間、わたしはぼんやりとスマートフォンを握ったままでいた。
あれから 10 年ほどしか経っていないのに世間は随分と変わり、今では同性に恋しても良いと堂々と教えるような時代だ。何かが少し掛け違ったら、彼女と一緒になった未来があったのかもしれない。
ただ、わたしが欲しかったものを、独り占めしたかったものを、大人になった彼女と大人になったわたしの間で再現することは出来ないだろう。
恋愛とも呼べないようなごっこ遊びで、今の私たちにとっては微かな苦みと痛みを伴う、あまりにも青すぎた春の記憶。
けれど、あの燃え尽きるような一瞬の春は。たとえごっこ遊びだったのだとしても。どんな愛でだって塗り替えることの出来ない、わたしの永遠の初恋だ。
あたしは今でも春の続きに恋してる 唯川ささめ @yuikawa-sasame
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます