18. ユエ
野原に寝そべる娘の鼻に、蜜蜂が止まった。
しばらく放っておいたが、鼻の穴に潜り込もうとしたのでふんすと追い払う。
うとうとと眠る。足や手に登ってきた蟻をたまに払う。
寝そべる後頭部にごく微かな振動を感じて、身を起こした。
だらだらとどこまでも広がる野原の向こうに、もくもくと煙が見えた。
娘は立ち上がり、
煙を吐きながら、盛り土に引かれた線路に沿って、蒸気機関車が近づいてくる。
マートル丘の墓地へ案内してもらいながら、セレーランに打ち明け話をした。
「――じゃあ、ユエちゃんは私のはとこ? はとこは違うか。
とセレーランは喋った。
「
どっちでも、すきな方でいいです、と笑った。
「じゃ、オバケの方にしとくよ」
こわかったりしないんですか? と訊いたら
「こっちは君のお腹を切ってんだよ?」
だそうだ。
ユベニー・セレーランの診療所はもともとジュール・エスタシオの診療所で、ウェランの家と接しているのはそういうわけだったらしい。
今度、ウェランを禁酒旅行に連れ出すつもりなのだそうだ。
それがいいと思う。
家族も友人もいるのだ。長生きするのがいいと思う。
列車が目の前を過ぎる。
客車の窓から子供に手を振られたりもする。手を振り返しつつ、タイミングを計る。
最後尾が過ぎたのと同時に駆ける。
常人の二倍も三倍も長い一歩で跳ぶように、ざっざっざっと土を蹴り直線的に汽車を追う。
シュダパヒを去る前に、安楽椅子の老婆には勝っておいた。
月明かりの偽物め、とリールーが言ったけれど、誰のことだかわからなかった。
子宮に魔女がいるのは知っている。地下室での記憶もある。棘の塔で子宮の魔女が複製の老婆を捕食していた覚えもある。しかし、おばばと呼んでいたという魔女については、記憶がすっぽりと抜け落ちていた。リールーの爪より前の事は、なにも思い出せなかった。
走りながらそれを話すと、リールーはひとしきり驚いてから、言った。
(むしろこれで、そなたは本当に『ユエ』となったのかも知れんな)
そうかもね、と駆け足で同意した。
光の街を走り抜け、
けぇぇぇえっ! と奇声を上げる老婆を置き去りにして、力いっぱいに跳んだ。
大社殿の屋根から屋根へと跳び、一番高い
ユエは汽車へ向かって跳ぶ。
浅い角度で狙って跳んで、屋根の上に音もなく降りる。
風が髪をなぶって、肩口の辺りがさわさわする。
視界を流れていく風景に、
(ほう……)
とリールーが感心したような声を上げた。
やっぱり、身体を見繕ってやりたい。好きな時に見たいものを見に行ける身体をあげたい。
リールーの骨と翡翠のランプの破片は
その後で試したのだが、あそこに置いてきたものは、通り道に入ってすぐの所に溜まるようだ。
(通り道を物置にした王族猫は、私が初めてだろうな)
と言うので、今度から
緩やかに曲がる線路に沿って、列車も曲がる。
菜の花畑を汽車が突っ切る。
春は、黄色だ。
「僕は
と、絵を描きながらウェランは言った。
「姉さんが春を由来にした名前だったから、うまいこと続いたもんだね」
アマリラ。春の花を表すために調色された黄色。
「むかし聞いんだが、最初、父さんはミモザにしようと思ったんだそうだよ。でも母さんが、春の花がひとつじゃ寂しいって言って、それで姉さんはアマリラになった。僕の名前もそれぐらいひねってくれて良かったんだけどなぁ」
遠い目をして、画家が絵の具を乗せていく。
「そういえば、君の顔には東国の雰囲気がないね」
といきなり言われたので、父の話は聞かせてくれなかったのでわからない、とごまかした。
その日、あの少女が謝罪に来た。
エーラという名前だったのだそうだ。
複製の老婆が引き起こした騒ぎについては、彼女が計画し、実行段階で失敗した魔法であったと調べがついたらしい。
公園でウェランのスキットルが見つかり、その内側に魔法陣が仕込まれていたのもわかって、ウェランは立場と能力を利用された被害者であった、という見方に落ち着きつつあると。
付き添いにはおろおろと怯える神経質そうな母親と、意外な事に公園で協力した魔法使いもいた。
窓から見ていただけなので、結局どういう関係だったのかはわからない。
エーラにどんな仕打ちが待っているのか、ユエには想像がつかなかった。
今回の騒ぎで怪我人は出たものの、いずれも軽傷ということだ。取り返しがつかない、とまではいってないのだから、取り返しがつく程度の仕打ちであればいいと思う。
ユエも自分の後悔を押し付けるように助けたが、くよくよするつもりは特にない。
地平線に雲が見える。雲の下は雨のようで、そこだけ灰色にけぶっていた。
麦を伸ばす春の
ウェランの娘は、この雨が名前の由来なのだそうだ。
プルイさんに渡すのがいい、と
不意にじんわりと暖かい気持ちになった。
ウェラン・エスタシオという人間と、エスタシオの家族と、いまの「わたし」とのつながりができたような気がした。
別れ際、長生きしてくださいと伝えた。
予想通り「老人になった気分だな」とぼやかれたけれど、長生きしてくれて、いつか再会できたら、それはやっぱり素敵な事だ。
半月が空に白く浮かび、汽車は東へ向かう。
シュダパヒ大社殿の
春の陽気にむずむずとして、化け猫娘は盛大にくしゃみをした。
「ほあっ……」
「じぶち!」
<化け猫ほうむる 完>
化け猫ほうむる 帆多 丁 @T_Jota
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます