縒る縄の紡ぐ契りは
呪文堂
よるなわの つむぐちぎりは
「ねえ」
「…うん?」
「その紐、取って」
「え?これ?」
畳に落ちた浴衣の
深雪は、そんな僕を優しく見上げた。澄み渡る清楚な表層に垣間見える
なのに、僕は…
深雪は。
僕の苦しみを包むように柔らかく微笑みながら、とんでもないことを口にした。
「ねえ。…これで、…縛ってみて」
◇
僕らはバイト先で出逢った。
高級ホテル内の喫茶店。大学二年の春に、僕は働き始めた。
職場柄、バイト仲間は美人やイケメンが多かった。でも僕は、彼らの輪に加わることはなかった。カウンターに配属された僕は、暇さえあればコーヒーメーカーの陰で本を読んでいた。
人嫌いと囁かれ、飲みにも誘われなくなった頃。地下鉄目指す帰り道、吹き上げる風が重い湿度を帯び始めた頃。
たまたまホール担当が出払っていた。
僕は、入り口に立つ彼女を迎えるためカウンターから出た。
水色のワンピースに白い日傘。小脇に抱える茶色い
「あの、アルバイトの面接に」
心が跳ねた。
その涼やかな声を耳にした途端、僕は急に息苦しくなってしまった。
店長の元に案内し、カウンターに戻る。
コーヒーメーカーの横で文庫本を開いたものの、文字の表層を滑るばかりだ。
初夏の頃。僕と
深雪はホール兼カウンターという、少し変則的な配属になった。大抵、女性はホール、男性はキッチンかカウンターに配属される。
その頃、カウンターの主のような先輩が大怪我をした。だから、僕は普段より多めのシフトを割り当てられていた。深雪も補充要員とされたらしい。
僕以上に無口な店長が、にゃりと笑って言った。
「武藤君。本城さんの指導を頼むよ」
本城深雪は、僕の直属の後輩となった。たった2ヶ月下の後輩だけど。
「武藤先輩」
「それやめてよ。同学年だしほぼ同期だよ」
「…なんてお呼びしたら?」
「武藤でいいよ。で、どうしたの?」
「武藤、さん。…あの、レモンスライスの厚さは」
「え?ああ、そんなもんでいいよ。てか、僕より断然上手だよ」
「ふふ。誉められた」
「…本城先輩って呼んでいい?」
「だめ」
深雪とはシフトが重なることが多かった。客入りの悪い平日は、深雪がホールで僕がカウンター。忙しい土日は二人でカウンター。
バイト先での読書量は、著しく低下した。
気づけばいつも、ホールに立つ深雪をカウンターから眺めていた。彼女は、他の子とは違って見えた。
深雪は姿勢が良い。なんというのか、バレリーナのようにすくっと立つ。その姿は冷たいくらいに清廉だった。だから、視線が凍ってしまったかのように僕はその姿に釘付けになった。
時たま、深雪はこちらを向いた。そして、優しく微笑んだ。
心臓が破裂しそうになり、僕は慌てて下を向いた。
八月が始まる頃。僕は意を決して、深雪を食事に誘った。
何をどう誘ったか憶えていない。頭が真っ白になり鼓動がやたら五月蝿かったのは憶えている。
私服に着替え、僕はホテルのエントランスで待っていた。重厚で華やかな雰囲気は、僕には息苦しかった。周囲の人々がかけ離れた存在に見えた。
そのとき、辺りが急にぱっと明るくなった。僕は、眼を凝らした。
豪奢な入り口から、彼女はすっと入ってきた。白いワンピースに白い日傘。やはり、大きな茶色い鞄を抱えている。鞄だけが若干の違和感を感じさせるものの、しかし彼女は重厚で華やかなエントランスに調和していた。まるで、
彼女はすぐ僕に気づいた。そしてぱたぱたと小走りで向かってきた。
ああ、そんなお転婆な。せっかくの止んごとなしが…
転ばないかと心配しつつ、猛烈に嬉しかった。かけ離れた存在が、その膜を破ってこちら側に来てくれたかのようだ。
「ごめんなさいっ!お待たせしちゃいました!」
気のせいか、いつもより少しだけ距離が近い気がした。とても佳い香りがした。
◇
夏風邪をひいた僕は、店長にバイトを休みたい旨の連絡をし、深雪にはメールをした。
深雪との関係は、まだ宙ぶらりんの状態だった。ちゃんと告白せねばと決意した矢先の風邪だった。
子供の頃から熱に弱い。38度を少しでも越えると、朦朧として世界が歪む。
ベッドの中で気怠さに漂っていると、玄関のチャイムが鳴った。
重たい体を引き摺って、ドアを開けた。
「あっ」
「ごめんねっ寝てたよね!起こしてしまってごめんなさい!スープと果物買ってきたの!よかったら後で食べてっ」
深雪は早口で言うと紙袋を玄関先に置き、赤面した顔を隠すようにして踵を返した。僕は慌てて深雪の腕を掴んだ。
「ま、待って。…あの、お茶、…飲んでいきませんか」
「…でも。武藤さん、寝ていないと」
「ずっと寝てた。…いや、部屋は汚れているし風邪引いてるし。…だめ、かな」
「……あの、…では…少しだけ…」
その時の僕は、発熱で正常な判断力を失っていたのだ。よくもまあ、あんな無防備な部屋に深雪を招き入れたものだ。思い返しても眩暈がする。
脱ぎ散らかした服を慌てて拾いながら、僕は座布団を探した。
「今、お湯を沸かすから」
「あ、わたしがやります。武藤さんは寝ていないと」
「大丈夫だよ、すぐだから」
お湯を沸かしてティーポットに紅茶葉を入れる。深雪は、紅茶が好きだと言っていた。
両手にティーカップを持って部屋に戻ると、深雪は本棚を眺めていた。
「凄い本の数。…武藤さん、本当に読書家ですねえ」
「本が好きなだけだよ。大したことないよ」
そう言いながら、ぼくはハッとした。
ま、まずいっ!
僕はジャンルを問わず、どんな本にも敬意を払う。つまり、猥雑図書も差別することなくちゃんと本棚に収めている。
家に招く程の友人はいない。まして、女の子など想定し得ない。
『東洋思想・荘子』のお隣には『OL縄化粧』が、『金枝篇』の横には『愛妻・官能検査』が寄り添う。艶本は、背表紙からして妖しい気を放つ。まずいのだ。
「ほ、本城さん!お、お茶っ!」
「ひゃ、ひゃいっ!」
深雪までが甲高く応答する。その視線は『彼女を優しく縛る緊縛指南』に固定されていなかったか?
僕らは向かい合い、俯きながら紅茶をすすった。火が吹くくらいに顔が熱い。ちらりと覗くと深雪も真っ赤だ。沈黙が支配する。
僕は沈みゆくような感覚に襲われながら、綻びた未来を脳裏で見送った。
「すぐ横になってくださいねっ…あのっ、私っ…明日もお邪魔しますからっ 栄養のあるご飯、お持ちしますからっ!」
僕はぼうっとした阿保ずらで「へ?」とか「なな?」とか呟いていたに違いない。深雪は「御馳走様でしたっ!」と大仰に頭を下げると、ぱたぱたと帰っていった。
僕は、どっと疲れてベッドに潜り込んだ。何がなんだか分からなかった。
でも。
未来はまだ、続いているようだった。
僕はグロだの暴力だのは嫌いだ。女性を乱暴に扱うことは許せないし、輪姦なんてフィクションだとしても言語道断。ネトラレというジャンルもその良さを解せない。…だが。
『縛られた女性』を。
美しいと思ってしまう。
何故、だろう?
…色々と考えた。
遥かに時を遡り。部族間の闘争。勝利し獲得した捕囚に対する高揚が、DNA レベルにまで刻まれて?
いや、そんなんじゃない。もっと根元的な欲求だ。…絡み合う二重螺旋の遺伝子構造。互いに絡まる形状こそが、生命の進化の鍵だ。直感的に、この形状に近似した『縄』というものに我々は神聖を見出だすのか?違うよな。
…考えても、解らない。
でも。
やっぱり美しいと、思えてしまう。
◇
勃たない。何故だ?
昨晩もイメトレに励んだ。深雪の姿態が浮かび上がった途端にギンギンで、あっという間に果ててしまった。むしろ、すぐにイッてしまわぬよう心諌めていたくらいなのに。
…なぜ、勃たないっ!
陶磁器のような白い背中。横たわりながら僕に包まれ、肩を竦めて小さくなっている。硬い殻に被われながら、中には甘く香しい汁が満ちる果実。艶やかな黒髪から覗く赤い耳たぶを優しく愛撫しながら、僕は焦燥に駆られる。
夢にまで観た、いや夢にも増して神々しく。柔らかく温かい、何ものにも換え難い美の結晶を目の前にして。…どうして僕のは勃たないのだ?
手を繋ぐだけでも硬くなり得る僕のそれは、何故この千載一遇のときに勃たないっ?
時を重ね、漸く得た天佑だろうにっ!
しかし。焦れば焦るほど、心中で罵れば罵るほどに、彼は沈黙した。
ED…?これはED というやつか?
調べてみると、ED には大きく分けて二種類あることが分かった。
器質性勃起障害。脊髄や脳神経の障害や血管損傷、陰茎破損などを原因とするもの。
もう一つは心因性勃起障害。トラウマや極度の緊張が原因。自慰行為では問題なく勃起できても、性交を前に勃起不全が生じる、これだ。
…トラウマはない。だって、なんの経験もないのだから。
つまり、原因は極度の緊張。いや、そりゃ緊張するさ!最愛の女神を前にしたら、極度に緊張しない方が変だろ?
…一体。世の男達は、この難題をどう乗り越えたのだ?
