短編・柑橘

村上 耽美

柑橘と海について

 なァそこの、そうそう君、ひとつ訊きたいことが有るのだが少しだけお時間を僕にいただけるかい、そこの庭のプールに浮かんでいる物体は何かね。柑橘ということだけは、ちゃんとこの目でも見えるのだけれども。何、君にもわからないということか。そうか、それならば仕方が無い。

 

 どうして僕がそんなことを尋ねたか。何故って、僕がどれだけ柑橘について考えているのか、君の目と耳で、君の綺麗な頭蓋骨の中の脳で理解して感じて欲しいからなのだよ。そして今後、君が何かの柑橘類を食べたとき、此の僕の話とか、当時の感覚とか、そういうものを反芻して欲しいからなのだよ。御免な、気味が悪いよな。でも、僕はここでその話を呑み込んでおける程の大人には成れなかった、残念な人間なのサ。そんな下らない奴の戯言を、少しだけでもいいから聴いてみないかい。返事はまだ要らないからね、嫌だと思ったら、此処から立去っていってくれ、それだけでいい。


 実は僕、柑橘類は全く食べられない。酸味が強すぎて、舌が焼ける感覚に痛みを覚えたり、あの薄皮だとかいう、呑み込むには耐え難いものが特に駄目なのだけど、何だかあの果汁の弾ける感覚が好きだったりする。だから、それこそレモンスカッシュの類は大丈夫なのさ、不思議だと思わないかい。形や手段、方法を変えてしまえば、案外いろいろなものが受け入れられたりもする。これは、僕が生きて来た道で、少しばかりだけど得たものでね。本当に少しのものだから、大切にしまってある。君にもあるだろう、そういうものが。

 僕が学生の頃だったな、ある柑橘に一目惚れした。あれだけ内臓が受け付けなかった柑橘の果実が、スゥと体内に入って、血液と混じって細胞の隅まで浸透して、脳もまるで実に成って仕舞うくらい、僕を侵食してきた。それから僕は暫らくその柑橘に現を抜かす生活をしていた。そして僕はある日我慢できなくなって、その柑橘に思い切り齧りついた。


 柑橘はそんな激情に駆られた僕を受け入れて、柑橘に堕落した僕を慰めてくれた。そして僕は我慢できずにこう言ったのサ。

 

  「もう、君しか受けつけない身体に成って仕舞ったから」

  「だからお願い、僕を引き取っておくれ——。」


 君は、こんな恋をしてみたいだなんて思うかい。ははは、この話は君には刺さらなかったか。それはそうだ、僕みたいな世間の溢れ者の言葉なんて、刺さる理由がないね。すまなかった。でも、僕は今君が此処に居ることについて、とても有難いと思っているよ。誰だか知らない僕の自慰行為を、心という滾ったものを押し付けられて。気味が悪いよな。そう思わないかい。その柑橘が何だかが気になるかい、それならば海に行くといいよ。その柑橘は海に居る。柑橘が望んで、海に散骨してくれと言ったんだ。そこのプールに浮かぶ柑橘は僕にとってとても意味のあるものだと理解出来たかな。偖、僕はそろそろ海に行ってくる。また何処かで会ったら軽く会釈させておくれ。約束がないと、僕はきっと戻ってこないから。

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