チョコの甘さも分からない

位月 傘

「好きです、付き合ってください」

「は!?誰!?」

「同じクラスの塔野誠司だ。時間を取らせてすまなかった」


 これが高校1年の冬のことだから、大体一年くらい前だろうか。ばっさり切り捨てられるとはこのこと、と言った振られ方をした訳だけれど、俺は未だに彼女が――高嶺つづみさんが好きだった。


 高嶺つづみのことを同級生が語るとき、大抵は二言で終わる。絶世の美人、だけど性格がキツイ。まさに高嶺の花だ。

 入学から数か月もたたずその噂が広がった中、1年生も終わるという時期に告白した俺は一部の人間から勇者扱いされていたらしい、というのは最近聞いた話だ。もちろんそこに良いニュアンスが含まれてはいないだろうから、わざわざ教えてほしくは無かったが。


「わっ」

 

 告白した次の日、いつもは誰もいない教室に珍しく人がいた。高嶺つづみは本当に純粋に驚いた顔をして、俺のことを呆気にとられたように見つめた。


「おはよう」


 挨拶だけ済ませて早々に席に着く。今日は英語と数学の小テストがあるので、鞄から必要な道具だけ取り出して自習を始める。

 この時間は人も少ないし、窓の外から聞こえてくる部活動の朝練の声が聞こえてきて、かえって完全な無音よりも集中できる。生徒の登校時間までという明確なタイムリミットがあるというのも要因の一つだろう。


「――いや、おかしいでしょ!」


 静寂とは無縁の、甲高い声が耳を突きさす。声の主に視線を向ければ、彼女は変なものでも見てるような瞳で俺を見つめて来た。


「アンタ、昨日あたしに振られたのよ!なんかこう……もっとなんかないワケ!?」

「なんか……?」

「嫌な顔するとか、嫌味言うとか、怒るとか」

「……高嶺さんが今までどういう目に遭ってきたかは知らないが、そんなことしない人間が大半だと思うよ」

「それにしても、なんていうか……」

「俺としては、貴女がそんな風に困惑していることの方が不可解だ」


 高嶺の花、しかも高嶺と言っても氷山の、だ。そんな彼女が、たかだか振った男程度に振り回されるだなんて想像できるだろうか。

 おまけに今の彼女は煮え切られない言葉が多いというか、言いたいことを避けているような物言いをして口ごもっている。あの時俺を振った時の、ある種清々しい態度とはかけ離れている。


 高嶺さんはあーとかうーとか意味のない言葉言いながら、神経質そうに耳にかかっている髪をかけなおす。


「その、悪かったわね。昨日、ちょっと言い方きつかったかもって」

「あぁ、そのことか。気にしないでくれ、俺も気にしていないから。言いふらすつもりもないし、その点でも安心してもらっていい」

「……ふーん、気にしてない、ね。昨日の今日でもう心変わりでもした?」

 

 神経質そうな彼女の声に、表情にこそ出していなかったが、俺はもう正直どうすれば良いのか分からなかった。彼女は俺に何を求めているんだろうか。


「俺はそんなに潔い男じゃないよ。だからあんまり人を煽るようなことは言わないほうが良い。もしこの場にいるのが俺じゃなくて、もっと短気な相手だったら、暴言なんかじゃ済まないかもしれない」

「ふん、アンタがそうしないっていう保証はあるの?」

「そうだな。それなら人が来るまで俺は教室から出ていよう」

「ばっ、ばかばか!そんなにアタシを悪者にしたいワケ!?こんな寒い日に廊下に放り出すなんてしないわよ!」


 そう言われてしまっては、今度はこちらが唸る番だ。俺は彼女に決して手出しをしないと誓えるが、それを目に見える形で彼女に証明することは難しい。それに確かに人が来た時に俺が廊下に突っ立っていて、彼女が一人教室に残っていたら訝しがられるだろう。

 

「ちょっとした冗談じゃない。バカ真面目なアンタが変なことするなんて、このクラスに居る奴なら誰も思わないに決まってる」

「……俺のこと知ってたのか?」


 そう問えば、彼女はぴしりと動きを止める。聞かないほうが良いことだっただろうか。数秒の後、高嶺さんは開き直ったのかキッと目を吊り上げる。


「同じクラスなんだから、当たり前じゃない。昨日のは……普段なんにも興味なさそうな顔をしてるアンタが、突然好きだなんて言ったから別人かと思って、それに罰ゲームで告白なんて子供みたいなこと、しないだろうし……」

