6.僕らはお城に入らない
閑散とした図書室は、しとしとと降る雨の音がよく似合う。普段からあまり人の出入りは多くないけれど、雨の日の放課後は特にがらんとしている印象だ。
「密にならないように工夫しろって言うけど、うちの図書室は普段からソーシャルディスタンス保たれてるから楽だよねえ」
と、高校で出会った図書委員の友人、木崎日葵は以前皮肉混じりに言っていた。
そう言ってしまうのも分かるくらい、うちの学校の図書室は利用者が少ない。でも、利用している身からすると、木崎には悪いけどそれくらいが快適だった。今日も雨のせいか、帰宅部の生徒は早々に下校していて、図書室にいるのは私と、隅の席でクスクス笑い合ってる女子の二人組、あとは今日カウンター係になっている図書委員の木崎だけだ。雨はあんまり好きではないけど、図書室で聞く雨の音は何だか落ち着くので、私は雨の日こそ図書室に居残ることが多い。
私自身は文芸部だけど、文芸部なんてほぼ帰宅部みたいなもので、文化祭前に文芸誌を作るくらいしか活動がない。それもコロナ禍の影響で二年連続文化祭が中止になったことで、完全に何をしているのか分からない(というか何もしていない)部活になった。それなのに、私は今部室には行かず、この図書室で原稿用紙を広げている。
「あ、早見ー、これも参考になるかもよ」
顔を上げると、木崎が私が今書いている物語の題材に関連する資料を持ってきてくれていた。私が座っている席の隣の椅子を引き、浅く腰かけてページをめくりながら本の説明をしてくれる。
木崎はいつでも、調べたいことを伝えたりするとすごく張り切って本を探してくれた。小学生の時からずっと所属委員会に図書を選んできたという木崎は、もちろん高校でも三年連続図書委員となり、今となっては校内の誰よりも(先生含む)図書室の蔵書に詳しい。以前「木崎って質問したら聞いてないことまで詳しく調べてくれるよね」、と少しからかい気味に言ってみたら、「クイズ解くみたいで面白いんだよ、人が欲しがってる本を探すのって。いわば、あんたは私にゲームを提供してくれてるようなもんだから」、なんて、悪戯っぽく笑っていた。それならやっぱり図書室の利用者は少ないままの方がいいなと思う。木崎が紹介してくれる本はどれも探しているものドンピシャで、面白くて役に立つ。木崎に色んな本を紹介してもらえるのは正直とてもありがたかった。
「おー、ありがとー。わあ、すごい綺麗」
木崎が持ってきてくれたのは世界中のお城の写真が集められた写真集だ。中世のヨーロッパをモデルにしたファンタジーの参考になるような本が欲しい、と言ったら、この本の他にも歴史や武器、服装から職業、街並など様々な角度から中世のヨーロッパが調べられる本を持ってきてくれた。
「こういうお城の描写って難しいから、実在の写真があるとすごい助かるんだよね」
「じゃあ良かった。このまま借りてく?ここで見ていくだけにする?文芸部の部室で書くなら貸し出すけど」
「うーん、部室は他の子たちがお喋りしてて落ち着かないだろうから、このままここで見ていくわ。でも、何冊か借りて家に持って帰ってもいい?」
「それはもちろん」
借りるもの選んだら、後で貸出手続きしてね。木崎からの指示に、私はオッケー、と頷いてぱらぱらとページをめくっていく。
「提出は夏休みの終わりなんでしょ?まだ三ヶ月近くあるのに熱心だねえ」
「どうだろ、むしろ間に合わないかもしれないってビクついてんだけど」
私が今手を付けているのは高校生の小説コンクールに応募する作品だ。元々脚本家志望で、小説よりもシナリオの勉強をしていたので、しっかりした小説を書くのは初めての挑戦だった。
「そうなの?やっぱり小説を書くのって大変なんだねー」
「うん、ストーリーとか展開はもう決まってるんだけど、小説って地の文の表現とかいちいちひっかかっちゃってさ。ずっと脚本の勉強ばっかしてたからそこらへんが全然慣れない」
なるほど、と木崎は頷きながら、でも、と私にエールをくれる。
「早見が書くものって面白いし、楽しみだよ。二年前の演劇部の舞台とか、プロが書いたもんかと思ったし。何せあの北条淳が出てたからね」
「ああ、あれ……」
二年前の文化祭はすごかった。当時三年には北条淳という今も時々ドラマで見かける俳優が在籍していて、彼が演劇部の劇に出ると決まってから、学校中が文化祭に向けて多大な熱を発して燃え盛っていた。そして、その劇の一端を、私もこっそり担っていたのだ。
二年前、文化祭の演劇部の舞台で脚本を担当してほしい、と頼んできたのは、中学校の頃から付き合いのある蓮沼宝だった。
宝は女優志望で、私は脚本家志望。中学二年生の時、みんな見ていて大人気だったラブコメドラマの話をしていると、他の子たちは主役二人のきゅんきゅんするやりとりのことばかりで盛り上がっていたのに対し、私と宝だけがその中に織り込まれている社会問題や女性の生き方について考えさせられる描写に言及していた。やがて自分たちの波長が合うと分かり、二人で今やっているドラマだけではなく昔の作品や映画のことなんかも話すようになって、そうしている内に自然と互いの夢を明かして、いつか私の書いた脚本の作品に宝が出たら面白いね、なんて夢物語を語っていた。
それが二年前、高校に入学してすぐの頃、いきなり宝から「文化祭の演劇部の発表で主役をさせてもらうことになったから、マコの脚本でやりたい」なんて言われた時は心底びっくりした。しかもその時は北条淳が出るなんて聞かされず、ただできれば男女のラブストーリーがいい、としか説明がなかったのだ。
自分が書いた脚本を誰かに演じてもらうなんて初めてのことで、しかもラブストーリーなんて書いたこともなかった。どうしてもラブストーリーじゃないとダメかと聞くと、「恋愛要素があった方が一般は盛り上がるから、文化祭はラブストーリーって決まってるみたい」、という理由とのことで。確かにそれは一理あるし、「ラブストーリーじゃなくたって盛り上がる脚本が書ける!」と豪語できるような自信もなかった。
私は不安半分、嬉しさ半分で過去に書いたストックの中からどうにかラブストーリーに置き換えられるものを引っ張り出し、大幅に手直しして提供した。提供した翌日、すぐに宝から「部員のみんなから大好評だった」と聞かされてほっとしたのも束の間、数日後三年の北条淳が文化祭で演劇部の劇に出る、という噂を耳にして、すぐに宝を問い詰めると宝は申し訳なさそうな顔で「実は」、と真相を話し始めた。
当時三年の北条淳は、ゴールデンタイムの地上波ドラマで脇役として出演して以来、学校中の注目を浴びている存在だった。私も宝も入学してから彼の存在を知り、すごいね、親しくなって一緒にドラマに出してもらえないかな、そんなん無理に決まってるじゃん、なんて冗談を言い合っていた。それがまさか、学校の文化祭とは言え本当に一緒に劇に出ることになるなんて、一体どうなったらそうなったのか。
宝曰く、演劇部部長の本多先輩が北条先輩に声をかけてくれたらしい。宝が本多先輩に女優になることが夢だと打ち明けると、本多先輩は親身になって話を聞き、せっかくプロの俳優がいるんだから色々教えてもらえるようにと北条先輩に文化祭の劇に出てもらえるよう交渉を持ちかけたという。もしかしたら関係者が見にきて、スカウトされるかもしれないよ、なんて打算もチラつかせて。
それはまあ、宝のためにもなるしいいんだけど。問題は、その劇の脚本が私が書いたもの、ということだった。しかもそのために書き下ろしたわけではなく、中学生の頃に書いた過去作を無理矢理手直ししたものだ。
北条淳が出るとなればほぼ全校生徒が観に来るだろうし、関係者以外の一般客の来場もすごいことになるだろう。そんな大勢に自分のずさんな脚本の劇が見られることも、プロの俳優の北条淳に演じられることも、途端に怖くなってきた。宝には「北条先輩も面白いって言ってたし大丈夫だって」、と言われたけれど、せめてと脚本家の名前はプログラムに載せないようお願いした。それでもどこから漏れたのか、いつの間にか文芸部の誰かが書いたと噂が流れてしまったけれど。果たしてそれが本当なのか、誰が書いたかまでは最後まで特定されなかった。
