縒る縄の紡ぐ契りは

呪文堂

よるなわの つむぐちぎりは

「ねえ」

「…うん?」

「その紐、取って」

「え?これ?」


 畳に落ちた浴衣のひもを深雪に渡した。

 深雪みゆきは白くほっそりとした指でしばらく紐を弄んでいた。薄闇にぽおっと浮き上がる深雪の裸体に、黒い紐が時折絡まる。唾を呑み込む喉が、ごきゅりと音を立てた。僕は慌てて咳払いして誤魔化した。

 深雪は、そんな僕を優しく見上げた。澄み渡る清楚な表層に垣間見える瑞々みずみずしいエロティック。惹き込まれそうな瞳。体の芯を揺さぶる唇。

 なのに、僕は…


 深雪は。

 僕の苦しみを包むように柔らかく微笑みながら、とんでもないことを口にした。


「ねえ。…これで、…縛ってみて」




 僕らはバイト先で出逢った。

 高級ホテル内の喫茶店。大学二年の春に、僕は働き始めた。

 職場柄、バイト仲間は美人やイケメンが多かった。でも僕は、彼らの輪に加わることはなかった。カウンターに配属された僕は、暇さえあればコーヒーメーカーの陰で本を読んでいた。

 人嫌いと囁かれ、飲みにも誘われなくなった頃。地下鉄目指す帰り道、吹き上げる風が重い湿度を帯び始めた頃。


 たまたまホール担当が出払っていた。

 僕は、入り口に立つ彼女を迎えるためカウンターから出た。

 水色のワンピースに白い日傘。小脇に抱える茶色いかばんが大き過ぎて、それだけが不釣り合いだった。学生かな?と思ったとき、彼女が口を開いた。

「あの、アルバイトの面接に」

 心が跳ねた。

 その涼やかな声を耳にした途端、僕は急に息苦しくなってしまった。

 店長の元に案内し、カウンターに戻る。

 コーヒーメーカーの横で文庫本を開いたものの、文字の表層を滑るばかりだ。

 初夏の頃。僕と深雪みゆきは出逢った。


 深雪はホール兼カウンターという、少し変則的な配属になった。大抵、女性はホール、男性はキッチンかカウンターに配属される。

 その頃、カウンターの主のような先輩が大怪我をした。だから、僕は普段より多めのシフトを割り当てられていた。深雪も補充要員とされたらしい。

 僕以上に無口な店長が、にゃりと笑って言った。

「武藤君。本城さんの指導を頼むよ」

 本城深雪は、僕の直属の後輩となった。たった2ヶ月下の後輩だけど。


「武藤先輩」

「それやめてよ。同学年だしほぼ同期だよ」

「…なんてお呼びしたら?」

「武藤でいいよ。で、どうしたの?」

「武藤、さん。…あの、レモンスライスの厚さは」

「え?ああ、そんなもんでいいよ。てか、僕より断然上手だよ」

「ふふ。誉められた」

「…本城先輩って呼んでいい?」

「だめ」


 深雪とはシフトが重なることが多かった。客入りの悪い平日は、深雪がホールで僕がカウンター。忙しい土日は二人でカウンター。

 バイト先での読書量は、著しく低下した。

 気づけばいつも、ホールに立つ深雪をカウンターから眺めていた。彼女は、他の子とは違って見えた。

 深雪は姿勢が良い。なんというのか、バレリーナのようにすくっと立つ。その姿は冷たいくらいに清廉だった。だから、視線が凍ってしまったかのように僕はその姿に釘付けになった。

 時たま、深雪はこちらを向いた。そして、優しく微笑んだ。てつく雪原に突然春が訪れる。氷の女神は桃色に花開く。

 心臓が破裂しそうになり、僕は慌てて下を向いた。



 八月が始まる頃。僕は意を決して、深雪を食事に誘った。

 何をどう誘ったか憶えていない。頭が真っ白になり鼓動がやたら五月蝿かったのは憶えている。

 私服に着替え、僕はホテルのエントランスで待っていた。重厚で華やかな雰囲気は、僕には息苦しかった。周囲の人々がかけ離れた存在に見えた。


 そのとき、辺りが急にぱっと明るくなった。僕は、眼を凝らした。

 豪奢な入り口から、彼女はすっと入ってきた。白いワンピースに白い日傘。やはり、大きな茶色い鞄を抱えている。鞄だけが若干の違和感を感じさせるものの、しかし彼女は重厚で華やかなエントランスに調和していた。まるで、んごとなきお姫様のようだ。

 彼女はすぐ僕に気づいた。そしてぱたぱたと小走りで向かってきた。

 ああ、そんなお転婆な。せっかくの止んごとなしが…

 転ばないかと心配しつつ、猛烈に嬉しかった。かけ離れた存在が、その膜を破ってこちら側に来てくれたかのようだ。

「ごめんなさいっ!お待たせしちゃいました!」

 気のせいか、いつもより少しだけ距離が近い気がした。とても佳い香りがした。





 夏風邪をひいた僕は、店長にバイトを休みたい旨の連絡をし、深雪にはメールをした。

 深雪との関係は、まだ宙ぶらりんの状態だった。ちゃんと告白せねばと決意した矢先の風邪だった。

 子供の頃から熱に弱い。38度を少しでも越えると、朦朧として世界が歪む。

 ベッドの中で気怠さに漂っていると、玄関のチャイムが鳴った。

 重たい体を引き摺って、ドアを開けた。

「あっ」

「ごめんねっ寝てたよね!起こしてしまってごめんなさい!スープと果物買ってきたの!よかったら後で食べてっ」

 深雪は早口で言うと紙袋を玄関先に置き、赤面した顔を隠すようにして踵を返した。僕は慌てて深雪の腕を掴んだ。

「ま、待って。…あの、お茶、…飲んでいきませんか」

「…でも。武藤さん、寝ていないと」

「ずっと寝てた。…いや、部屋は汚れているし風邪引いてるし。…だめ、かな」

「……あの、…では…少しだけ…」


 その時の僕は、発熱で正常な判断力を失っていたのだ。よくもまあ、あんな無防備な部屋に深雪を招き入れたものだ。思い返しても眩暈がする。


 脱ぎ散らかした服を慌てて拾いながら、僕は座布団を探した。

「今、お湯を沸かすから」

「あ、わたしがやります。武藤さんは寝ていないと」

「大丈夫だよ、すぐだから」

 お湯を沸かしてティーポットに紅茶葉を入れる。深雪は、紅茶が好きだと言っていた。

 両手にティーカップを持って部屋に戻ると、深雪は本棚を眺めていた。

「凄い本の数。…武藤さん、本当に読書家ですねえ」

「本が好きなだけだよ。大したことないよ」

 そう言いながら、ぼくはハッとした。

 ま、まずいっ!


 僕はジャンルを問わず、どんな本にも敬意を払う。つまり、猥雑図書も差別することなくちゃんと本棚に収めている。

 家に招く程の友人はいない。まして、女の子など想定し得ない。

 『東洋思想・荘子』のお隣には『OL縄化粧』が、『金枝篇』の横には『愛妻・官能検査』が寄り添う。艶本は、背表紙からして妖しい気を放つ。まずいのだ。

「ほ、本城さん!お、お茶っ!」

「ひゃ、ひゃいっ!」

 深雪までが甲高く応答する。その視線は『彼女を優しく縛る緊縛指南』に固定されていなかったか?


 僕らは向かい合い、俯きながら紅茶をすすった。火が吹くくらいに顔が熱い。ちらりと覗くと深雪も真っ赤だ。沈黙が支配する。

 僕は沈みゆくような感覚に襲われながら、綻びた未来を脳裏で見送った。


「すぐ横になってくださいねっ…あのっ、私っ…明日もお邪魔しますからっ 栄養のあるご飯、お持ちしますからっ!」


 僕はぼうっとした阿保ずらで「へ?」とか「なな?」とか呟いていたに違いない。深雪は「御馳走様でしたっ!」と大仰に頭を下げると、ぱたぱたと帰っていった。

 僕は、どっと疲れてベッドに潜り込んだ。何がなんだか分からなかった。

 でも。

 未来はまだ、続いているようだった。




 僕はグロだの暴力だのは嫌いだ。女性を乱暴に扱うことは許せないし、輪姦なんてフィクションだとしても言語道断。ネトラレというジャンルもその良さを解せない。…だが。


 『縛られた女性』を。

 美しいと思ってしまう。



 何故、だろう?

