君の不幸の上に立ちたいわけじゃない

綺瀬圭

ある春の日

 招待状が届いたのは、頑固に包まっていた桜の蕾が、徐々に広がり始めた春のことだった。


 見覚えのある差出人の名前に、眩しい日差しで細めていたはずの目が開かれていく。鈍い衝撃が胸を締めたが、それでもすぐに柔らかい溜息が漏れ出ていた。


 ポストを閉じ、ウッドデッキからリビングへ入る。壁に貼られたカレンダーが目に入った。日付を見てぼんやりと頭の中で計算する。ちょうど十年経っていた。


 あの時に打ち立てた誓いは、今も面倒くさそうにあくびをしている。






「もし結婚したら、スピーチはお前に頼むから」


 卒業式の前日。中庭のベンチでいつも通り紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいると、隣で揚げパンを頬張っていた伊東が唐突に呟いた。


「これくらいは断るなよ? 今回は真剣な頼みだからな」


 唇に少し力を込めて息を吸うと、ストローから冷たいものが溢れ、ほのかなカフェインが口いっぱいに広がった。苦みはほとんどなく、砂糖と牛乳の甘みばかりが感じられた。


 真っ直ぐにこちらを向く瞳。栗色のそこには、苦い表情のまま押し黙っている自分が映っていた。喉は十分潤っているのに、もう一度ストローを噛む。茶色い液体が細い道を上昇していく。


「かわりにお前の頼みを何だって聞いてやるから。な? いいだろ?」


 向こう側のベンチにふと視線を移すと、女子生徒数名が桜をバックに記念写真を撮っていた。「卒業してもまたみんなで集まろうね」なんて声が聞こえてくる。


 どいつもこいつも嘘ばっかりだ。


 どうせ大学や職場での新しい出会いに夢中になり、連絡すらまともに取らなくなる。同窓会で再会でもしない限り、思い出話に花を咲かせることはない。 


 人間関係は、想像の何倍も表面的で希薄で、きっかけもなくいつの間にか途切れてしまうものだ。誰だって、友人との簡単なやりとりが面倒になるほど忙しない日々に追われるようになる。そうやって過去の関係は日常から消えていくのだろう。


 うんざりするほどの甘味を含んだコーヒー牛乳が、ゆっくりと喉を通過していく。視線を戻すと、砂糖を口の周りいっぱいに付けた伊東が大きなあくびをしていた。




 思い返せば、初めて会ったのも春だった。


 入学式の一時間前。出席番号順に並べられた座席で、自己紹介や連絡先の交換で賑わっていた教室内。焦りと緊張を誤魔化そうと、一文字も頭に入ってこない授業要項をパラパラとめくっていた時。


「それ、どこで売ってた?」


 隣の席に座るなり話しかけてきたのは、どこぞのサッカー選手を彷彿とさせるツーブロックの短髪野郎。栗色の視線は、冊子を持つ手の横に置かれた紙パックに注がれていた。


「どんな味? 一口くれよ」


 新品の制服に包まれた手が伸びる。コーヒー牛乳なんてどこも大抵同じ味だろうと思ったが、黙って紙パックを手渡した。すぐにひび割れた桜色の唇からちゅうちゅうという音が鳴った。


「ちょっと甘いけどうまいな。ありがと」


 返却された紙パックを受け取る。同時に、短髪頭はガンと音を立てて机に突っ伏した。「移動の時間になったら起こしてくれ」という掠れた声とともに届いたのは、カフェインの匂い。


 名前を聞くタイミングを逃したなと思っていると、伏されていた瞳がそっと開いた。


「俺、イトウ。トウはフジじゃなくてヒガシだから間違えんなよ」


 こちらの返事を聞かぬまま瞳は閉ざされ、すぐに寝息を立て始めてしまった。口を開けて寝る面は間抜けなものだったが、なぜか目が離せなかった。

 気が付けば、中身が減った紙パックを握り締めながら、その瞳が再び開くまで眺めていた。



 席が隣ということは不思議な引力を発揮するものらしい。学校生活は、伊東を中心に回った。


 毎日授業が始まる直前まで雑談を繰り返し、惰性で聴講する授業を二人で絵しりとりをすることで耐え抜き、放課後は共に部活で汗を流し、部活が終われば自転車を並走させて帰る日々を送っていた。


 伊東は、いわゆる平凡なやつだった。良く言えば誰とでも仲良くなれる一般的な高校生。悪く言えばどこにでもいそうな何の尖った特徴もない量産型の男。毒にも薬にもならない性格。 