結果、私の思惑はどうあれ、劇は大成功だった。満員御礼の拍手喝采、宝の演技は贔屓目なしに演劇部の中で一番上手かったし、素人目からは北条淳とも十分渡り合っているように見えた。そして劇の内容も評判が良く、普段ほとんど文芸部に顔を出さない顧問の先生が「演劇部の劇の脚本を書いたのが文芸部員だったって本当?」と聞き取り調査をしていたくらいだ。でも私は頑なに手を上げず、宝にも絶対誰にも言わないように口止めをした。
成功したのだから正体を明かしてもいいと思われるかもしれないけど、やっぱり私はあの脚本に自分では納得いってなかったし、それとは別に自分が書いたものの内容を全校生徒に知られる、というのは出来の良し悪しは関係なく想像していた以上に恥ずかしいものだった。脚本家になるのが夢なのにそんなことは言ってられないのだけど、私のことを誰も知らない世間に知られるのと、毎日通う学校のクラスメイトや先生たちに知られるのは、後者の方が人数は少ないのにかかるウェイトはこっちの方が重く感じられる。
脚本が誰だったのか分からないまま時は過ぎ、文化祭以降もクラスマッチや体育祭、歩行祭に卒業生講演会と数々の行事が行われ、年が明けてしばらくすると世界は新型コロナウィルスの話題一色になった。
最初は他人事のように思っていたそれは、三月からいきなり全国の学校が臨時休校になったことで否が応でも自分に関係あるものとして意識することになり、休校が解けてからも結局去年は文化祭を始め多くの行事が中止に追い込まれた。それでも時が経つうちに少しずつコロナ禍での生活様式が広まり、私たちは少しずつ変わっていった学校生活に、それでも自然と対応していった。
二年になると進路の話も本格的になってくる。私は配られた進路希望書の職業欄に何も考えず「脚本家」と書き、進路指導担当だった安藤先生にあっさりと一年前の劇の脚本を書いたのが私であることがバレて、芋づる式に全ての先生に把握された。
でも、それは結果的によかった。私は脚本の勉強ができる専門学校に二年の内から進路を決めていたので、高校時代にそういう実績があれば専門学校の推薦では優位になるそうだ。安藤先生のアドバイスを受けながら、私は早めの進路対策も順調に進めていった。
そんな日々の中、あっという間に三年になり、今ではすっかりマスクとソーシャルディスタンスを保つ生活が板についたけれど、それでもやっぱり今年も六月の文化祭は見送りになった。文芸部の顧問でもある安藤先生に声をかけられたのは、そんな文化祭中止が発表された四月の終わりのことだった。
「早見さん、今年も文化祭で文芸誌が発行できないから、高校生の小説コンクールに応募してみない?」
小説?しかも三年のこの時期に?
私が不審がると、先生は詳しく説明してくれた。
「去年、文化祭がなくて文芸部の実績を残せる活動が結局何もなかったでしょ?それで、今年も結局見送りになって……流石に二年連続で実績なしはまずいから、毎年やってる高校生の小説コンクールに希望する人だけでも応募してみようかと思って。勿論強制じゃないけど、結果次第では早見さんは推薦にも有利になるし、何よりうちでは一番文章が上手いから」
そんな風に言われて悪い気はしない、というか、いい気にならない人なんて滅多にいないだろう。二年の頃から小論文対策も面接対策もばっちりしてきたし、推薦に有利になるならやる価値はあると思って、とりあえず挑戦してみることにした。
「でも、後で調べてみたらシナリオコンクールもあったみたいで。気付いた時には締切が過ぎちゃってたっていう」
「へー、そうだったんだ。そりゃ残念だね。今まで一度もコンクールに出したことってなかったの?」
「うん……書き溜めてはいるんだけど、何か、コンクールに出すには覚悟が足りないっていうか……もっと勉強してからじゃないとって思っちゃって」
「じゃあ二年前の文化祭は、誰かに発表する経験としていい機会ではあったんだね」
私があの劇の脚本を書いたことは先生たちには全員知られてしまったけれど、生徒で知っているのは依頼主と宝と、後はこの木崎だけだ。別に私が言ったわけではなく、文芸部顧問の安藤先生は司書教諭を兼ねていて、熱心な図書委員の木崎とは親交が深い。そこからポロッと漏れてしまったらしく、とは言えそれが付き合いのある木崎だったのはある意味幸運だった。木崎なら誰かに言いふらしたりすることもないし、過剰に礼賛してくることも逆にからかってくるようなこともなく、ありのままを淡々と受け入れてくれることは分かっていた。
「だね。まあ、結局あの文化祭の後一番反響があったのは、脚本も劇も関係ないファッションショーだったけど」
「あれはもうしょうがないっしょ。何せうちの学校のアイドル二人の独壇場だったし」
演劇部の劇が上演された文化祭二日目、プログラムの最後を飾ったのは演劇部と裁縫部の一部合同ファッションショーだった。そのトリとなったのは、当時の演劇部部長の本多莉奈先輩と、ダンス部のスターで本多先輩の親友だった皆川アリス先輩。元々彼女たちはうちの学校のアイドルで、二人を校内で見かけるたびに男女問わずそわそわと憧れと羨望の目を向けるような存在だった。そんな彼女たちが手を繋いで可愛いドレスを着てスポットライトの下を優雅に、楽しそうに歩く様はどうやったって絵になった。可愛い、綺麗、素敵、最高、アンコール!と、沢山の歓声が盛大に飛んだ。そして数ヶ月後、彼女たちはティーン雑誌でモデルデビューを果たしていた。どうやらあの日北条淳繋がりで見にきていた芸能関係者が、二人をスカウトしていたらしい。結局在学中モデルとしてちょこちょこ雑誌に載り、この春卒業した後も本多先輩は今度の夏ドラマに出演が決まり、皆川先輩は人気バンドのMVに出たりと活躍の幅を広げている。
宝を劇の主役に据えて、北条先輩を引っ張り出し、もしかしたら関係者にスカウトされるかも、なんて言っていたのは本多先輩だった。その本多先輩が劇とは無関係のファッションショーで演劇部とは無縁の友達と一緒にスカウトされて、今ではドラマにも出るようになるなんて、やっぱり生まれつき持っている人には敵わない。実際あの日は本多先輩たちをスカウトした人以外にも、北条先輩が通っている芸能スクールの演劇部門の関係者が来ていたらしい。
でも、宝がその人から声をかけられることはなかった。宝は本多先輩の活躍を応援しているように見えるけど、内心ではどうなんだろう。そこまで掘り下げては、流石に聞けていない。北条先輩と今も繋がりが持てている時点で、十分な収穫ではあるんだろうけど。
「そんでまさか本当のアイドルになっちゃうっていうね。いやまあ、正確にはモデルと女優だけど。木崎、知ってる?噂だと、受験受付の時、うちにあるのが芸術科じゃなく芸能科だって勘違いして問い合わせてくる人もいたんだってさ」
「へー、そうなんだ。勘違いしたまま受験してたら面白かったのに」
ある意味音楽科なら芸能の方にも関係あるし、歌手志望とかならあながち気付かないで受験できたりして、なんて想像したら笑えてくる。
「まーでも、あの時の文化祭は本当に面白かったよね。去年なかった分、ますます鮮明に思い出せる感じ。最後にすごいハプニングもあったし」
「ハプニングって、あの生徒会パンチ事件?」
「そう、それ」
一日目・二日目ともそれぞれの場所で盛り上がった二年前の文化祭だったけれど、一番みんなが驚いて興奮したのは、二日目最後の閉会の挨拶時だったと思う。文化祭の閉会の挨拶は生徒会長が行うのは慣例で、その年も生徒会長の相馬礼音先輩が威厳ある態度で堅苦しく締めようとした。その挨拶の途中で、副会長の高瀬雪彦先輩がいきなり乱入し、相馬先輩の顔を思いきり殴ったのである。突然の出来事に、体育館中はたちまち騒然とし、先生たちが慌てて壇上に上がり高瀬先輩に詰め寄った。高瀬先輩は殴ってから何も言わずに降壇し、殴られた相馬先輩はしばらく呆然としていたもののその後何事もなかったかのように挨拶を終えて、すぐさま先生に連れていかれた高瀬先輩を追いかけていった。
一体あれが何だったのか、何で高瀬先輩はあんなことをしたのか、噂すら流れず誰も分からないまま相馬先輩と高瀬先輩は卒業していった。いきなりの臨時休校措置がされた時で、卒業式すらなかったので、本来なら卒業生代表として元生徒会長がするはずだった答辞も聞けずじまい。もしかしたらあの時のことを何かしら話すかも、あるいは高瀬先輩がまた何かしでかすかも、と期待していた生徒もきっと少なくないはずだ。
「結局あれ、どうして高瀬先輩あんなことしたんだろうね。青春ドラマみたい、って外野は結構盛り上がったけど。先生たちに聞いても何も教えてくれないし」
「高瀬先輩、マジで何も喋らなかったみたいだしね。相馬先輩も本当にわけがわからなかった感じ」
「そうなんだ……じゃあ本当に、知るのは高瀬先輩のみ、ってやつかあ」
あの後も時々相馬先輩と高瀬先輩を校内で見かける機会はあったけれど、二人とも一緒に行動してて、ぎくしゃくしているようには見えなかった。よくわかんないけど、男の友情ってやつかしら。と、私が言うと、木崎はどこか訳知り顔でどうだろうね、と呟いた。
「逆に、高瀬先輩は友情よりも大事なものをとったんじゃないの?」
「友情より大事なもの……?それって恋人とか?」
まさか、三角関係のもつれからいさかいだったのだろうか。相馬先輩はド真面目な堅物系で、高瀬先輩はクールな皮肉屋と、そういうのとは無縁そうなキャラだったから、色恋系はみんな勝手に除外していた節がある。
「友情より大事なものが恋とは限らんじゃない?」
「どういうこと?」
「いやまあ、何となく。それ以外にもさ、何かあるんじゃないかなって」
「何かって?」
「うーん……図書室前の廊下の会話ってさ、結構図書室の中に聞こえるよねえ」
確かに廊下から、誰かが喋っている声が聞こえる。そこで一旦会話は途切れ、木崎はそれ以上、生徒会パンチ事件について言及しなかった。
「でも、意外。早見からそんな意見が聞けるとは。早見ってあんまり恋とか愛とか興味なくて、どっちかっていうと馬鹿にしてるタイプだと思ってたから」
「ええ?何で?」
木崎と恋バナなんてしたことないのに、何でそんなイメージを持たれてるんだろう。確かに別にそんなに興味はないけど、かと言って特別避けているわけでもないし、ましてや馬鹿になんかしていない。
「二年前の劇の内容がさ。確かにラブコメだったけど、何となく平熱というか、恋に夢なんか抱いてませーんって感じだったから」
「あー……」
二年前、私が演劇部に提供した脚本は白雪姫をアレンジした『白雪王子』という作品だ。白雪姫が男装していたり相手が王子様ではなく猟師だったり、もうタイトルと設定だけを借りた原作の色をほとんど残さない代物だった。
「あれはもう何か、昔から白雪姫に対して抱いてたもやもやを一からなくして納得いく展開にしていったらああなりましたって感じでさ。そこに演劇部からの依頼がラブストーリーだったから、ラブ要素を後からふんだんに付け足したんだよね。だからまあ、ラブの部分があんまり情熱的に見えなかったのは、当たってるっちゃ当たってる。書きたいのはそこじゃなかったし……」
初稿では白雪王子と猟師の間には最初から最後まで分かりやすいラブはなく、二人の仲は七人の小人を含めた友情で終わる予定だった。そこを無理矢理男女のラブストーリーという設定に変更した。私がこの作品で言いたかったルッキズムとかジェンダー関連のことは半分も描けていなかったし、逆に苦手な恋愛要素を付け焼き刃で詰め込んだためラブストーリーとしても中途半端なものになった。しかし、演劇部や観客からはそんな付け焼き刃の二人のラブコメ要素が特にウケて、憤りを感じていたのも事実だった。今頃になって木崎からそんな風に指摘されるとは、やはり見る人が見れば分かるものなのだ。
「だから、もしまた文化祭で脚本を書かせてもらえるなら、リベンジしたいと思ってたんだよね。今度はあんな付け焼き刃で書き直したものじゃなく、最初からじっくり書いたものを使ってほしいって。それもコロナでパアになっちゃったけど」
「演劇部自体が今発表の場がなくて、活動停止中みたいなもんだもんね」
二年前の文化祭の後から、本多先輩はスカウトされたモデル業に精を出すために演劇部を辞めた。本多先輩に憧れて演劇部に入った部員がそこでごっそり減り、その後新型コロナの影響で大会がのきなみ中止、人前で演じられないのに練習しても意味がない、とそこでまた多くの部員が退部し、演劇部は今は宝の他には二、三人くらいしか残っていない。宝はそこでリーダーシップを発揮するようなタイプではなく、発声練習や一人芝居など自分の稽古に専念し、時々卒業した北条先輩と会って指導してもらっているらしい。
