沈丁花
慌ただしくオフィスを出て、買い物を済ませて保育園へと向かう。だいぶ日が長くなってきたこの頃は、うっかりしていると終業タイミングを逃してしまうことも多くなってきた。気を引き締めなければ、と彼は早足で歩きながらついでに夕食のメニューを反芻する。
クリームシチューに先日大量にお裾分けされたベーグルを解凍してトースト。それからタコとむきエビのガーリックシュリンプ風。いずれも具材は小さめに刻んで、ルーやお手軽スパイスで時短を図る。
どれほど忙しくても食は生活の基本だ。娘はまだまだ好き嫌いはあれこれあるし、気分で食べる食べないはなくはないから、それほど手の込んだ料理を平日に作るのは難しい。それでも、食事とは楽しいものだ、と思い出せたのは彼女のおかげかもしれない。そんなことを考えたところでふわりと爽やかに甘い香りが鼻についた。
同時にきゃっきゃと楽しげな声と、柔らかく低く響く歌声が聞こえて足を止める。それはどちらも聞き覚えのあるものだったので。
目を上げると、小さな影と、それよりは背の高い、それでも華奢な影が沈み始めた夕日を背にこちらに向かって歩いてくる。はしゃぐような足取りと、それを支えるゆっくりとした歩み。しっかりと手を繋いで。
あたりに漂う甘い香りと、穏やかで幸せな光景に思わず立ち竦む。こんな風に自分の手を離れたところで、見慣れた顔の輝かんばかりの笑顔と、それを見つめる柔らかな表情がどちらもあまりに尊く感じられて。
「
え、と思わず買い物袋を持っていない方の手で頬を探る。特に濡れた感触はなかったから、慌てて目線を上げると普段はどちらかといえば淡々とした——率直にいえばあまり表情のない——その顔がふんわりと、どこかしてやったりという笑みを浮かべていた。
「……いつからそんな意地悪になったんですかね?」
「おとうさんがいけないんだもん。お迎えまた間に合わなかったから、イタズラくらいはオッケーなの」
ぷぅっと頬を膨らませた娘の
「面目次第もございません」
「さいはつぼーしさくのけんとうとあくしょんぷらんのていしゅつをようきゅうします」
ぴーでぃーしーえーね、と
エリは文書での提出を要求するから帰ったらフォーマットを渡すのだとご機嫌に笑いながら彼の手を取った。握っていた手が離れた朔は、ふと首を傾げて一歩、彼の方に近づいてくる。くん、と鼻をきかせてからもう一度首を傾げた。
「新しい煙草の匂い……じゃないですよね?」
「こんなにフローラルな煙草があったら売れるかもですねえ」
冗談まじりに言いながら、エリと繋いだ手で後ろの薮を指し示す。二人してくるりと振り向いた先には身を寄せ合うように、いくつもの小さな白と淡いピンクの
「これ……?」
「沈丁花ですね。
「ああ、そうなんですね。いつもふわっと香るの、何だろうなとは思っていたんですけど」
朔は言いながら花木の方に歩み寄って、顔を寄せて匂いをかぐ。さらりと流れた後れ毛で、今更のようにいつもの流しっぱなしではなく、細い三つ編みを渡したアップにしていることに気づいた。着ているものも、コートの下は柔らかな襟ぐりの大きく開いた春色のニットで、細いうなじから背中がほの見えて思わず視線を逸らす。
「この匂い、朔ちゃんみたいだよね」
エリの声に慌てて視線を戻せば、こちらを見上げる娘の顔は何やら訳知り顔だ。
「私?」
「春っぽい、優しくて甘い香り。おとうさん、大好きだもんね」
「えっ、いや……!?」
「違うの?」
「いや、好きだけど……って沈丁花が!?」
「朔ちゃんもでしょ」
あまりに率直な問いに、他意がないのはわかってはいても思わず手を離して口元を押さえた彼に、くすくすと低い笑い声が届く。
それから、小さくその唇が、私も好きですよ、と形作るのが見えた。どきり、と心臓が大きく跳ねて危うく買い物袋を取り落としそうになったところで、今度ははっきりとした声が耳に届く。
「この花の香り、私も好きです」
え、と目を向ければふわりと笑った瞳がやっぱりイタズラっぽく笑んでいたから、彼も苦笑を返すより他なかった。
沈丁花の花言葉は、「永遠」、「不滅」、それから「信頼」。いつか彼女に贈るのに、ぴったりかもしれないなとそんなことを思いながら。
星月夜の道灯 橘 紀里 @kiri_tachibana
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