「うーん、そんなに分かりづらかったか?俺はずっと貴女のことを目で追ってしまっていたのだけれど」


 彼女は再びぴしりと固まった。白い肌が、水に絵の具を垂らしたように次第に赤くなっていく。


「は、話したこともなかったのに」

「うん。一目惚れだったから」

「馬鹿らしい、一目惚れは恋なんかじゃないわ。一目惚れなんて言う奴は、軽薄で調子の良いのばっかり」

「別に、信じてくれだなんて言わないよ。それでも俺は、貴女が好きだ」


 報われるために恋をしているんじゃないし、同じ気持ちが返ってこなければ恋でないなんてことはない。俺にしてみればその軽薄な人たちも恋はしていたのだろうと思う。彼女が考えるものとは違っただけで。


「高嶺さんが誰かと付き合ったり、俺のことが心底嫌いだったとしても、俺は貴女が好きだ。将来どうなるかなんて確定は出来ないけれど、きっと人生のうちにこれほど好きになれるのは、貴女だけなんだろうとさえ思うほど」

 

 紛うことなき一目惚れだった。光の加減で色を変える黒髪も、しゃんと伸びた背筋も、彼女の一挙手一投足にも目を奪われた。

 噂を聞いても、振られても、こうやって実際に会話してみても、まだ俺は高嶺さんが好きだ。この感情が嘘だというなら、他の何を感じたって本物にはなれないはずだ。


「塔野くんって、笑えたのね」

 

 知らず知らずのうちに顔が緩んでいたらしい。滅多に表情が動かなくて威圧的だとか怖いとか言われがちだったから、その反応自体は当然のものだろう。だけれど彼女が予想外にあどけない表情と声でそう言ったから、俺は変に動揺して言葉に詰まってしまった。

 

「どうやら俺は好きなひとのことを考えていたら、つい間抜けな顔をしてしまうらしい」


 誤魔化すようにそう言うが、彼女は未だにぼうっと俺のことを見つめている。そうやって無防備な姿を晒されると、本当に信用されていると勘違いしてしまうからやめてほしい。


「高嶺さん?」

「えっ、な、なに!?」

「反応が無かったけど大丈夫か?体調が悪いなら先生に伝えておくから、保健室に言ったほうが良い」

「何でもない!ばか!一目惚れなんて馬鹿だって考えてたの!」


 いつも洗練された仕草な彼女が、珍しくぎくしゃくとした動作で自分の机まで戻っていく。髪を掛けた耳を赤く染めながら、彼女が小さな声で再度「一目惚れなんて馬鹿だ……」と言ったのが聞こえて、苦笑いをこぼす。どうやら俺の恋は、高嶺さんに受け入れられるどころか、届くことさえ無いようだ。

 


 これが大体1年前の出来事。何故かこの後から時々高嶺さんに話しかけられるようになって、所謂友達という関係に落ち着いた。


「塔野くん、昼休み空いてる?もちろん空いてるわよね?」

「こっちとこっち、どっちが好き?なんで自分に聞くのかって、そ、そんなことよりどっちが良いのかさっさと教えてよ!」

「はい、プレゼント。今日誕生日でしょ。お礼は3倍返しでいいわよ。……えっ冗談に決まってるじゃない!ばか!」


 お前たちは付き合っているのかと聞かれることもあるが、一度振られているのでそんなことはあり得ないと告げれば、何故だか遠い目をして「そうか……」とか「マジで言ってる?」他には「負けるな、つづみ…!」と言われた。全く意味が分からない。

 そもそも負けっぱなしなのは好きな人に声を掛けられて、もう脈が無いのに喜んでいる自分のほうだ。


 だから俺は、ひとつ誓いを立てた。バレンタインに義理チョコをもらったら、はっきり言おう。変に期待をしてしまうからやめてくれ、俺は未だにあなたか好きな諦めの悪い男だと。

 別に付き合えなくても仕方がないと思っていた。今でもその考えは変わらないし、恋人になれないということは恋が消える理由にはならなかった。

 だけれど仲良くなればなるほど、いつかはこの距離に別の人間がいるという事実が苦しかった。貴女を想って枕を濡らすような女々しい男だと知ったら、彼女は幻滅するだろうか。


