チョコレートしか食べたくない

1103教室最後尾左端

チョコレートしか食べたくない

「……ねえ」


「なに?」


「脚、外して。抜けない」


「ああ、そろそろ?」


「……うん」


「……」


「聞いてる?」


「もちろん。でももうちょっと」


「……ごめん、ホントに」


「…………」


「ねえってば」


「……いいよ。そのまま」


「え?」


「だから、いいよ。そのまま。今日はそのつもりだったし」


「いいの?」


「……嫌?」


「……そんなことない、けど」


「じゃあ、ほら、続き」


「……わかった」


「……ねぇ、その、さ」


「ん?」




「もうちょっと近く、来て」







 肌寒さを感じて、目が覚める。まだ外は暗い。


 彼女がいない。

 取り残された布団の中で、数時間前のことを思い出す。

 

 首、背中、両手、彼女が触れていてくれた部分だけが暖かく、それ以外は全部冷たかったことを覚えている。触れてもらえた部分だけがこの世界に存在しているみたいだった。


 彼女がいなくなった今、僕はこの世に存在しない。

 世界の中に、身体だけが晒されている。

 

 布団の中に、既に温みは殆どなくなっている。

 酷く寒かった。僕は布団を出た。


 窓の外は雪が降っていた。彼女は椅子に座ってぼうっと降ってくる白い粒を眺めていた。手に持ったマグカップからは白い湯気が立ち上っている。


「……おはよ」

「まだ夜だけどね」


 彼女はぼうっとした声でそういった。

 昨日の彼女とは全然違う人みたいだった。多分、もう違う人なのだろう。

 寝て、起きて、それでも同じだった人なんて、この世に一人もいない。


「昨日はお楽しみだったみたいだね」

「それ、当人が言うのはおかしいと思う」


 そうだね。と、彼女はぎこちなく笑う。

 冗談交じりだったけど、空気は他人行儀だった。

 彼女が違う人になったのと同じように、僕も違う人になっている。


 なのに、僕らがしたことは、ずるずると僕らについてくる。


「……体調、どう?」

「わかんない。ああやってするの、初めてだったし」

「なんか、感触違った?」

「……気持ち悪いよ。その質問」

「……ごめん」

「でも……いつもよりは近かったかな」


 あの時、彼女はとろけるように甘かった。

 そうでなければ、きっと正気になってしまっていただろう。


「……ね、後悔してる?」

「……してない」

「即答して欲しかったなぁ」

「ごめん」


 そして、あんなに甘くなかったら。

 こんなにざらざらした気持ちにもならなかっただろう。


「後悔、してる?」

「……わかんない」

「自分もじゃん」


 笑おうとしたけど上手くいかなかった。

 僕は、彼女とどうやってしゃべってたっけ。


「嫌、とかじゃないの。でも、よくわからない」

「……」

「この後、何が起こるのか、ちゃんと知っていたし、覚悟みたいなものもあった。でも、あの瞬間に全部分からなくなった」


 彼女の言葉は湯気の中に溶けた。

 いや、言葉だと思っただけで、本当にただの湯気だったのかもしれない。


 ちょうど、僕も同じことを考えていた。


 彼女の中で果てたあの瞬間、何もかもが分かったような気がした。

 でも次の瞬間、何もかもが分からなくなった。


 今の彼女は、果てしなく遠い。

 

「……どうなるんだろうね。これから」

「わかんないよ、先のことなんて」

「そうだね……」

「結局なるようにしか、ならないんだから」


 自分のセリフの薄っぺらさに口がねばねばする。

 甘いお菓子を食べた後、歯磨きをしないまま眠ってしまったときみたいな後ろめたくて甘いにおいが、口の中から漏れ出しているようだった。 


 でも、他になんて言えばいいんだろう。

 僕には何が言えるんだろう。

 何をしゃべっても自分の声に思えなかった。


 今の自分は、果てしなく遠い。

 

 あの時の彼女はもういない。

 あの時の僕ももういない。

 でも、僕らがしたことだけがひたすら残り続けている。


 それが、いいことか、悪い事か。

 そんなこと、酷く遠い世界のことに思えた。


 取り残された僕らは、現実感のないまま現実的な話をした。

 口の中には、ねばついた甘みが残っていた。


 とおからず、口の中は甘くなくなるのだろう。

 もし、そうなら。そうだとしたら。


「……今日ってバレンタインだよね」

「そういえば、そうだ」

「チョコ、買ってないや」

「……明るくなったら一緒に買いに行こう」

「雪、降ってるよ?」

「別にいいよ。今日はもう、」 



 チョコレートしか食べたくない。

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