醜い僕の中について

 ころころ、ころころ、地が傾けば、向うに行って仕舞う。柑橘はきっと、少し手を離せば、ころころ何処かへ転がっていくだろう。

 今はまだ、傍にいるからまだいいのかもしれないが、何時かこの柑橘が、どこか遠いところに転がって、他の誰かの手に収まって仕舞ったら——。


 柑橘は、時に非道い禁断症状を起こさせる。昼だろうが夜だろうが、寝起きだろうが入眠前だろうが、そんなものはお構いなしだ。毎日摂取する難しさ。二日も我慢すれば、フラストレイションが溜り、少し苦くて酸っぱい涙が、妄想や幻覚を含み、頬を伝って両端の口角炎に滲みる。さらに痛みよりも辛いのは、如何しようも出来ない苦しさである。だが、痛みが苦しさと無関係であるとは言えない。痛むが故に苦しいのだ。痛みが苦しさを持って来るのだ。

 

 今、柑橘は何処に居て、何をしているのだろうか。誰かと話しているのだろうか。どのような表情をして、何を考えて、どういった声を出して、会話をしているのだろうか。この行き場のない思案も、禁断症状のひとつであろう。「酸いも甘いも」とはよく言ったものだが、この苦味は流石に身体に毒ではないか、など勝手に考えてしまう。


 そしてこの毒は、時に危険な思考を催すことがある。それは俗に言う「希死念慮」である。


 禁断症状が続くうちに、希死念慮がどんどん膨らんでいく。嗚呼なんと恐ろしい、柑橘ひとつでこんなに可笑しくなるのか。思わず自分に対して嘲笑してしまうよ。目は虚ろに、感情の乾涸びた笑い声が、体内に響き渡る。

 

        「まだ死んでいないだけ、いいぢゃァないか」

      「死ぬ勇気も出ねェやつが、生きていていいのかい」


 何処にもいない自我が、ケタケタと腹を抱えて、甲高い笑い声で、僕を莫迦にしてくる。非常に憎たらしい。抗精神病薬と睡眠導入剤を口に放り込み、五月蠅い頭を強制終了させることで、その日の希死念慮をやり過ごす。そして、激しい禁断症状の後の柑橘は至高である。それは所謂トランス状態というものだと思われる。


           辛かったことが総て嘘のようだ!

 

 自分にしか見えない翼を広げ、勢いよく助走をし、風もないがらんどうの空に向かって跳躍する。勿論、翼も風もないから、そのまま真下に落ちてしまうのだが、僕は莫迦なのでそんなことも理解らず、落ちている事実すら知らないのである。

 

 貴方は、そんな僕のことを、貴方という海に溺れている僕のことを、どう思っているのかい。どんな気持ちで、僕の手を握っているのかい。僕が自分でつけた傷には、貴方がいちばんよく効くんだ。

 

 



   僕は何時気づくのだろう。よく転がっているのは自分自身であることに。

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