「と、塔野くん!」


 不自然に上ずった声で呼び止められて、足を止める。上ずっているとは言え、誰なのかについてはすぐに分かった。


「高嶺さん?」

「2月14日……ちがう、月曜日って空いてる?」


 月曜日はそのまま2月14日なのだが、わざわざ言い直されたということは、日付に特別な意味なんてないぞという警告だろうか。だけれど素直じゃない彼女のことを考えると、彼女のほうがバレンタインデーというものを意識しているのではないかなんて勘ぐってしまって駄目だ。


「空いてるよ」

「ほんとっ!?……こほん。放課後ちょっと用事があるから付き合ってもらうわ。忘れて先に帰るだなんて間抜けな真似しないでよね」

「あぁ、気を付ける。だが14日じゃないと駄目なのか?別に今日も明日も開いているが」

「一々突っ込んでこないでよ!アンタと違ってアタシは忙しいの!わかった!?」


 擬音がつきそうなほど怒って彼女はさっさと帰ってしまった。1年生の頃とは一変して、というほどではないが、2年生に上がってからの彼女の評判は少しだけ変わった。


 絶世の美人、だけど性格がキツイ。そんでもって努力家で不器用。それが今の彼女、らしい。

 正直に言ってしまうと、俺はあの頃の高嶺さんと何が変わったのかあまり分かっていない。しいて言うなら、先ほどのように俺はよく彼女を怒らせてしまう。それに俺としては、彼女自身よりも周囲の方が変わったように見える。

 高嶺さんは今ではクラスメイトとも気軽に話しているし、友人だって居る。だから余計に何かに俺を誘う彼女の行動は不可解でもあるのだけれど。



 2月14日。バレンタインデーだ。心なしか浮足立っている人間が多い気がするのは、俺自身が常とは異なる感情でいるからそう見えるだけだろうか。

 今日チョコレートをもらったら、1年前の距離に戻る。元に戻るだけだから、別に苦しいことはない。だけどそれを彼女に伝えたら、自分勝手な理由だと怒らせてしまうのではないかと憂鬱だった。

 

「塔野先輩、今いいですか?」


 昼休みに入り声をかけてきたのは、中学のころから知っている後輩だった。彼女はやたら俺に懐いて、というか尊敬してくれているらしく「先輩と同じ学校が良くてここに決めました!」なんて言われたことを思い出す。


「はい、チョコです!もちろん本命ではないので安心してください!」

「ありがとう。彼氏にはもう渡したの?」


 首を傾げて訪ねれば、後輩は遠い目をして笑った。そもこうして仲良くなったのも、数年単位で彼女の恋愛相談に乗っていたからだ。昨年無事成就したと報告を受けていたし、最近でも時々喧嘩はするものの、おおよそ仲良くやっていると聞いていたのだが、これはまた何かあったのだろう。


「せっかく手作りしたなら、早く謝って渡した方が良いと思うよ」

 

 手作りの料理はやはり市販品よりも足が速い。後輩自身もいつまでも意地を張ってるわけにはいかないと分かっているのだろう。むむむと眉間に皺を寄せて、スカートを握り締めている。

 

「私だって分かってますよ、分かってますけど……」


 恐らくその彼に渡すであろう箱を持って頬を染めている様子を見たら、1年前のことを思い出した。ちょうど1年前。俺が彼女に告白する前日に、クラスメイトの女の子が俺に告白してくれた。

 赤い頬。期待と不安に揺れた瞳に、震えた声。きっとすごく勇気を出してくれた。だからあの時の女の子には申し訳ないけれど、俺は彼女の姿を見て高嶺さんに告白する勇気をもらった。


「想いが通じ合っているなら、ただ誠実であればいいんだ」


 純粋な恋心は、美しいものであってほしい。1年前に彼女がくれたそれがそうであったように、俺の中にあるものも、決して人に恥じないものであれと。

 純粋で誠実であるなら、きっと後輩の恋人だって意地をこれ以上張ることはないだろう。


「真摯に謝って、それでもダメだったらまたおいで。俺はいつだって話を聞くから」

「せんぱい~~~……。先輩の恋愛相談も私いつでも聞きますからね!!」

「前にも言ったけど、俺は相談するようなことはないよ」


 一度振られている身だ。一度振られたくらいでなにくそと思うような人間でもない。だのに後輩は、俺の返事に今日一番大きなため息を吐いた。


「知らぬは本人ばかり……。まぁいっか。アドバイスありがとうございました!」


 彼女は早々に身を翻し、廊下を駆けてる最中に先生に叱られていた。きっと俺の言葉なんてなくても、素直な子だからすぐに謝れていただろう。だけれどほんの少しでも人の背中を押してやりたいと思うのは、悪いことではないはずだ。