 …色々と考えた。

 遥かに時を遡り。部族間の闘争。勝利し獲得した捕囚に対する高揚が、DNA レベルにまで刻まれて?

 いや、そんなんじゃない。もっと根元的な欲求だ。…絡み合う二重螺旋の遺伝子構造。互いに絡まる形状こそが、生命の進化の鍵だ。直感的に、この形状に近似した『縄』というものに我々は神聖を見出だすのか?違うよな。

 …考えても、解らない。

 でも。

 やっぱり美しいと、思えてしまう。





 勃たない。何故だ?

 昨晩もイメトレに励んだ。深雪の姿態が浮かび上がった途端にギンギンで、あっという間に果ててしまった。むしろ、すぐにイッてしまわぬよう心諌めていたくらいなのに。

 …なぜ、勃たないっ!

 陶磁器のような白い背中。横たわりながら僕に包まれ、肩を竦めて小さくなっている。硬い殻に被われながら、中には甘く香しい汁が満ちる果実。艶やかな黒髪から覗く赤い耳たぶを優しく愛撫しながら、僕は焦燥に駆られる。

 夢にまで観た、いや夢にも増して神々しく。柔らかく温かい、何ものにも換え難い美の結晶を目の前にして。…どうして僕のは勃たないのだ?

 手を繋ぐだけでも硬くなり得る僕のそれは、何故この千載一遇のときに勃たないっ?

 時を重ね、漸く得た天佑だろうにっ!


 しかし。焦れば焦るほど、心中で罵れば罵るほどに、彼は沈黙した。




 ED…?これはED というやつか?

 調べてみると、ED には大きく分けて二種類あることが分かった。

 器質性勃起障害。脊髄や脳神経の障害や血管損傷、陰茎破損などを原因とするもの。

 もう一つは心因性勃起障害。トラウマや極度の緊張が原因。自慰行為では問題なく勃起できても、性交を前に勃起不全が生じる、これだ。

 …トラウマはない。だって、なんの経験もないのだから。

 つまり、原因は極度の緊張。いや、そりゃ緊張するさ!最愛の女神を前にしたら、極度に緊張しない方が変だろ?


 …一体。世の男達は、この難題をどう乗り越えたのだ?

 




「リラックスできるように雰囲気を変えてみる。最も昂奮するシチュエーションを作ってみる。成功体験を重ねることで克服される」


 可愛らしい声のまま、まるで女医さんのように静かに語りあげる深雪。

 心にじんと響いた。

 …深雪も、調べてくれていた。


「わ、わからないけど。いろいろと、やってみましょう?」

 優しく笑い掛けてくれた。その声は震えていた。羞じらいを飛び越えて、僕に言葉を届けてくれた。

 僕はぎゅっと深雪を抱き締めた。体内にめり込むくらいに、強くぎゅっと。

 深雪は少しだけ呻いたが、僕が為すままにさせてくれた。

 

 僕のなかで。

 巨大なうねりが生じ始めた。




 旅先の旅館。いつもと違う和室に蒲団。

 仄かに灯る角行灯。

 浴衣を脱がされ。

 一糸纏わぬ姿で横たわる艶やかな肢体。


 白く細い手首に、優しく慎重に帯紐を巻いていく。捩れたりしないよう、丁寧に。締め付けないよう、気をつけて。

 前手で縛り上げた両腕を、ゆっくりと頭上に押し上げていく。深雪は目をつぶって顔を背けた。紅潮し眉をひそめるその表情は、今まで見たこともないくらいに美しく官能的だった。

