月さえも眠る夜
野生いくみ
月さえも眠る夜
月さえも眠る夜
「すまない。許してくれ」
幼い頃から可愛がってくれた人が僕を見つめ、しわがれた声で言った。
明日で満月を迎える夜。地平線から昇ったばかりの月が徐々に白く色を変え、村の中央の広場を照らす。地面に置かれた輿の上に僕は座り、村の長を見上げる。罪悪感にさいなまれた顔。年に一度、こうして村人を差し出す役目のために、彼は生きているようなものだ。
「この村を守るため……。許してくれ」
儀式のための白い衣装をまとわされ、頭には朱で染められた精巧な組み紐の飾りがつけられる。わずかに身じろぎすると、顔のそばでしゃらりと揺れた。同じ組み方で編まれた赤と白の紐を、さらに幾重にか編んだ縄を一人の男が運んでくる。彼の周りに控えていた数人の男たちが僕の手首を縄で縛る。その誰もが同じ村に暮らし、僕によくしてくれた。その向こうには女性たちが遠巻きに見ている。申し訳なさで泣き崩れる者、手を合わせる者、僕の最後の姿を見届けようと目を凝らす者。それぞれの反応でも、まなざしには一様に申し訳なさと罪の意識が浮かんでいる。
足首も縛られた。覆うための大きく白い布。体にかけられ、衣擦れの音が耳に響く。名前を呼ばれる。顔を上げる。
「許してくれ……」
村の長はしぼり出すように言った。彼の肩越しに、十四夜の――満ちる一歩手前、あと一夜足りない月が夜空に浮かんでいた。次の瞬間、僕の頭上に艶やかな絹が広げられ、世界は青白い闇に包まれた。
どこに運ばれるかわかっている。滝つぼの上にそそり立つ岩の上だ。僕はそこに置いてこられる。手足を縛られ身動きもできないまま、辺りの景色を見ることもできないまま。
輿は揺れる。かついだ村人たちの息づかいが聞こえる。村の外れの、そのまた外れから、夜に出歩くものなど誰もない場所を目指す。真っ暗な森を抜け、とどろく滝へ。そこに何が待つのか、本当は誰も知らない。村の長でさえ。なぜなら、そこから生きて戻ったものは誰もいないからだ。
遠い昔、この一帯が飢饉と疫病で苦しめられた頃。このままでは一人残らず命を落としてしまうと村人が絶望に落ちた時。上流の滝つぼを臨む岩の上で、村人の惨殺体が見つかった。見たものが目を背けるような惨たらしい亡くなり方だったという。村人たちは恐怖で震え上がった。この世の終わりだと嘆くことさえ忘れた村に、翌日から不思議なことが起こり始めた。病人たちの熱が下がり、咳がしずまり、醜く膿んだ傷は元の肌を取り戻し、皆がどんどん快方に向かった。作物に群がった害虫たちはどこかへ行ってしまった。雨が降り、日が照り、作物がみずみずしく育ち始めた。奇跡だとみなが喜んだ。そして、――――恐れ始めた。これはあの村人が命を落としたことと無関係ではない。きっと人間ではない何ものかに、彼は食われて、ズタズタにされたに違いない。それは、神か悪魔かバケモノか。はからずも彼は命を捧げることになった。まるで生贄のように。だから、みなが考えた。このまま、村の平穏を保つため、生贄を捧げようと。彼が亡くなったのと同じ十一月の、新月から数えて十四番目の夜に。
僕は、いったい何人目の生贄だろう。
ずっと昔から、それがこの村の習わしになった。同じ村のものを生贄に差し出すのはあまりにつらいと、差し出すのをやめた年もあったらしい。その途端、飢饉は訪れ、疫病が流行った。やっぱり生贄は必要なのだと、今まで続いている。続いているのだから、きっと大事なことなのだろう。僕はあまり深く考えたことがない。どうあがいたところで、このしきたりが覆ることも、僕が生きながらえることもない。それ以外の可能性を考えたこともない。
急こう配の道のりに差しかかったのか、歩みがゆっくりになる。滝への道は上り道だ。昼間なら虹がかかるほど飛沫をあげる滝。村の大人に連れられて、子どもの頃はよく遊びに来た。険しい坂を上り始めたのだとしたら、時間は残り少ない。
運命が決まったのは、幼い頃、両親を亡くしてから。
ひとりきりになった僕を、村の長は自分の養子として受け入れ、村全員で大事に育ててくれた。両親が生きている頃と変わらず、可愛がり、面倒を見てくれた。とてもありがたいことだった。
そんな僕の村は、一年に一人、生贄を差し出す。滝つぼに棲まう得体のしれない何ものかに向けて。男女は関係ない。最初に命を落とした村人をなぞらえて、成人したばかりの者から選ばれる。……僕は、きっとその一人になるといつの頃からか思っていた。『行ってくれるか』と村の長に告げられた時、何の抵抗もなくそれを受け入れた。
身寄りはない。きっと本当に悲しむ者はいない。僕のことを早く忘れなければ、罪悪感でおかしくなってしまう。僕だってそうして誰かを見送ってきた。村のためにとか、誰かのためにとか、そういうものではない。ただ、「捧げられるもの」として、生かされているのが当たり前だった。
大きく輿が揺れ、地面に置かれる重い衝撃が伝わってきた。ざわざわとした担ぎ手たちの空気。しばしの沈黙は僕に声をかけようか迷ったからだろう。彼らは一緒に育った兄弟のようなものだ。僕は、しんと静まった自分自身の中だけを聴いていた。やがて、彼らの足音は土を踏み、徐々に遠ざかっていった。声をかけられなくてよかった。いまさら情はいらない。捧げるものと捧げられるもの。その境界を揺るがすような真似はお互いのためにならない。
僕を覆う布は上質の絹織り。捧げものを飾るにふさわしいなめらかさ。絹の向こうから染み出すのは、青白い月の光。十四夜の月は、僕を食らって、満月になるのだろうか。
滝つぼにどうどうと轟いて川は落ちる。森の中で、木々がざわめく。遠くで動物が吠えるような声がする。今にも何かが襲い掛かってくるのではないか。いやでも感覚は鋭くなった。細く長く息をついた。肺の中まで空気を吸い込むと、僕は顔を上げた。見上げても布以外なにも見えないのに、僕はそうした。
――――今日まで、このために生きてきた。
もう怯える必要なんてないだろう。あと数時間のうちにすべてが終わる。僕が知る限り、こうして生贄にされて戻ってきた人間はいない。ここに置き去りにされ、その後どうなったか誰も知らない。遠い昔の言い伝えのように、遺体が残っていたこともない。逃げ出してどこかで見つかったという話も聞かない。ここに置かれたが最後、忽然と姿を消す。その運命は、僕の上にも訪れるはず。
森に棲む獣の餌になると言う人もいた。どこかにさらわれ奴隷として売られると言う人もいた。凌辱の限りを尽くし、最後は人肉として食らう一族がこの世のどこかにいると妄想めいたことを言う人もいた。そんな想像と、滝つぼに棲む得体のしれないバケモノに食われるのでは、どちらの方がより身近に感じられただろうか。
僕には、どちらも変わりがない。
自分が成人する日を数えて暮らしてきた。この場所までの道のりを一歩、また一歩進んできたように、この日が訪れるのを一日、また一日と肌で感じてきた。恐怖に感じた日もあった。逃げ出したいと思った日もあった。でもいつかそんなものは消え、こころは白く透明になっていった。死ぬという諦めの前で、余計なものを削ぎ落していくのだと思った。深くついた息は、からだから緊張を解く。
やっと、この日々から解放される。死へ向かってむごいほどゆるやかに傾斜するだけで、ひと思いに殺してはくれない運命も、今日で終わる。静けさの中、自分の呼吸と鼓動だけが聞こえる。
――――――神様。
口にしたこともなかった名前。
十一月の冷たい空気を吸い込んで、息を止めた。
――――――はやく。
処刑台に立つ心地。もう未来はない。どこにも。
――――――終わらせて欲しい。もう十分だよね?
一度だって泣いたことがない。でも、目から一粒こぼれたもの。
月が空の中央へ。時は満ちる。冴え冴えとした光に、きっと僕はのみ込まれる。
白い布をかぶせられた、身動きできない塊の自分を想像した時、僕はほんの少しだけ思った。
――――――この結末以外の人生を、生きてみたかった。
願っても意味のないこと。
その瞬間、どこかで草を踏む音がした。
近づいてくる。足音はひとつだけ。こちらの様子をうかがいながらにじり寄ってくる。僕は息をするのも忘れて、耳にすべての神経を集中させた。草地を踏んでいた足が、次は石の地面にかかる。かかとの音がかたく響く。そして、僕のいる岩場へ。四つ足ではない。二足歩行の……おそらく人間。歩幅から推測して、僕よりも大きな男。バケモノではない人間のすることなんてたかが知れている。そう思いながらも必死に身を固くした。視線を感じた。近くまで寄ったその人間は、僕を見ている。長く続くそれが永遠に思えた時、大きな音を立てて、ばさりと布を取り除かれた。きつくまぶたを閉じて顔をそむけた。
……でも、何も起こらなかった。ゆっくりと目を開ける。顔を少しずつ上げていく。視界に、人の足が映った。動く様子のないのを見て、その人間を見上げる。
息をのむのが聞こえた。何か驚いたのか。攻撃を加えられることはないと、不思議に確信してその人を見た。やっぱり僕よりも大きな背。しっかりとした体つきのたくましい男性。それだけなら珍しくはなかった。でも、僕は驚いた。白く透明な月光が映したのは、銀色の髪。月明かりの下でさえわかる青い瞳。まぎれもなく異国の人間だった。
僕たちはお互いを見つめ合った。理由などわからぬまま、驚きで見開かれた目を見つめた。……攻撃されることはないと思った。少なくとも殺されることはない。この瞳は、僕の存在にとまどっている。予想外の出来事を、自分の中に収めようと努めているまなざしだった。彼は静かに身をかがめ、僕のそばにひざまずいた。そして、手首の縄へ手を伸ばした。本当に反射的だった。僕はその手をはじいた。まるで解かれたくないとさえぎるように。彼はまた驚いた顔をした。小さな声で何か言った。でも言葉がわからなくて、僕はますます手首を隠すように身を引いた。少し考えていた彼は、ゆっくりと言った。
「ここで、何をしているの?」
抑揚がおかしかった。でも確かにそう言った。子供をなだめるような響きは、僕を怖がらせまいとするようだった。
「……」
僕は、ついとそっぽを向く。胸の中で反抗心が湧いた。これまでの人生、一度も感じたことのない種類のものだった。いまさら優しい言葉をかけられたとしても何になる。こんなに命の終わり際で期待させるような言葉を差し出されても、何が変わるというのか。残酷すぎる。諦めの中にいる僕を、そこから引きずり出す方が何倍もむごい。にらみつけた僕に、異国の男は聞く。
「縄を解きたい。……いい?」
僕が張った壁をたやすく超えて、彼は言う。僕が抵抗しないのを見て、手を伸ばす。指が触れ、また条件反射で手を引いた。今度こそ、彼は黙って僕を見つめた。考えを巡らせた後、聞いた。
「助かりたくないの?」
きっと素直に縄を解かせない僕を不思議に思ったのだろう。僕は、自分が硬い石になった気がした。彼の手に、自分の手を――自分の運命を、預けたくないと拒んだ。
「死ぬために、ここにいるんだ」
銀色のまつ毛が何度かまばたいて、僕の言葉をゆっくりとくり返した。
「死にたいの?」
命を問う言葉なのに、不思議な甘さがあった。
「死ぬために、生きてきたんだ」
彼にとって僕の言葉は異国のものだ。またゆっくりとくり返す。そしてやわらかく指さし、
「でも、生きている」
彼は笑った。
僕はハッとした。そんなこと、すっかり忘れていた。
彼はまた僕の手首に指を伸ばす。僕はまた手を引いて拒む。滝つぼに落ちる水音の凄まじさ。どうどうと轟く。それだけが僕たちの間に響く。ため息をついた彼は、僕の前にどっかりと腰を下ろした。たじろぐ僕に、にっこりと笑った。
「人間でよかった」
予想もつかない言葉に、僕は眉をひそめ、首をかしげる。
「滝の音がするからそっちを見たら、白い塊のようなものがあった。ぼんやりと光っているから、幽霊かと思った。布を剥いだら、可愛い人がいて驚いたよ」
可愛い……? 何の形容かまったく意味のない言葉に、僕はにらみつける。異国では当たり前なのか、軽薄な調子だった。
「こんなに可愛い人を生贄に差し出すなんて」
ひどい話だ……と言いかけた言葉に、僕は思わず言い返していた。
「ひどくない」
何度目かわからないけれど、彼は驚いて大きく目を見張った。
「なぜ? 人の命と引き換えに、自分たちは生きていくわけだろう?」
何も言えない。確かにその通りだからだ。
「この近くの村の人?」
癪に障ったけれどうなずいた。
「今年の生贄に選ばれたんだ?」
「選ばれたわけじゃ……」
それにふさわしいとされたわけじゃない。
「自分で手を挙げた?」
そういう積極的なものでもない。
「決まってたから」
「決まってた?」
「もうずっと前から。今日、ここで捧げものにされるってわかってた」
「……ずっと前?」
「そう。ずっと前。気が遠くなるくらい、ずっと」
僕は、顔を上げ、夜空に深く息をつく。
「待ってたんだ。早く今日が来ないかな、って」
「どうして? 自分から死を望むような口ぶりだ」
「……そうだよ。早く死にたい」
何かを言おうと息を吸う気配がした。それをさえぎって僕は言った。
「だから、どこか行ってくれないかな。邪魔だから。これじゃ、捧げものの意味がない」
人間の彼が、――僕をこの世に引き留めたがっている彼がそばにいたら、起きることも起きはしない。きっとバケモノだって食らうことができないだろう。
「……信じてるんだ? 生贄なんてものを」
木の切り株を掘り起こすような痛み。彼の短い問いにはその力があった。
「信じるとか信じないじゃない。必要なんだ。僕が、今夜ここで、起こることをただ受け入れることが」
そうだよ。僕は無力でいなきゃいけない。運命の前であらがうことがあってはならない。
はねつけようとするけれど、僕の声なんてきっと聞いてない。彼はまた踏み込んで聞いてきた。
「今夜、何が起きるって言われてきたの?」
「……」
「昔からの言い伝え、どんなものなのか、俺に聞かせて」
月の光の下でさえわかる。彼の整った顔立ちは、きっと日の光の下では輝くほど美しいはずだ。僕に向けて、無邪気に笑う。
「こんなに可愛い捧げものを、神だろうとバケモノだろうと逃しはしない。少しくらい遅れたってかまわないだろう」
僕がここにいる意味なんてわかっているくせに。何を今さら聞くのか。そう思いながらも僕は見えない何かに引っ張られるように話し始めた。
手首の縄はそのままにしておいてもらった。もちろん、足首も縛られたままにしてもらった。この運命から逃れるつもりはないのだと、彼にも、僕自身にも約束するように。
「僕が生まれるはるか前、この場所で死体が見つかった」
なぜこんなことを話すのだろうと思いながら、生贄の習わしが始まった経緯を話した。村を襲った数々の災厄。ある時、惨殺体で発見された村人がいたこと。その日から、村の状況は一変し、すべてが快方へ向かったこと。それ以来、ふたたび災いが訪れることを恐れて、年に一度、生贄を捧げるようになったこと。捧げられた人間は、遺体も残らず、忽然と姿を消すこと。
「僕も、たぶん夜が明ける前に、ここからいなくなる」
「……それは、命を落とすってこと?」
僕は黙った。
「どんなふうに死ぬとか、考えてる?」
「……」
「この滝に棲むバケモノに食われるとか?」
「……滝に引きずり込まれて、食べられる……」
言いかけて、違和感があった。少しだけ馬鹿らしさを感じた。
「どんなバケモノなんだろうね。姿を見た人はいないの?」
「……いない」
「それは余計にたちが悪い」
思ってもみないことを言う。眉をひそめ、首をかしげる。
「姿がなければ、本当はいないって、証明のしようがない」
意味がわからなくて、僕はぱちぱちとまばたいた。
「本当はいない?」
「そう。バケモノなんて本当はいなくて、これまでの生贄たちは別の理由でここを離れた」
僕は不服だった。
「そんなのありえない。そもそも別の理由って何? 不可抗力で連れ去られたに決まってる。誰も連れ去らないなら、……食われないなら、どうして他の生贄たちはいなくなった?」
「……そんなに、バケモノに食われたことにしたいんだ?」
鼻で笑う気配がして、自分が幼稚に思えた。彼は少し考えた後、面白そうに言った。
「じゃあ、こういうのはどう? 本当にバケモノはいるのか。確かめてみよう」
何を言い出したのか。頭がおかしいんじゃないのかと僕は目を見張った。
「今夜、ここで起こることをそのまま受け入れるのが役目だと言った。それなら、バケモノが出てくるのをここで一緒に待ってみない?」
意味がわからない。かろうじてつぶやく。
「バケモノに食われたら……」
「俺も? それならそれで仕方ない」
陽気に彼は笑った。
「バケモノに食われるのもいい経験だ」
本当に何を言ってるんだかわからない。頭の中がぐるぐるした。
『……儀式だしね、俺も』
笑いの中に混じった異国の言葉の小さなつぶやき。すぐに彼は低く魅惑的な声で、僕に告げた。
「そのかわり、約束。バケモノが現れず、何事もなく朝を迎えられたら、俺の言うことをひとつ聞いて欲しい」
僕はびくっと震えた。バケモノが来ないという状況を想像できない。そもそも朝を迎えることがありうるのか。代わりにどんな言うことを聞けと言うのか。
「朝日が差すまで、こうやって話をしていよう」
闇は深い。真夜中を過ぎて、月は西の地平線をめざす。どこの国から来たのかと尋ねた。西の方かなと言うだけで国の名前は教えてくれなかった。だとしても、銀色の髪と青い目の人間がこの辺りにいるはずがない。遠い国から来たのだろう。こんなに夜遅く、森の奥の滝のほとりに、いったい何の用があって、彼はここにいるんだろう。
「まあね、ちょっとした気まぐれかな」
面白そうに彼は言った。気まぐれで来るような場所じゃないと言い返しかけてやめた。理由を聞いたからといって、話してくれるような気がしなかった。
「早く死にたい?」
重さを感じさせないなめらかな声で、彼はそれを尋ねた。さっきも問われたことだ。でも、僕は少しだけ理由を考えてみた。
「疲れた」
最初に出てきた言葉に、自分でも驚いた。彼は何も言わず、やわらかく僕を見つめた。沈黙が、僕のこころを誘う。
「この日を待ってたんだ。やっと役目が終わる」
「……役目? やっぱり誰かに強制されたの?」
「誰も強制してないよ。でも、今年は僕だって思ってた。成人したばかりの人間が差し出される。十一月の新月から数えて十四番目の晩、その日が今日」
うつむいて気持ちを押し殺す。ため息をついて、言った。
「今日は、僕の十八回目の誕生日なんだ」
おかしいわけでもないのに、僕は笑ってしまった。
「こんなにうってつけの人間はいない。成人を迎えたばかりで、身寄りもない僕を、捧げものだと考えないわけがない」
村の中央の広場の光景がふとよぎる。
「身寄りがない? 両親は?」
「僕が7歳の時に二人そろって亡くなった」
可哀想なんて思われたくなくて短く答えた。彼は意外とあっさり、「そうなんだ」と言った。
「別に、誰も僕につらく当たったりしなかった。僕は村の長に引き取られて、何不自由なく育てられた。でも、十才の時に気づいた。僕と年が近くて、血のつながった身寄りがいないのは僕だけだって。年に一度、ここへ送り出される人たちはみんな、僕みたいな人だったって」
「……親がない子ばかり?」
「みんながそうだった訳じゃない。ただ……なんとなく、なんとなくだけど輪の中心から外れるような、後ろ盾がないような……、いなくなっても困らないだろうっていう子。男性でも女性でも、半分だけあの世に足を入れているような……、もうあきらめているような」
そこまで言って、彼らがなぜあきらめたように見えたのかに気づいた。身寄りがないからじゃない。自分が生贄として差し出されるのを知っていたからだ。自分の未来はないことを知っていたからだ。今の僕のように。
「……自分でわかるんだ。次は僕の番。順番に送られる人を見て、自分の周りを見ると、誰も何も言わないけど、未来がないのは僕だけだった。家を継ぐ人、他家へ嫁ぐ予定の人、作物を作る人、家畜を飼う人。それぞれの人にそれぞれの役割があるのに、僕には何もなかった。だから、僕は捧げものになるしかないって。……たまに、すごく馬鹿なことを考えた。最初からそのために育てられてきたんじゃないかって」
彼はぴくりと肩を揺らした。
「何不自由なく育てられた。他の子と分け隔てなく。何かを埋め合わせるみたいに優しかった。まるで後ろめたさをつぐなうみたいに」
彼から目を逸らし、そのまま夜空を見上げる。
「村の人たちに悪意があったとは思わない。純粋に僕を可愛いと思う気持ちがあったと思う。けれど、捧げものにするために予備として飼われている家畜のようだと、思った瞬間はある。自分たちが食べるために飼う家畜と、自分たちが生き残っていくためにバケモノに食わせる僕と。どっちも運命は決まっている」。
口にしても仕方ないことを話している。でも、この異国の人間の前なら話しても差し支えはないだろう。どうせこの夜限りの出会いだ。
「僕はそのために生かされている……。そう思い始めた頃から、少しずつ……少しずつ……心が動かなくなった。楽しいとか、うれしいとか、かなしいとか……、気持ちが揺れなくなって、硬くなって、……何も思わなくなった。他の子たちが、それぞれ大人になって果たす役目があるのと変わらない。僕が進む道はそれだというだけ。嘆くことでもないし、苦しむことでもない」
口にして、最初からそう思っていたわけじゃなかったことを思い出した。
「正直言えば、逃げたいこともあった。でも逃げたところで僕が生きる意味は何もない。選択肢なんて、最初からない。……だから、この日が来るのを待っていた。死んでいるみたいに生きるより、本当に死んでしまいたかった」
不思議な感じがした。口にしてはいけないと思っていた本当の気持ち。それが少しだけ軽くなった。代わりに目の前の彼は僕を見つめたまま動かなくなった。何を考えているのかわからない。でも、僕のこころは動いた。いまさら何ができると言うのか。村を助けるという使命に身を投げ出す訳じゃない、誰かに脅されてこの役についたのでもない。僕は、ここで終わりにしたい。もう指一本でも動かしたくない。僕の人生が僕のものではない未来に、これ以上さいなまれたくない。
「だから、もう、僕は死んでるんだよ」
目の前の僕は、もう抜け殻だ。こんなところで構うことはない。早くどこかに行って欲しい。静かに死なせて欲しい。
憐憫だろうか、無力だろうか。彼の目に宿る感情はわからなかった。ただ、何かが満ちていくのはわかった。その瞳を見つめた。
ぽたぽた……っ。
「あなたがバケモノなら、いますぐ食らって欲しい」
こんなまっすぐな目をしたバケモノなんているはずがない。なのに、僕は口にしていた。
「……食べてみる?」
ぽたぽた、ぽたぽたぽた……っ。
「美味しくないかもしれないけど」
すぐに食べてくれないのは、美味しくないからだろうね、と僕は皮肉を言って笑った。何かできることがあると言うのか。彼のお節介は何の意味もないとあてつけるように笑った。……彼はいちど目を伏せた。そして、視線を上げるとまっすぐに僕を見た。
「俺に食べられて、気持ちが安らかになるなら、そうしてあげたい。……でも」
彼の視線は揺らがなかった。短く言った。
「残念ながら、俺はバケモノじゃない。すべてを諦めている人を食うような卑しい真似はしない」
僕はがっかりした。彼がバケモノじゃないことは百も承知だった。でも、僕はいちるの望みを抱いてしまった。出逢って数時間もないのに、彼になら食われてもいいと本気で思った自分がいた。そのことに少なからず驚いた。
指が伸びてきた。僕の頬に触れた。すうっと拭った彼の指は濡れていた。僕は泣いている。そのことに初めて気づいた。あたたかい指はためらうことなく涙を拭う。だからわかる。彼は面倒なことから身をかわした訳じゃない。むしろ、その逆。何かしたいと思いながら、何ができるかわからないと困惑して、でも、諦めるつもりはないと思っている。静かに伝わってきた。
「……朝まで待とう。本当に、バケモノなんてものがいるのか、確かめよう」
僕はうなずかない。
「二人とも食われたら?」
答えはわかる気がした。
「……大丈夫。こんなに可愛い人を、バケモノにやるつもりはない」
出逢ったすぐは軽かった口調に、今は重みさえ感じた。
月は傾き、地平線の下へもぐろうと急ぎ始める。見上げるたびに高度を下げていく。僕たちはぽつりぽつりと話をした。バケモノにやるつもりはないと言われ安心したのだろうか。質問する余裕が出た。彼に聞く。
「どうしてこんなところに?」
「それは……」
言いかけてやめた。
「朝になったら話すよ」
……朝になったら。
朝が来る。……朝が来る? そんなこと、考えたことない。僕はうろたえた。ぶるりと震えた。
「どうしたの?」
うつむいた。顔をのぞき込まれる。だからそむけた。
急に怖くなった。もしこのまま生きながらえてしまったら、どうするんだろう。村には帰れない。行く宛てはない。そもそも僕には何もない。それなら生きている意味はない。滝つぼに飛び込んでしまおう。本当に朝が来たら、そうしよう。それなら生贄としての役目も果たせる。そこまで考えた時、彼はすっと立ち上がった。そばに寄り、かけられた布を引き上げて僕をしっかりとくるみ、隣へ来て肩を抱いた。
「気づかなくて悪かった。こんなに冷たくなってた」
僕の手を取って両手で包み込む。その温かさが火の熱さにも思えて、僕は思わず震えた。氷のようだと彼は言った。ぬくもりをもらって、少しずつ体が震えはじめた。今頃どうして。そう思うほどに震えはどんどん強くなっていく。何も言わず彼は僕の背中をさする。温められるほどに、体の芯から凍えていたのがわかった。
「大丈夫」
艶やかな声が言った。
「生きるよ」
はっとした。
「死なせない」
力強い声。まっすぐな言葉。
「バケモノに食わせもしない。命を絶つこともさせない」
僕の気持ちをどうしてわかったのか。驚いて振り向いた。彼は至近距離で僕の目をのぞいて言った。
「生きていける」
月の光を映した青の瞳。その一瞬、未来が欲しいと思った。
何も言わず、彼は僕の顔を見つめていた。
「決めた」
形のいい唇を開いて、笑った。
「俺は、自分の未来を引き受けるよ」
彼が何を言いたいのかわからなかった。でも、ひとつひとつの言葉をはっきりと発音した。きっと僕に聞かせるため。
「みらい?」
子どものように尋ねた。首をかしげる。
「守りたいから」
彼が何を言ってるのか全然わからない。だけどひとつだけわかった。彼は、僕だけでなく、彼自身を生かそうとしているのだと。
闇は少しずつ色褪せ始めた。辺りを囲む木々の輪郭が黒く浮く。
「俺は、国へ帰る。未来が欲しくなった」
ギリっと胸が痛んだ。朝になれば、彼はここを離れるつもりだ。わかっていたはずなのに傷ついた自分がいた。前を向いていようと思ったのに、だんだんとうつむいた。知ってか知らずか、彼はぎゅっと僕の肩を抱いた。
「やっぱり、俺の話を聴いてくれる?」
いたずらな少年がふざけながら切り出したような問い。僕はとまどいながらうなずく。彼はうれしそうに笑った。
「俺は、国を追われたんだ」
僕は思わずふりむいた。罪人なのか? そんなふうには見えないのに。僕の心の声が聞こえたのか、彼はくすりと笑う。
「……追われた、っていうのは言い過ぎだけど、国を出されたのは本当だよ」
何の違いがあるのかわからない。だから黙って聞いていた。
「修行っていうのかな。答えがわかるまで帰ってくるなって」
何の答えなのかと聞きかけて黙った。僕が聞かなくても彼は自分から話し出すと思えた。
「まぁ、俺も国を出たかった。このまま一生とらわれ人のように自分の役目を果たすのかと思ったらやりきれなかった」
……役目? どんな?
「将来担うべき役割のために、いろいろなことを身に着けた。幼い頃から歴史や教養、語学を学び、国を統べる――、国をまとめ、率いていくための政治や経済の知識や戦略を叩きこまれた。馬術や剣術はもちろん、ひととおり自分の身を守り、威厳を持てる程度には体も鍛えた」
……国をまとめる? 政治? 経済? それって……。
「中でも重視されたのが、帝王学だった。尊敬に値する人間であるように、ごく幼い頃から、人の道や徳について考えるよう学ばされた。でも俺は、落ちこぼれだった。なぜなら」
彼が何者か、ようやく理解しかけた一瞬、僕は目にした。彼の迷子のような顔を。
「なぜ自分がそれをしなければいけないのか、まったくわからなかったからだ」
皮肉気に彼は鼻で笑った。
「人より恵まれた場所にいたかもしれない。でも、あまりにも使命が大きくて、なぜ俺だけがこんな目に遭うのかって思ってた。この家に生まれてしまったというだけで、俺には何の自由もない。将来は父の跡を継ぐだけ。皇帝としていくつもの国を治め、守り、発展させ、強くする。……すばらしいことだ。でも、なぜ俺がそれをしなければいけないのか、他の人間じゃダメなのか、まったくわからなかった。当然、国を治める覚悟なんて俺にはなくて、皇太子の位に就く儀式を前に国を出てきてしまった。父から見れば、どうしようもなく不出来でふがいない息子だっただろう」
何も言えなくて僕は黙った。隣にいるこの人は、僕の国を含んだ多くの国を統治する皇帝となる。すぐにはのみ込めなかった。肩を抱くこの腕のぬくもりは僕と同じ人間だと、それだけを強く感じた。
「猶予をやると言われた。皇太子になるためのイニシエーションだと」
「イニシエーション?」
「通過儀礼だよ。たとえば、子どもが成人する時に何かの儀式を行うみたいな。その土地によって少しずつ内容が違う。俺の場合は、国を出された。直轄領以外の国を見て回り、未来の皇帝として何を為すべきか考え、答えを探してくるように命じられた。見つからないなら永遠に帰ってこなくていい。中途半端な気持ちでやれるようなものではない。国民を道連れに国を亡ぼすくらいなら、いっそ野たれ死んでくれた方がいいとまで言われた」
彼はくすくすと笑った。
「そこまで言われたら、本当にすがすがしい。言葉に甘えて、俺は初めての外の世界に出て、いろいろな国を見て歩いた」
そこまで言って、彼は黙った。長い沈黙だった。緊張が触れた腕から伝わってきた。とても重く厳しい顔をしていた。
「俺の知らない世界があった。人々は自由で、にぎやかで、仕事にいそしみ、日々の生活をしっかりと生きていた。いろいろな仕事に就く人がいて、彼らのおかげで国が成り立っていた。市場で売られている果物は艶やかな色をして、子どもたちの声は青空のように遠くまで響いた。それを見て俺は、為政者なんていらないじゃないかと内心思った。俺がいなくても世の中は回る。これほど活力のある人々がいるなら、自分たちの力で生きていけるだろう。そう思った」
庶民の暮らしを語った言葉は明るかった。でも、声はとても重かった。
「きっと俺は本当に苦労知らずだったんだろう。……豊かな国ばかりじゃなかった。辺境では国境をめぐる絶えない争いと戦いで、貧しさから抜けられない人々がいた。堤防が決壊して水浸しになった国もあった。農作物は流され、残ったものも根から腐り、売り物はもちろん食べるものにも事欠いている人々がいた。別の国では雨が降らず、枯れてしまった小麦を前に呆然とする人々がいた。牧場に放たれた牛は皮ばかりで痩せ細り、牛乳を売って暮らしていた人々は同じように痩せ細っていた。市場に売られているものは驚くほど高く、庶民には手が出ない。その日の食事に困った人々は教会に押し寄せていた。それでも恩恵にあずかれず、通りを一本入った路地では、死体がいくつも転がっていた。大人も子どもも、男も女も関係なく。折り重なったそれらの下につぶされて、小さな子どもの亡骸があった。靴下が片方はなく、もう片方は用をなさないほど破けていた。靴はどこにも見当たらなかった。この小さな足の持ち主はどれほどむごい現実を見たのだろうと思った。その光景が頭から離れない。……神はどこにいるのか。どうしたらこの悪夢のような世界が終わるのか、誰ならこの世界を変えることができるのか。――――わかっていた。俺ならわずかでも何かを変えられる。俺の立つ場所は、その力を使うことができる。でも、怖かった。何ができるのか、俺はその身分に見合う働きができるのか。父は賢帝と呼ばれている。直轄領内の国をとても豊かにした。今度はその周辺諸国を同じくらい豊かにするという。それは一代でできることではなく、俺の代まで確実に続く。むごい現実を前に、俺なら何とかできるというわずかな自負と、このまま逃げ出したい臆病で卑怯な自分の間でずっと葛藤していた」
僕の存在を忘れたように彼は話し続けた。すべての話がわかったわけじゃない。でもなぜか僕はそれがうれしかった。
「旅を続ける中で、生贄を捧げる村の話を聞いた。十一月の新月から数えて十四夜の晩、村人を一人差し出す。肉や骨の欠片すら残さず姿を消すので、滝つぼに突き落とされるか、あるいは生贄という名のもと、人身売買の商人に売られ、その金が村のものとされているという噂だった。俺は、何かに突き動かされるようにここへ来た。真夜中の森の中、滝つぼのそばに白い布をかぶせられた人影を見つけた時、俺は何かに試されていると思った」
ゆっくりと振り向いて僕を見た。
「布の下から現れた人は、月明かりに照らされて青白く、本物の幽霊かと思った。俺を見て驚いていた。でも、何をされてもかまわないと、表情がすべてを諦めていた。手足の縄を解こうとしてもそれを拒む。死ぬためにここにいる。それをかたくなに信じている。俺は、どうしようもなくその人に生きて欲しいと思った。生贄なんてもの、国が豊かなら出さなくても済む。それが本当にバケモノに食わせるものであったとしても、体よく人買いに売っているのだとしても、こんな形で命を奪われる人を無くすことはできる。俺が皇太子になって、父の跡を継げば力を手にすることができる。平和で幸せに暮らせる国にする。むごい死に方をする者も、理不尽な生贄になる者も無くす」
僕の手を一回り大きな手が包み込んだ。優しいのに力強い手だった。
「ずっと覚悟ができずにいた。やっと気持ちが固まった。国へ帰る」
最初は軽薄としか思えなかった声に、重みと威厳が加わった。そのことを僕はうれしいと思った。なのに、胸がつぶれそうになった。遠い場所へ行ってしまう。彼が戻る場所は、僕には想像もつかない世界だ。ここでこうして触れているぬくもりは、彼にとって大した意味はない。たった一夜を過ごしただけなのに、別れを思っただけで、僕はどうしてこんなに傷つくのだろう。
一人で生きてきたわけじゃない。村の中で、みんなと過ごしてきた。他の子と同じように育ててもらったし、仲間外れにされることもなかった。その人たちと別れる時でさえ、僕はこんなふうに傷つかなかった。……でも。僕は隣にいる人を盗み見る。頭上にかけられた白い布を剥がされた瞬間、僕をさえぎる壁は消えた。まるで丸裸にされたように、僕はこの人をこころの深くに招き入れ、この人に運命を委ねてしまった。初めて会った人だと思う間もなく。
目の中が熱くなった。さっきまで目の前でどっかりと腰を下ろしていたみたいに、今度はこころの中にどっかりと居ついている。生贄として生きる以外、何も考えなかった僕の、中心を彼は埋めている。胸が押しつぶされそうだった。大きな穴が開き、その周りでヒリヒリと神経が痛んだ。なのに、包まれた手のぬくもりが甘くて、苦しくて、涙がぽたりと落ちた。
空が白んできた。森のあちこちから、チチチ……と小鳥の声がする。夜明け前の風もない穏やかな朝焼け。あとわずかで山の向こうから朝日が差し込む。
「もう少しで朝だ」
彼が笑いながら言った。
「夜明け前が一番冷え込む。寒くない?」
僕は小さく、平気と答えた。
「さすがにもうバケモノは出ないかな」
たぶんバケモノなんていないんだろう。彼がさっき言ったように、ここに連れて来られた村の人たちはこっそり裏で人買いに売られた。彼が隣にいたから、連れ去ることができず夜が明ける。それがいちばん納得のいく答えだ。僕を売ったお金は誰が受け取るはずだったんだろう。顔が浮かんだけれど、何も気づかなかったことにした。そして僕は、彼の前に両手を差し出した。
「解いてください」
彼はたちまち表情を輝かせた。固く複雑に結ばれた縄を解く仕草は優美で、高貴な人だとじんわり悲しくなる。両手を解き終わり、次は足の縄を解こうとした彼に、僕は言った。
「僕、村に帰ります」
彼は弾かれたように顔を上げた。信じられないと目を見開いている。何かを言われる前に僕は口を開いた。
「バケモノは出てこなかった、だから生贄になりそこねた。ごめんなさいって、せめて村の長にこっそり伝えなきゃ。どうしたらいいか考えてもらわないと」
彼が何か言おうとしているのをさえぎって、早く解いて欲しいと急かす。
……僕がバケモノに食われるかどうかじゃない。『生贄を捧げた』という事実が必要なんだ。たとえ僕が食われようと売られようと、僕がいなくなることが大事で――――。
足の縛りが解かれた僕は、立ち上がり足が動くのを確かめる。立ち上がると滝つぼから吹き上げた水気まじりの空気が頬を撫でた。夜明けの空よりもよほど温かかった。僕を包んでいた絹織りの布を体からぱさりと落とし、輿を降りた。思うより近くにごうごうと滝の声が聞こえる。僕は彼に向き直った。
「助けてくれてありがとうございました。心から感謝しています」
自分じゃない誰かが言ったような綺麗な言葉を口にして、僕は頭を下げて礼を言った。彼は何も言わなかった。顔を上げて、僕はにっこりと笑って彼を見た。ひと筋差した朝日が彼の銀色の髪を、青い目を、均整の取れた体躯を輝かせる。その姿がとてもうれしかった。こんなに美しい人に助けられたのかと思うと、それだけで自分の命が尊いものに思えた。
「それじゃ」
短く言って、僕は身をひるがえした。滝つぼの上にかかる岩場までおおよそ三歩半。飛ぶように地面を蹴った。真っ逆さまに滝つぼに落ちて、水にのまれてしまえばいい。最後のひと蹴りで目を閉じる。
――――これで、終わりだ。
その時。
耳元で叫び声がした。
衝撃。
前に向かう速度と、後ろに引き戻される力の狭間、
ちぎれそうになった僕を、それでも抱きとめた腕。
体がからんで地面に転がって、土ぼこりの上を滑った。
何の音もしなくなって僕はゆっくりと目を開いた。
抱きとめた腕。その持ち主が僕を見据えていた。
怒っていた。
自身も体を起こしながら僕を起こし、両肩をつかんで揺らした。
「なぜ……⁉」
大きく肩で息をしながら、それ以上は言葉にならず僕をにらむ。でも、視線は僕の中に答えを探し、すがるようにも見えた。
「どうして⁉」
不可解だろう。
助けると言っているのに、それを拒む。
不安や迷いをなぎ倒して、未来の皇帝としての覚悟を決めた矢先に、なぜ。
きっと、そう言いたいはずだ。
痛いほど伝わってくる。
助けたい、救いたい。
悔しいくらいそう思ってくれている。
でも。
僕は、ゆっくり口を開いた。
「この服が、何かわかる?」
着せられた服の袖をつまんで、彼に尋ねた。いくら身分の高い人だって、この服の意味ぐらいわかるはず。
「死に装束だよ」
僕は笑った。こころのどこにも濁りはなくて、ただ思うままに声にした。
「僕はもう死んでいるんだ。この世にいない人間なんだよ」
彼の手が届かない場所にいる。どんなに権力を使っても、それじゃ届かない。なぜなら、この世に僕の居場所はないし、僕のこころは生きる意味を失っている。
「僕がいなくなることで、村のみんなが安心して一年を暮らしていけるのなら、それでいい。僕が死んで、誰か一人でも心が安らかになるならそれでいい。僕の命が何かの役に立つなら、いつ手離したってかまわない。僕には何もないんだから。……それじゃダメ?」
彼のように何の力もない僕だから。
崩れ落ちるように、彼は僕の体を抱きしめた。
「……黙って、見過ごせって?」
「うん」
「俺が皇太子になったとしても?」
「僕以外の人のために、力を使って欲しい。きっと、素晴らしい国を作れる」
情熱と希望を持った彼なら、世の中を変えられる。
僕の体を強く抱きしめる。力いっぱいそうしているはずなのに、どこまでも上品で僕を傷つけない。長い間、彼はそうしていた。気が済んだら、その手を解いてもらって、僕は自分のやるべきことを遂げようと思っていた。やがて、耳元で低く艶やかな声がした。ひとつひとつの言葉を、ゆっくりと発音した。
「……約束をしたね。覚えてる? 朝までバケモノが現れなかったら、俺の言うことをひとつ聞くって」
忘れたふりをしようかと思ったけれど、もう嘘をつき切れる自信と気力がなくて、渋々うなずいた。
「その命、俺がもらう」
――――。
――――――?
え?
「どうせ捨てるつもりなら、俺のために役立ててもいいはずだ」
ぽかんと口を開けて、理解できずに彼の顔をまじまじと見た。
一瞬、ほんの一瞬だけ、彼が僕の胸に剣を突き立てるのを想像した。
でも、その想像はすぐに崩れて壊れて、跡形もなくなった。
彼が、僕を傷つけるはずがない。
それくらい、信じられた。
「バケモノにも人買いにもやらない。こんなに可愛い人に、指一本触れさせない」
可愛いというのはきっと彼の言葉の間違いだろう。僕はとまどいで首を横に振った。僕の命を彼のために役立てる。どうやって? 何のために? 訳がわからない。
彼は、深く息をついた。緊張が解けていくのがわかった。
「目の前で命を絶とうとした人を抱きしめた、この手が覚えている」
そう言って僕の前に差し出された手は細かく震えていた。
「初めて誰かを守りたいと強く願った。ひとりを守れない人間が、多くの国民を守れるはずがない」
そして、腕の中の僕を深いまなざしで見つめた。
「そばにいて欲しい。俺が大事なことを忘れないように」
僕は息をのんだ。まばたきをするのも忘れて、青い瞳に見入った。
「どんなに説得されても、皇太子なんてなるつもりはなかった。それを変えたのは」
そう言って僕を見た。身に余る言葉と提案を差し出されて、僕は何も言えなかった。もちろんうなずくことなんてできなかった。
「ああ……、どうしてこんなにもどかしい」
彼は髪をかき乱し、苦しそうに言った。
「……理屈じゃない。最初から決めていた。生贄だろうと何だろうと、国へ連れて帰ろうって。一目でこの人を欲しいと思った。でも、無理強いする真似はしたくなかった。だけど、話していく内に、俺に必要な人だと確信した。限りなくこころが近づいて、溶けあって、胸の奥底まで俺を動かす。俺が生きていく理由がここにあると思った。……それだけじゃ理由は足りない? 俺のために差し出す命はない?」
穏やかな物言いの奥に、強い熱を感じた。
「ない訳じゃないけど……。えっと……、それはどういう……」
僕の立場とか、向けられる感情とか、そういうものがわからなくて首をかしげると、抱きすくめられた。そして、くちびるにぬくもりが触れた。驚きで目を見開いたまま、僕はすぐそばで僕の目をのぞく青い瞳を見つめ返した。その時、僕はくちづけをされたと気づいた。何がなんだかわからず、一気に熱くなった頬を手で覆う。
「こういうつもり」
心なしか彼の頬も赤らんでいる。
「別にこういう関係だけが欲しい訳じゃない。でも、こころが溶けあったら、もっと別のものも欲しくなる」
言いたいことがうまくまとまらないのか、不器用な少年のようにうなる。
「そばにいてくれたら俺は変わる」
ハッとした。僕が何かしたわけじゃない。でも、彼は自ら重い責を負うことを決めた。それが変わろうとするきっかけだったなら。
悶々とする男の子のように、彼は頼りなげなため息をついたり、何かを考える仕草をしたり、僕の顔を見つめては外して、熱をこらえる表情をした。
「自分で自分がわからない。昨日までの俺がどこかへ行ってしまった。今朝の俺はどうしようもなく弱い。でも、強くなりたい、この人と一緒にいたい、ふたつの思いであふれている。生まれ変わった心地だ」
そして、彼は静かに僕に聞いた。柔らかな羽毛を手のひらに載せるように、そっと聞いた。
「名前を聞いてもいい?」
本当はもっと早くに尋ねたかったのかもしれない。でも黙っていてくれたんだろう。僕は口にするのをためらった。育ててくれた恩があるとはいえ、僕はあの村では死んだことになった。そこで持っていた名前は重くてつらかった。死ぬことだけを思い続けていた名前なんて。
知らず知らずこぼれたため息を耳にとめて、彼は聞いた。
「名前の中の一文字だけ、教えて」