 そういえばまだ弁当を食べていなかったなと思いつつ早々に教室の扉を開ければ、扉の前に高嶺さんが立っていて、目があってお互い驚いてしまった。


「ごめん、出づらかったか?」


 扉の真正面で話していたわけではなかったけれど、教室の前でおしゃべりをしていたから邪魔になっていたのかもしれない。

 そんな俺の心配をよそに、彼女はまた不機嫌そうに目尻をキッと上げた。


「さっきの子、誰?」

「後輩だ。チョコを渡しに来てくれたらしい」


 一体どうしたのだろうと思いつつそう返せば、高嶺さんはよろよろとして机に手をついた。


 もうだめ、なんで呻いている高嶺さんに、彼女の友人たちは大丈夫だって!と声をかけている。どうやら状況を理解できていないのは俺だけらしく、他のクラスメイトも生ぬるい目でこちらを見ていることに気づいた。


「体調が悪いのか?それなら今日の予定は別日に回しても……」

「気にしなくて良いから!ぜったい、今日の放課後、残ってなさい!」

「そうか、無理はするな」


 少し心配だが、体調が悪いわけではないらしい。それにこれ以上追及してまた怒らせてしまっても申し訳ない。

 バレンタインデーにチョコをもらったら距離を取る、と決めたから、あわよくば別日に出来ないだろうかなんて考えていたけれど無理そうだ。そもそも義理やら友チョコなんかを渡すなら教室でさっさと渡しても構わないだろうから、きっと用意をしてないんだろう。あんまり心配する必要も無くなってきた気がする。


 そう考えたら、午後は今朝よりもずっと集中して授業を受けれた。自分に特に関係の無いイベント一つでここまで心を乱してしまうなんて、改めて考えると恥ずかしい。そもそもチョコレートを今日貰えるかもしれないだなんて、いくら仲良くなってきたからといっても随分な自惚れだったのだ。

 己の恥を自覚すれば、ずっと息がしやすくなるというものだ。貰えることはこれ以上ないくらい嬉しいけれど、貰えないことについては何も思わない。本来、振られている俺が貰えるようなものではないのだ。

 それに彼女は新しい友人も出来た。以前であればまともに話しているのが俺一人だけだったから仕方ないかったとはいえ、今や俺のようなつまらない人間が彼女の友人である必要は無い。

 

 

「それで、今日は何の用事だ?」


 一人じゃ行きづらい場所があった?カップル限定の割引がある店?荷物持ち?それとも意見が必要な物を買いに?

 彼女が日直の仕事を終えるのを待っていたら、教室には俺たち二人きりになってしまった。手持ち無沙汰になり、日誌に向かい合っている彼女の隣の席に腰掛けてそう尋ねた。随分前から彼女の手は生徒が自由に記入できる欄で止まっている。何文字以上という規定があるわけでもないから、この後予定がある人間にしては不可解な行動だった。


 俺の言葉を聞いた彼女は肩を揺らして、それから意を決したように息を一つ吐いた。


「……はい、あげる」


 無地の紙袋を差し出され、中を見てみるとラッピングされた箱が入っていた。無意識に自分の眉間に皺が寄っていたことに気づいて、頭を振って思考をリセットする。


「チョコレート?」

「なに?文句でもあるの?」

「あるよ」


 考えるよりも先に言葉が出ていた。そんな資格はないけれど、どうしようもなく彼女の行動を責めてしまいそうになる。


「少しでも俺を想ってくれる気持ちがあるのなら、優しくしないでくれ」


 言葉は自分が思っているよりも、ずっと切々とした響きを持っていた。


「俺は未だに貴女のことが好きな、未練がましい男だから。高嶺さんだって、勘違いされたくないだろ?」

「……ない」

「え?」

「勘違いもしてくれなかったじゃない!!」

「た、高嶺さん?」


 彼女の大声で今まで考えていたことが全部吹き飛ばされる。目の前には感情が高ぶったせいか顔を赤くして瞳を潤ませている女の子がいる。それがいつかどこかで見た女の子の姿と重なった。


「そうよ、悪かったのはあたしだって分かってる!だけど振ったのにその後すぐ告白するってなんか図々しいじゃない!軽い女だって思われたくなかったの!」


 高嶺さんが放つ言葉は、まるで違う国の言語みたいだった。全然理解が出来なくて、思考が止まる。だけれど彼女が何かを伝えたいのだということだけは分かった。


「だけど時が経てば経つほど、もうあたしのことなんて好きじゃ無いんじゃないかって思って、一年もずるずる引き延ばしちゃって……」


 いよいよ彼女の声が泣き出す寸前みたいに震えてきて、もう本当に参ってしまいそうだった。

 ブレザーの裾を掴まれる。背の高い俺を見上げるのは苦しいだろうけれど、それでも彼女はまっすぐ俺の瞳を見つめた。


「お願い、ほかの子なんて、すきにならないで……」

「……伝わってなかった?」


 それまで黙って聞いていたけれど、びっくりして、思わず口をはさんでしまった。俺が想定していたよりも彼女はずっと鈍い人間なのだと理解して、つい苦笑いが零れる。


「俺が見てたのは、ずっとあなただけなのに」


 彼女はあどけない表情で俺を見つめ続けて、それからぼろぼろと泣き出した。

 やばい、怖がらせてしまったのだろうか。それとも途中で口を挟んだのが悪かったのだろうか。

 涙が頬を伝うのを見ているのは痛々しくて、かといって触れるのは戸惑われる。だけれど彼女は自分で涙を拭う素振りは無い。


「触れてもいいか?」


 居たたまれなさに、とうとう根を上げた。黙って幼子のように頷くのを確認して、予備の綺麗なハンカチを鞄から取り出し、肌に指が直接当たらないように注意しながら涙を拭う。

 彼女が俺のブレザーの裾を掴んでいた手を放したことにほっとしたのも束の間、彼女の顔のすぐそばにあるハンカチを持っていた俺の手を上から包み込むように握った。

 驚いた猫みたいに距離を取ろうとした体をぐっと抑える。わざとじゃないからって、突き飛ばして怪我でもさせたら責任取れない。


「好きよ、塔野くんが一番」


 星のような瞳が俺をとらえて、微笑んだ。聞いたことのある中で、一番穏やかな声で彼女はそう囁く。

 嘘だと思った。だけどそれを口に出すことはしなかった。誰かの好意を、受け入れられないからというだけの理由で撥ねつけるのは最低だし、何より彼女がそんな悪趣味な嘘を吐くようなひとではないと信じているから。

 だから俺はつい顔を逸らす。依然として手は掴まれたままなので逃げ出すことは叶わないから、せめてもの抵抗だった。


「ちょっと、何とか返事しなさい……よ…………?」


 つなぎ留められていた手を放されていたと思ったら、今度は逸らしていた顔を捕まえられて、無理矢理顔を合わせられる。怒りと不安が滲んだ声は、その瞬間ぴたりと静まり、まじまじと俺を見つめる瞳だけが、何を考えているのか雄弁に語っていた。

 逃げ出すように視線だけ逸らす。もう涙は止まっているようで、そこだけは安心した。


「みないで、くれ」


 みっともなく震えた声は、もしここが喧噪の中だったらかき消されてしまうほどの声量だった。信じられないくらい顔が熱い。それだけならまだしも、視界が霞んでいるところなんて、本当に見られたくなかった。


「塔野くんって、照れたりするのね」


 感心した風にそうは言っているものの、すぐに揶揄いの色が含まれていることに気づいて一層居心地が悪い。自分より慌てている人がいると逆に落ち着いてくるみたいな心理なんだろうか。高嶺さんはすっかりいつもの様子を取り戻していた。

 いや、いつも通り、というよりは、上機嫌と言ったほうが正しいだろう。


「ほら、あたしが好きな塔野誠司くん、返事は?」


 高嶺さんはなお俺をいじめようとしているらしい。だけれどこれは好機だ。だって彼女はひとつ勘違いしている。別に俺は、相手に好意を伝えること自体は、ちっとも恥ずかしくないから。


「貴女が好きです。俺を恋人にしてくれますか?」


 高嶺さんの顔がじわじわと赤に染まる。知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。誰かに対して仕返しをしたのなんて、これが初めてのことだった。

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