「だからまあ、今私はこうして小説に苦心しているってわけ」
「なるほど」
全ては繋がってるねえ、と、木崎は感心しているように、それでいてどうでもよさそうに呑気な調子で応えるので、私もそれに乗っかる。
「そうそう、それで資料が必要になって、木崎のクイズ解答欲が満たされ、貸出冊数も増える、と」
「そりゃあありがたいことで」
「はー……ホント、安易にファンタジーなんかにしなきゃよかった……お城とか、見た目だけならまだしも中をどう書いていいのか全然分かんなくて」
せっかく小説を書くなら再現化なんて全然気にしなくていいものを書こう、と思って初めて異世界ファンタジーに挑戦したけど、こんなに描写に苦戦するなら大人しく現代モノにしておけばよかったと今更な後悔をする。そうして頭を抱え項垂れていると、木崎がいいことを思いついたようにポン、と私の肩に手を置いた。
「流石に聖剣やドラゴンの実物は無理だけど、お城の描写なら、それこそうちの学校にいい見本があるじゃん。見た目だけなら立派なお城だし、中もアンティークな作りなんだから空気に触れるだけでも参考になるんじゃない?」
「お城……あー、あれねえ、」
うちの学校───耀坂高校は芸術科と普通科に分かれていて、芸術科は芸術塔というゴシック調のお城を持っている。見た目だけならちょっと質素な本物のお城と言われても遜色ない代物で、確かに参考にはなるだろう。でも、あの中に入るのは正直気が引ける。
「何か、芸術塔って入りにくくない?実際、入学した時の校内見学と芸術鑑賞会でしか入ったことないし」
芸術科以外用がない者は立ち入り禁止、なんて看板がかかっているわけじゃない。でも、その佇まいそのものからそう言われている感じが、あの建物からはひしひしと感じる。
「あー、まあ気持ちは分かる。でも用がないから入りづらいだけで、早見の場合今回は小説の参考にしたいって理由があるんだし、案外すんなり入れるんじゃない?」
「そうかなあ……まあ、せっかく近場に丁度いいものがあるんだもんね。ちょっと入ってみようかな」
「うん、そうしなそうしな……って、そろそろ閉館の時間だ。ごめん、調べ物の邪魔しちゃったね」
時計を見れば針は五時五十分を指している。図書室の利用は六時までだ。私は「全然大丈夫、本は探してもらったから、後は借りて帰るよ」、と木崎が探してきてくれた本を抱えて席を立った。
カウンターでの貸出手続きが終わると、木崎は奥の方でお喋りしていた二人の女生徒にも声をかける。
「そこの二人ー、そろそろ閉館の時間でーす」
普通科の三年生だ、同じクラスになったことはないけど見覚えがある。二人は「はあい」、と素直に返事をして帰り支度を始める。
「二人とも借りる本ある?そろそろパソコンも落とすけど」
「あ、今日はいいよ。この前借りた漫画の描き方のやつ、まだ使いたいから」
「あたしも〜。読みたいやつ全部読んじゃった。木崎さん、変な動物図鑑のやつ、新しいの入れるように先生に言っといて〜」
「え、またアレ系新しいの出たの?」
「出てた出てたー、何か本屋さんで見つけたー」
「なら木崎さん、私も私も、イラストの描き方で読みたいやつがあって……」
「リクエスト?どれ?一緒に渡しとくから……」
話が盛り上がり始めたので、私は一足先に帰ることにした。本当はもう少し木崎と話したかったけれど、木崎は人から本に興味を持った質問をされると途端にそっちに釘付けになる。急ぐ話でもないし、また明日にすればいい。
「じゃあ、私帰るね。失礼しましたー」
そう言い残してドアを開け、図書室を出る間際。「あ、ねえ!」と背後からかけてきたのは、いつもの木崎の「うん、じゃあね。気をつけて」と、お決まりの言葉が続く声ではなかった。
「芸術塔ね、入るんなら四階のバルコニー行ったらいいよ。ちょー気持ちいいから!」
振り返ると、そこには二人組の内の一人の女子が、にこ、と満面の笑みを私に向けていた。どうやら話を聞かれていたらしく、もう一人の子が「楠実、バカ!」と慌てて彼女の口を背後から塞いでいた。
