第39話 栗谷佐和怪談③
水中に沈み込んでいく体は、ドロドロと重く溶けていくようで──、脳裏に過ぎるのは死の文字だけだった。
水面に上がれる程の酸素がもうない。
何より、この腕で抱えた意識のない音話を離すわけにはいかなかった。
もうダメだ……、そう思って諦めかけた。
朦朧する意識の中、水でボヤけた視界に人影が映り込む。
──人……、助け……て……。
それは人なのか、幻覚か、はっきりわからなかった。とにかく助けて欲しいとそう願った。
そのままスーと引きあげられて行く感覚を感じる。水中の圧迫を掻き分け、顔に冷たい空気が触れた。
「ぶはっ!」
水面に浮上すると同時に大きく息を吸い込む。
わずかな酸素と器官に残った水が肺に入り込み、そのまま咳き込んだ。
風船が膨らむように酸素を肺が求めた。
何度も……、何度も、何度も、吸い込んでは咳き込み、吸っては咳き込みを繰り返す。
「國枝っち!」
「國枝くん!」
頭上から照らしだされた懐中電灯の先に、心配そうにこちらを覗く鈴蘭と望月が見えた。やや、遠い意識で目を凝らす。
──あれ? じゃぁ助けてくれたのは?
いや──、それよりも──
「音話!」
呼吸が整った瞬間、忘れていた音話の存在に気づいた。気が動転して、頭が真っ白になった。
音話を抱えていたはずの腕が軽い。
──ない、ない、ない、ない、ない!
胸元に視線を下すと、そこにあったはずの音話が──
──いなかった。
やっちまった……、そう思い絶望した。
慌てて再び潜ろうとした瞬間。
「落ちついたようね」
と、すぐ耳元で女性の声がした。
その声の方へ振り向くと、見覚えのあるメイド服の女性が、俺の体を支えて水中に浮いていた。
──この人は……、坊さんの怪異の時の……。
たった一度出会っただけの女性だが、出会いが衝撃的だったのと、絵に描いたような美しいメイド姿という非現実的な格好のせいか、この女性の存在が記憶に深く刻まれていた。
そして、すぐにこの女性が助けてくれた事を察した。
「はっ! 音話ッ!」
しかし礼を述べるより先に、音話の元に急がなくてはならないという衝動が、再び水中に潜らせようとする。
「そう慌てるな、探しモノはここだよ少年」
背後から凛々しくも、鋭い男の声がする。
振り向くと、メイドの主人である紳士の男性が音話を抱えて浮上していた。煌びやかなスーツがびしょ濡れで台無しである。気を失った音話が、紳士の肩に項垂れるようにのしかかっていた。
──は、よ、良かった……。
状況を理解した途端、安堵の気持ちから体からスッと力が抜け落ちてガクンとうなだれそうになった。
「──おっと、いけませんよ一護様。仮にもアナタは女性に支えてもらっているわけですから、しっかりしてください──、いや、しっかりしろ」
そう言いながらメイド服の女が俺の体を揺する。
「ウッス……、すんません……」
そう言った瞬間──。
バシャン──と、何かが水面から浮上した音が聞こえた。
──魚? それともまだ誰かが……。
バシャン──、バシャン──、ひとつ、ふたつ、水を掻き分け音が浮上する。
バシャン──、バシャン──、次から次へと何かが水面を叩く。
バシャン、バシャン、バシャン、バシャン、バシャン、バシャン、バシャバシャバシャ──。
音が右、左、前方、後方、いたるところから反響する。
バシャン──、バシャン──、やがてその音は自分に近づいてきた。その音に注視をしていると──バシャン──とすぐ前方から水飛沫が舞った。
何かがニョキと水面から生えた。
黒い雑草のような……。
──なんだこれ?
やがてその雑草はくるりと水面に向かっていくと、青白い生首が顔を出した。
──え……、か、顔ッ!?