 それなのに、隣の席でどうでもいい話をしていたいと思うのは奴だけだった。面倒臭そうに教科書を広げる奴の隣にいつまでも居座っていたいと願っていた。


 もしかしたら伊東は毒を隠し持っていて、自分は奴の特殊な毒にやられたのかもしれない。



「化学の課題やってきたか!? 休み時間に写すからノート見せてくれ!」


「前田さんに彼氏いるかこっそり聞いてきてくれないか? ついでにケー番も! 頼む!」


「これ先輩から借りたんだ。俺、弟と同室だからさ、お前の部屋で見ていい? 小学生の前でこんなの見れないだろ!?」


 伊東はそうやって自身の怠慢や足りない勇気を、人を使うことで補おうとする奴だった。頼み事はいつも清々しいほど呆れるものばかり。

 毎度の如く断られては「やっぱダメかー」と唸る伊東。それを見て、必死に頬の緩みを抑えるのが習慣となっていた。



「俺、卵焼きは絶対甘くないと嫌なんだよなぁ。昔食べた卵焼きから塩の塊出てきたのがトラウマでさぁ」


 伊東は、気を許した相手には何でも自分の情報を共有するタイプだった。こちらが宿題をやっていようがマンガを読んでいようが、構わず一方的に話してきた。


 語られた内容は、誕生日や家族構成はもちろん、カレーは中辛派であること、炭酸が苦手なこと、ワックスはGATSBY一択であること、ウォークマンのプレイリストはファンモンとmiwaとPerfumeで構成されていることなど多岐に渡る。


 自然と増えていく知識。忘れないよう、寝る前に奴が何を話していたか反芻する癖がついていた。



 二年の春、伊東に彼女ができた。


 気の多い奴だったし、特に驚きはしなかった。写真を見せられ、直接彼女と会って話してみて、口から出たのは伊東の単純さに対する溜息。


 ガッキーが好きだと言っていたくせに、静かでおっとりした子がタイプだったくせに、全然真逆じゃないか。結局女なら誰でもいいのかよ。


 言葉は喉元ギリギリで留めた。それから奴の情報共有が惚気中心に変わった。鼓膜に蓋をして、聞き流す癖がついた。



 夏休み。太陽が沈んでいるはずなのに、妙な暑さがいつまでも肌を湿らす8月の夜。彼女と無事に事を成し遂げたという報告を電話越しで受けた。


 いずれこういう話もされるだろうなと覚悟はしていたが、いざ語られた途端、思考は予想外の方向へと進んでいた。



 奴は快楽に溺れると、どのように顔を歪ませるのだろう。

 必死に腰を振る奴の口からは、どのような吐息が漏れ出るのだろう。

 


 経験した方のない混乱と、体の火照り。止まらない体の異常。


 電話の後、布団の中で一人、膨れ上がっている股間を確かめた。下着の中に手を滑り込ませ、固くなったそれをゆっくりと擦る。


 罪悪感と性欲が火花を散らす。反吐が出そうなほどの嫌悪感が内臓を刺激する。胃液が逆流しそうなほどの重みの中、どうにか別のもので消化しようとしたが、脳裏に浮かんでは消えない裸体があった。


 奴の裸は知っていた。部活の合宿中、脱衣所で何度も見た。知っていたからこそリアルだった。


 湧き出る背徳感を無視するように視界を閉ざし、夢中で右手を摩擦させる。脈打つ先端が徐々に濡れていき、ついには掌に欲望を吐き出していた。


 震え上がる呼吸の中に待っていたのは、果てしない虚無感と自己嫌悪。

 ようやく自分の中に眠っていた意識を自覚した。その悟りは、青い自分にはあまりにも重いものだった。


 

 追うように女を抱いた。相手はバイト先の大学生で、何度かそういった誘いをしてきた人だった。特別な感情はなかったが、割り切った関係を築くにはちょうど良かった。


 暗がりの中、ドレッサー横のベッドで月明かりを頼りに貪り合った。相手への敬意も情も一切排除し、獣のように食らいついた。


 首筋や丸い曲線を描く部分に舌を這わせる。アロマのような、華やかな甘い香りが感じられた。その匂いと、時々視界に入る化粧品の散乱した部屋が現実を突きつける。名前のない不快感が迫り上がった。


 濡れた部分を必死に突く。掠れた声が不規則に部屋に響き渡る。しかし、いくら乱れる豊満な体を見ても思考は冷めたかった。苛つくほど甲高い声のせいで、口を塞いでしまいたいという衝動にまで駆られた。