特にひそひそと話していたわけでもない声は、静かな図書室ではよく通る。私が演劇部の舞台の脚本を書いたことも聞かれただろうが、二年前の文化祭のことなんて別に今更聞かれてまずい話でもない。何より、その子が私に教えたかった情報は、それとは何の関係もなかった。
「うん、どうもありがとう」
私はそれだけお礼を言って、そのまま図書室を後にした。
彼女は普通科のはずだ。それでも、芸術塔の四階のバルコニーのことを知っているということは、彼女は普通にあそこに入っているのか。
昇降口を通って外に出ると、雨はすっかり上がっていた。昼間よりは薄暗くなっているけれどまだまだ明るく、空気が澄んでいて気持ちがいい。このまままっすぐ歩けば校門に出る。後ろを振り返ると、校舎の向こうにそびえ立つ芸術塔の屋根が見える。
どうせだったら今、行ってみようか。
ふとそんな気持ちになって、でもやっぱりどうしようかな、と行こうか行くまいか昇降口の前でそわそわしていると、中から見知った顔の男子がゆらりと幽霊のように現れた。
「あれ……松田センセイ?」
つい声をかけてしまったのは、クラスメイトであり同じ文芸部でもある松田くんだ。センセイ、と言ってしまったけれど、別に本当の先生ではない。
松田くんは二年前の文化祭で、文芸部の部室で一人「人生相談室」を開いた。他の文芸部員から聞いた話だと、特に二日目の相談者の数がヤバかったらしく、部室の前の廊下に置いていた文芸誌のハケがその恩恵を受けて例年よりも抜群によかったそうだ。相談の受け方がよっぽどよかったのか、松田くんは文化祭が終わった後も時々クラスや学年を問わず色んな人から相談を持ちかけられるようになった。普段はいつも一人で本を読んでいるけれど、相談の時だけ他のクラスや違う学年の子まで松田くんを訪ねてきて、一緒に教室を出ていく。その様子がどうにも職員室の先生に重なって見えて、いつの間にか付いたあだ名が「松田センセイ」だ。
「珍しいね、文芸部に顔出してたの?」
こんな時間まで残っていたということは部活だろう。私がそう問いかけると、松田くんは渋い顔をして首を横に振った。
「いや、図書室にいた」
「え?私、さっきまで図書室にいたけど……」
木崎があの二人組と話している内に新しく入ったんだろうか。何となく、松田くんはそういうルールは守るタイプだと思っていたけれど。
「知ってる。早見さん、図書委員の人と喋ってたよね」
律儀に足を止めて、松田くんは淡々と答える。この常に冷静な物腰も、『センセイ』というあだ名を付けられる一因になったことは間違いない。
「マジ?どこにいたの?」
「書架の一番奥の、文学全集がある死角になるところ。図書委員の人にも『いつのまに?』って驚かれた」
「そりゃ驚くだろうね」
いきなり書架の奥からいないと思っていた人が現れるなんて、一種のホラーだ。
「あそこ、図書室での僕の定位置だから。でもいつもは声かけられる前に帰るんだけど、今日は何か出づらくて」
私はこんな時間までいることは珍しいから、いたけど気付いてなかったわけだ。
「出づらい?って、何で?」
「あー、……うん、いや、」
言ってから、松田くんは口に手を当ててつぐんだ。あ、そこは掘り下げちゃいけないところだったかな。私はそう察して、すぐさま話を逸らしてあげることにする。
「そういえば、松田くんは芸術塔に入ったことある?」
「芸術塔?それなら一年の時の校内見学で入ったけど」
「うん、それ以外では?」
「ないかな」
私が他の話題を振ったことで、松田くんはほっとしたような顔になる。何だ、みんなから色んな相談を受けているくらいだし、いつも動じず泰然とした様子からもすごく達観している人だと思っていたけれど、結構分かりやすくて年相応なのかもしれない。
「そっか、松田くんも芸術塔は入りづらいって思ってる感じ?」
「ああ……何かそんな話してたね」
「あ、やっぱ私たちの聞こえてた?」
「うん、まあ。なんか盗み聞きしてたの暴露したみたいだけど」
「盗み聞きなんて。私たちが聞こえるくらい大きな声で喋ってただけなんだから」
