図書騎士の弱点、或いはリオーテ風甘辛ペタ

綿野 明

図書騎士の弱点、或いはリオーテ風甘辛ペタ



 この町はとかく屋台が多い。「書架の国」と知的な名で呼ばれる国の王都にしては意外に思えるが、しかし少し街を歩いてみればそれも納得だ。


 拾いたての幼い弟子と仲良く通りへ繰り出した魔術師イレは、見渡す限り図書館、博物館、美術館、書店、画廊、学校、研究所と軒を連ねている景色を眺めて頷いた。観光地としても、この地で学ぶ学生や研究員としても、この場所はあまりに目移りする店や公共施設が多い。食堂でゆっくり食べるより、立ったままサッと屋台で済ませて本屋の梯子を再開したくなるのだ。


 彼は魔術書が棚から溢れ出しうずたかく積み上げられた古書店を名残惜しく見遣り、キラキラガチャガチャした魔導具店を凝視している弟子の背中をポンと叩いた。


「……はい? なんですか、師匠」

「あの店は後でね。まずは『図書騎士の弱点』とやらを確かめにいこう」

「えっ、後で行ってもいいんですか?」

「魔力の扱いにも慣れてきたみたいだし、君も魔導式の万年筆くらい持っててもいいだろう。固形インクを魔力で溶かすやつだ」

「それ、光るやつですか?」

「ああ、光るのもある」


 無言のまま、猫のように目尻の吊り上がった榛色はしばみいろの瞳がキラキラと輝き出す。家族を無くして行き場のなかったこの少年がこうして素直に笑うようになり、『師匠と食べるとごはんが美味しい、ちゃんと味がする』なんて言うものだから、こうしてついつい甘やかしてしまうのだ。今日だって、噂に聞いた絶品の屋台とやらへ足を運ぶところだ。学会の度にこの国を訪れていたが、食事を目当てに動いたことなんて一度もなかったのに。


「図書騎士の弱点、なのに、食べ物なんですよね?」

「そう。この国の叡智を守る英雄達が休憩時間に代わる代わる群がっているから、『図書館を襲う悪党はまずあの屋台を潰せばいい』って誰かが冗談で言い出して、それ以来そう呼ばれているらしい。実際屋台が休みの日、石畳に崩れ落ちて嘆く騎士を見たことがあるって人もいたよ」

「へぇ……」


 弟子は楽しみなような少し困ったような顔で微笑んだ。さもありなん、イレもそれを聞いた時には結構引いた。


「元々は中央広場で営業していたのが、図書館前に移動したらしい」

「こないだも、そっちを食べれば良かったですね。宿の目の前じゃないですか」

「あれはエテンのおすすめの店だろう?」

「そうですけど」

「この前は奢ってもらったからね、今日は私がご馳走しよう」


 目を細めると、魔術師の弟子エテンは気恥ずかしそうに口元をむずむずさせた。今日も明日も明後日も、特別美味いものを食べさせてやろうとひっそり思う。


 件の屋台の前には短い行列が、しかも緑の制服を着た図書騎士の行列ができていたので、すぐにそれとわかった。看板には「図書騎士の弱点」ではなく「ペタ」と書かれている。この国で人気の軽食だ。元々は激辛の南部料理をこの国の人間の舌に合うようアレンジしたものらしいので、正確に言えば「リオーテ風甘辛ペタ」。


「あ、アルゾさん」


 最後尾に並んだ人物を見てエテンが声を上げる。この少年の知り合いの騎士の名だ。


「お、エテン。お前もペタ食いにきたのか」

「はい。ほんとに図書騎士ばっかり並んでるんですね」

「いや、美味いんだよほんとに」


 騎士はそう言っていそいそとエテンの肩を押し、自分の前に並ばせた。エテンが「え、いいんですか」と言い、アルゾは「ほら、灰色のお方もどうぞ」とイレを手招く。


「ありがとう、君の分は私が出そう。好きなだけ食べるといい」

「あ、いえ、そんな」

「遠慮はいらないよ、私は結構お金持ちだからね」

「そりゃあ『灰色ローブ』ならそうでしょうけども……」


 やりとりを弟子がくすくす笑いながら見ている。少年の境遇を知る騎士はそれを見て笑みを浮かべ、「……良かったな、ほんとに」と呟いた。


「それはまだ、食べてみないとわかりませんよ」とエテン。

「いや、そうじゃなくて……ああ、まあ、うん。ほんとに美味いからな、お前も驚くぞ」


 屋台の店主はどうやら手際が良いらしく、順番はすぐに回ってきた。「はいよ、いらっしゃい」と声をかけられて進み出ると、ふわりといい香り。


「葡萄酒の香りだね」

「お、魔術師の旦那は鼻がいいね! そうとも、うちのペタ肉は赤葡萄酒煮込み、それも他のとこよりちょいといい酒使ってるんで、良かったらあったかい葡萄酒もどうだい? 唸るほど合うぜ?」

「いただこうかな……いいかい、エテン?」

「何がです?」

「私だけお酒飲んで」

「別にいいですよ。僕はあたたかいレモンがいいです」

「うちのレモンはちょいと生姜が入ってるが、大丈夫かい?」

「はい」

「俺もレモンで」


 職務中の騎士が手を上げる。店主は頷いて、「チーズは?」と訊いた。


「おすすめはどっちだい?」


 アルゾを振り返ると、彼は「どっちも人気ですが、俺は無しが好きですね」と答えた。


「ではチーズなしを私と弟子に半分ずつ、彼に三つ」

「あいよ」

「……三つ?」

「多いかな?」

「いや、食えます! でも一個はチーズがいいな」

「じゃあそれで」


 騎士が嬉しそうにニヤついた。屋台を覗き込む。種なしの薄くて丸いパンが大皿の上に何十枚も積み上げられていて、その隣には丸い鉄板。熱源は魔導ではなく炭火で、大鍋の中の煮込みも同時に温めているようだ。


 店主がパンを一枚手に取り、刷毛で薄く油のようなものを塗ると鉄板の上に置いた。エテンが「リベの香り」と呟く。


「そう、リベの果実の油だよ! お弟子さんも随分と嗅覚が鋭いようで」

「珍しい匂いだから」

「ああ、まあそうだな。そんなに多くは輸出してないって聞くね」

「バターじゃないんですね」

「バターでやってる屋台もあるよ。ヤギも牛もどっちもある。でもね、うちはこれがこだわりなんだ。肉の脂が濃厚なんで、ペタ生地はさっぱりした香りで」

「へえ」


 そうこうしている間にパンの両面に薄っすら焦げ目がつき、店主は鍋からトングで肉を取り出すと、丸いパンの右半分にたっぷり盛り付けた。赤みがかった茶色いソースがてろりと光り、湯気と一緒にどこか甘さを感じる肉の匂いが立ち込める。その上に玉ねぎか何か、とにかく白っぽい野菜と黄色いペースト状の何かが素早く乗せられたかと思うと、次の瞬間にはもう生地がパタンと半分に折りたたまれている。さっと鉄板から上げられたそれが大きな四角い包丁で半分にされ、目にも止まらぬ速さで紙に包まれ、目の前に突きつけられた。


「はい、お待ち」

「おぉ……」


 あまりの手際の良さに弟子が目を白黒させ、小さな声で「魔法みたいだった」と言った。店主は「おう、照れるなあ」とはにかんでいるが、その手はもう次を焼き始めている。


「大地の神よ、恵みに感謝いたします」


 騎士の分が焼けるのを待つ間に、立ったまま小さく祈りを唱えてかぶりつく。表面がパリッと焼けたペタ生地の小麦の香りと、甘く複雑な肉の香り、そしてツンとする香辛料と酢の香り。


(……あ、酢漬けか)


 挟まれたのが生野菜ではなく酢漬けだったことに気づいたが、そんな考えはすぐに頭から抜けていった。舌に触れた温かくざらりとした生地を超え、こってりとして果実の香りが濃厚な、しかし十分な塩気を脂とからめた肉が溢れ出て、口の中でとろけるように崩れる。一拍置いて、後からビリッと辛さがくる。ピリッ、ではなくビリッと。少し舌の表面が痛いくらいの辛さ。


「結構辛いんだね」

「ほうれすか?」


 見下ろすと、南方の血が濃い容姿をした弟子はパクパクと何の抵抗もなさそうに頬張っていた。口いっぱいに詰め込んで「ほぃ、ほぃひぃ!」と間抜けな音を発している。


「本場のペタはもっと辛いのかな」

「んぅ……ッはい。慣れない人はお腹壊すって聞きますよ。でも向こうはあったかいから、汗かいて体が冷えるの」

「ああそうか、ヴォーガリン料理は激辛で有名だったね……」

「うん。でも僕はマタンとかガラバとか、北の砂漠の料理の方が辛いと思います。なんか胡椒でもトウガラシでもない、粉みたいな種が入ったオレンジ色の豆みたいなへんな植物があって、それがすごいんです。舌が痛すぎて食べられなかった」

「なるほどね」

「ふぉうぅぁえふ」


 再び口の中が一杯になった弟子に微笑んで、もう一口。甘辛いソースたっぷりの肉を玉ねぎと、見た目からして瓜の仲間だろうか、食べたことのない緑色の野菜の酢漬けが引き締める。酸味はかなり強めだが、肉と合わせるとちょうど良い。噛むとパリッと音がする。それから――


「この黄色いソース、なんだい?」

「芥子の仲間だよ。花が黄色いから、実も練ると黄色くなるんだ。肉と合うだろう! はい、葡萄酒」


 ペーストの中に混ざっている小さな粒を噛む度、独特の風味が広がる。あたたかいカップを受け取ると、葡萄だけではない香辛料の香り。


「ああ……確かに、これは合うね」

「坊やには生姜レモンな」

「はぃはほ!」


 意味不明の音しか発しなくなったエテンの頭を、早くも二つ目を食べ始めたアルゾがくしゃくしゃと撫で回している。三つ目が焼き上がったところで礼を言って屋台を離れたが、魔術師イレはそのことを少しだけ後悔していた。


「もう一つ頼んでおけば良かったな……」

「明日も来ましょう、師匠。それで、次はチーズのやつも頼んで半分こずつにしましょう」


 真剣な顔で弟子が言う。生姜のきいたレモンのカップを握りしめ、交互に飲んで食べては「最高……」と呟いている。


「師匠、葡萄酒一口ください」

「え、ダメだよ。どうして?」

「このお肉、葡萄酒煮込みなんでしょう? じゃあ絶対美味しいじゃないですか」

「大人になったらね」

「僕、もう大人です!」

「どう見ても違うでしょう」


 胸の下にある頭に手を乗せると八歳の弟子は一瞬頬を膨らませ、そして耐えかねたように笑い始めた。帰りに魔導具店に寄る予定なんてすっかり忘れている顔だ。ひとりぼっちで楽器を片手に日銭を稼ぎ、異常なほど大人びていたこの子供がこうして間の抜けた表情を見せる度、なぜか腹の奥の方がじんわりと温かくなってくる。トウガラシのきいた肉を食べたせいかな、と考えて、魔術師も同じ顔で笑い出した。





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