 煩わしく喘ぐ体をぼんやりと眺めているうちに、脳が架空の光景を重ねて映し出した。


 奴がこの腰の動きに合わせてはしたない声を上げて鳴く姿。

 奴が逃れられない快感に顔を歪ませ、腹の上に飛び散った愛液で情けなく汚れていく姿。

 奴が中に流し込まれる熱い密に喘ぎ、爪を立てる姿。


 何かが決壊するほどの威力を持つ映像。何もかも打ち消すために致した行為は、むしろ拍車をかけるだけだった。




「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない」


 倫理の教師だったかと思う。授業終了五分前、余った時間を適当に消化するために聞かされた話だった。


 どこかの哲学者だか小説家だかの名言らしく、教師Aは淡々と解説をしていたが、それは耳に全く入ってこなかった。代わりに、一つの疑問だけが激しく渦巻いた。


 奴も、人の不幸の上に立っているのではないか。

 気付いていないだけで、人は純粋に生きているだけで他人を不幸にすることもあるのではないか。


 途端に自分の不幸を奴に知らせてやりたくなった。


 お前の幸福が、ある不幸の上に成り立っていること。

 お前が笑顔を振りまくたび、ある耐え難い嫉妬心と自己嫌悪が生まれ続けていること。


 もし真実を告げたとしたら、奴の顔はどんな色に染まるだろう。想像するだけ無駄だった。


 その日は雨が降っていた。部活で遅くなり、誰も客がいないバスに二人で乗り込んだ。


 疲れからか、伊東はすぐに眠り始めてしまった。いびきに近い寝息を立てる様は、言葉にならないほどあほ面だった。


 駅に着くまでの間、雨の降りしきる窓を眺めるふりをして、その口元に目を向けた。

 相変わらず皮が剥けて潤いのかけらもない貧相な唇。こんなので、よく彼女は我慢していられる。


 それでも、犬でも飛び出して、急ブレーキがかからないだろうか。事故という形で口を重ねてしまえないだろうか。そんな願望を抱いていた。

 

 吸い込まれるように唇に顔を近づけたその時、伊東が瞼を閉じたままフガッ、と豚のように鳴いた。

 咄嗟に離れると、伊東は自分の声で目が覚めたのか瞬時に飛び起き、「あれ、もう駅に着いたか?」とこちらに尋ねてきた。涎の跡が線のように残っているその頬を見て、思わず肩を震わせて笑った。


 いつしか腹の底に眠っていた邪念たちは雑踏と共に消えていた。

 心の底から、こいつはこのまま変わらずあほ面でいてほしいと思った。



 あれからも、伊東の隣で何食わぬ顔をして学校生活を送った。高校卒業までの間に、奴は何人かの女と別れや出会いを繰り返し、時には笑い、時には泣き面で報告をしてきた。


 乾いた笑いで聞き流す姿は、奴にどう映っていただろう。




「じゃあ約束、忘れんなよ」


 卒業式。桜散る校門前で、卒業証書を片手に伊東は笑った。


「お前とは卒業してからもずっと友達でいたいんだ。お前聞き上手だから話してて楽しいんだよ。だからさ、面倒くさがらずに、時々でいいから俺の話を聞いてくれよ」


 気味が悪いほど皺くちゃに微笑む栗色の瞳を見て、あることを誓った。




 壁に貼られたカレンダーをめくり、招待状に記された日付に文字を書き込む。自分以外は他に誰が来るのだろうと考える。


 同じ校舎で青春を過ごした同級生たちは今、何をしているのだろう。元気にしているだろうか。


 自然と蘇る高校の日常。


 落書きだらけの机。汚れた体操着。破れた教科書。甘すぎたコーヒー牛乳。


 中でも、栗色の瞳を思い描くたびに残像が瞼を焼く。懐旧とは違ったものが体を震わせる。


 それは実らなかったからではない。挑むことすらできなかった故だ。


 この感情が絡む現実で一番重要なのは、性格でも容姿でも家柄でも財力でもない。だからといって、力ずくで奴の嗜好を変えようとは思わなかった。


 自分の信念の力強さを何よりも理解していたからこそ、奴も同様に揺らぐことはないと分かっていた。それに自分の欲を追求して得られた幸福など、一時的で空虚なものだ。奴を不幸にしてまで築きたい幸福など、ありはしなかった。


 ただ、もしも世界に性別という概念がなく、人間という枠組みだけで情を得ることができたのなら。湧き出る感情が、体の作りだけで左右されない世界だったのなら。


 奴を腕の中に抱く機会が一度くらいはあったのではないかと、そのひび割れた唇に触れる勇気を持てたのではないかと、時々思ってしまうのだ。


『招待状届いたか? 欠席すんなよ? 約束、忘れたわけじゃないよな?』


 耳元で響く懐かしい声。電話は久々だというのに、鼓膜はその音をはっきりと記憶していた。


 もし青い勢いに任せて真実を伝えたとしたら、きっとこの報せは届いていない。十年経った今でも、電話越しでお互いの近況を伝え合う習慣もなかっただろう。


 潔かったからこそ、貪欲にならなかったからこそ今もまだ繋がっていられる。いつまでもくだらない話を聞いていられる。


『今度うちに遊びに来いよ。観光がてらにさ。新居に招待してやる。こんなのお前だけだぞ?』


 奴の幸せを、一番に祝える席にいよう。あの春の日、そう誓った。


 桜の花が散り、木々が青く生い茂る頃。眩しいほどの笑顔を向ける奴に、きっと眉尻を下げながら祝いの言葉を投げかけるだろう。心の中で、奴の笑顔が永遠であることをそっと願うだろう。



 この不毛も、一つの幸福の形であると信じて。

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