「うわぁぁぁぁぁ──!?」
水面いっぱいに音をたてて、何百人と人の顔が浮かび上がる。
『う〜うー』と呻き声が轟く。そのうちの何体かはボソボソと「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟いている。
「きゃぁぁぁ──!」
上から見ていた鈴蘭の絶叫が轟く。
『ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ』
男、女、子供、老人……、老若男女、たくさんの顔が水面から無表情な顔浮かべている。
「これはいかん、セバスチャン!」
紳士の男が慌ててメイド服の女に声をかけた。
「ッ──」と舌打ちしたセバスチャンは、ギロッと鋭い目を光らせた。
その動向は縦に長細く開き、まるでこの世のモノではないような目つきだった。
「低級霊魂の分際で、この私に楯突く気か? 部を弁えろ!」
と、突如セバスチャンは叫んだ。
その声は先ほどの美しい女性とは思えないほどに魔物的であり、ビリビリと痺れるものだった。
ピタリと辺りは静寂に包まれた。
その鋭い一声で、スーッと辺り一面にいたこの世のものでなかったモノ達は消えていった。
──な、なんだったんだ……。
水面の怪異といい、先ほどのセバスチャンの対応といい、頭の中は混乱していた。
「お嬢ちゃん達、悪いけど先にこの少年を引っ張りあげてくれないか? いけるかい?」
そう紳士の男が鈴蘭と望月に語りかける。
「おっけ〜」
ギャル特有の軽い返事が聞こえてきた。
ポチャン──と水面に何かが、投げ込まれた。
少し古ぶれて、ギチギチに硬くなった細めのロープだった。
男とセバスチャンは、俺の体にロープを巻きつけた。
「いいですよ、お嬢様達」
セバスチャンが、2人に合図を送る。
そうして俺は引き上げられた。
◇◇◇◇◇◇
「ふむ」といいながら紳士の男が、音話の脈を測る。
この男の名前は確か……、サンなんとかアンドレアス。それよりも──、何故ここに?
「脈も、呼吸も、大丈夫そうだね。しばらくすれば意識も戻るだろう」
そう紳士の言葉に一同が安堵のため息を吐いた。
「本当にありがとうございました」
望月が土下座の形で礼を述べた。
「レディがそんなハシタナイ真似はよしなさい。ほら、礼などいいから、笑って笑って、美人の笑顔ほど素敵な礼はこの世にないのだよ」
男は笑顔でそう答えた。
「まぁ〜、すっごい素敵なジェントルマン!」
鈴蘭が言った。
「助かりました。俺もマジで死ぬかと思った……」
と俺は深いため息を吐いて言った。
「えぇ、あなたは死んでもおかしくなかったわ」
メイドの女が冷たくそう言った。
──おい!
と心の中で突っ込む。
「君とはまた会う、ね? 言った通りだったね」
はっはっと笑いながら紳士は言った。
「本当にありがとうございました。ところで何故こんな夜ふけに、こんな場所へ? えっと、確か……サン……、サンあんじぇる……」
「サンジェルマンだ」
「伯爵です」
と、まごつく俺の言葉にサンジェルマンとセバスチャンが言葉を付け足した。
「し、失礼したっす……」
「いや結構。気にする事はないよ」
サンジェルマンはそう言って、肩のホコリを払う。
「君とはまた会う事なる、そう予感がする。その時は覚えておいてくれれば嬉しいものさ」
ニコリと優しい笑顔でそう言った。
「ウッス……」
と払っていたサンジェルマンの肩に視線を移す。
──なッ!?
先程まで確かにびしょびしょだった服がすっかり乾いていた。サンジェルマンだけでなくセバスチャンの服まで……まるで何もなかったかのように。
言葉を言いかけたその瞬間、サンジェルマンは人差し指を唇にあて、左目でウィンクをした。
──触るな……って事か……。
俺は黙って頷いた。
鈴蘭と望月はとなりで首を傾げていた。
「さて、セバスチャンいこうか」
「はい」
そう言ってセバスチャンは軽くお辞儀をして、二人は歩き出した。
「ありがとうございました」
俺たちは深々と頭を下げた。
数歩歩くと、何かを思い出したかのように突然、サンジェルマンは振り返った。
「そうそう、賢い怪異は人を騙すこともあるからね。帰り道は狐や狸にばかされんようにな」
そう軽口を言って笑いながら去っていた。
──何モノだったんだろうか。
最初に会った時は特に気にしなかったが、今思うとかなり特殊な人間だ……。とくにあのメイド……、まるで魔物のようだった……。
「音話……、大丈夫かな?」
鈴蘭が横たわる音話の顔を触る。
「望月、俺の上着着とけ。その格好はさすがに寒いだろ?」
そう言って、飛び込む前に鈴蘭に渡した上着を肩にかけた。
「ありがとう……、本当にありがとう」
そのありがとうには多分、上着以外のありがとうも含まれている気がした。
「音話っち!」
ふいに鈴蘭が大きな声を出した。
「どうした!?」
振り返ると、気を失っていた音話が立っていた。
──意識をとりもどした?
「目が覚めたか? よかったぜ〜」
そう言いながら音話に歩みよろうとした瞬間──、
望月の腕が俺を静止しさせた。
──なんだよ?
望月はするどい目つきで音話を睨んで「違う……」と言った。
長い髪が顔を覆い尽くし表情が見えない。ボソボソと何かを呟きながら体を前、後ろに振り子のように揺らす。
『ゴメンナサイ……ゴメンナサイ、ゴメンナサイ』
──怪異は人を騙す──
サンジェルマンの言葉が頭に過ぎった。
つくも神の奇妙なひとり言〜トラブル・ブルース〜 プロテインD @meriamen
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