ちょうどそこで、賑やかな女子の声が三、四人分、昇降口に近づいてくるのが聞こえた。美術か音楽かまでは分からないけれど、恐らく芸術科の子たちだ。「超大変」とか「間に合わないかも」といった内容の会話が、その内容にそぐわぬ楽しそうな声に乗って伝わってくる。そんな彼女たちの影に目を向けながら、私は会話を次の話題に移す。
「今年も文化祭ないけど、芸術科はやっぱり色々なコンクールで大変そうだね」
美術科は元から関係ないし、音楽科も演奏会は激減したもののコンクールは無観客で行う予定らしい。
「まあ、そのためにこの学校に入ってきたんだろうし、いいんじゃない」
そりゃあそうだけど。やっぱり松田くんはクールだ。私は松田くんに相談したことは特にないけれど、こんな風にばっさり切られたりするのかな。
「〝松田センセイ〟も文化祭での『人生相談室』、一回きりで残念だったね。まあ、普段から同じことしてるけど」
私が何の気なしにそう言うと、松田くんはぐぐ、と苦み走った顔をした。
「その呼び方やめて……何でこんなことになっちゃったのか、自分でも分からないんだ」
「え、そうなの?」
「文化祭とか、ない方が嬉しいし」
てっきりこうなることを望み、好きでやっているものと思っていた。
じゃあ何で二年前の文化祭ではそんなことを、と興味が湧き、つい松田くんの肩に手を置いて更に掘り下げて聞こうとすると、背後からにぎやかな声が聞こえてきた。
「あ、いいなあ。カップルだ」
「超青春してるね、うらやましー」
「うち、男子率超低いもんね」
「普通科ってやっぱ楽しそうだよねー。毎日練習漬けのうちらと違って」
きゃはは、と笑い声を混じえた会話を交わすのは、恐らく音楽科の生徒たちだ。楽しそう、と羨む声を発する彼女たちこそ楽しそうで、軽やかな足取りでさっさと私たちを追い越していく。
彼女たちを見送りながら、私は何かが喉にひっかかったような、それがもうすぐ取れるような、でもどうやって取ればいいか分からないような気持ちになった。
カップルに間違えられたことなんかどうでもいい。
そんなことより、もっと大事なこと。
もっと、ずっと見落としていた本質的なことが、もう少しで分かりそうなのに、中々文字として表すことができない。
そんな私の焦燥に、松田くんは気付いたのか、それともただ思ったことを口に出しただけだったのか。
「そういえば、芸術科も普通科も、繋がってる昇降口は一つだったね」
それは、私の頭に浮かんできて、けれど上手く言語化できなかったことの答えだった。
面白い物語を見たり読んだりしている時、こういう感覚がたまにある。
自分一人では決して思いつかなかった、けれど一度受け取ったら自分の中にぴたりと当てはまるような言葉。物語の中でそんな考えに出会った時、私はいつも心が震えて、自分がその言葉に出会う前よりも素敵な人間になれているような気分になる。
でもそれはいつもフィクションの世界に触れた時だけで、現実世界で誰かと話している時、そんな気持ちになったことは一度もなかった。松田くんは物語の登場人物なんかじゃない、あまり喋ったことがないクラスメイト。たったそれだけの関係の、実在の人間だ。
「───うん、そうだね」
私は松田くんの肩から置いたままだった手を離し、ごめんね、変な誤解されちゃって、と謝る。別に、と返す松田くんの隣に改めて並んで、一緒に校門へと向かっていく。
「みんなが松田くんに相談したがるの、少し分かったかも」
「え?」
「何か、松田くんのこと、もっと知りたくなったなって」
私はそう言って、雨上がりの空を見上げた。夕焼けと星が混ざり合っている空はきらきらと輝いていて、芸術塔に登っていれば、今頃この空をあのお城の上から見ることができたのだろうか。
でも、さっきの物語に触れた時のような感触を、肌から感じるような経験は、あの時お城に入っていたらきっとできなかった。
そう思えば、お城に入れないのもきっと、悪いことばかりじゃない。
私は隣で松田くんが泣きそうな顔になっているのも、その理由にも気付かないまま、晴れやかな気持ちで目の前に広がる空を見つめていた。
僕らはお城に入れない @maru_peko
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