◇
「リラックスできるように雰囲気を変えてみる。最も昂奮するシチュエーションを作ってみる。成功体験を重ねることで克服される」
可愛らしい声のまま、まるで女医さんのように静かに語りあげる深雪。
心にじんと響いた。
…深雪も、調べてくれていた。
「わ、わからないけど。いろいろと、やってみましょう?」
優しく笑い掛けてくれた。その声は震えていた。羞じらいを飛び越えて、僕に言葉を届けてくれた。
僕はぎゅっと深雪を抱き締めた。体内にめり込むくらいに、強くぎゅっと。
深雪は少しだけ呻いたが、僕が為すままにさせてくれた。
僕のなかで。
巨大なうねりが生じ始めた。
旅先の旅館。いつもと違う和室に蒲団。
仄かに灯る角行灯。
浴衣を脱がされ。
一糸纏わぬ姿で横たわる艶やかな肢体。
白く細い手首に、優しく慎重に帯紐を巻いていく。捩れたりしないよう、丁寧に。締め付けないよう、気をつけて。
前手で縛り上げた両腕を、ゆっくりと頭上に押し上げていく。深雪は目をつぶって顔を背けた。紅潮し眉を
縛られた深雪の手首を優しく抑えたまま、僕はその手の甲に口づけをした。そして、手首の下を二の腕を、脇の下を脇腹を、丁寧に丁寧に吸い上げていった。深雪は身悶えた。僕は拘束した手首を離すことなく、丁寧な愛撫を繰り返していった。深雪は許してと喘ぐように言った。僕は許さないよと断ずるように告げた。登頂に震える蕾を口に含んで、優しく舌で潰した。深雪はぴんと突っ張った。僕は縛られたままの深雪を包むように抱きながら、押し広げていった。
深雪が僕を見上げた。僕はその瞳に頷き返した。僕はもう、自身の心配などしていなかった。深雪への愛おしさを体現することしか頭になかった。僕の脚が深雪の脚に割って入った。左手は手首を抑えたまま、右手は柔らかい太ももを抱えあげていた。
充分に濡れた互いを擦るようにしてから、僕は深雪の耳たぶを愛撫し囁いた。深雪はこくりと頷いた。
深雪の手首をその胸元まで下ろした。深雪はまるで祈りを捧げるような姿で、僕を見上げた。
入り口は堅牢だった。しかし、僕のはそれ以上に硬かった。漸く適切な侵入角度を見出だすと、それはゆっくりと没入していった。
全神経が集中した。強く軟らかく温かく。
祈りを捧げる女神を僕は突き刺し突き上げた。愛おしい女神を優しく抱き上げながら、激しい挿入を繰り返す。
女神の内部が熱くなった。
僕は、全てを出し尽くした。
◇
「しんちゃんって、普段はすごく優しいのに、・・野獣なのよね」
深雪は僕の呼称を変えていた。
「そうかな」
「そうよ」
「野獣は、嫌いですか?」
「…嫌いじゃ、ないけど」
「嫌なら、止めるよう努力します」
「嫌じゃないって言ってるでしょ」
「…好き?」
「ばか」
深雪は随分フランクな物言いをするようになってきた。それでもどこか凛とした清廉さを失わなかった。そんな深雪に、僕はかしずくように接するのが好きだった。
陽があるうちは、深雪がお姫様で僕は下僕だ。陽が沈めば、その立場は逆転する。
僕は縄を取り出した。見た目は禍々しいが、よく
深雪が僕を見上げた。か細い声で、囁くように言う。
「…今日は、…縛るの?」
「うん。縛りたい。嫌かい?」
「…大丈夫。…ちょっと、怖いだけ」
「怖いの?」
「ううん、よくわからないの。でも大丈夫。しんちゃん、いつもより優しくなるし」
「…縛ったときの方が、僕は優しい?」
「うん。とっても丁寧。いつも丁寧だけど、なんだか宝物みたいに扱ってくれる」
「深雪は宝物だ」
「ふふ、ありがとう。…変かもしれないのだけど」
「うん?」
「…な、なんかね。…縛られると、なんだか安心しちゃうの…」
「安心?」
「うん。…全部しんちゃんに、委ねていいような」
「ありがとう。とても嬉しい。…委ねてくれるかい?」
「…うん」
深雪は僕に背を向けて正座すると、両腕を背中に回してくれた。
僕はその両手首に赤い縄を丁寧に巻き付けていく。縄は長い。後で胸の上下を挟んで搾ろう…
俯く深雪の顎に手を掛けて、ゆっくりと上向かせる。ぎゅっと目を閉じている深雪に、僕の目を見てと言葉を掛ける。深雪は羞恥に染まりながらも、眩しいように目を細めて僕を見上げた。視線が絡まる。
その唇を奪い舌を入れる。おずおずと口を開く深雪。中に潜む舌を自分の舌で持ち上げ絡ませる。ぎこちなくも応ずる深雪。
舌と舌が。唾液と唾液が。
温かい滑りのなかで僕らは交わる。
縛り上げた手に指を絡ませる。
優しく握り返してくる深雪。
僕らは、交わる。
身体と身体。体液と体液で。
深雪と僕は。
互いに交わり絡み合って。
これからの未来を、紡いでいく。
二重螺旋の、縄のように。
了
縒る縄の紡ぐ契りは 呪文堂 @jyumondou
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