 縛られた深雪の手首を優しく抑えたまま、僕はその手の甲に口づけをした。そして、手首の下を二の腕を、脇の下を脇腹を、丁寧に丁寧に吸い上げていった。深雪は身悶えた。僕は拘束した手首を離すことなく、丁寧な愛撫を繰り返していった。深雪は許してと喘ぐように言った。僕は許さないよと断ずるように告げた。登頂に震える蕾を口に含んで、優しく舌で潰した。深雪はぴんと突っ張った。僕は縛られたままの深雪を包むように抱きながら、押し広げていった。

 深雪が僕を見上げた。僕はその瞳に頷き返した。僕はもう、自身の心配などしていなかった。深雪への愛おしさを体現することしか頭になかった。僕の脚が深雪の脚に割って入った。左手は手首を抑えたまま、右手は柔らかい太ももを抱えあげていた。

 充分に濡れた互いを擦るようにしてから、僕は深雪の耳たぶを愛撫し囁いた。深雪はこくりと頷いた。

 深雪の手首をその胸元まで下ろした。深雪はまるで祈りを捧げるような姿で、僕を見上げた。

 入り口は堅牢だった。しかし、僕のはそれ以上に硬かった。漸く適切な侵入角度を見出だすと、それはゆっくりと没入していった。

 全神経が集中した。強く軟らかく温かく。

 祈りを捧げる女神を僕は突き刺し突き上げた。愛おしい女神を優しく抱き上げながら、激しい挿入を繰り返す。

 女神の内部が熱くなった。

 僕は、全てを出し尽くした。





「しんちゃんって、普段はすごく優しいのに、・・野獣なのよね」

 深雪は僕の呼称を変えていた。

「そうかな」

「そうよ」

「野獣は、嫌いですか?」

「…嫌いじゃ、ないけど」

「嫌なら、止めるよう努力します」

「嫌じゃないって言ってるでしょ」

「…好き?」

「ばか」


 深雪は随分フランクな物言いをするようになってきた。それでもどこか凛とした清廉さを失わなかった。そんな深雪に、僕はかしずくように接するのが好きだった。

 陽があるうちは、深雪がお姫様で僕は下僕だ。陽が沈めば、その立場は逆転する。


 僕は縄を取り出した。見た目は禍々しいが、よくなめしてあり肌を傷つけることはない。

 深雪が僕を見上げた。か細い声で、囁くように言う。

「…今日は、…縛るの?」

「うん。縛りたい。嫌かい?」

「…大丈夫。…ちょっと、怖いだけ」

「怖いの?」

「ううん、よくわからないの。でも大丈夫。しんちゃん、いつもより優しくなるし」

「…縛ったときの方が、僕は優しい?」

「うん。とっても丁寧。いつも丁寧だけど、なんだか宝物みたいに扱ってくれる」

「深雪は宝物だ」

「ふふ、ありがとう。…変かもしれないのだけど」

「うん?」

「…な、なんかね。…縛られると、なんだか安心しちゃうの…」

「安心?」

「うん。…全部しんちゃんに、委ねていいような」

「ありがとう。とても嬉しい。…委ねてくれるかい?」

「…うん」


 深雪は僕に背を向けて正座すると、両腕を背中に回してくれた。

 僕はその両手首に赤い縄を丁寧に巻き付けていく。縄は長い。後で胸の上下を挟んで搾ろう…

 

 俯く深雪の顎に手を掛けて、ゆっくりと上向かせる。ぎゅっと目を閉じている深雪に、僕の目を見てと言葉を掛ける。深雪は羞恥に染まりながらも、眩しいように目を細めて僕を見上げた。視線が絡まる。

 その唇を奪い舌を入れる。おずおずと口を開く深雪。中に潜む舌を自分の舌で持ち上げ絡ませる。ぎこちなくも応ずる深雪。


 舌と舌が。唾液と唾液が。

 温かい滑りのなかで僕らは交わる。

 縛り上げた手に指を絡ませる。

 優しく握り返してくる深雪。


 僕らは、交わる。

 身体と身体。体液と体液で。

 深雪と僕は。

 互いに交わり絡み合って。

 これからの未来を、紡いでいく。




 二重螺旋の、縄のように。 



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縒る縄の紡ぐ契りは 呪文堂 @jyumondou

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