月の座

杜松の実

月の座

 今夜はじつに波の穏やかな夜でございます。それもそのはず、鼻高々な四日月はその自慢の先に鼻提灯ふくらして「ズー、ズー」と寝入っております。

 また大層みごとな満天の夜でもございます。空は目一杯の星化粧ほどこして、不断のぶすっとした単黒でなく藍紺へと明らめております。その藍紺の色合いがこれまたえらい。あっぱれでございます。どれほど熟達熟練の極みに達した漆職の匠、陶芸の大家であっても作り出せる者は皆無でありましょう。自然のみが悠久の時の中の、その一瞬間だけ垣間魅せる配合配色でございます。

「ズー、ズー」という月の寝息に割って入るかいが聴こえて参ります。ぴりかんと張り詰めた長夜を無粋にぎぃこ、ぎぃこと一艘の艇を進めるのは一人の男でございます。年のころは六十三四と見られる禿げ頭のおきなはぷっくりとした腹を抱えておりながら、腕に覚えがあるのか船尾の櫂を操る手腕は流麗で、燕尾服を纏うその翁には似付かわしくなく、精悍な漁師のそれと同然でございます。

 着る燕尾服はどこぞの神社でお清めしたものでございまして、その神社の神紋が刺繍されておりますが、なんのために清めたのかは分かりません。

 またここが一体どこなのかも判然いたしません。有月夜に満天の星明りを以てしても水平線を臨むことはできず、うかがい知れるのはてらてらと揺れる艶やかな水面だけでございます。定めし、世界の片隅の海原のただ中でございましょう。

 その折、星☆がころろと回って瞬いたかと思ういますと、つうっとすべるようにして落っこちました。一所懸命に櫂を漕ぐ翁はちっとも気が付きませんが、次第次第に二個三個と星が流れ落ちて参ります。海に落っこちた星は海面に当たると雪結晶型に薄氷を張るものの、すぐに波に呑まれてしゃりりと砕けて消えてしまいます。

 ズー、ズー。ぎぃこ、ぎぃこ。ちゃぷちゃぷ。そして、しゃりり、しゃりり。ズーズー、ぎぃこぎぃこ、ちゃぷちゃぷ。そして、しゃりり、しゃりり。しゃりり、しゃりり。

 薄氷の砕ける音が漸く翁の耳にも届いて参りました。翁は仰向いて事態を確認致しますと、襟を高く逆立てていよいよ忙しそうに艇を東へと急がせるのであります。

 あわや、流れ雫のひとつ星が寝入る四日月の高々な鼻提灯に打ち当たりますと、一瞬にして提灯が凍りつきました。すると、それまで「ズー、ズー」と断続に聴こえて参りました寝息がはたと鳴り止みます。

 同時に波はひたりと治まり、海は明鏡止水の如く凛と静まり返ったのでございます。こうなりますと降る星の為す氷結を阻むものはございませんから、降りしきる毎に続続と海は凍り、凍った上にも星が流れ落ちてしんしんと積もって参ります。

 とうとう翁の漕ぐ艇は一丁も進めなくなりました。翁が諦めて艇の縁に腰かけ辺りを見渡しますと、そこは一面の銀世界。凍らした鼻提灯ぶらさげる月明りの下、ひたすらに平坦な銀世界の中にたった一人ぽつねんと、流れ落ちていく星屑の雨を黙って見ているのでございます。

 それからどれほどの時間が経ちましたでしょうか。降り積もる星に艇は跡形もなく埋没いたしました。翁はかちにより前進を続けております。襟を逆立て両の手はどちらもズボンのポケットにしまい込まれております。ですから、背はやや猫背の様相でありまして、それでいて実に足早に先を急いでおられる様子でありますから、都心の人混みを無頓着無遠慮に突き進む給料生活者の雰囲気をどことなく感じさせます。しかし、翁は燕尾服を着ているところからも分かります通り、上級の身でございます。あ、いや失礼いたしました。上級などと殊更に格差を示す言葉は現代では控えねばなりませんでした。さあ、この翁は三十年前に綜覈そうかく商事という小さくも歴とした貿易会社を創設した御仁でございまして、今でもその名誉職に就いておりますから、あのような手漕ぎの小さな艇を自ら出さずとも、胸ひとつで太平洋を横断する貨物船に指図することも出来るお方なのでございます。そのような御仁が何故、何処へとお聞きになりたいのは山山でしょうが、今すこしお待ち頂きたく。

 そうして暫く歩いておりますと星が降り止みました。空から一点残らず全ての星が降りしきり、跡には凍った鼻提灯ぶら下げる四日月だけになりました。星明りを失った空は清新さを失い、斬新な藍紺は残酷なほど単調な漆黒に転じてしまっております。

 踏みしめる星屑の大地は白銀のような光沢を持ち合わせ、雪みたく月光をすうっと染み入れては己で発光しているかのように輝いております。それでいてやはり鋼鉄みたく硬いのでございましょう。翁の一歩ごとに、森閑とした大理石の大講堂を独り歩くみたいに、ごつーんと乾いた音を虚しい夜空へ鳴り響かせております。

 しかし、それほどまでに確かであった星屑の大地が予兆なくガタツクと揺れ始めます。翁が焦った様子で右へ振り向き仰ぐと、四日月が、凍った鼻提灯はぶら下げたまま、頬をぱんぱんに膨らして茹蛸みたく真っ赤でございます。鼻息の止まった苦しさに漸く気が付き目を覚ましたのでございましょう。月の動揺動転に伴い海も活動を再開し、星屑の大地はひび割れ流氷みたく分割され、至る所あちこち遠近おちこちでそれら流氷を持ち上げるほどの高波が起こっております。

 翁は唸る星屑の氷塊から振り落とされぬように、必死になって伏してしがみついております。無理無体な願いでございます。それは散る予定になっていた若葉でうっかり昼寝をしていた毛虫が、葉が舞い散るみぎりに至ってうかうかと目を覚まして、葉から投げ出されまいと独り相撲をするようなもので、土台無理なことでございます。落ちぬ筈がないのであります。万に一つも落ちぬことなく、億を数えても決まって億振り落とされるのでございます。落ちたくないなど望むべくもなく、望む間もなく落ちる筈でございますが、なんと翁まだ氷塊に張り付いた儘、高波に頭から洗われようとも離れませぬ。

 ここまで、原稿用紙20×20規格にして6枚と半分。いい加減君の読破意欲が減衰し始めた頃だろう。映像の動きが在るだけで中身の無いものだと感づいたかい。失敬、失敬。たはは……。無論こんなものは伽想空間である。誰の伽想かと問われれば当然僕の外にはいない筈だ。しかし、僕こそ誰ぞの伽想だと指摘されては否やと唱える因縁よすががない。と言い条、僕にその自覚のない内は畢竟ひっきょう僕の伽想空間と位置付けて構わないだろう。

 これを僕が見た夢であるとか、僕が夢見た夢であるとか思われては困る。一応これでも苦心して練り上げた伽想であるからね。

 一体何処にそんな苦労があるかと詰め寄られると弱るな。そいつを解き明かすのもまた一苦労どころか大苦労でね、どれほどの苦労かと申せば日本人を一遍にあますことなく解脱させてしまう位むつかしい。なあに、南無阿弥陀仏と唱えさせれば良いって。そいつが云うほど簡単でないから仏さんも年中休まず涅槃して苦慮なさっておられるのではござらぬか。たははは……。いや、冗談に煙に巻いている訳じゃあないのだよ。本当にむつかしいのだ。

 僕にはきちんとこの伽想空間の成り立ちは分かっている。但し分かっていることと説明できることは同値じゃないのだよ。おや、君はあれかい。尋常小学校か何やらで、説明できないことは分かっていないのと同じだ、と説法食らっていた質かい。だからそんないぶかしげに僕を見るのだろ。良き選手が良き監督と成るとは限らないことが有るだろう。感覚で分かる物があるのだよ。

 それにね、言語化することで却って本質から外れてしまうことだってあるのだよ。まあ、それは僕の言語使役能力の不味さから来る操縦齟齬の結果だろうがね。でも僕は言語に使役される立場でもあるのだから矢張り言語の不適応性も鑑みても良いではないか。ほら、お食事処案内なんかで、ただ美味しいと言われれば、美味しいのだなと分かるけど、具体的にどんな味かを説明しようとした為に、却って不味そうに聞こえることだってあるだろ。

 ははあ。言い訳がましく聞こえるかね。そうだろうね。言い訳には違いない。うん。でも僕にだってこの伽想空間を生み出した誇りがある訳で、何しろ責任があるからね。少しばかり説明しておこう。

 翁は僕だ。たははは……。それほど驚かないか。まあ、いい。でも、誓って言うが、僕は禿げていなければ体格はすらりとしており、寧ろ瘦せぎすの部類に入りかねない。歳だって六十はおろか半分の三十にも満たない天然ものの若蔵だ。性は男で一致しているが今時分、性など問題にならない。僕は直に小便器が都市部から見られなくなると予言しているのだがどうだろう。

 兎も角、伽想変換写像に僕を放り込むと、老けて禿げて太って燕尾服を着る。伽想空間に在る物はみんな実在空間に在る物が伽想変換写像を通して1対1対応にして送られたものだ。だからと言って、実在空間の月が変換写像によって鼻高々に居眠りする月に成ったと考えてはいけない。事はそれほど単純ではないのだから。僕は原点に近いから、僕から翁へと振り幅の小さい変換に収まったのだ。

 逆についても注意をしておこう。こっちはさほど重要ではないがね。実在空間の全ての物が変換写像を通されて送られる訳ではない。期待に沿えず申し訳ないが、僕に量子計算機数桁台並列ほどの処理能力はない訳で、どうしたってこの世界の全ての物を変換きわめることは出来ない。従って送るのは極めて卑近な僕に関わりの深い物だけだ。だから伽想空間は実在空間の様な無限巨大ではない。それでも語り尽くせるほど小さくもないがね。僕を見くびらないでおくれよ。

 だからここで記しておくのは伽想空間に起きる大事件だけに留める。事件はまだ始まったばかりだ。さあ、そろそろ彼方あっちに帰ろうか。

 何。原点は何かだと。たははは……。耳聡いな、君。気付かぬ内にと先を急いだのが仇となったかな。たはは……。だがね、教える訳にはいかないのだよ。勿論、僕には原点が何かきちんと分かっているし、こいつに関しては明瞭はっきりと言葉にすることが出来る。原点はこの変換写像の不動点であり、此方と彼方ふたつの空間の原点だ。しかし、さっきも言った通りそれが何であるかは教えることが出来ない。原点のいみなを説くことで何が起こるか分からない。諱に付された何者かによって引き起こされる伽想空間の胎動が実在空間に何を齎すのか。伽想空間はこの実在空間の謂わば影みたいなものでね。原点は影と実態を繋げる扇の要みたいなものなのだよ。影は実態に付随するのが常ではあるけど、影が先行して闇に帰りそれから実態を飲み込むことだってあるだろう。

 いやいや、教えられないさ。君、さては僕を信用していないな。でも、僕は所々冗談はあっても真実しか言っていない。本当さ。たははは……。信じられないかね。まあ、仕方ないがね。ならば、先に彼方で起きる事件について聞かせても構わないかね。原点についてはその後にしようじゃないか。

 えへん、えへん。ああー。うん。

 今しも落ちようかと固くしがみつく翁を前にして、鼻息詰まらせ悶え苦しむ四日月でございます。煮え湯を飲まされたのかと思えるほどに顔赤らめて、激した形相は忿怒ふんぬにまみれておられる様でございます。しかしそのような格闘は翁にしてみれば幸い長くは続かず、膨らしていた頬は凋み、顔色はみるみる青ざめ終いに漆黒の天蓋に良くよく映える真白い灰燼かいじんみたくなってしまいました。生気を逸した四日月がぐらりと円弧を真下にしてずどんと海に落っこちます。そうして起こった津波が最期の波となり分割された星屑の大地を悉くめくり上げ、高らかに翁に襲い掛かります。これには翁も耐えかね星屑の氷塊から手を放してしまい、波に呑まれて流されたのでございました。

 しばしのち、再び伽想空間に静けさが戻って参ります。津波の揺り戻しも全て収まり、残されたのは砕けた星屑の大地それぞれが仄かに揺れ動いているだけでございます。流氷の如き星屑の大地らは先まで豊富ふんだんに吸い込んだ月光を、今はより細くより長く発光しようと華奢にぽつぽつと光子を吐き出すばかりで、空間全体が陰気に冷冷さめざめしくおおわれてございます。

 この上なく漆黒の天蓋は月まで失い、物の哀れを感じざるを得ない有り様でございます。月の鎮座しておりました虚空には漆黒の中におきましても猶猶ぽっかりと暗い大穴が開いております。その大穴は月が蓋となって塞いでいた物でございました。そして大穴からこの伽想空間に流れ入る者がございます。それは怪獣でございます。

 あはははは……。そうも素っ頓狂な声を出して驚かんでもよろしい。ああははは……。呵呵大笑。そうだ、怪獣だよ。話はこれでお終いさ。怪獣が出たのだ。全てお仕舞だよ。万事を破壊し終わらせるのが怪獣の定義だからね。このお話も終わるのだよ。

 どんな怪獣か。それはどうだろうね。君の想像の範疇に無いことは請け負うよ。まあ、君の想像力のたくましさは知らないから保証はしかねるがね。しかし僕の想像が全く間違っていることは確からしい。その怪獣には鋭い爪も牙も堅い表皮も無ければ、烈しい熱線を出すことも無い。殊更大きい訳でもなければ小さいことは絶対にない。そもそもこいつは大小の概念で測り得る代物じゃあない。そんな概念、怪獣が現れた折に真っ先に壊されたのではないかな。あははは……。かと言って気体や液体と言った無形物ではきっとない。輪郭の概念はどうだろう。まだ在るかね。あるなら怪獣にも輪郭くらいは残っているかもな。僕にだって分からないはあるのだよ。

 何だい、その目は。ははは……。与太話に付き合わされたと怒っているのかね。申し訳ないな。ううむ。どうも人に信用させる方便が僕には出来ないようだな。面目ない。本当に悪いとは思っているのだよ。こんな僕にも良心の呵責機能はきちんと備わっていてね。見せてやりたいくらいだ。僕の良心は敏感に出来過ぎていてね、生まれて以来このかた痛風のくせして万里の足壺路を歩き続けている様にずきずき痛み通しなのだよ。今は加えて火で焙られている様な具合だ。そうは見えないだろう。それこそが良心が敏感な証拠な訳だが、こいつを信用させるのも無理な話なのだろうな。

 しかし僕にはこれ以上君に詫びようがないのだから一層困ってしまう。

 ……何。気狂きちがいだと。何と。法螺吹き呼ばわりまでは許せても気狂いだとはどういうことだ。こんな流暢に話せるキ印が居るのなら見せてみろ。いやしないだろう。僕は至ってキ印などではない。巫山戯ふざけるな。こんな思いは沢山だ。帰れ。二度と来るな。何だと、まだ言うか。原点の諱をここで明かしてやっても良いのだぞ。

 そうか。君は信じていないのだものな。だからそんな大層な口が利けるのだ。もう我慢ならん。いいか。さき僕は、原点は僕に近いと言ったな。僕だけじゃない。君だって原点に近いのだ。それでもいいのか。ならば聞かせてやろう。君が選んだのだぞ。

 原点は――――だ。

 あっははは……。あーっ、はっはっはっ……。どうだい。おい、まだ駄目だ。気をしっかり持て。ははは……。ふふ……。なあ。そおら、君の目にも怪獣が見えているのだろ。おい、言え。君の目に写る怪獣の名前は何だ。答えろっ……。おい。……。たははは……。また駄目か。








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