この文体でパーマンの話をきく不思議

 まず最初に、わたしはQちゃん派だ。マニアでもない。
 身内が入院した病院にあった「オバケのQ太郎」を園児の頃に読破し、新装版が出た機会をとらえて懐かしくなり買い揃えた。長い間再販が許されていなかった作品なので幻の漫画に逢えたような気がした。
 ただそれだけの読者だ。

 さて、大田康湖さんのエッセイである。
 かっこいい文体だ。男性的であり、女性の物書きにありがちな情緒的なゆらぎがない。
 問題はそんなかっこいい文体で語られる回想記の主軸が、藤子・F・不二雄の「パーマン」であるということだ。
 なぜパーマン。
 個人的感想であることを保険にかけてあえて云うのだが、この文体ならば、半生の回顧をまじえて語られるに相応しいのは大河ドラマや時代劇ではないのだろうか。
 女性が「パーマン」にここまでのめり込み、二次創作まで作り上げ、創作人生のほとんどをパーマンと共に歩いているということが信じがたかった。

 先日、子どもの頃に夢中になった児童書が今も心の中に息づいて人生の支えになっている方のエッセイにレビューを寄せたのだが、児童まんがや児童書というのは特別なものだ。それははじめて私たちに物語の扉をひらき、その奥まで誘ってくれる最初のエントランスになるものだ。忘れ難いし、忘れるようなものではない。そして、まだ半分夢の中にいるような幼い頃ですら、お気に入りとして選び取った物語に後年の趣味嗜好がちらついていることに愕かされたりする。

 無知なわたしは女性の場合、その成長に応じて段階的にエントランスとの卒業が来るものではないかと今まで想っていた。
 確かにわたしも幼少期はオバケのQ太郎を読んでいた。その他の児童書も読んでいた。しかしだんだん大人の小説や漫画に昇格していき、Q太郎や少年少女文庫には戻らなかった。
 子どもの頃に夢中になっていたそれらを人生を変えた一冊として取り上げることがあったとしても、今それを読んでも、懐かしさとともに少し距離をおいて愛でるだけのものなのだ。

 ところが、大田さんは小学生の頃と変わらぬ熱さでパーマンへの専心を今も続けておられる。半世紀に届こうとする物語との付き合い方の中で、二次創作として空想の中に広がる世界はパーマンなのだという。まずそれに愕いた。たとえパーマンを手放さぬまでも、十代のどこかで他の創作物に興味が移行しなかったのだろうか。

 回顧録を読んでいると有名な少女漫画も読んでおられたようだ。ガンダムをはじめとするアニメにもかすっているし、そのうちの幾つかは大田さんのお気に入りになってもいる。
 しかしパーマンは大田さんから離れない。
 官公庁の公布かと想うような抑制的な文体で語られるパーマン。
 エッセイを読んでいる間、わたしはこの落差にただただ愕いていた。大人向けのパーマンでもあるのかと検索したほどだ。

 こうなったら大田さんにはパーマン愛を生涯貫いてもらいたい。
 亡くなる時には過去の二次創作も含めてすべて棺に納めて、パーマンと共に憧れのバード星に行って欲しい。その時がくれば、間違いなく大田さんは最終回「バード星への道」を飾ったのだと想うだろう。
 パーマンが大田さんであり、大田さんがパーマンなのだ。
 平凡な読書体験しかないわたしにはそれしか云えない。
 その年でパーマン? などという下らない揶揄いなど、本物のマニアには傷一つつけられない。
 大田康湖さんは、パーマンα号だ。

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