質問に面食らいながら、考えあぐねて、かろうじて響きが綺麗だと思う音をひとつだけ伝えた。どういうつもりかと首を傾げたら、彼も考える仕草で首を傾げ、いくつか言葉をつぶやいた。どれにしようか迷っている様子。どきどきしながら見守っていると、彼はぱっと明るい笑顔になった。
「ユーリ」
とても良いことを思いついたように彼は言った。
「俺の国でよく付けられる名前だ。どう?」
「名前……。僕にくれるの?」
「新しい国で暮らすんだ。新しい名前で、新しく生まれ変わっても誰もとがめない。もちろん、自分で決めてもいい。今は、好きな名前を選んでいいんだ」
……自分で決める? そんなことを考えたこともなかった僕はどうしていいかわからない。
「ゆっくり考えていいよ。気に入った名前が見つかるといい。俺もその名前で呼ばせて欲しい」
にこにこと笑う姿を見ていたら早く呼んで欲しくなった。彼が提案してくれた名前は好きだと思ったけど少し硬く思えた。何度か口の中でつぶやいて響きを聞いて、僕は柔らかで優しい音が欲しいんだと気づいた。
「ゆうり」
これなら彼がくれた名前に近くて、僕が欲しい響きも持っている。それを聞いた彼は顔を輝かせた。
「ゆうり」
あふれるほどの愛しさで呼んでくれる。
「ゆうり。美しい響きだ」
うなずいて、僕は自分の名前を呼んでみた。初めて、自分で選んだ。何も選べなかった過去。選ぶことができる今。いちばん最初にそれをしたのが、自分の名前だなんて。言いようのない気持ちで言葉を失くす僕の前に、彼は立った。すっとひざまずき、僕を見上げる。
「初めまして、ゆうり」
高貴な人だけが身につける上品さと優美さで、僕の名前を呼んだ。続けて言った。
「俺の名前は、フリードリヒ。近く国へ帰り、皇太子の位につく」
ついと僕の前に手を差し伸べた。
「どうか俺のそばに。厳しい道のりに迷う時、今日のことを思い出させて欲しい。人を守る難しさと、それを成し遂げるよろこびを、俺はいつまでも覚えていたい。そして、愛する人を見つけた奇跡を」
もったいない言葉に息もつけない。迷いがなくなったわけじゃない。でも、僕は手を伸ばした。
「……なんて呼んだらいい?」
身分の高いに人にいう言葉じゃないと思いながら聞くと、彼は素直に言った。
「フリードリヒって呼んで」
「ファーストネームで?」
「うん」
僕は、彼――フリードリヒ――の手のひらに自分のものを重ねた。
「お願いします」
すると、丁寧な仕草で僕の指先にキスをくれた。そして立ち上がり僕を抱きしめた。
「ゆうり。朝が来た。……生きていいんだ。命を投げ出す必要はない。あきらめることもしなくていい。望んでいい。俺のそばで生きて欲しい。でもゆうりが望まないなら、拒んでいい。未来はゆうりのもの。……今日は、ゆうりの誕生日だ」
当たり前のように言ったフリードリヒの言葉に、僕は何度もまばたいた。
「今年の生贄はここで死んだ。肉も骨もなにひとつ残さず姿を消した。もうこの世にはいない。……そして、遠く離れた都で、何も持たないまっさらな『ゆうり』が暮らし始めた。……生まれ変わる。だから今日は、新しいゆうりの誕生日」
「誕生日……」
僕はつぶやいた。思ってもみないしあわせが次々と押し寄せて味わう暇もない。
「生まれ変わったのは俺も同じか。こんなにすがすがしく自分の未来に向き合える日が来ると思わなかった」
自分のことのようにうれしかった。フリードリヒがあるべき場所に帰ること、力を正しく使おうとしていること、僕との出逢いで可能性を見つけてくれたこと。
は、こころが絡み合ったと言った。限りなくこころが溶けあって、奥まで触れて、もっと溶けていたいと僕も思った。そばにいていい理由を彼がくれて、僕は自分の立つ場所を得る。そして、僕の前に立つ人を見つめる。
胸の奥に、腹の底に、何かを求める熱がある。死人のように生きてきたのに、今は生きる力が灯っている。
「僕は、フリードリヒの力になれる?」
青い瞳がまん丸に僕を見た。そして、雲の間から差した光のように笑った。
「もちろん」
ぎゅっと僕を抱きしめて耳元でささやく。
「ゆうりにつらい思いをさせることもあるかもしれない。でも、そんなものをねじ伏せる強く思慮深い皇帝になりたい。かならず守る」
そんな言葉をもらえただけで僕はうれしくて微笑んだ。
「死ぬことを思えば、それ以上怖いものなんてないよ」
彼がいなければ、僕はなかったんだから。
滝の向こうから朝日が上ってきた。空気は洗い流されたように澄んでいて、淀んだ夜が新しく生まれ直したようだった。周りの木々にも光が当たり、冬の森の棘のように固い木の葉さえ、みずみずしく輝いた。
――――――朝だ。
僕は光に包まれ、昨日までと違うものへ生まれ変わる。
彼は腕を伸ばした。
僕の頭の飾りに手をかける。朱色の組みひもで編んだ飾り。この者は神に捧げられた供物だと印す飾り。
僕の頭からそっとそれを外す。
呪いを解くように。
供物から人間に戻った僕を、フリードリヒは愛しげに見つめた。
「やっぱり可愛い。いや……美しい」
もういちど腕の中に抱きしめられ、至近距離で目をのぞかれた。抗う理由は、夜の闇と一緒に溶けたのかもしれない。僕も見つめ返す。限りなく近づいて、くちづけを交わす。僕たちが一緒にいる理由を、言葉にならない理由を、約束するように。さっきの触れるだけのくちづけよりもう少し深く、くちびるを食まれた。驚く。たじろぐ。でも甘い。見ず知らずの感覚に溺れそうになる。何度もくちびるを重ねる。濡れる。ゆっくりとくちびるを離し、殺しきれない熱を持て余したまま彼は苦笑いをした。
「全部もらうのはもう少し先で」
これ以上したら、止められそうにないとフリードリヒは言った。
最後にひとつ、触れるだけのくちづけをした。
「そばにいて欲しい」
僕はうなずいた。
手を取られる。
「近くの街で供が待っている。ゆうりを早く紹介したい。そして、皇太子になると宣言しよう」
長く続いた夜が過ぎて、朝が動き出した。
僕は、彼の手を握り返す。
「行こう」
空を昇りはじめた太陽を背に、僕たちは新しい日へ歩き出した。
月さえも眠る夜 野生いくみ @snowdrop_love
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